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2012年4月22日 (日)

新橋遊吉(第54回 昭和40年/1965年下半期受賞) 大衆小説文壇に、いきなり現われていきなり去っていき、独自の道を駆け抜けた。

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新橋遊吉。「八百長」(『讃岐文学』13号[昭和40年/1965年8月])で初候補、そのまま受賞。同作での同人誌デビューから半年。32歳。

 そうなんです。昭和40年/1965年に突如あらわれた直木賞界の大穴、新橋遊吉さんは「八百長」が処女作なのだそうです。

 「八百長」の前に作品はない。正真正銘、はじめて書いた小説なのだ。……と、この説を唱える人はたくさんいますが、その代表者がご本人、新橋さんです。

「この作品は新橋さんの第一作。その後は、三十九年(引用者注:昭和39年/1964年)暮れに夫婦で同人になった豊中の同人雑誌「行人」に「内輪外輪」を発表しているだけである。

 だから直木賞受賞に驚いたのは新橋さんだけではない。マスコミ関係者も驚いた。

「ほんまに新橋さん、書きはったんですか」

 新進作家に対してたいへん失礼な愚問がでる。」(『週刊サンケイ』昭和41年/1966年2月7日号「女房が授けた直木賞・新橋遊吉」より)

 32歳になるまで、いったい新橋さんは何をしてきたのか。どうして突然、小説など書いたのか。ってことを少し追ってみたいと思います。

 同記事で妻の玲子さんが、こんな証言をしてくれています。

「この人はテレ性なんで、人さんの前ではウマのことばっかりいうてますけど、病気のときは小説や文学もずいぶん読んでたようですよ」(同)

 そうかあ、新橋さん、テレ性なのかあ。だから、いつも冗談みたいなことばっかり言って、どこまでがホントで、どこからが脚色なのか判然としないんだそうです。

 ってことはですよ。直木賞を受賞してから、各媒体で語ったこと書いたことも、きっと新橋さん、面白おかしく誇張したり省略したりしたんだろうなあ、とは想像がつきます。そのせいなのでしょう、新橋さんのプロフィールは、書く人によって微妙に細部が違っているんですよ。んもう。研究者泣かせなんだから。

 たとえば、武蔵野次郎さんはこんな文を書いています。

「初芝高校卒。七年間にわたる療養生活をおくり職業も転々としたが、その間も小説勉強に励み、昭和四〇年下期第五四回直木賞を『八百長』(昭和四一・四 文芸春秋)で受賞。」(昭和52年/1977年11月・講談社刊『日本近代文学大事典 第二巻』より)

 「その間も小説勉強に励み」ってどういうことなのでしょう。なにしろ新橋さん本人は、「八百長」まで小説を発表したことがないと証言しています。小説をたくさん読んできた、とは言っていますが、通俗小説ばかりだったそうで、とうてい小説勉強に励んできた形跡がありません。

 はて。武蔵野さんは、どんな具体的な行為を指して「小説勉強に励み」なる表現にたどりついたのでしょうか。不明です。

 あるいはもうお一人。木村行伸さんは、こう解説します。

「初芝高校卒。七年間の療養生活や、様々な職業を転々としていたが、昭和40年に作家を志して同人誌「讃岐文学」に参加。そこで発表した『八百長』(昭41)が直木賞を受賞。」(平成16年/2004年7月・明治書院刊『日本現代小説大事典』より)

 ははあ。「小説勉強」の部分をばっさりカットしちゃっていますね。昭和40年/1965年『讃岐文学』に参加したタイミングを、「作家を志した」時と認定しています。

 いったい、どういうことなんでしょう。「小説勉強」とは何だったのか。作家を志したのは、ほんとに『讃岐文学』に入った頃なのか。その点に注目しながら、いくつかの文献を読んでみました。

 そもそも新橋さんと『讃岐文学』との縁を取り持ったのは、妻の玲子さんでした。これはどうやら確かなようです。前掲の記事によれば、

「新橋さんは、療養中に玲子夫人と知り合い、玲子さんが同人雑誌「讃岐文学」の同人だったことから玲子さんのすすめで、この会合に顔を出しはじめたのである。(引用者中略)

 玲子さんと新橋さんとは半年の交際の後、三十八年十月十日、堺の天神さんで結婚式をあげた。(引用者中略)

 新橋さんは昨年(引用者注:昭和40年/1965年)の春ごろから正式に「讃岐文学」の同人になった。どこの同人誌にも“書かざる同人”はいるものだが、新橋さんもその例にもれず、最初のうちは、いっこうに小説らしいものは書かなかった。」(前掲『週刊サンケイ』記事より)

 この経緯だけ追えば、作家を志したから昭和40年/1965年に正式な同人になったのだろうな、とは読めます。読めるんですが、新橋さんののらりくらりな証言は、その認定に水を浴びせてしまうのです。困った人です。6年後にこんな回想を残しています。

「早いもので私が讃岐文学十三号に「八百長」を発表してから、今年で七年が経つ、思えばその頃、女房曰く、

「あんたの話は聞いていると面白い、小説に書けばいい作品が出来るかも…」

 などと調子よくおだてられ、主宰者の永田敏之さんに、

「ほんなら一丁、大小説を同人雑誌に発表するべェか」

 などといい、私の方は冗談半分であったのに、永田さんが本気で受け取り、「貴兄の作品を十三号の巻頭に持ってゆきたい、ぜひとも年末までに脱稿の上、郵送されたし……」

 と十二月に入ってから矢の如き催促、(引用者中略)

 十二月も半ば過ぎると寒く、この年はときどき雪がちらついた。貧乏暮らしなのでガスストーブは費用がかさむと敬遠され、石油ストーブで暖をとりながら日付けが変る頃まで、私は「八百長」を女房はオール読物新人賞に応募するのだといい「天保の乱余聞」を書いていた。(引用者中略)それでも何とか間に合って(引用者注:『讃岐文学』発行所のある)高松へ送った。」(『讃岐文学』21号[昭和47年/1972年9月] 新橋遊吉「あれから七年」より)

 これを信ずるなら、新橋さんがはじめての小説「八百長」を書いたのは昭和39年/1964年暮れです。作家を志したのは、昭和40年/1965年になる前だった、と解釈せざるを得ません。

 だいたいアレです。少なくとも『讃岐文学』より以前に、新橋さんはほかの同人誌に属していた経験があるんですもの。昭和40年/1965年に突如、小説を書く気になったと考えるのは違和感があります。

 『週刊文春』昭和41年/1966年1月31日号の記事では、「大阪の同人雑誌の会合で知り合った亀山玲子さん(筆名)と結婚。」と紹介されています。「大阪の同人雑誌」の誌名は紹介されていませんが、新橋さんが『讃岐文学』や『行人』を知る前であることは確実です。

 その同人誌の候補をひとつだけ挙げておきます。堺市の『文学地帯』です。かつて北原亞以子さんが所属していたことでも知られる雑誌ですが、

「「文学地帯」は(引用者中略)現在の関西の同人誌の中では、「VIKING」「文学雑誌」「雑踏」などに続く歴史を持ち、直木賞作家の新橋遊吉さんや、企業小説の門田泰明さんらを送り出している。」(『読売新聞』夕刊[大阪版]平成5年/1993年8月17日「直木賞作家支える同人誌」より)

 なあんて語られていたりするわけです。武蔵野次郎さんはこの辺りを意識して「小説勉強に励み」と書いたのかもしれません。

 しかし、作家業に憧れを抱き、同人誌に参加したからといって、小説勉強に励んでいたとは限りません。この辺が新橋さんの、いわゆる療養生活中のあやふやなところです。

 胸を病んで療養中、昭和31年/1956年のことです。石原慎太郎さんが「太陽の季節」で芥川賞を受賞しました。このころのことを、新橋さんはこう振り返っています。

「石原慎太郎が湘南地方の若者の風俗を描いた『太陽の季節』で芥川賞を受賞、学生作家としてデビューした。(引用者中略)

 私が文学に対して関心を持つようになったのもこの頃からで、原稿を書いて銭になれば、こんないいことはないと思ったものの、とても自信などなく、いたずらに無為徒食の日が明け暮れた。

 ただ、まだ働くということは無理な身体だったので、療養中の大義名分があったから、精神的にはそれほど苦痛を感じなかった。」(昭和60年/1985年6月・グリーンアロー出版社/グリーンアロー・ノベルス 新橋遊吉・著『競馬有情 無頼編』より)

 7年の療養とは言いますが、実際には3年ほどで全快し、その後4年は仕事を探しながら無職の日々を送っていたそうです。推測するに、昭和30年代前半、健康が回復するにつれて作家を志すようになり、大阪の同人誌に顔を出すようになったのではないでしょうか。しかし実際に小説を書くことはできず、「書かざる同人」のまま、競馬・競輪などにうつつを抜かしていたと。

 そこで亀山玲子さんと出会い、また永田敏之さんとも縁ができたのが運のツキでした。書いたらいいよ、書け書けと背中を押す人が現われたのです。せっつかれて、ようやく昭和39年/1964年、第一作を書き上げることができた。……っていうのが、「八百長」完成までの流れなんだろうなあ、と思います。

          ○

 と、ここまで書いてきて今さらですけども。新橋遊吉さんってごぞんじですか?

 文学への興味を募らせながら小説を書かず、突然筆をとった第一作で、女房もうらやむ直木賞受賞。その後、直木賞や芥川賞を物差しとするようなチッポケな世界に安住せず、文芸評論家たちの目のとどかない「競馬小説」なる未開の大海原に乗り出し、一部ファンたちから圧倒的な支持を得る流行作家になってしまった、ハイパー直木賞作家なのです。

 新橋さんが競馬に魅了されたきっかけは、昭和24年/1949年、16歳の高校生だったとき。兄に連れられて、はじめて競馬場に足を踏み入れました。以来、新橋さんは競馬とともに歩み、競馬に一生を捧げることになりましたが、その運命を決定づけたのは、一頭の名馬との出会いでした。

「正確には昭和24年12月10日だが、この日にウイザートと出逢い、そして魅せられて大きく運命が変わることになるのだが、とにかく一目惚れしたほどの素晴らしいサラブレッドであった。」(昭和60年1985年6月・グリーンアロー出版社/グリーンアロー・ノベルス 新橋遊吉・著『競馬有情 風雲編』より)

 ウイザート。新橋さんを競馬の世界にのめり込ませた馬です。いや。のめり込ませる、なんて甘っちょろい表現では足りません。それから十数年後、新橋さんに「八百長」を書かせ、直木賞をとらせ、小説家という職業を与えてくれた馬でした。

「私はウィザートの悲運な生涯を文章に綴りたいと思った。

 作家志望の女房も大いに賛成してくれた。小説を書くのは初めての経験だったし、それほどよい頭脳を持ち合わせてもいず、果たして文章に成るか成らぬか、小説らしい物語りに纏まるかどうか不安だった。

 作品のなかではウィザートはハヤテオーに改名された。(引用者中略)作品「八百長」に出てくるハヤテオーの生涯はだいたいにおいてウィザートの生涯を忠実に描いている。(引用者中略)

 私のウィザートに対する愛情は受賞作「八百長」を通じて、生涯不滅の絆に結ばれていくことであろう。」(『時』昭和41年/1966年5月号 新橋遊吉「わが愛の1/4自叙伝」より)

 このときから新橋さんは小説家としても、競馬と生涯不滅の絆を結ぶことになりました。否も応もなく。

 受賞数か月後の段階。同じときに芥川賞をとった在阪の高井有一さんと仲良くなり、雀卓を囲んでこんな会話が交わされました。

「「――新橋くん、道頓堀を書けよ。きっと、きみなら書けるがなァ」

「――いや。当分、競輪と競馬や」

 競輪と競馬に限定するのもいい。が、高井氏のいうように、彼なら道頓堀を書けるだろうとひとりうなづいた。風俗としてばかりでではない市井事を、描きうる作家は少ない。描こうとして描き切れなかったひとりとして、ぜひ、彼に書いてほしいとさえ、ねがっているのだが。」(『日本読書新聞』昭和41年/1966年12月26日号 石浜恒夫「人物スケッチ 新橋遊吉 競輪と競馬をやる」より)

 周囲からのアドバイスを蹴散らし、早くも、競輪そして競馬モノで飯をくう覚悟を表明しています。

 月日は流れて受賞7年後。競馬小説でうなるほど稼ぎまくって、脱け出せなくなっている様子が垣間見えます。

(引用者注:「八百長」が直木賞を受賞して)それからあとのことは何とか文筆で飯が食え、好きな競馬は大っぴらで通えるし、単行本は二十冊近く出したがいずれもよく売れ、重版に次ぐ重版で税務署が嫌いになったぐらいである。

 しかし、いつまでも競馬小説でもあるまいと思い、他の作品を書きたいのだが、とにかく競馬小説の注文が多くてその暇がなく、少しは断わればよさそうなものだが、頼まれると厭とはいえず、不本意な顔をして原稿に向かっている。」(前掲『讃岐文学』21号[昭和47年/1972年9月]「あれから七年」より)

 競馬小説ばかり書いて、しかも売れちゃうという、唯一無二の直木賞作家道を邁進しました。ほとんど誰も追いつけなくなり、その背を遠くで見ながらさびしくなった人からは、当然こんな言葉をもらうことになります。受賞後10年ほどの頃です。

(引用者注:競馬という)素材の特異性に寄りかかった作品ばかりでなく、解説的、叙述的な描写だけでなく、生きた人間をまるごととらえる筆の力と、確かな構成に支えられた作品を期待したい。そのためには少し馬から離れた世界を書くことも必要なのではないか。脱皮への冒険が鶴首させる。」(『国文学解釈と鑑賞』昭和52年/1977年6月臨時増刊号『直木賞事典』「直木賞作品事典 八百長 新橋遊吉」より ―執筆担当:青山孝行)

 脱皮への冒険よりも、新橋さんは、一つの道を究めることを選びました。ここら辺りが、どんなジャンルも器用にこなして新境地を模索しがちな並の直木賞作家とは、一線を画すところなんですよねえ。

          ○

 新橋さんはシャカリキになって突き進みました。そんな怒濤の競馬小説量産も、昭和60年代に終焉を迎えることとなります。

 昭和60年/1985年の『競馬有情』を最後に新作の発表が途絶えました。そのころでもまだ、双葉社や角川文庫では新橋さんの本が出ていて、しかも重版は続いていたそうですが、おしどり夫婦と言われた玲子さんからは、はっきり言われたそうです。「アンタは過去の人よ」と。

「新作が十年近くも出ないと、移り変りの激しい出版の世界では、新橋遊吉の名は、すでに消えたも同然である。

 配偶者からは二年ばかり前に、

「アンタはすでに過去の人よ」

 と冷酷非情な宣言を受けていた。

 いつまで経っても、小説らしきモノを書かずに、遊んで怠けている私を、発奮させるためにいった、言葉であるのはわかるのだが、聞いた方はショックでもある。

(ふん、過去の人なら仏壇の過去帳に、俺の名前を書いとけや)

 といささか、むかついたものである。」(『讃岐文学』49号[平成8年/1996年7月] 新橋遊吉「十年遊んで目が覚めた」より)

 で、その間新橋さんが何をして稼いでいたかといえば、やっぱり競馬・麻雀なのだそうで。仕事場として借りているマンションの家賃が月16万円、年間200万円ほどの資金を、旧作の重版と、それらギャンブルで賄っていた、という。さすが新橋さんですな。

 10年の沈黙(?)を経て、『大穴一直線』(平成7年/1995年8月・飛天出版/ヒテンノベルス)、『蒼き潮流の狼たち――異説・村上水軍叛逆の譜』(平成10年/1998年4月・双葉社刊)を上梓しました。そして今また、新橋さんは、競馬場や直木賞受賞パーティーなどに行かないとお目にかかれない領域に入ってしまったようです。いま、どのあたりを駆けていらっしゃるのでしょうか。

 先に引用したエッセイは、平成7年/1995年8月に執筆されたものでした。そこでは新たな小説の構想として、「インドを舞台の大きな作品」や「役の小角の話」などが挙げられています。昭和8年/1933年のお生まれですから、もうじき80歳。どんな直木賞受賞者とも違う、真似のできない作家人生を歩んできました。そんな新橋さんの新作を読める日がくるのだろうかと、ワタクシはドキドキしながら待っています。

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