江崎誠致(第37回 昭和32年/1957年上半期受賞) どうして直木賞で取り上げられたのか、不思議で意外な受賞者、って意味で、いかにも直木賞っぽい受賞。
江崎誠致。『ルソンの谷間』(昭和32年/1957年3月・筑摩書房刊)で初候補、そのまま受賞。同書でのデビューから4ヶ月。35歳。
直木賞は、どこか浮ついています。なぜでしょう。賞の持っている性格を飛び越えて、卑しく下品な騒がれ方を引き起こしちゃうからでしょうか。
はい。そんな「浮ついたキャピキャピの直木賞」が大嫌いな方、お集まりください。おすすめしたい直木賞受賞者がいます。江崎誠致さんです。
大衆文学史のなかでも、ほとんど注目されていません。さりとて、純文芸史に礎を築いたとも言いがたい。ひとり我が道を歩いた孤高の存在、江崎さん。こんな方が直木賞をとって、最後の最後まで職業作家として生きてくれたのですから、まじで感涙ものです。
江崎さん自身、浮ついたものに背を向けた作家でした。以下のような直木賞観を語っているのですが、端々から江崎さんの性格がうかがい知れます。
「私は今日、人から〈臍曲り〉〈偏屈人〉と呼ばれていることを知っているが、これは作家稼業にはいってからのことである。私が私であることに変りはないのに、その私の受けとられ方が変った、ということを、私は直木賞受賞で感じた。
(引用者中略)
こんなことがあった。文藝春秋社内にある日本文学振興会からの受賞通知に、何日か後に来社されたしと書いてあったので、私は久しぶりに背広を着て、銀座の文藝春秋社に出かけた。
「何の連絡もないので、来られないのかと思いました。」
ちょっと嫌味な挨拶である。しかし、言われてみると、私はこのときまで、先方に対して、うんともすんとも言っていなかったのだ。(引用者中略)
私にとってそれだけのことが変な奴だと思われたのは、受賞に対する私の反応が、他の人たちにくらべ、可愛げのないものだったということなのであろう。」(昭和58年/1983年8月・新潮社刊 江崎誠致・著『らんか帖―ヘソ曲りで生きよう』「嵐過の章」所収「賞」より)
ふうむ。江崎さんはこのとき、文学賞側が知らず知らずのうちに発している「威張っているさま」を、ピーンと感じ取ったのかもしれません。きっとそれは江崎さんの好む世界ではありませんでした。
直木賞をもてはやし騒ぎ立てる世界と、江崎さん。水が合わなすぎます。
「私が比較的碁に関する文章を書いていたころ、相対的に小説を書く枚数が少ないことに、こんな忠告をするジャーナリストがいた。
「碁ばかりやってると忘れられますよ。」
面と向かって言う者もいたし、人づてにそんな言葉が語られているのを何度も耳にした。
(引用者中略)
「忘れられて結構ですよ。」
すると、別の忠告が聞えてきた。
「そんな依怙地を言って、世間を狭くすることはないだろうに。」
こうなると、私に返す言葉はない。安っぽく拡げるだけの間口の広さなど、求める気持はないのだから、私にとってこれは人間の言葉ではない。
もっとも、梶山季之の原稿を、ヘリコプターで送って締切に間にあわせたなどという手柄話をしていた編集者の眼から見れば、無理もないことかとは思った。
しかし、それが常識だろうと、こんな世間の眼とは、私は無縁の世界にいる。」(同書「爛柯の章」所収「世間の眼」より)
ひゃあ。「人間の言葉ではない」っつう物言いが、ゾクッとしますよね。このブログなんか、人間の言葉ではない最たるものなんだろうなあ。ゾクゾク。
人間・江崎誠致と、人間でない世間。この二つが接触するところにスリルを感じるのが、直木賞ウォッチの醍醐味でもありましょう。よーし、ついでに、もう一場面、そんなスリリングなハナシをかぶせてみます。
江崎さんはかつて出版社に働いていたのですが、そのころ、小説原稿を持ち込んできた無名の男がいました。自信と押しの強さだけ一丁前だった〈早田〉っていう男で、江崎さんはドヤ街を歩いているとき、偶然、彼と遭遇してしまいます。
「私は彼が、その後新聞も雑誌も読まず、どうにか物書きになった私のことなど知らねばよいがと思わずにはいられなかった。(引用者中略)
早田は私のことを知っていた。したがって私はあまり気のすすまない話に引きこまれる結果になった。(引用者中略)
「そらそうと、あんた賞とったね」
「ああ」
私は彼をソバ屋へ誘ったことに後悔をおぼえ、めんどくさそうな返事をした。
「どうやってとった?」
たしかに私は直木賞をもらったが、人に誇れるほどの作品とは考えていないので、いつまでもそのことに触れられるのがいやである。しかもそれを、どうやってとった? ときたから頭にきた。
「とったって、泥棒したわけじゃない」
「でも何か方法があるでしょう?」
「そんなものあるわけがないでしょう」
「そうかな」
私はどなりだしたい気持をやっとのことで押えつけた。」(昭和37年/1962年5月・七曜社刊 江崎誠致・著『すっぽん同士』「珍文作家の夢」より)
ああ。〈早田〉のことを笑えないのが、同じ「人間でない世間」にいる身として、胸の痛いところです。言うに事欠いて「どうやってとった?」とは。……早田さん、あなたを文学賞好き仲間に迎え入れたいと思います。
それはさておいても。早田さんの質問は角度を変えると、なかなか頭を悩ませる問題を孕んでいます。「江崎さんのようなズブの新人作家の書き下ろしが、どうして直木賞をとったのか」。うーん。
なぜこの設問が悩ましいのでしょうか。……それを語る前に、文壇や、ましてや賞などに何の興味もなかった江崎さんが、なぜ『ルソンの谷間』を書き、単行本になったのか、その辺をおさらいしておきます。
○
『ルソンの谷間』出版前後までの江崎さんの歩みは、先に引用した『らんか帖』とか、『宇宙に遊ぶ――わが囲碁史』(平成10年/1998年11月・KSS出版刊)で語られています。必読です。
昭和21年/1946年2月に江崎さんは復員しました。出征前に勤めていた小山書店に復職したのは、その翌月のことです。営業職だったらしいですが、かなり可愛げのない、しかし優秀な社員で、社内でも疎んじられながら重んじられていたようです。
しばらくして中野重治の紹介でぬやまひろしと面識をもち、そのつながりで徳田球一と会います。そのころから急速に日本共産党に傾倒していきました。
「私はぬやまに連れて行かれた飲み屋で初めて彼(引用者注:徳田球一)に紹介され、その場で熱弁を振るう姿にたちまち魅了されました。(引用者中略)そのときですね、私の反体制精神に火が点いたのは。「この人たちのために、自分も出来ることをやろう」ってね。」(『千葉工業大学研究報告人文編』39号(平成14年/2002年3月) 柴田巌「中垣虎児郎の思い出――故江崎誠致氏に聞く――」より)
昭和24年/1949年にいたって、小山書店に辞表を提出し、その年の春に自力で冬芽書房を設立。社員のほとんどが小山書店から移ってきたメンバーでした。新会社設立まもなく、社員全員で共産党に集団入党します。
そのころの江崎さんは仕事一辺倒だったようです。しかし文学に対する思いは、けっこう体内に温めていたのかもしれません。
「十七、八のころ詩を二、三千編つくった。ダダイズムの影響を受けたり萩原朔太郎にひかれたりした。その後小山書店に入ってからは文学への愛情を押さえつけた。」(『毎日新聞』昭和32年/1957年7月24日「学芸 芥川・直木賞のご両人 今後の抱負を語る」より)
詩人としての江崎誠致は、小山書店時代に復刊『新風土』の同人となり、同誌に「復員」(昭和23年/1948年1月)、「未亡人」(昭和23年/1948年4月)っていう詩を発表しているところからもうかがえます。
ハナシはちょっと逸れますが、復刊した『新風土』のことに少し触れておきます。この雑誌は昭和13年/1938年に小山書店で創刊されたものの、戦争で休刊を余儀なくされたもので、昭和23年/1948年に復刊しました。このときの発行所は小山書店となっていますが、実質は下村湖人ひきいる「新風土社」が編集・販売とも手がけたようです。
そこに江崎さんがどんなかたちで加わったのか、不明ではありますけど、江崎さんが冬芽書房を設立してからは同誌の発行所もそちらに変わり、最後まで(同誌がつぶれるまで)経理面を担当していたのだとか。
「(引用者注:『新風土』は)売れなかった。執筆者の顔ぶれが固定したことも理由の一つではあったろうが、何しろ時勢がわるかった。敗戦直後の虚脱状態のあとに、勢いを得たものは肉体もの、世はあげてオールセックスの時代であった。まじめくさった無名の雑誌が売れるはずはなかった。
それでも、経理担当、江崎誠致のうでで、二年間、昭和二十四年(一九四九)八月号までつづいた。」(昭和45年/1970年5月・柏樹社刊 永杉喜輔・著『下村湖人伝―次郎物語のモデル』「X 『新風土』の復刊」より)
昭和25年/1950年になると江崎さんは、共産党からの要請もあって、資金集めを目的とする地下活動に専念することを決意。冬芽書房を解散し、洋紙店を設立しました。
このころを題材にした小説に『十字路』(昭和39年/1964年11月・文藝春秋新社)があります。それによれば、自己保身にしか興味のないあくどい党仲間のなかで、懸命に資金を稼ぎ、出し抜かれ、利用される日々だったみたいでして。一年ほどで洋紙店は倒産。その後、印刷ブローカー兼宣伝企画業の会社をつくります。しかし、これもまもなく行きづまり。
昭和30年/1955年暮、街なかで突然、喀血します。右肺に空洞ができていたのでした。それを機に自宅療養に入るわけですが、肺外科手術を受けるまでの半年間に、はじめて小説を書きました。これが『ルソンの谷間』でした。
手術をまえに何か悲愴な覚悟でもあったのか。遺書がわりに書いた渾身の一作か。……などと物事をドラマチックに考えようとしても、そうはいきません。なにせ「ヘソ曲がり」の江崎さんです。何ごともなかったかのように回想します。
「肺の外科手術は、かなりの死亡率を示す時代であったが、それを遺書とするつもりなどなかった。いつかは書いておきたいと考えていたことを、時間ができたので書きはじめたというにすぎない。」(前掲『らんか帖』「嵐過の章」所収「喀血」より)
「私は作家たらんと志して作家になった人間ではない。喀血して小説を書きはじめたときも、文筆を業としようとはかならずしも考えなかった。」(同書「交友」より)
さて、来ました。江崎さんにまつわる最大の謎に差しかかりました。
誰に乞われたわけでもなく、ただただ自分の戦場経験を書き上げた江崎さん。先のことを何も考えていなかったと思いきや、なぜか顔見知り程度だった筑摩書房の竹之内静雄さんに、その原稿を託すのです。
江崎さんですら、その経緯を不思議がっています。本人にとって不思議なんですもの、はたから見て不思議なのは当然です。
「あれはどういうことだったのだろうと思う。他の出版社のことは考えず、私は友人に頼んで筑摩に原稿を届けてもらったが、それまで、竹之内さんとは稀にしか顔を合わせておらず、文学の話などしたことはなかったのである。
もっとも、私の方では、竹之内さんが井上靖の『闘牛』と芥川賞を争った『ロッダム号の船長』の作者であることは知っていた。つまり、私の方が先に竹之内さんの読者だったわけである。また、野間宏さんを通じ、竹之内さんが「三人」のメンバーだったことも知っていた。そんなことが、私が原稿を托す相手に竹之内さんを無意識にえらんだということであったかもしれない。
(引用者中略)
文筆業をつづけながら、生活がかかった原稿を書くという行為についてすら、私の方から積極的に働きかけるということはしたことがない。ただ一度だけ、はじめて書いた小説『ルソンの谷間』を竹之内さんに托したとき以外は。」(『宇宙に遊ぶ―わが囲碁史』「第五章 登天行」より)
無理やりにでもスジを通す男、江崎さんの文章のなかでも、格別スジの通っていない回想部分です。筑摩の竹之内さんに原稿を読んでもらおうってことは、出来がよければ筑摩から出版してもらおう、って意図があったと誰でも思います。でも、それだと江崎さんっぽくないのはたしかです。まったく不思議です。
○
『ルソンの谷間』は筑摩書房から刊行され、直木賞に選ばれました。それ以前の直木賞をよく観察している人から見れば、今官一『壁の花』や有馬頼義『終身未決囚』のように、とうてい「大衆文芸」とは呼べない作品だって、直木賞をとることはありましたから、特に驚くべき事態ではなかったはずです。
でも、直木賞・芥川賞を目の前にすると、どうしても騒ぎ立てずにいられない人種、っていうのは当時も存在していました。頼もしいですね。
たとえば臼井吉見さんです。「第37回芥川賞の菊村到「硫黄島」と直木賞の江崎誠致『ルソンの谷間』は、賞がそれぞれ逆でもおかしくない」ってハナシを披露してくれています。
「この一編(引用者注:菊村到「硫黄島」)が私小説と風俗小説との中間で、双方の脱出口を見出そうとする試みの作であることは、最初に書いたとおりである。(引用者中略)選評でみれば、芥川賞委員のほとんど全員が、この作のこういう性格をどうさつ(洞察)しながら、満場一致のかたちで受賞がきまったというのは興味のあることだ。こんなことは数年前までは考えられなかったことであろう。(引用者中略)直木賞のほうが、逆に芥川賞にふさわしいと思われる江崎誠致の「ルソンの谷間」をえらんだことを思い合せると、この事情はいよいよはっきりするように思われ、ぼくなど興味津々たるものを覚える。」(『朝日新聞』昭和32年/1957年8月21日「文芸時評」より ―引用典拠は平成20年/2008年10月・ゆまに書房刊『文藝時評大系 昭和篇II 第十二巻 昭和三十二年』)
そのほか臼井さんは、江崎作品を読んで、「職業作家にはなれそうもない」みたいなことも指摘しています。直木賞は職業作家を養成するもののはずなのに……と。
ああ。こういう人を見ると、ワタクシは嬉しくなってしまうのです。とにかく自分の頭のなかに、強固な直木賞観があって、意識してか無意識にか、その基準のなかで文学事情を語ってしまう、という。文学賞に思考回路を支配されている! さすが文学賞の力、ハンパないぜ。
ええと、フォロー入れておきますと、臼井さんを馬鹿にする気は毛頭なくて、なにしろ臼井さんは、名もなき新人の持ち込み原稿『ルソンの谷間』を評価して、出版への後押しをした方です。この作品を、いまワタクシたちの手元に残してくれた恩人として感謝しています。
そういえば、この作品を前に「直木賞じゃなくて芥川賞にふさわしい」の思いをもったのは、臼井さんだけではありませんでした。『ルソンの谷間』出版に一役買った竹之内静雄さんもまた、直木賞じゃなく芥川賞になるだろうと予想していたそうです。奇遇にも。
「「江崎さんという方がお見えになりました」と受付から知らせてきた時「何年ぶりかな、どうしているのだろ」と思ったものだった。(引用者中略)
すぐ会ってみると、一層やせている。ただ精気が嚢中の錐のように感じられた。「原稿を読んでみてくれ」という。私たちは同業の知合いで、碁仇だった。友情はその後におこったもので、当時格別あったわけでもない。昭和三十一年の夏ころか。
「ルソンの谷間」というその作品は、一読して価値が分かった。手紙で意見をのべ、会って話しあい、江崎君は二回ほど書き改めた。臼井(吉見)さんも読んでほめ、出版された。芥川賞になると思った私の予想は外れて、直木賞になった。」(昭和39年/1964年8月・集英社刊『新日本文学全集月報31』所収 竹之内静雄「「立ち止まる」ことについて」より)
書き下ろしの単行本が芥川賞の候補になるわけないじゃん。……っていう現代っ子のツッコミなどどこ吹く風、さすが単行本が芥川賞候補になっていた時代を知っている昭和20年代の芥川賞候補者、竹之内さんですよなあ。予想の重みがちがいます。
……重い予想です。重いんですけど、やっぱり「『ルソンの谷間』は芥川賞向き」と言っちゃうのはかなり無理があります。
だって芥川賞ですよ。直木賞にくらべて視野の狭いことで有名な。失礼。直木賞にくらべて対象媒体が限られていることで有名な。
「ことに最近は新人の書きおろし長篇がよく刊行されているのに、芥川賞は短篇を受賞の対象にしている。これは受賞作品を『文芸春秋』へ再録するのに長篇では不便であるからであろうが、この頃のように新人が続続長篇でデビュウしてくるようになると、短篇でデビュウする芥川賞作家の方が小粒にみえてくるのはやむを得ない。」(『図書新聞』昭和32年/1957年9月14日 十返肇「文芸時評 文壇の関心薄れる 芥川賞の権威と位置」より ―引用典拠は前掲『文藝時評大系 昭和篇II 第十二巻 昭和三十二年』)
目の錯覚ではありません。十返肇さんのこの指摘は、最近のものではなく、遠い昔、江崎さんが直木賞をとった昭和32年/1957年の文章なのでした。
直木賞と芥川賞の別は、作品が大衆文芸か純文芸かではなく、単行本になったものか商業文芸誌に載った短篇かの違いである。いまとなってはよく耳にする説です。50数年前の江崎さん受賞の段階ですでに、その原型は表わされていました。
それ以降、芥川賞はほとんど姿を変えていません。変わったのは直木賞です。
まだ当時は、単行本だけでなく同人誌も商業大衆誌も、候補の対象にしていました。単行本にしても、おカタい文芸出版社の筑摩書房なんぞの本を、候補作にえらんでいたんですよ(ちなみに同社の本が直木賞をとったのは、後にも先にも『ルソンの谷間』のみ)。
それが50年たつうちに、見る見る、視野が狭くなっちゃって……。『ルソンの谷間』の直木賞受賞は、それ以降の直木賞の変質(小さくまとまっていく流れ)抜きに見ることができません。その部分で、直木賞ファンにとっては悩ましいのです。
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