« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月の4件の記事

2012年3月25日 (日)

小池真理子(第114回 平成7年/1995年下半期受賞) 話題先行の〈きわもの〉のイメージを背負いながら、売れない小説を書きつづけた10年が、ドラマをドラマたらしめる。

120325

小池真理子。『恋』(平成7年/1995年10月・早川書房/ハヤカワ・ミステリワールド)で初候補、そのまま受賞。『第三水曜日の情事』『あなたから逃れられない』での小説家デビューから10年半。43歳。

 今年の芸術選奨[文学部門]は小池真理子さんですかあ。すっかり大御所の格ですね。よかったよかった。

 それで今日の主役は小池さんなわけですけど、今から16年前、直木賞をとったときに小池さんはこう言われました。「もはや〈知的悪女〉を持ち出す必要がなくなった」と。

「知り合いの編集者に「実は小説が書きたいんです」と申し出たが、「小説など書かずに、結婚した方がいいよ」とにべもなく言われたのは、七八年の初エッセー集『知的悪女のすすめ』がベストセラーになった時だった。「でも、そのころの私は、そう言われても当然だった」と振り返る。小説に専念したのが八四年。そんなマスコミタレント的イメージとの戦いだったという。しかし今、この人を語るのに「知的悪女」を出す必要はもうないだろう。」(『読売新聞』平成8年/1996年1月12日「顔」より ―署名:文化部石田汗太)

 まったくです。もう必要はないでしょう。

 ただ、小池さんの直木賞までの道のりに、〈知的悪女〉の件が重要な役割を果たしたのは事実です。うちのブログは直木賞関連オンリーです。おさらいしないわけにはいきません。

 昭和53年/1978年10月、小池さん25歳のとき、山手書房から『知的悪女のすすめ――翔びたいあなたへ』が出版されました。これが大層売れまして、同シリーズのエッセイを続々と刊行、講演会に呼ばれるは、テレビのコメンテーターの仕事が舞い込むはで「人気エッセイスト」の座をつかみました。

 ただ、先の引用文にもあったように、小池さんにとっては「マスコミタレント的イメージとの戦い」でした。数々のエッセイやインタビューなどで明かされているとおりです。いや。シリーズ3冊目の段階ですでに、自分の考えと、世間の受け取られ方とにギャップを感じていました。

「私が今まで書いたり語ったりしてきた“知的悪女”という一つの女の像が、果たして私の思っていた通りの形で読者に伝わっていたかというと疑問である。

(引用者中略)

 私の“知的悪女”はマスコミの男どもの手を経てかなり勝手に解釈され、ファッション化された。あるときはセックスのことのみ強調して語られ、またあるときは、不倫の恋のすすめがメインテーマであると言わんばかりに、不自然に本そのものが歪曲化された。」(昭和54年/1979年3月・山手書房刊 小池真理子・著『素肌でシェリー酒を――新・知的悪女のすすめ』より ―引用文は昭和57年/1982年4月・角川書店/角川文庫より)

 なにしろ〈知的悪女の小池真理子〉の印象は鮮烈でした。何かにつけ知的悪女、知的悪女と言われる日々を送ります。

 若いネエチャンが威勢のいいこと言ってるぞ、と世のオジサンたちの好奇の目にさらされ、もてあそばれる構図ですね。もちろん、小池さんの虚像を楽しんだのはオジサンだけではありません。あとに続く若いネエチャンからも、違ったかたちで標的にされたのでした。

「最近、小池さんと同じ名前のコピーライターの林真理子さんが、小池さんとは逆の〈結婚願望〉をテーマにした著作を次々発表してマスコミをにぎわしています。

 〈やっぱり女はカワイくて愛される方が幸せだ……〉

 として、時代の保守化の波にのってベストセラーを出している姿をみるとき、益々小池さんの存在の重さを感ぜずにはいられません。

 会田雄次氏や渡部昇一氏のような男性天敵のみならず、同性天敵とも闘っていかねばならぬからです。」(昭和58年/1983年9月・角川書店/角川文庫 小池真理子・著『結婚アウトサイダーのすすめ』所収 ばばこういち「解説」より)

 そうです。小池さんより数年遅れて現れた〈若いネエチャンエッセイスト〉希望の星、林真理子さんからの突き上げでした。

「こういう女の下半身打ち明け話っぽいものが本になりはじめたのは、いったいいつ頃からだっただろうか。

 私が思うに、小池真理子さんの「知的悪女のすすめ」なんかが先鞭をつけたと思う。(引用者中略)最初にあの本を読んだ時、

「へえー、こんな卒論のできそこないみたいなものが本になるわけ――」

 と当時の私はかなりふんがいしたものである。彼女の美人ぶるのと、悪女ぶるのも、私には気にいらなかった。(引用者中略)

 成功した有名女性の悪口をいうのは、彼女(引用者注:成蹊大出身の、林の友人)と私の共通の趣味なので、それから二時間以上も電話でエンエンと彼女の悪口をいってしまったのだ。

「だいたいねぇー、自分にちょっとバカな男が何人か寄ってくるからって、それにどうのこうの意味をもたせたり、カッコつけんの間違ってるわよ」

「それにさ、女同士でやるようなナイショ話を、本にするって根性セコイわね」

「よくいたじゃん、小学校の時、みなの話を聞くだけ聞いて、あとでひとりで先生にいいつけに行くコ」

「いた、いた、そういうコにかぎってわりと可愛いから、先生にかわいがられたりして」

「あらっ、小池真理子って可愛い?」

「よくいるタイプ、タイプ、赤坂のスナックなんかで塩コンブをつまんでほこりかぶってる……」

「あなたのほうがゼーンゼンいい女よん」

「ま、ありがと。色気だったらマリコ(私の方の真理子)の方があるわね」

 小池さん、ごめんなさい。市井の女たちというのは、こんなひどいことばっかりいってるものなんです。

 しかし、あのテの本を書く女性たちが、女たちから嫌われているのは事実ですね。」(昭和57年/1982年11月・主婦の友社刊 林真理子・著『ルンルンを買っておうちに帰ろう』「打ち明け話はもう古いつうもの」より ―引用文は昭和60年/1985年11月・角川書店/角川文庫より)

 なある。小池さんを目のカタキにしていたのは、良識派を気取る旧世代のおじさんおばさんだけじゃなかったのですなあ。林さん言う「女たち」も、また嫌っていたと。

 でもまあ、林さんも「ごめんなさい」とフォローを打っているわけで、心底嫌っているっていうより、〈知的悪女の小池真理子〉像を題材にして茶々入れて、面白がっていたのかもしれません。

 直木賞受賞後の対談では、即行、詫びを入れちゃっていますし。

 (引用者中略)私、小池さんに謝らなきゃ。十四年前の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』で、失礼なこと書いちゃって……。

小池 ハハハ。いいですよ、そんなこと。(引用者中略)

 私もそうですけど、小池さんも『知的悪女のすすめ』みたいな、小説以外のもので一世を風靡しちゃうと、作家デビューしづらいところ、ありますよね。その後、小説書いても「お前なんか作家ヅラするな!」って。

小池 お互い最初、「きわもの」って感じで受け取られましたよね。でも、林さんの『ルンルン~』は、若い女のコの視点で素直に書いた本だから、あまりたたかれなかったでしょ?

 そんなことないですよー。「こんな下品な女、許せない」とか。

小池 ほんとに? 私も新宿のゴールデン街に行けなかった。「石投げて追い返してやる」とか言われてたらしいです。」(『週刊朝日』平成8年/1996年10月25日号 林真理子「マリコの言わせてゴメン! ゲスト・作家小池真理子」より)

 なごやかで微笑ましいですね。〈知的悪女〉からの数年、小池さんは相当、精神的に苦しい思いをしたはずですけど、笑って話せてくれて、ホッとするヒトコマです。

 〈きわもの〉エッセイストから小説家への転身。林さんの場合はすでにそのとき、直木賞騒ぎの渦中にいましたので、賑やか通しの転身でした。対して小池さんは状況が違っていました。スポットライトを浴びる舞台から、あえてひっそりした世界にもぐり込んだ、といったふうに思える転身でした。

「初めて長編小説を書き出したのは、一九八四年ころ。集英社の担当編集者だったN氏に励まされ、書き直しを命ぜられたのもたった一度で済んだ。それが翌八五年に刊行された『あなたから逃れられない』というミステリ長編である。“悪名高き”エッセイを出してから七年後。二度目のデビューは、初めのデビューと違って静かなスタートを切った。騒々しいことが苦手な私にとって、これはとても嬉しいことだった。」(平成3年/1991年1月・角川書店/角川文庫 小池真理子・著『猫を抱いて長電話』所収「二度目のデビュー?」より ―初出『別冊小説宝石』平成1年/1989年9月)

 ううむ。初めのデビューのときは、よほど嬉しくない騒々しさだったのだな、と思うことしきり。

続きを読む "小池真理子(第114回 平成7年/1995年下半期受賞) 話題先行の〈きわもの〉のイメージを背負いながら、売れない小説を書きつづけた10年が、ドラマをドラマたらしめる。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月18日 (日)

佐藤得二(第49回 昭和38年/1963年上半期受賞) 直木賞って作品の出来で決まるんですよね?ってことを忘れさせてくれるほど、もっともらしい噂バナシが巻き起こる。

120318

佐藤得二。『女のいくさ』(昭和38年/1963年4月・二見書房刊)で初候補、そのまま受賞。同作での作家デビューから3ヶ月。64歳。

 直木賞と文壇ゴシップとは、不可分な関係にあります。直木賞の面白さの何割かは、ゴシップ的な魅力に負っている、と言っちゃってもいいでしょう(いいのかな?)。

 はて。ゴシップの面白さって何でしょう。耳にした瞬間に、「へえ、あの事象の裏にはそんな意外な事実が隠されていたのか」と驚かせてくれて、好奇心を満足させてくれるところ。ですよね。

 でも、それだけじゃありません。

 よくよく調べてみると、ゴシップがほとんど虚構と妄想で出来上がっていた、と発覚することがあります。よくもまあ、ウソッぱちな噂が、いかにも真実であるかのように語られたよなあ、と思わされたりして。そんなハナシをつい信じてしまった世間や自分が、急激に馬鹿バカしく見えてくるアノ瞬間。たまりません。ゴシップの醍醐味と言えましょう。

 さて、佐藤得二さんです。64歳での直木賞受賞は当時の最高齢記録、しかもまったくの処女作でした。新聞や雑誌では、異例の直木賞、と書かれたりしました。あまりに異例だったからでしょうか、この受賞に対しても、「いかにも」な噂バナシがささやかれ、広められたのです。

 ひとつ例を挙げます。第49回(昭和38年/1963年・上半期)直木賞で、佐藤さんとともに候補に挙げられた梶山季之さんの証言です。

 以前、「噂」小説賞を紹介したときにも引用しました。楽しい文章なので、もう一度、繰り返し味わいたいと思います。

「『李朝残影』は、直木賞の候補となりました。この時(引用者注:第49回)の有力候補者は瀬戸内晴美《寂聴、作家・僧侶一九二二~》さんで、対抗が私と云うところでした。/ところが、フタをあけてみると、佐藤得二氏の『女のいくさ』が受賞となり、とんだ大アナが出ました。なんでも佐藤氏は、銓衡委員のK氏の同級生で、そのための同情票が集まったのだそうです。/しかし、佐藤氏は、その後、一作も書かずに死亡され、私は受賞決定の夜、銀座の酒場で銓衡委員の某氏から、/「キミだの、瀬戸内だのに、今更、直木賞をやるこたァねえやな……」/と云われました。/(引用者中略)私が「噂」の小説賞、挿絵賞を創設したのは、偏見にとらわれない、編集者が決定する賞があって然るべきだ……と考えたからであります。/既成作家が受賞者を撰ぶときには、自分の競争相手となりそうな若手を、どうしても蹴落そうとします。云う云わないとに拘らず、そうした心理が働いている。それを断ち切らねば、真の銓衡とは云えません。」(平成19年/2007年5月・松籟社刊『梶山季之と月刊「噂」』「第I部 「噂」と梶山季之 創刊 その意図したもの」橋本健午 より ―引用文の典拠元は集英社刊『梶山季之自選作品集8 わが鎮魂歌/李朝残影 他』「著者あとがき」で、「/」は改行、《 》内は橋本氏による注記)

 どうですか。何と巧みなゴシップでしょう。

 佐藤得二が受賞できたのは、選考委員に同級生がいたためで、しかも高齢であることから今後委員たちの競争相手にはなり得ない、と判断された(にちがいない)と。ほとんど被害妄想スレスレの考え方です。

 既成作家に選考させては駄目だ、っていうんで梶山さんは、編集者たちの手で選考する「噂」小説賞を設立。ここから藤本義一田中小実昌という二人の受賞者が生まれました。そこまではよかったんですが、二人とも、のちに直木賞選考委員たちにも、しっかり評価されてしまいます。果たして梶山さんの「既成作家が選考することの弊害」説が、正しかったのか間違っているのか、よくわからない事態に……。

 まあ、それはそれとしましょう。いったい佐藤さんの『女のいくさ』に票が集まったのはなぜだったのか。選考委員のK氏が同級生……? 誰のことを言っているのやら。川端康成さんのこと?

 正確には、佐藤得二さんと一高・帝大と同級だった川端康成さんは、このとき芥川賞のほうの選考委員でした。『女のいくさ』刊行の折り、川端さんは推薦文を寄せました。しかし、そのことがどこまで直木賞委員たちの同情票を引き出せたのでしょう。かなりマユツバです。

「川端は、当時、文化勲章受章者、日本ペンクラブ会長として、文壇の長老的存在に収まっていたが、堅物で知られた佐藤得二が大長編『女のいくさ』を書き下ろしたとあって、次のような力のこもった推奨の言葉を書いてくれたのである。

「佐藤得二さんは私の高等学校の同級だが、今ごろ、この処女作のやうな長編小説を書き、これが巧緻、達練、充実、みごとな作品なのに、びっくりした。昭和初年から今日までの、言はば『大河小説』で、その時代と世相のなかに、女を中心とした一家の人々の運命を確かに描いて、生彩がある。殊にけなげな女の愛と生とは、胸を打つものがある」

 文字数にして一八〇字足らずの文章だったが、文化勲章受賞(原文ママ)者にして、日本ペンクラブ会長川端康成の「巧緻、達練、充実」したみごとな推薦文は、六四歳の新人作品に、甚大なインパクトを与えた。」(平成21年/2009年11月・展望社刊 塩澤実信・著『ベストセラーの風景』「“年齢”も「褒賞」に価す」より)

 と、塩澤さんは解説しています。さすが「マユツバの塩澤」の異名をとる方の文章はちがいます。「甚大なインパクト」とは何なのか、どこがどう「みごとな推薦文」なのかは、触れずに筆をおいちゃっています。

 『女のいくさ』は、初版三千部でしたが、発売後の売れ行きは思いのほか順調だったそうです。

「昭和三十八年(一九六三)四月十二日、処女出版された『女のいくさ』は、一か月後に再販、二か月後には三版と版を重ね、すでに九千部を売り尽くしていた。」(平成11年/1999年6月・岩手県金ケ崎町刊 佐藤秀昭・著『教学の山河 佐藤得二の生涯』「郷愁」より)

 5月には『朝日新聞』の書評でも好意的に取り上げられたりしていました。このあたりの展開に、川端の推薦文が何らか役立った、といったことを塩澤さんは言いたかったのかもしれません。

 しかし、です。いくら文化勲章だろうが日本ペンクラブ会長だろうが文壇の長老格だろうが、その人の同級であることが、直接の関係がない直木賞選考委員の心まで動かすものでしょうか。

 ちなみに、「選考委員が同情して票を入れた」という説、これはひょっとすると元ネタがあった可能性が高いです。元ネタ……それは佐藤得二さん本人が、謙虚さの表現として語った受賞の感想です。

「受賞と聞いても、ピンとこない。つくづくと年齢を感じました。もう老い先みじかい身ですからね、今さら張り切って作家になろうという気持は起きてこない。(引用者中略)直木賞になったのも“六十をすぎて、こんなに長い小説を書いた”“ずぶのしろうとがわりと面白いものを書いた”という同情と驚きに原因があるのでしょう」(『週刊文春』昭和38年/1963年8月5日号「直木賞受賞「女のいくさ」のヒロイン 64歳の処女作で受賞した佐藤得二氏とそのモデル」より)

 本人が語る受賞理由(憶測)と、同級生に文壇の偉い人がいたという状況をつなぎ合わせて、梶山さん語るようなゴシップが生れた、と見えるのですが、どうでしょうか。

続きを読む "佐藤得二(第49回 昭和38年/1963年上半期受賞) 直木賞って作品の出来で決まるんですよね?ってことを忘れさせてくれるほど、もっともらしい噂バナシが巻き起こる。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月11日 (日)

山本一力(第126回 平成13年/2001年下半期受賞) 「直木賞はエンターテインメント文学の最高峰」と信じる(誤認も含む)全国ン万人の作家志望者たちの憧れの的。

120311

山本一力。『あかね空』(平成13年/2001年10月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「蒼龍」でのデビューから4年半。53歳。

 おっとっと。佐藤雅美さんにつづき2週連続で、またまた食い扶持を稼がなきゃいけない50代お父さんの登場です。

 以前に触れた北原亞以子さんもそうでした。時代作家の直木賞受賞には、長年の苦労が年をとってようやく結実した、っていう図が似合います。その最たる例が、山本一力さんでしょう。

 最たる例、と表現するのは他でもありません。「苦労してきた」という状況が、「二度の離婚」だの「バブル崩壊」だの「2億円の借金」だの、そういうわかりやすいキーワードを伴って、各種マスコミにどんどん取り上げられたからです。

(引用者注:直木賞受賞時の)おのれの言動が別の事態を引き起こした。

「小説を書き始めた動機は、仕事でこしらえた借金を返済するためです」

 わたしのコメントが報道されて以来、この動機に多くのひとが注目してくれたらしい。問われるたびに何度も同じことを答えたが、詳細に語る機会はなかなか得られなかった。」(山本一力・著『家族力』所収「三度目の所帯に嘘はなし」より)

 なるほど、その後、山本さんやその妻、二人の息子のエピソードや写真が、週刊誌や小説誌や総合誌や新聞などにあふれることになっちゃうわけです。もう腹が膨れるくらいに。飽き飽きするほど。

 これがネタになる!と思ったときのジャーナリズムは、たいてい「やりすぎだろ」のレベルまで行かないと気が済みませんからね。50歳すぎのおじさんが、いかにしてドン底まで落ちたか、いかにしてそこから這い上がって直木賞を射止めたか、みたいなジャパニーズ・ドリームふうの記事が、さんざん書かれました。

 「いまや失われかけた家族の絆の大事さ」とか、「こんな世の中だからこそいま時代小説がブーム」とか、そういうおハナシをまぶしながら。

 ここで山本さんのエラいのは、しっかりとその風潮に乗っかったところだと思います。望まれるとおり、期待どおりの役を演じ切ったと言いますか。

 ある種、クサい話になってしまうのも厭わずに。率先して、クサい大人像を全面に押し出しました。

 え。山本一力さん、クサくありませんか? 泥クサいと言い換えてもいいです。だって、直木賞受賞数か月後に出した初エッセイ集のタイトルが『家族力』ですよ。家族力。受賞後に『文藝春秋』に寄せた文は「私のプロジェクト直木賞」。ど、どうですか、このセンス。こういうことを恥ずかしげもなく発信するクサさ。もうたまりませんね。

 ……ええと、誤解なきよう言っておきますけど、ワタクシはクールなものより、暑苦しくてウザッたくてクサいぐらいのもののほうが好きです。直木賞ファンはきっと、そういう性質の人のほうが多いんじゃないでしょうか。芥川賞ファンになったことがないので、あくまで推測ですけど。

 だいたい、人情味あふれる、滋味に満ちた時代小説ってのは、クサーいシロモノですからね。そんな時代小説に対して、やさしいまなざしを向けてくれる直木賞がワタクシは好きなのですよ。推して知るべしです。

 山本一力さんに話を戻します。貧乏してて、それでも夢をもって小説を書き続け、直木賞受賞で一気に脚光を浴びた、その山本さんの姿がバンバン報道されました。そうなると、どうなるか。直木賞をバカにする人は、平成14年/2002年にもたくさんいましたが、そういう人たちの思いを尻目に、直木賞の虚名は、ぐんぐん上がるいっぽうなのでした。

 果てには、こんな記事まで組まれちゃいます。「山本一力さんに勇気づけられた 苦労乗越え、目指せ直木賞」。

「「一度は、どん底を見た人なのに、そこからはい上がって大輪の花を咲かせた。励みになります」

 昨年12月、作家としての第一歩を踏み出したばかりの大倉文明さん(36)は、こう話す。(引用者中略)大倉さんはもともと、俳優志望だった。テレビや映画のエキストラとして数々の場面をこなし、認められる日を待ったが、現実の壁は高く、俳優の夢は事実上あきらめざるを得なかった。

(引用者中略)

「現役のエキストラのままで、直木賞を取りたい」

 そう話す大倉さんは、映像の世界で最も弱い立場にあるエキストラとしての豊富な経験をもとに、人間の心の弱さを、軽妙な文章で描く小説の構想を練っている。」(『週刊読売』平成14年/2002年3月24日号「苦労乗り越え、目指せ直木賞」より)

 ははあ。そんなに直木賞が魅力的ですか。「権威は失墜した」「直木賞作は売れない」などと言われる世界で生きていると、心が洗われる思いです。

「出版された著作はまだないが、「直木賞を取りたい」と周囲に公言している岡部美穂さん(25)も、山本さんの受賞に意を強くした一人だ。

(引用者中略)

 出版社が募集する賞には、たびたび応募しているが、今のところ芳しい結果は出ていない。しかし、山本さんにだってそういう時期があった。落ち込むこともあった岡部さんだが、今は違う。

「(山本さんに)パワーをもらった気がします。今年中には出版してもらえるような作品を仕上げたい」」(同)

 山本さんが与えたパワーが決して空疎でも微弱でもなかった証拠として、岡部さんがこの年、何か小説を出版していたことを、切に祈るばかりです。

 彼ら二人は氷山の一角でしょう。なにしろ、この記事を書いている『週刊読売』の新井庸夫さんにしてからが、

「直木賞といえば、エンターテイメント文学の最高峰である。」(同)

 などと、とんでもない間違いを書いちゃっているぐらいです。違う違う。直木賞はエンターテイメント文学の最高峰じゃないですよ。

 もちろん、勘違いされたり買い被られたりも、直木賞のほうは織り込み済みかもしれません。それで新たに小説を書いてみようと思い立つ人が増え、のちの小説家がどんどん生まれてくるのであれば、直木賞もやっている価値があるってもんでしょう。

 失敗つづきの人生から逆転した山本一力さんの受賞が、逆に、人生の落伍者を増加させる結果にならなきゃいいんですけども。まあ、それは言いっこなしで。

続きを読む "山本一力(第126回 平成13年/2001年下半期受賞) 「直木賞はエンターテインメント文学の最高峰」と信じる(誤認も含む)全国ン万人の作家志望者たちの憧れの的。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月 4日 (日)

佐藤雅美(第110回 平成5年/1993年下半期受賞) 歴史経済ものから時代小説へ。小説ジャンルを変えてでも、食い扶持を稼がなきゃいけないお父さん。

120304

佐藤雅美。『恵比寿屋喜兵衛手控え』(平成5年/1993年10月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。『大君の通貨』でのデビューから9年半。52歳。

 佐藤雅美さんといえば、もはや押しも押されぬ人気時代作家、と言っちゃっていいでしょう。直木賞をとってから、もうじき20年目を迎えます。

 しかし彼の人となりを知ろうと思うと、なかなか苦労します。いちばんの理由は、いまだエッセイ集が一冊も刊行されていないからです。

 処女作『大君の通貨』は、昭和59年/1984年、講談社から書き下ろしで出版されました。43歳のときでした。それまでどこで何をしていたのか。……『大君の通貨』から『恵比寿屋喜兵衛手控え』まで10年弱。その間、どんな思いで小説を書いていたのか。

 エッセイ集がひとつでも出ていれば、そんなあれこれもサクッとわかったかもしれません。でも、そうは行きません。「地味な直木賞作家」ファンでもある直木賞オタクは、雑誌記事を一つひとつ当たる、っていう苦労を強いられることになるわけです。毎度のごとく。

 そこで今日は、佐藤さんの直木賞受賞までの日々を、いくつかのエッセイなどから構成してみます。題すれば、「佐藤雅美、ギャンブルと酒と一念発起の半生」といったところでしょうか……。

 そもそも30代後半まで、佐藤さんは作家になろうと思っていませんでした。大学浪人時代、まだそのころは佐藤さんも、漠然と作家稼業に憧れを抱いていましたが、大阪中之島の図書館で行われた今東光の講演を聴いたとき、その思いを捨てたと言います。

「今東光先生は一座を睥睨し、人を食ったような嗄れ声でまずこうおっしゃられた。

「ここに来ている者は、みんな小説家になろうと思ってるだろう」

 小説家は居職で、気苦労のない職業と聞いていた。漠然と、なれればいいなあと憧れていた。言い当てられて一瞬ひるんだ。そこへすかさず、

「小説などというものは特別の才能をもった者しか書けねえ。だいそれた考えは今日を限りに捨てることだ」

 目から鱗が落ちる思いがするというのはそのことだった。

 以来、小説作者になろうなどという志をかなぐり捨て、そのための修行などといったことももちろんしたことがなく、ただ楽をしよう楽をしようと安き低きについて世渡りしてきた。」(『オール讀物』平成6年/1994年3月号 佐藤雅美「父の奇病」より)

 昭和30年代なかば、1960年ごろのことだと思われます。

 早稲田大学に入ったあとは、授業に出るより雀荘に通う毎日。麻雀で生活費を稼ぐまでにのめり込んで、その当時の将来の夢は「麻雀屋のオヤジになること」でした。

伊集院(引用者注:伊集院静 学費もそれ(引用者注:麻雀)で稼いでたんですか。

佐藤 学費と生活費、アパート代が六、七千円だったと思いますから一万いくらか送ってもらってましたかね。麻雀は月、大体十万ぐらい。

伊集院 十万! それじゃ小説の世界に入るのは遅くなるはずだ(笑)。

(引用者中略)

伊集院 その頃、小説を書こうという気持ちはなかったんですか。

佐藤 全然っ。その頃の夢は麻雀屋の親父になることでした(笑)。」(『現代』平成6年/1994年4月号 伊集院静×佐藤雅美「競輪場は直木賞への近道だった!? だからバクチはやめられない」より)

 卒業する頃には、通っていた飲み屋の看板娘だったという女性と結婚。その後、二児をもうけます。

 一度はサラリーマンになろうと就職します。しかし入社研修がバカらしくなって三日で退社。やっぱり宮勤めは性に合わないと、学生時代に鍛えた麻雀で稼ごうとしますが、どの雀荘でもプロはお断りと出入り禁止を食らう始末。しばらくは、妻に食わせてもらう生活を送りました。

 昭和43年/1968年、27歳のときに講談社の『ヤングレディ』誌にフリーライターとして採用されます。ところが原稿の書き方も知らず、「まったくのド素人」だった、とはご本人の弁です。

「女性誌でなじみにくかったこともあって、ここも三ヵ月でリタイア。それから週刊ポストの創刊に記者として参画したり、いろいろな雑誌でお世話になりましたが、衝突することが終始で、ほとんど三ヵ月から半年でクビになりました(笑)」(『週刊文春』平成6年/1994年1月27日号「ぴーぷる」より)

 その後、『週刊サンケイ』誌でようやく、自分の居場所を見つけます。まわりの人たちが法律・経済の記事をやりたがらないのを見て、積極的にその方面の取材に邁進。アンカーマンとして活躍しはじめました。

 しかし、それだけでは食えない。っていうんで、地方の財界人の自伝を中心に、ゴーストライターの職にありついて、二足のわらじで生活費を捻出。二人の子供を育てました。

 いや。佐藤さんの気持ちのなかでは、「居場所を見つけた」感覚などなかったみたいです。

「二十七の半ばという歳でフリーライターという仕事をはじめた。週刊誌の特集記事の請負とゴースト(代筆)がおもな仕事だったが、それらの仕事は正業でないという意識がつねにつきまとっていた。

 正業とはなんであるか。サラリーマンとして勤めるか地道な商売である。」(『中央公論』平成6年/1994年6月号 佐藤雅美「墓石ブローカー」より)

 昭和48年/1973年ごろには一度、自ら商売を始めようと、韓国から墓石を輸入するブローカー業に手を染めました。しかし、オイルショック後の不景気の波をもろにかぶって、商売が立ち行かなくなり、再び週刊誌記者とゴーストライターの道に舞い戻り。

 地道に働いていればよかったんですが、佐藤さんのギャンブル好きは筋金入りだったみたいで、競輪場通いがやむことはありませんでした。

「神奈川には川崎、花月園(横浜市)、平塚、小田原と競輪場が四ヵ所もある。日本でいちばん競輪場の多い県で、東京を目指すはずが、川崎で途中下車したり、逆にふらっと小田原を目指したりする。はなはだしいときは小田原の先の伊東、あるいは東京を通り越して千葉、取手、大宮、前橋、小田急を逆行して京王閣(調布市)、立川などとそれはもうめまぐるしいくらい関東各地をうろうろした。」(『オール讀物』平成18年/2006年4月号 佐藤雅美「猛暑の城下町」より)

 これが30代半ば、昭和50年代ごろの佐藤さんの生活です。正直、すさんでいます。

続きを読む "佐藤雅美(第110回 平成5年/1993年下半期受賞) 歴史経済ものから時代小説へ。小説ジャンルを変えてでも、食い扶持を稼がなきゃいけないお父さん。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »