北原亞以子(第109回 平成5年/1993年上半期受賞) 直木賞をとる前にすでに、新人賞受賞にいたる長ーい努力と、そこからの長ーい苦節とを済ませてしまった人。
北原亞以子。『恋忘れ草』(平成5年/1993年5月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「ママは知らなかったのよ」での商業誌デビューから24年。55歳。
つい先日、アンケートを実施しました。「北原亞以子と直木賞、といわれて思い浮かべるキーワードとは?」。回答者のうち、9割以上の人が「鳴かず飛ばすの20年」と答えました。
……というのはもちろんウソです。ウソですが、ここ3年ほど直木賞検定では「鳴かず飛ばずの20年」に関する問題が出ています。避けて通れない話題であることは確かです。
……というのもウソですけど、直木賞作家がいかにして直木賞に到着したのかは、直木賞に興味をもつ者の定番テーマですよね。直木賞受賞者は数多くいますが、そのなかでも「苦節」の単語が似合う人。今日はそんな北原亞以子さんの、苦節についてのおハナシです。
北原さんは小学生時代から詩を、中学生になってからは小説を書きはじめたそうです。高校では文学クラブに入部。小説家になることを夢みました。
「高校の頃から小説家を希望しながらも、卒業後は石油元売り会社に入社しOLをしながら習作を書き続けている。」(平成19年/2007年8月・暁印書館刊 中谷順子・著『房総を描いた作家たち(3)』「北原亞以子」より)
20代は、どうやら定職のかたわら習作に明け暮れたみたいです。やがて20代後半。商業デザインスタジオに勤めはじめるのですが、そのころから、北原さんの執筆活動に動きが出てきます。いよいよ文章で身を立てようと本腰を入れたのでしょうか。
28歳ごろの無名時代には『保険毎日新聞』にエッセイを連載しました。これらの一部は『お茶をのみながら』(平成13年/2001年10月・中央公論新社刊 北原亞以子・著)で読むことができます(ただし、講談社文庫版では、そこの部分がバッサリ削られています。ご注意を)。
そうそう。28歳。この年、北原さんは幻の処女作を書いたのでした。その後、長きにわたる苦闘の数十年、北原さんの胸のなかに深い屈辱として残ることになる、幻の処女作を。
「第一作めは、確か二十八歳の時に、或る同人誌へ投稿した。高卒の私には同人誌へのつてがなく、二人の推薦者が必要というその同人誌にも、同人としての入会を許してもらえなかった。それでともかく会員となり、規定通りに同人諸兄の批評を乞うたのである。
いまだに覚えている。戻ってきた原稿には、すさまじい批評が書かれていた。「これほどひどい作品はない、あなたに小説を書く資格はない」というのである。あまりの衝撃に会費を払うのを忘れ、催促されたのをきっかけに退会し、二年くらいたって別の同人誌に移った。」(『婦人公論』平成14年/2002年4月22日号 北原亞以子「「今」こそ飛躍の時 五十歳からでも人生は変えられる」より)
なにい、オレの大事な、いたいけな亞以子さんに、そんな強烈パンチを浴びせた野郎は、いったいどこのどいつだ。と、北原親衛隊のみなさんは気になって夜も眠れないでしょう。ワタクシも気になります。
北原さんを足蹴にした同人誌。それは『文藝首都』ではなかったか、っていう仮説を提示するにとどめておきます。
「北原は、もと「文芸首都」の会員であったが今度「文学草紙」(東京)よりの紹介によって当会の同人になり千葉市在住、現在「泉の光」(土師清二・青柳友子)で毎月エッセイを連載中である。」(『文学地帯』32号[昭和43年/1968年9月]「編集後記」より ―署名:関(関荘一郎) 太字下線は引用者による)
という、北原さんを快く同人として迎え入れた『文学地帯』側の証言と、
「『文藝首都』は他の同人誌と違って、門戸を一般に広く開放していたので、所定の会費を納入すれば誰でも会員になれた。会員は作品を投稿することができる。集まった投稿作品は、同人の中から選ばれた編集委員が手分けして読み、二名の読み手の推挙があれば誌上に掲載される、というシステムになっていた。掲載に至らなかった投稿作品には、それを読んだ編集委員の評が付けられて返送された。」(平成18年/2006年10月・講談社刊 勝目梓・著『小説家』「模索」より)
勝目梓さんの語る『文藝首都』における会員投稿の仕組み、をとりあえず引用しておきます。
で、傷ついた北原さんが、どうにか紹介で『文学地帯』に入れてもらったと思ったら、まもなく、全国の同人誌作家によるコンテスト、第1回新潮新人賞をサクッと受賞しちゃったのですよ、もう。『新潮』に載った北原さんの「受賞の感想」を読んでみてください。「小説を書く資格はない」とまで罵倒された背景を知って読むと、ぐっと来ますよ。
「もう書くのなんかやめちまおうと思ったことがある。つくづく自分に愛想がつきていた。が、その時友人の一人がニヤリとして言った。
「情ない顔をするな。コケの一念てこともあるよ」
それから丸二年。幸運にも賞をいただくことになり、本当にコケかと思われるほど目茶目茶に喜んでしまったが、日がたつにつれて不安にもなってきた。そこで、友人達の顔を思い浮かべては、こう言わせている。
「うろちょろするな。コケの一念で頑張れ!」」(『新潮』昭和44年/1969年5月号 北原亞以子「新潮新人賞 受賞の感想」より 下線部は原文では傍点)
ちなみに、このとき『文学地帯』先輩同人の廣畠祐子さんは、こう書いています。
「(引用者注:新潮新人賞の受賞は)迅速に舞い込んだ幸運のように見えるが、当然そこには北原さんのこれまでの長い地味な文学への努力が実を結んだのだと思われる。」(同号「北原亞以子さんのこと」より)
はい。「これまでの長い地味な文学への努力」だそうです。
まさにこの年は、北原さんの努力が一気に報われた感のある年でした。新潮新人賞と同じ時期、『文学地帯』に載せようと思って書いた時代小説「粉雪舞う」を小説現代新人賞に応募。こちらも、新潮新人賞から少し遅れて佳作に選ばれたのでした。
「当時の(引用者注:『小説現代』の)編集長だった三木章さんに聞いたところによると、笠原淳さんと私が受賞――と決まりかけたところで、有馬頼義先生が待ったをかけたのだという。
「しめた、二人だと思ったんですけどねえ」
と三木さんは残念がってくれたが、「新潮」編集部の田辺孝治さんは「よかったあ」と私の落選を喜んだ。」(平成17年/2005年11月・講談社/講談社文庫 北原亞以子・著『お茶をのみながら』所収「ジャリの会」より ―初出『時代小説大全』平成7年/1995年春号)
ぬぬ。よそでの落選を喜んじゃうとは、『新潮』の田辺さん、なかなかの正直者。
それじゃあ『新潮』誌が育ててくれるかといえば、そうは行きませんでした。北原さん、31歳にして念願の小説家人生をスタート。しかし、そこからが苦難の道第二章でした。
ってことで、「鳴かず飛ばずの20年」はここからです。新人賞をとるまでの段階で、すでに北原さんは、長くて地味な努力を経ていたわけでして。おお、さすが「苦節」の女だ。
○
30代、1970年代の北原さんは、コツコツ小説を書いては会社に勤めて収入を得る、そんな日々を送りました。
「勤めると多少の収入は得られるかわり、原稿を書く時間は少なくなる。書くのは早い方ではないし、書き上げたあとも手直しをしなければ気がすまないので、日曜日はほとんど徹夜、目を赤く腫らして会社へ向かっていた。
当時は自分に心臓疾患があるなど夢にも思っていなかったが、それでも皮膚の感覚がなくなるほど疲れることもあった。それに思う存分書きたくもなって、後先も考えずに会社を辞めたものだった。
が、失業保険のあるうちはいい。なにせ一年に一度か二度、月刊誌に短編をのせてもらえる程度で、たちまち原稿用紙代にも困る破目になる。ふたたび――いや、幾度も勤め先を探すことになるわけだが、次第に年をとってくるわ、特技はないわで、待遇はわるくなるばかりだった。」(前掲『お茶をのみながら』「あの頃」より)
当時の北原さんの発表舞台は、『小説現代』や『小説新潮』。中間小説誌の全盛期にあたり、二誌ともまだ「別冊」も出している時代でして、ちょくちょく短篇が採用されていました。
ただ、書いても書いても、多くはボツになり、原稿を突き返されていたと言います。このころ、直木賞といえば中間小説誌に載った短篇も候補作に残したりして、おそらくは、まだ単行本出版にも至らない、こういう作家を応援したい意図もあったはずですが、北原さんはまったく注目されませんでした。
そして、北原さんいわく、どん底のピークは40歳前後だった、とか。
「物書としての四十歳前後は、最低だった。自分の目の前にすら、文学に一生をささげようと悲壮な覚悟をきめた女の姿が浮かび上がってくるのである。他人の脳裡に、蹴られても踏まれても立ち上がって原稿を届けに行く女の姿が描かれていても仕方がない。」(前掲「五十歳からでも人生は変えられる」より)
小説ひと筋の決心が揺らいだのも、この頃だったそうです。
「焦らなかったと言えば嘘になる。それでも小説は諦めなかった――と言いたいのだが、実は一度だけ、結婚をして平凡な主婦になろうと決心したことがある。四十を過ぎ、このままでは野垂死をしてしまうと思った時だった。(引用者中略)プロポーズに近い言葉を口にしてくれた男性をたずねて行き、今の言葉で言えば“できちゃった結婚”をしてやろうと考えたのだが、そうきめたとたん、なぜか熱が出た。
熱で足どめされた私は、一晩中考えた。考えて考えて、結局、男性をたずねて行くのをやめにした。小説をとったと言えば聞えはいいし、事実、半分はそうなのだが、半分は母との暮らしをとったのである。」(前掲「あの頃」より)
恋を振り切って、みずから思い定めた道をひとり歩む。……これほとんど、北原さんの描く『恋忘れ草』諸篇の世界ですね。
40歳。小説家としての道がなかなか開けていかないこのころ。北原さんは昔から憧れていたコピーライターっていう職を得ることになります。
「「チャンスは不思議なもので向こうから歩いてくるのね」と北原は話す。
商業写真スタジオの事務員をしているときに、親会社が広告制作をやっていて、そこから独立会社をつくった人がいて「うちでコピー書いてみない?」と誘われたという。」(前掲『房総を描いた作家たち(3)』より)
週に三日はコピーライターとして働き、残りの日を小説執筆に当てる。そんな生活を10年ほど続けるのですが、40代なかばにして、いよいよ北原さんのもとに「チャンスが向こうから歩いて」きます。新人物往来社、大出俊幸さんとの出会いでした。
「鳴かず飛ばず十七年めか十八年めくらいに、人違いというハプニングから新人物往来社の大出俊幸さんに会い、大出さんにすすめられて、新選組の土方歳三を主人公とする長篇を書くことになった。」(平成20年/2008年7月・新潮社刊 北原亞以子・著『父の戦地』「最終回」より)
北原さんの初めての単著が出たのは昭和63年/1988年でした。奥付では『歳三からの伝言』の「12月10日」よりも、『小説春日局』(有楽出版社刊)のほうが「11月25日」で早いのですが、後者の著者略歴には「最新作に『歳三からの伝言』(新人物往来社)がある」と刷られています。両作ほぼ同時の出版だった、と見ていいでしょう。
いや。大出俊幸さんが北原さんにもたらしたチャンスは、初の単著、だけではなかったのでした。北原さん、鳴かず飛ばずの終了まで、あともう一歩。
○
新人物往来社の大出さんは、北原さんのために出版パーティーを開いてくれた、というのです。
「『歳三からの伝言』は下手ながらも書き上がり、大出さんが出版パーティを開こうと言ってくれた。
無論、反対する人は大勢いた。「傑作ならともかく、こんな駄作で」というのである。大出さんはその反対を蹴散らしてくれて、パーティは無事、開催された。実は、このパーティがきっかけで、当時「小説新潮」にぽつりぽつりと掲載されていた連作、『深川澪通り木戸番小屋』の刊行がきまったのだ。
ただ、新潮社ではなかった。講談社だった。その頃、私の書いたものを掲載してくれたのは「小説新潮」編集長の川野黎子さんだけであり、刊行にも力添えをしてくれたのだが、だめだったのである。
(引用者中略)私は川野黎子さん、大出俊幸さん、「小説新潮」の連作を横取りして単行本にしてくれた講談社の大村彦次郎さんと故・宮本近志さんには頭が上がらない。」(前掲『父の戦地』より)
ようやく北原さんの出世作『深川澪通り木戸番小屋』(平成1年/1989年4月・講談社刊)にたどり着きました。見る目あるよね、大出さん。それから『小説新潮』の川野さん。講談社の大村さん宮本さん。
ってことで、平成5年/1993年に北原さんの『恋忘れ草』が直木賞に決まったとき、ついつい文藝春秋に対してイヤミをたっぷり盛らざるを得なかった以下のような文章も、すんなりと受け容れられよう、ってものです。
「今回の直木賞は、(引用者中略)みえみえの文藝春秋主導型に戻ってしまった。
今回の候補作が発表された段階で、「本命・北原亞以子、対抗・高村薫、残り三作は数をそろえるため」という構図は誰の眼にも明らかだったといえよう。北原は堅実な時代小説作家であり、しかも今回の候補作の版元は文春。(引用者中略)
過去に、文春版元作品へのおてもり授賞の場合は、もう一作文春とあまり近くない作家とのダブル授賞というケースが多く、今回の高村の場合は、その幸運をひきあてたというところだろう。」(『噂の真相』平成5年/1993年9月号「文壇事情」より 署名:(Z))
「文春版元作品へのおてもり授賞」……。まったくねえ。
20数年、北原さんのこと見向きもしなかった直木賞が、いきなり自分のところで出した本であげちゃうんですもんねえ。『小説現代』『小説新潮』などで着々と力を蓄えていたころには冷たかったのに、パッと人気が出るやいなや、後ろから来てかっさらう。みたいにどうしても見えちゃうんですよ。だから直木賞は嫌われるんだよなあ。……って、あれ。こんなこと、先週も書きましたっけ?
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