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2012年3月18日 (日)

佐藤得二(第49回 昭和38年/1963年上半期受賞) 直木賞って作品の出来で決まるんですよね?ってことを忘れさせてくれるほど、もっともらしい噂バナシが巻き起こる。

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佐藤得二。『女のいくさ』(昭和38年/1963年4月・二見書房刊)で初候補、そのまま受賞。同作での作家デビューから3ヶ月。64歳。

 直木賞と文壇ゴシップとは、不可分な関係にあります。直木賞の面白さの何割かは、ゴシップ的な魅力に負っている、と言っちゃってもいいでしょう(いいのかな?)。

 はて。ゴシップの面白さって何でしょう。耳にした瞬間に、「へえ、あの事象の裏にはそんな意外な事実が隠されていたのか」と驚かせてくれて、好奇心を満足させてくれるところ。ですよね。

 でも、それだけじゃありません。

 よくよく調べてみると、ゴシップがほとんど虚構と妄想で出来上がっていた、と発覚することがあります。よくもまあ、ウソッぱちな噂が、いかにも真実であるかのように語られたよなあ、と思わされたりして。そんなハナシをつい信じてしまった世間や自分が、急激に馬鹿バカしく見えてくるアノ瞬間。たまりません。ゴシップの醍醐味と言えましょう。

 さて、佐藤得二さんです。64歳での直木賞受賞は当時の最高齢記録、しかもまったくの処女作でした。新聞や雑誌では、異例の直木賞、と書かれたりしました。あまりに異例だったからでしょうか、この受賞に対しても、「いかにも」な噂バナシがささやかれ、広められたのです。

 ひとつ例を挙げます。第49回(昭和38年/1963年・上半期)直木賞で、佐藤さんとともに候補に挙げられた梶山季之さんの証言です。

 以前、「噂」小説賞を紹介したときにも引用しました。楽しい文章なので、もう一度、繰り返し味わいたいと思います。

「『李朝残影』は、直木賞の候補となりました。この時(引用者注:第49回)の有力候補者は瀬戸内晴美《寂聴、作家・僧侶一九二二~》さんで、対抗が私と云うところでした。/ところが、フタをあけてみると、佐藤得二氏の『女のいくさ』が受賞となり、とんだ大アナが出ました。なんでも佐藤氏は、銓衡委員のK氏の同級生で、そのための同情票が集まったのだそうです。/しかし、佐藤氏は、その後、一作も書かずに死亡され、私は受賞決定の夜、銀座の酒場で銓衡委員の某氏から、/「キミだの、瀬戸内だのに、今更、直木賞をやるこたァねえやな……」/と云われました。/(引用者中略)私が「噂」の小説賞、挿絵賞を創設したのは、偏見にとらわれない、編集者が決定する賞があって然るべきだ……と考えたからであります。/既成作家が受賞者を撰ぶときには、自分の競争相手となりそうな若手を、どうしても蹴落そうとします。云う云わないとに拘らず、そうした心理が働いている。それを断ち切らねば、真の銓衡とは云えません。」(平成19年/2007年5月・松籟社刊『梶山季之と月刊「噂」』「第I部 「噂」と梶山季之 創刊 その意図したもの」橋本健午 より ―引用文の典拠元は集英社刊『梶山季之自選作品集8 わが鎮魂歌/李朝残影 他』「著者あとがき」で、「/」は改行、《 》内は橋本氏による注記)

 どうですか。何と巧みなゴシップでしょう。

 佐藤得二が受賞できたのは、選考委員に同級生がいたためで、しかも高齢であることから今後委員たちの競争相手にはなり得ない、と判断された(にちがいない)と。ほとんど被害妄想スレスレの考え方です。

 既成作家に選考させては駄目だ、っていうんで梶山さんは、編集者たちの手で選考する「噂」小説賞を設立。ここから藤本義一田中小実昌という二人の受賞者が生まれました。そこまではよかったんですが、二人とも、のちに直木賞選考委員たちにも、しっかり評価されてしまいます。果たして梶山さんの「既成作家が選考することの弊害」説が、正しかったのか間違っているのか、よくわからない事態に……。

 まあ、それはそれとしましょう。いったい佐藤さんの『女のいくさ』に票が集まったのはなぜだったのか。選考委員のK氏が同級生……? 誰のことを言っているのやら。川端康成さんのこと?

 正確には、佐藤得二さんと一高・帝大と同級だった川端康成さんは、このとき芥川賞のほうの選考委員でした。『女のいくさ』刊行の折り、川端さんは推薦文を寄せました。しかし、そのことがどこまで直木賞委員たちの同情票を引き出せたのでしょう。かなりマユツバです。

「川端は、当時、文化勲章受章者、日本ペンクラブ会長として、文壇の長老的存在に収まっていたが、堅物で知られた佐藤得二が大長編『女のいくさ』を書き下ろしたとあって、次のような力のこもった推奨の言葉を書いてくれたのである。

「佐藤得二さんは私の高等学校の同級だが、今ごろ、この処女作のやうな長編小説を書き、これが巧緻、達練、充実、みごとな作品なのに、びっくりした。昭和初年から今日までの、言はば『大河小説』で、その時代と世相のなかに、女を中心とした一家の人々の運命を確かに描いて、生彩がある。殊にけなげな女の愛と生とは、胸を打つものがある」

 文字数にして一八〇字足らずの文章だったが、文化勲章受賞(原文ママ)者にして、日本ペンクラブ会長川端康成の「巧緻、達練、充実」したみごとな推薦文は、六四歳の新人作品に、甚大なインパクトを与えた。」(平成21年/2009年11月・展望社刊 塩澤実信・著『ベストセラーの風景』「“年齢”も「褒賞」に価す」より)

 と、塩澤さんは解説しています。さすが「マユツバの塩澤」の異名をとる方の文章はちがいます。「甚大なインパクト」とは何なのか、どこがどう「みごとな推薦文」なのかは、触れずに筆をおいちゃっています。

 『女のいくさ』は、初版三千部でしたが、発売後の売れ行きは思いのほか順調だったそうです。

「昭和三十八年(一九六三)四月十二日、処女出版された『女のいくさ』は、一か月後に再販、二か月後には三版と版を重ね、すでに九千部を売り尽くしていた。」(平成11年/1999年6月・岩手県金ケ崎町刊 佐藤秀昭・著『教学の山河 佐藤得二の生涯』「郷愁」より)

 5月には『朝日新聞』の書評でも好意的に取り上げられたりしていました。このあたりの展開に、川端の推薦文が何らか役立った、といったことを塩澤さんは言いたかったのかもしれません。

 しかし、です。いくら文化勲章だろうが日本ペンクラブ会長だろうが文壇の長老格だろうが、その人の同級であることが、直接の関係がない直木賞選考委員の心まで動かすものでしょうか。

 ちなみに、「選考委員が同情して票を入れた」という説、これはひょっとすると元ネタがあった可能性が高いです。元ネタ……それは佐藤得二さん本人が、謙虚さの表現として語った受賞の感想です。

「受賞と聞いても、ピンとこない。つくづくと年齢を感じました。もう老い先みじかい身ですからね、今さら張り切って作家になろうという気持は起きてこない。(引用者中略)直木賞になったのも“六十をすぎて、こんなに長い小説を書いた”“ずぶのしろうとがわりと面白いものを書いた”という同情と驚きに原因があるのでしょう」(『週刊文春』昭和38年/1963年8月5日号「直木賞受賞「女のいくさ」のヒロイン 64歳の処女作で受賞した佐藤得二氏とそのモデル」より)

 本人が語る受賞理由(憶測)と、同級生に文壇の偉い人がいたという状況をつなぎ合わせて、梶山さん語るようなゴシップが生れた、と見えるのですが、どうでしょうか。

          ○

 ついでに、ゴシップネタをもうひとつ。川端さん関連より、こっちのほうがより深刻だと思います。

「「どうも、文学賞というのは、自分の家族をくどくど書いた方が有利みたいなだなぁ」私小説を否定する丸谷(引用者注:丸谷才一がいっていた。佐藤得二「女のいくさ」は、今日出海が強力に推し、佐藤は今の学生時代恩師だという。石川利光丹羽文雄が後押し、長年、「文学者」編集の功績といわれる、四十一年、芥川賞選考委員になった三島(引用者注:三島由紀夫は、「候補者からの袖の下が届かないから拍子抜け」と冗談にいっていた。「にぎやかな街で」で最終に残りながら、丸谷才一が芥川賞受賞に至らないのは、その容赦ない三島批判のせいらしい。」(平成14年/2002年4月・文藝春秋刊 野坂昭如・著『文壇』より ―太字下線は引用者によるもの、引用文は平成17年/2005年4月・文藝春秋/文春文庫より)

 野坂昭如さんはここで、文壇内の噂バナシってのは、かくも根拠に乏しい(あるいは間違っている)物語が、めんめんと語り継がれているものだ、と書いているのだと思います(ん。ちがうのかな)。

 『女のいくさ』は直木賞委員だった今日出海が強力に推した、そして佐藤得二は今の学生時代の恩師だった、という。それっぽく聞こえるんですけど、何なんですか恩師って。

 佐藤さんは明治32年/1899年生まれ、今さんは明治36年/1903年生まれ。たった4歳しか違いません。

 えっ。それで、お、お、おんし?

 佐藤さんと今さんが接触したのは、学生時代というより戦後でしょう。佐藤さんが文部省社会教育局長で、今さんが文化課長だった頃からの交流です。それにしたって、今さんの仕事がやりやすいように支援してくれた上司、といった程度のことでしょうから、「恩師」というほどの恩とは思えません。

「私は芸術祭を企画し、日展改組を目論んだ。佐藤さんは何でも賛成してくれる。嘗て文展時代に改組を思い立った松田文相は美術界の複雑怪奇さに手を焼き、辞職した例がある。日展に手をつけるのは危いと忠告がしきりにあったが、佐藤さんはその声を抑えて、私を断行に踏み切らせた。」(『文藝春秋』昭和38年/1963年9月号 今日出海「佐藤得二における人間の研究」より ―のち昭和38年/1963年11月・新潮社刊『迷う人迷えぬ人』に「野の花」として所収)

 もしも、今さんが佐藤さんの『女のいくさ』に対して、作品内容に感銘を受けた、という他の感情が何かあったのだとしたら、「恩」では不自然です。どちらかというと「負い目」はあったかもしれませんが。

「六十を過ぎて、書いたこともない小説にいくら閑だとはいえ、筆を染めるとは飛んでもないことを言う人だと、私は一笑に付した。

(引用者中略)そして遂に千数百枚の小説を縄で縛って私の家へ持ち込んで来た。よくこれだけの仕事をしたというより、こんなものにいとど弱り果てた健康を捧げたのかと思うと、私は腹が立った。

 元来常軌に嵌らぬ人なのに、ここ十数年の病人生活で益々世の中から遠ざかり、ズレて来たなと思って、この小説の縄をほどいて読んでもみなかった。ところが出版社が出してくれるというのがあるからといって原稿を持ち帰ってしまった。」(同)

 いわば、せっかくの縁を頼って、自分に小説を持ち込んでくれた人に対して、出版の労をとろうとせず、みすみす名作を無視しておいてしまった「負い目」。そのくらいはあったかもわかりません。

 もちろん、当時も今さんと佐藤さんの縁を知っている人は、文壇や出版界のなかにもいたことでしょう。裏の事情を読みたがる連中の目を意識してか、今さんは受賞決定直後にみずからそのことにも触れます。

「選考終了後、今日出海氏は「実はこの佐藤という人は、私が文部省にいた時の上司なので良く知っているのだが、六十二になってはじめて小説を書くといい出した時は驚いた。(引用者中略)個人的に知っているからというのではなく、質、量(一二〇〇枚の長篇)とも群を抜いているということは他の選考委員も認めるところであった。(引用者後略)」」(『週刊読書人』昭和38年/1963年7月29日号「芥川賞と直木賞 受賞作と選考経過」より)

 きっと今さんは強力に推したんでしょう。でも、それが直木賞受賞の決め手になったとはとうてい思えません。他の回を見ても、今さんの意向がそれほど選考会に影響を及ぼすわけがないからです。ただの一票だったはずです。

 しかし、野坂さんの耳には、歪んだかたちで佐藤―今の直木賞受賞劇が伝わっていた。伝わっていた、っていうことが、直木賞を何倍にも面白く見せてくれます。それは否定できません。

 直木賞をことさら矮小に仕立てようとするゴシップが流れる。それを受けて直木賞がひときわ輝く。輝けば輝くほど直木賞は、実態から離れていき、過大なものとして見まちがう人が増えていく。……止まらないスパイラルです。

          ○

 佐藤さんは、昭和38年/1963年に64歳で直木賞受賞後、6年半ほどで亡くなりました。71歳でした。

 すでに『女のいくさ』を書く何年も前から闘病生活を送っていて、常に身体に不安を抱えていた人でした。先に引用した本人の言葉でも「今さら張り切って作家になろうという気持は起きてこない」というように、この先の作家としての活躍など、まず期待されていない上での授賞でした。

「過去の直木賞では芥川賞とは異り、将来プロ作家として充分に活躍できるかどうかが選考基準の最大の条件だった。ところがこのときはその条件が初めから無視されたというか、忘れられた。推薦者の川口(引用者注:川口松太郎はさすがその点が気になったのか、佐藤の他に将来性のある才能をもう一人出そうではないか、と諮ったが、多数の賛成を得られなかった。」(平成13年/2001年5月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第十章」より)

 はい、大村さんのおっしゃるとおりです。なぜ、初めから無視され忘れられたか。条件といえるほどの条件が、直木賞にはないからです。

 言い換えますと、その場その場で条件めいたものが話し合われるだけで、そんなものは次のときには容易くひっくり返されます。直木賞、それは例外の歴史の積み重ねだ、と言ってしまいたいほどです。

 というわけで佐藤さんは、想像どおりに、『女のいくさ』以降、一冊の小説も出さずしてこの世を去りました。

 小説を書く構想は持っていました。受賞直後のインタビューではこう語っています。

「――もう書かない、というわけではないでしょうね。

「ええ、材料は五つ、六つあるんです。いま一つ書こうと思っているのは、途中まではうまくいくんだが、なかなか結末がつかないんですよ。夜、寝ながら考えているんですが、どうもいい結末が思いつかない」

――これからは、小説の注文が殺到するでしょう。

「書くつもりですが、締め切り日をいわれると困ってしまう。体の工合を考えながら、気ままに書いて、それから雑誌社に持ちこんで掲載してもらう、というのが一番気楽でいいですね。(引用者後略)」」(前掲『週刊文春』記事より)

 直木賞の意義などどこ吹く風の、気負わず無理をしない感じが佐藤さん、素晴らしいですね。

「新聞や雑誌の取材を受けたり、社内報まで含めたそれらへ、エッセイなどの短文を書き、講演依頼と、得二の体力では酷すぎる日々の中で、直木賞受賞後の小説らしい小説が発表されたのは、翌年の五月であった。」(前掲『教学の山河』「岩手山を見たい」より)

 『オール讀物』昭和39年/1964年5月号の「婿」と、『小説新潮』同年5月号の「たくらみ」です。

 佐藤さんは、衰えゆく体力のせいで、小説を書く気力もあまり沸かなかったんでしょう。あるいは、先に挙げたような「作家になろうという気持ちも起きてこない」っていう述懐のとおり、小説家になろうとする意欲がそもそも希薄だったんでしょう。……と、てっきり思っていました。

 ところが、そんな想像に異をとなえる人がいました。佐藤さんの一高時代からの親友、国際文化会館理事長の松本重治さんです。

「小説の第一作で受賞してしまった佐藤は、第二作を色々計画していたようだが、結局書くことが出来ず、昭和四十五年二月五日病没した。(引用者中略)

「何故第二作を書かなかったのでしょう」という筆者の問いに、松本(引用者注:松本重治)は「賞なんかもらったからですよ、川端も同じですよ」と明快に斬って捨てた。」(『東京経済大学人文自然科学論集』77号[昭和62年/1982年12月] 石田望「研究ノート 『佐藤得二』研究(一)」より)

 うわ。佐藤さんが小説を書かなくなったのは直木賞のせいでしたか。ごめんなさいごめんなさい。こら、直木賞め、トンデモない余計なお世話の、お邪魔ムシめ。このやろ。佐藤さんに謝りなさい。いけない子。

 ……失礼。取り乱してしまいました。佐藤さんが二作目以降を書けなくなったのは直木賞をとったせい。そうかもしれません。でも、これもまた「文学賞をとると、その重みで次が書けなくなる」っていう、文壇ゴシップまがいの俗説から派生した説のようにも見えてきちゃいます。

 佐藤得二さん。つくづく、真偽不明なゴシップの似合う方です。

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