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2012年1月の6件の記事

2012年1月29日 (日)

山本文緒(第124回 平成12年/2000年下半期受賞) 直木賞の候補になりそうにない本は意識的に出さないようにしていたとは。おお。ダークだ。

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山本文緒。『プラナリア』(平成12年/2000年10月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「プレミアム・プールの日々」でのデビューから13年。38歳。

 ここ数年の直木賞(いや、芥川賞)は、受賞者の記者会見がキーポイント。……だそうでして。11年前、平成13年/2001年1月の第124回のときにも、当然、記者会見は行われていました。

 このときもひとりの記者が、会見の様子に苦言を呈しました。いまではあまり知られていないはずですので、ご紹介しておきます。

「芥川・直木賞の最近の受賞者を見ると、ダブル受賞が相次ぎ、盛況だ。ただし、文芸書の不振を反映してか、受賞者の会見にはいまひとつパワーが感じられない。

(引用者中略)

 直木賞は重松(引用者注:重松清氏と山本(引用者注:山本文緒)氏がおおかたの支持を集めた。二人とも活躍は間違いないだろう。重松氏は、師の中上健次を意識してか、「まいっちゃった。僕の考える作家は、少なくとも僕ではないよ」と座りごこち悪そうに語るし、山本氏も「文壇では私はまだヒヨっ子」と謙そん。二人とも売れっ子なのだから、作家としての自負をもっとみせてほしかった。」(『日本経済新聞』平成13年/2001年1月20日「文化往来 芥川・直木賞の受賞者会見、迫力足らず」より)

 まったくもう。この日経の無署名子は、たかが文学賞の記者会見に何を期待しているのだか……。さらに「記者会見が波乱なく済んだこと」を語るのに、なぜか「文芸書の不振」を持ち出したりして。何の因果関係もないに決まっている二つの事象を、よくもまあ強引に結びつけるよなあ。ほとほと感心します。

 いや、そんなことはどうでもよくて、ですね。

 山本文緒さんです。直木賞を受賞してまで、謙虚だ何だと文句を言われた山本さんです。わずか11年前の出来事でした。しかしそれ以降の短い間にすでに、聞くも涙、語るも涙の、山あり谷ありの作家人生を築いてきているのは、はい、ご承知のとおりです。

 何でしょう。直木賞をとったのだから、一層活躍してくれるかと思えば、小(?)休止。トントントーンとステップアップしていきそうに見えたのですが、一歩、二歩戻ってからの再出発。山本さんに「直木賞」の物差しを当ててみると、前進しているのか止まっているのか、何ともわからない、イライラもじもじする感じが漂ってきて、しかたありません。

 と思っていたら、何だ、山本さんご自身がこう書いてくれているじゃありませんか。

「新連載です。日記エッセイです。うっかりやるって言ってしまったので、こうして書いています。過去の私はだいたいにおいてうっかり者で、現在の私は常にその尻ぬぐい。(平成19年/2007年5月・角川書店刊 山本文緒・著『再婚生活』「人恋しいのか違うのか」より 太字下線は引用者によるもの)

 過去の自分が思ったこと、考えたこと、発言したことを、どんどん忘れて前進していける人もいるんでしょう。でも、山本さんはどうやら、そうではないようです。前の自分を捨てておけない。つい振り返らざるを得ない、そんな歩み。

 ええ、山本さんご自身、「過去を振り返り慣れている」とも言っています。

「作家の仕事というのは「過去を振り返る」という作業が案外多いです。(引用者中略)エッセイの依頼がくれば、やはり過去にあった出来事などを書くことが多いです。そう考えると、なんだか後ろ向きな仕事です。」(平成21年/2009年2月・角川書店/角川文庫 山本文緒・著『かなえられない恋のために』「まずはここからお読みください」より)

 どうしたって山本文緒さんとくれば、「振り返り」が付いてまわるようです。前を見るより、後ろに目を向けてしまう、という。

 そうですか。じゃあ、ここはひとつワタクシも、今日は山本さんと直木賞のことを振り返らせてもらうことにしましょうか。……って、今日にかぎらず、いつも振り返ってばかりいますけど。

 さて。山本さんといえば、「なぜ直木賞を意識するようになったか」問題、っつうのがあります。山本さんにとって直木賞とは、ある日突然天から降ってきた贈り物、などではありませんでした。

「直木賞候補はこの仕事を始めた時の私の夢であり、ここ数年の目標だった。私は何が何でもそれが欲しかった。誰を傷つけようと誰に嫌われようと、直木賞の候補になってみたかった。誤解を恐れずに言うと、欲しかったのは「候補」で「受賞」ではない。いや、もちろん受賞したいから候補になりたいわけだが、受賞は時の運である。でも候補までは努力でいけるかもしれないと希望をもっていた(というか希望をもつしかなかった)。」(平成16年/2004年4月・文藝春秋刊 山本文緒・著『日々是作文』所収「愛憎のイナズマ」より ―初出『オール讀物』平成13年/2001年3月号)

 疑問に思います。なぜ「直木賞」だったのでしょうか。なぜ他の賞は「夢」や「目標」たりえないのでしょうか。そこがワタクシは知りたい。

 直木賞を目標に定めた時期についてならば、山本さんは、こう答えてくれていました。

Q21 「直木賞をとる」と決めたのはいつでしたか?

吉川英治文学新人賞をいただいたら、周りの編集者から「次は直木賞ですね」と言われるようになって。とれば言われずに済むという一心で。」(『ダ・ヴィンチ』平成13年/2001年6月号「今、山本文緒が読まれる理由 山本文緒への31の質問」より)

 ふうむ。山本さんは「次は直木賞ですね」の言葉に、がぜん興奮してくれたからいいんですけど、やっぱり疑問が残ります。どうして吉川新人賞では駄目なのでしょう。まわりの編集者たちに聞いてみたいですよ。……とか問うと、自分に跳ね返ってきそうですけど。

 けっきょくのところ、なぜ直木賞じゃなきゃ駄目だったのかは、よくわかりません。

 わからないんですが、山本さんは直木賞をとるために小説を書く道を選択してしまいました。過去、いろんな人が罹ってきた直木賞病の患者のひとりに、山本文緒さんもその名を刻むこととなったわけです。

山本 直木賞ってホントに化け物か魔物のような賞で、ここ二年ぐらい囚われてしまってたんです。(引用者中略)こういう文学賞とは関係ないところで小説を書いているんだと思っていたけど、一昨年の春に『恋愛中毒』で吉川英治文学新人賞をいただいた瞬間、手の届くところにブドウがあったことが分かって。で、吉川ブドウの上に、もうちょっとおいしそうなブドウがあるなと(笑)。

(引用者中略)

阿川(引用者注:阿川佐和子) 直木賞という目標を決めたことによって、書くことが定まったところはあったんですか。

山本 絶対直木賞の候補にはならないだろうなという本はしばらく出さないでおこうというダークな気持ちが……。ごめんなさい(笑)。」(『週刊文春』平成13年/2001年2月15日号「阿川佐和子のこの人に会いたい 山本文緒 コメカミの血管が切れそうなほど直木賞が欲しかったんです」より)

 ダークなダークな文学賞の世界。

 それまでも、登場人物たちのダークな心理が売り(?)だった山本さんが、ダークな文学賞に惹かれたのだそうです。おお。直木賞そのものが好きな人間からしてみれば、たいへん好ましく、楽しい状況ですよね。文学賞嫌いの、山本文緒ファンからは、石を投げつけられるかもしれませんけど。

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2012年1月22日 (日)

河内仙介(第11回 昭和15年/1940年上半期受賞) 「直木賞をとったのに消えていった作家」第一号。……でもそれって、直木賞のせいなの?

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河内仙介。「軍事郵便」(『大衆文藝』昭和15年/1940年3月号)で初候補、そのまま受賞。同作でのデビューから4ヶ月。41歳。

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2012年1月17日 (火)

第146回直木賞(平成23年/2011年下半期)決定の夜に

 ガッチガチの本命受賞、けっこうけっこう。とって当たり前だからこその「本命」ですもんね、ってことで今夜18時54分ごろに、第146回(平成23年/2011年・下半期)直木賞は、つつがなく決まりました。

 つつがなさすぎるきらいはありますけども。

 文学の人たちの話題は、いつもどおり、どうぞ芥川賞のほうに向けてもらいましょう。「未来の文学」みたいなものとは無縁である直木賞は、しっかりその無縁感を発揮してくれました。ほんと嬉しく思います。

 うちの親サイトや当ブログを以前から読んでいる方は、うすうすお気づきかもしれません。ワタクシは以前から葉室麟さんに直木賞を受賞してほしい派でした。今晩のニュースを受けて、思いが口からあふれ出そうです。……いや、まずはファン心は抑えつつ、先に、受賞しなかった5人の候補作家にメッセージを送らせてもらいます。

 『コラプティオ』が受賞していたら世の中ひっくり返ったかもしれません。でも、候補に挙がったことがきっかけで、真山仁さんの作品が今より一層、がんがん読まれるようになる、と信じたいところです。直木賞作家よりも人の心をつかんだり、のちに足跡を残したりする作家は、たーくさんいます。たぶん文学賞は日本を変えられませんし。賞なんて気にせずに、真山さんの描く未来像めざして、ぐいぐい突き進んでいただきたいと思います。

 いやあ、桜木紫乃さんの『ラブレス』。直木賞とると思ったんだけどなあ。最後は『蜩ノ記』との一騎打ちの決選投票だったらしいんですけど。個人的には『ラブレス』が直木賞受賞作リストに入らなかったことが意外です。在庫切れを起こしている書店が頻発(つまり、刷り部数が少ない)って噂も聞きますが、いいじゃないですか。書店の入口にどかんと積んである本だけが本じゃないですもん。桜木さんには、いつか直木賞とっていただいて、「最初に候補になったときは、何もかもが新鮮で……」みたいな回想インタビューを聞かせてください。

 直木賞の候補になったことがあるけど、とれなくて、でも直木賞以上の実力で天下に名を知らしめる……みたいな伊東潤さんの未来を見てみたいぜ。なにせ「直木賞=天下をとる」みたいな時代は、もう過ぎ去っていますし。新たに直木賞に替わって天下一と呼ばれるようになった文学賞、か何かをバシッと受賞して、カッカッと笑い上げてほしいなあ。そういうことを伊東さんが成し遂げたら、きっとカッコいいしなあ。

 歌野晶午年譜の、作家デビュー20数年後のあたりに、「直木賞候補になる」みたいな一文が加わるのも、唐突すぎて、なかなかオシャレじゃないですか。歌野さんの業績や作家生活に対して、影響を及ぼせる力は、直木賞になど、まるでないですもんね。のちのち世間話やエッセイのネタに困った折りには、直木賞候補エピソードを笑いバナシ程度にでも使ってやってくださると、直木賞も喜ぶと思います。どうぞ、よしなに。

 ワタクシが何か言う必要はありますまい。恩田陸さんに関しての直木賞に対する怒号、冷笑、絶望については、この数時間ですでに、多くの人が書いていますから。とにかく恩田さんに対しては感謝しかありません。候補入りの打診を断わることなく、周囲からさんざん勝手なことを言われる騒ぎに4度も耐え、「直木賞ファン」なんちゅうワタクシのようなキモい人種を毎回楽しませていただいて……。とるのか。とらないのか。ハラハラドキドキ感を今回も提供していただき、ありがとうございました。

          ○

 どうですか。葉室麟さんが直木賞受賞。この据わりのよさ。360度、どの角度から見ても均整のとれた美しい姿じゃないですか。

 過去4回(第140回第141回第142回第145回)、毎回、ワタクシは選考会後のエントリーで葉室さんについて泣き泣きメッセージを書いていました。そんな過去の自分に教えてやりたい。peleboよ、辛抱せよ。辛抱すれば葉室さんにお祝いの言葉を書けるときが、かならずやってくるのだぞ、と。

 『蜩ノ記』。きっと若いころ暴れ馬だった(と勝手に想像する)葉室さんならではの、気持ちのこもった作品で、楽しく読みました。さあ、これで葉室さんの活躍の場がさらに広がることでしょう(って、今もうすでに、ですか、すみません)。ミステリーやユーモア物だけじゃなくて、現代物やノンフィクション、あるいはSF、ファンタジーなどなど(?)、きっとこれまで以上に多彩な葉室さんが見られるのかと思うと、嬉しくてしかたありません。

 直木賞の場で、もう葉室さんをお見かけする機会はなくなってしまうのですが(いや、次は選考委員ですか)、いままでありがとう、これからもよろしくお願いします、です。

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2012年1月15日 (日)

第146回直木賞(平成23年/2011年下半期)予想賞について、選考経緯とご報告。

 本日、平成24年/2012年1月15日(日)夕刻より、一部の人たちがかたずを呑んで見守る「第146回直木賞予想賞」の選考委員会が開かれました。その選考経緯をご報告いたします。

 ご存じの方もいらっしゃると思いますが、念のため本賞について簡単にご説明いたします。

 「直木賞予想賞」は、毎年1月と7月に、新進・中堅作家による作品のなかから優秀な大衆文芸を決める「直木賞(正式名:直木三十五賞)」に先立って行われます。直木賞の選考前に、そのゆくえをさまざまな角度から紹介し展望し駄弁る、「直木賞を予想する」という数多くの行為のなかから、最も優秀な予想企画を選び、顕彰するものです。

 第146回直木賞予想賞は、第146回直木賞について、候補作が正式に公となった平成24年/2012年1月6日(金)から、選考会2日前の1月15日(日)までに発表された「予想」を、その選考対象とします。原則として、不特定多数の目に触れない媒体で発表された予想は除外されますのでご了解ください。

 厳正なる審査の結果、あまたある「予想」のなかから下記の作品(?)が、候補作として選ばれました。(順不同)

大森望

2ちゃんねらー

西日本新聞記者3名

  • 〔新聞〕『西日本新聞』 146回芥川・直木賞展望 記者座談会(1月14日)

@aradon_3

有隣堂ヨドバシAKIBA店・加藤泉

あもる

リアラス「予想ネット」

pelebo

 選考委員の総意により、上記の作品を候補作とすることが了承されたのち、白熱の選考会が始まりました。

          ○

■大森望によるラジオ・WEB記事等を通じた諸予想

 →「大竹まこと ゴールデンラジオ!」「WEB本の雑誌」「ラジカントロプス2.0

 誰もが認める「直木賞予想」の第一人者です。豊崎由美さんとコンビを組んだ「文学賞メッタ斬り!」企画のスタート以来、8年あまりものあいだ、場を変え品を変え、一回も途切れることなく予想しつづける姿勢は、予想士の鑑と言えるでしょう。また、「直木賞予想をする人」としての一般的な認知度は他の追随を許しません。

 予想的中率は、以前当ブログでも取り上げたことがありますが、第131回(平成16年/2004年下半期)~第145回(平成23年/2011年上半期)の全15回(受賞作19作・受賞作なし1回)で、本命での的中が9作。45%となっています。

 第146回については、

受賞作なしもあり得る。授賞がある場合は、本命は葉室麟『蜩ノ記』、対抗・大穴は桜木紫乃『ラブレス』

 といった予想のようです。

 ただ、本予想賞はあくまで「予想行為」の顕彰を目的にしています。そのため、当たるか当たらないかは、選考の基準としてそれほど重視しないことが、今回あらためて選考会で確認されました。

 大森さんの予想のなかでも最も人口に膾炙している「文学賞メッタ斬り!」は、本日1月15日(日)24時から放送されます。今回の予想賞では対象期間外となってしまっているところが、残念です。しかし、一部の委員からは、

「メッタ斬り!が直木賞予想界に果たしてきた功績は、はかり知れないほど大きい。その業績をも踏まえて予想賞を授与する手もある」

 との、直木賞さながらの意見も飛び出しました。

 そんななか、人の作品にケチをつけることだけを生き甲斐にしていると評判の、一人の委員から強硬な反対論があったことも紹介しておきます。

「直木賞予想賞は、本来、世に知られていない予想を一般に知らしめるために創設されたはずだ。すでに予想界に一家を成し、これほど有名になりすぎた人に対して、この賞を贈るのは趣旨に反しているのではないか」

 大森さんにはぜひ、菊池寛賞とか吉川英治文学賞とかを予想してもらって、「菊池賞予想賞」もしくは「吉川賞予想賞」あたりをとっていただくのがふさわしい、という雰囲気に流れました。

■「2ちゃんねる」芥川賞・直木賞、文学賞受賞作予想スレ4

 →「2ちゃんねる(ログ速)

 予想賞大本命と目された大森望さんに授賞しない!? となると次に注目されるべきは、もちろん2ちゃんねるです。

 歴史はおそらく文学賞メッタ斬り!より古いのではないか、というぐらいの実績を誇っています。最初のころは、「芥川賞予想スレ」しか存在していなかったはずですが、途中で直木賞の予想にも進出。いまや、直木賞予想界を影で支えている存在と言えます。

 今期も、活発なのか不活発なのかわからない、脱線につぐ脱線を繰り返しながら、日々更新されつづけています。好評価の意見をひとつご紹介しましょう。

「直木賞の予想は、歴史をさかのぼって見れば、“すべての候補作を読まずに、あるいは一作も候補作を読まずに、願望と妄想と思い込みのみで行われる”という伝統的なスタイルがある。そのスタイルを現代において忠実に守っている。ときどき「誰か読んだやつの批評を希望」みたいな書き込みが差し挟まることで、“作品を読まない予想”がいかに根強く、普遍的なものであるかを再確認させてくれるところなどは、秀逸な仕掛けだと思う」

 また、匿名であり悪意に満ちあふれている点から、なかなか、こういう賞では取り上げられづらい性質の作品であって、その面でも本賞を授与する意義があるのではないか、との意見も出ました。

 例の、ケチつけ委員は、ぼそぼそと、

「「予想スレ」とタイトルは付いているけども、これは「予想」という枠を突き抜けすぎた発言の集合体だからなあ。予想賞で、この作品をとらえるのは違和感があると思うんだがなあ」

 と小さくつぶやいていたようですが、その発言に反応する委員はいなかった模様です。

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2012年1月 8日 (日)

井伏鱒二(第6回 昭和12年/1937年下半期受賞) フィクションじゃなく小説っぽくもない。でも、だからこそ直木賞をとれたのかもしれない。

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井伏鱒二。『ジョン万次郎漂流記』(昭和12年/1937年11月・河出書房/記録文学叢書)およびユーモア小説で初候補、そのまま受賞。同人誌デビュー作「幽閉」から14年半。39歳。

 たいへん不本意なことがあります。「直木賞は正統的な大衆文学に与えられるもの」といった勘違いが、昔から広く深く流布してしまっていることです。

 現実はちがいます。ご存じのとおり。直木賞には「大衆文芸」の枠で収めるには違和感のある、数々の作家にも与えられてきました。その筆頭として、まず名前の挙がるのが、井伏鱒二さんです。

今官一が直木賞を受けた。芥川賞の書き間違いではない。直木賞にはときどき、こういうことがあって、それが面白いのかもしれないが、昭和二十九年(後期)に梅崎春生戸川幸夫とともに受賞したときも、梅崎春生は芥川賞でないとおかしいのではないかという感じだった。二十五年(後期)の檀一雄のときもそうだった。これは古く昭和十二年(後期)の井伏鱒二の受賞のときから始まるのである。そのときの井伏鱒二は、いまさら芥川賞でもあるまいという作家であった。(引用者中略)いまさら芥川賞でもあるまいという作家に、と言ってこれも違った意味で見当違いだと思われる直木賞を与えるというところに、この直木賞の面白さがあるようだ。」(昭和33年/1958年3月・文藝春秋新社刊 高見順・著『昭和文学盛衰史(一)』「第五章 津軽の作家」より ―初出『文學界』昭和27年/1952年8月号~昭和32年/1957年12月号)

 「見当違いだと思われる」の一文にご注目ください。つまり、高見さんの頭のなかには「直木賞とは、こういうものだ(こういう作家に与えられるはずのものだ)」っていう固定観念があり、そこから外れた授賞だった、と指摘しているわけです。

 あるいは、佐伯彰一さんもそうです。

「昭和十三年、すでに四十代の井伏が『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を受賞したという出来事が、文壇における評価の曖昧さを端的に集約して見せたといえそうである。(引用者中略)わが国の文壇における純文学、大衆文学という区別の偏狭さ、不確かさは、その後、いろんな形で批判を浴びるようにもなって、無しくずしの形で、しだいにぼやけ、消滅しかけてはきたものの、戦前の昭和十年代には、まだ確固たるものがあった。そこで、すでに「山椒魚」、「鯉」、「屋根の上のサワン」などの個性鮮烈な名作を物し、さらには『川』、また『逃亡記』(直木賞の年に『さざなみ軍記』として完結、刊行された)を書き上げた四十一歳の井伏に対して、直木賞というのは、不穏当というに近く、そぐわなさ、落着きの悪さを感じとらずにいられない。」(平成2年/1990年3月・明治書院刊『井伏鱒二研究』所収 佐伯彰一「井伏鱒二の位置――カタストロフィ執心の意味――」より)

 はいはい、そうですか。とうてい会話が噛み合いそうにありませんよ。

 「不穏当」って、どういうことですか。「直木賞が与えられる大衆文芸」像を勝手に決め付けないでほしいよなあ。

 「純文芸」もそうでしょうけど、「大衆文芸」には、確たる境界・領域が定められているわけじゃありません。とくに昭和10年代は、まだ「大衆文芸」運動が興って、ほんの10年ほどしか経っていない時期です。その枠を広げていきたい、いや、現状のなかでも広げることはできる、と直木賞が努力して既成の概念を壊そうとしていた試みを、あなたたちは無視するのですね?

 むろん、井伏さんの直木賞授賞は相当にインパクトがあったと思います。永井龍男さんが回想するように、

「銓衡会席上各委員から大衆文芸賞を(引用者注:井伏鱒二が)受理するか否か危ぶまれていた」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第二章」より)

 というのも事実でしょう。井伏さんが快く直木賞を受けてくれるか、文藝春秋社のほうでも気を遣って、受賞を発表する前に佐佐木茂索専務みずからが直接、井伏さんに念押しをしたぐらいです。

「直木賞の授賞の知らせがある前に、そのころ文芸春秋社の専務であつた佐佐木茂索氏から私に速達手紙が来た。「ちよつと話があるから至急来社を願ふ」といふ意味の文面である。さつそく出かけて行くと、「実は内談だが、君の『ジョン万次郎漂流記』に直木賞を贈ることになつた。選者諸君の意見だ。君は貰ふ気があるかね。芥川賞でなくて直木賞だ」と云つた。」(平成9年/1997年9月・筑摩書房刊 井伏鱒二・著『井伏鱒二全集第二十二巻』所収「時計と直木賞」より ―初出『オール讀物』昭和38年/1963年10月号)

 井伏さんはともかく、戦前の文士の多くは、本気で純文芸より大衆文芸を下に見ていたらしいですしね。その淀んだイメージに立ち向かわなければならなかった直木賞は、いろいろ苦労しました。

 だいたい、アレです。井伏作品は純文芸だ純文芸だとおっしゃいますけど、当時、井伏さんが『オール讀物』にも小説を発表していたこと、ご存じでしょ? 大衆文芸誌のツラをしながら、その実、直木賞と歩調を合わせるがごとく、もっと広い感覚で新たな大衆文芸を生み出そうとしていた『オール讀物』誌。この雑誌にも、佳作を発表していた作家に対して直木賞を贈る、いったい何の文句があるのでしょう。

第六回直木賞は、(引用者中略)井伏鱒二を推薦候補とし、最近刊行された「ジョン・万次郎漂流記」及び「オール讀物」其他に掲載されたユーモア小説を以て、委員各自の審議を経ることとなった。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年3月号「芥川龍之介賞・直木三十五賞委員会小記」より 太字下線は引用者による)

 なので、ワタクシは思うわけです。井伏さんの直木賞授賞は「不穏当」でも何でもありません。直木賞が、それまでの枠組みに固執しようとする人たちの頭上をはるかに超えて、「大衆文芸」っていう言葉さえも無視して、狭い視点にとらわれない自由な文学賞になりうる、ってことを示した大いなる一歩だったと思います。

 あ、井伏鱒二の研究をしている滝口明祥さんも、こう書いていました。

「まさしく「大衆文学」と「純文学」の境界が再定位され始めていたこの時期、「大衆文学の新生面」を待望する動きの一環として、井伏の直木賞受賞という出来事はあったのである。(引用者中略)幾人かの選考委員においては『ジヨン万次郎漂流記』という作品が特に授賞に価すると考えられていたわけではなく、むしろ井伏作品全体に共通して見られる「大衆性」に主眼があったことがわかる。授賞対象として『ジヨン万次郎漂流記』だけでなく「其他ユーモア小説」が付け加えられているのも、その辺りに関係があるに違いない。」(『昭和文学研究』62集[平成23年/2011年3月] 滝口明祥「「庶民文学」という成功/陥穽――文学大衆化と井伏鱒二――」より)

 ほんと、そう思います。この「枠組みを突破しようとする直木賞」の動きが、70年以上たった現在では、ほとんど影もかたちもなくなっているのが、悲しくもあり、寂しくもありますが。

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2012年1月 1日 (日)

青島幸男(第85回 昭和56年/1981年上半期受賞) 直木賞47年目にしてはじめて話題性だけで売れた記念碑的受賞作。

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青島幸男。『人間万事塞翁が丙午』(昭和56年/1981年4月・新潮社刊)で初候補、そのまま受賞。同書第一章での小説家デビューから1年半。48歳。

 いつもどおり日曜日なのでエントリーをアップします。

 ただ、今日は1月1日です。誰かそれにふさわしい直木賞受賞者はいないものかと考えました。……残念ながら名案が思いつきません。で、とりあえず「一番」に縁のある人を思い浮かべることにしまして、直木賞受賞者を名前の五十音順で並べると一番最初に登場する作家、青島幸男さんにご登場いただくことにしました。……ううむ。われながら強引な展開だな。

 青島さんについては、4年ほど前に『ちょっとまった!青島だァ』(平成18年/2006年12月・岩波書店/双書時代のカルテ)を取り上げたことがありました。この本は、青島さんが人生を振り返って語り下ろしたもので、奇しくも死の直前に発売されました。当然、直木賞受賞前後のことにも触れられています。

 しかし、注意しなきゃいけません。青島さんの回想は、そのまま受け取るわけにはいかないように書かれているんですもん。なにせご自分でこう言ってしまっています。

「自画自賛してなにが悪いの、オレに言わせリャ、自画自賛できない奴は、生涯、自分に満足のいく人生なんて歩めないと思うね。オレは、自画自賛大好き。自画自賛大いにけっこうじゃないの。自分で作って自分でほめてるのが一番いいんだよ。誰に迷惑をかけるわけじゃなし、大いに自画自賛すべきだね。」(同書「むすびに代えて 軽さの研究」より)

 つまり語られている内容の多くは、自分を褒める視点で限定されている可能性が高いわけです。

 たとえば、青島さんが直木賞をとるために、小説を書こうと思い立つ場面。

「いろんな番組を干されて、食い扶持をまるっきり断たれたことがある。オレにとっちゃ実にしんどい時代だ。オレに残された道は、直木賞をとる、これしかないって思い定めたわけだ。

 まずは、出版社の人にきてもらって聞いてみようってわけで、開口一番、「直木賞ってさ、一年に何回あるの、それとも何年かに一回?」。編集者は、きょとんとしてたね。」(同書「第3章 一つ山越しゃ……」より)

 急速な展開だなあ。これだと、青島さんが自力で編集者にわたりをつけて直木賞狙いに行ったかのように読めちゃいます。

 このあたり、当時の資料を読むと、どうもずいぶん違うのですよ。青島さんは『小説新潮』っていう、直木賞をとれる可能性のある媒体に処女作を発表することができました。なぜか。ひとりの小説家のおかげ、らしいです。

「そもそもこの話は、一昨年(引用者注:昭和54年/1979年)の秋、あるテレビ局の番組で井上ひさしさんにお目にかかった時から始った。番組が終って一緒に出演していた放送作家の友人三人と、帰りに一杯やろうということになり、新宿まで出た。(引用者中略)その時のことだ。私が「井上さんは実にいい仕事をしている、羨ましい」と言うと、「あんただって書けるんだ。書きなさいよ、書かなきゃダメだ。いい編集者を紹介しますよ」と、井上さんがけしかける。

 酒の上の冗談と思ってると、翌日の午後、S社のS氏から、井上さんに聞いたのだが、小説を書きたい御意志がおありのようで、一度お目にかかりたい、と電話が入った。早速S氏にあっていろんな話をし、さて本格的に原稿紙のマスを埋めることになった。」(『小説新潮』昭和56年/1981年10月号 青島幸男「ハラハラドキドキ記――直木賞受賞まで――」より)

 ちなみに「S社のS氏」とは、「新潮社の佐々木伸雄」さんらしいです。

 そうです。ひとりの小説家、井上ひさしさん。第67回(昭和47年/1972年上半期)の直木賞受賞者です。第88回(昭和57年/1982年下半期)から選考委員を務めることになるので、青島さんと『小説新潮』をつないだころは、その直前ぐらいの時期でした。

 この仲介について、井上さん側からのコメントっていうのも残っています。

「僕はただ編集者を紹介しただけですよ。実によく書けていていい仕事だと思いますよ。こういうと青島さんには悪いが、すでに芸能界では忘れられかけている人ですよ。それだけに危機感があって必死になったんじゃないでしょうか」(『週刊ポスト』昭和55年/1980年2月8日号「狙いは参院選か、それとも直木賞か 青島幸男氏“初体験小説”の評判」より)

 へえ。ろくに選挙活動しなくても票を集めることのできていた人に対して、「忘れられかけている人」ですか。なかなか手厳しいですなあ。

 危機感があって必死、という文が出てきました。たしかに青島さん側に危機感があったのかもしれません。そしてそれ以上に、新潮社や『小説新潮』のほうの事情が事情でした。まさに当時、『小説新潮』は「危機感があって必死」だったのです。

 なにしろ、中間小説がにわかに短い天下を謳歌した時代は、すでにこのころ終わりかけていました。新潮社の社史『新潮社一〇〇年』ですら、そのことを認めているくらいです。

「「小説新潮」の発行部数は、八〇年代に入って減り始め、八五年以降は、一年に一万部くらいずつ減るようになった。(引用者中略)八九年の発行部数は、大体九万前後である。因みに採算分岐点は一五万とされている。」(平成17年/2005年11月・新潮社刊『新潮社一〇〇年』 高井有一「百年を越えて 中間小説からエンターテインメントへ 小説新潮」より)

 凋落。斜陽。この状況を前に同誌のとった戦略のひとつが、青島さんのような、専業作家でない人に小説を書かせる方向だったんですね。

向田邦子は、テレビ脚本家として脂の乗り切った時期に小説に筆を染め、成功した。その再現をねらって、編集部は、ほかの脚本家たちに次々と、小説を書いてみないか、と声をかけた。しかし、脚本と小説の間には、描写方法一つを取ってみても基本的な違いがあり、早坂暁、山田太一、隆慶一郎くらいを除いては、うまく行かなかった。またこのころ、青島幸男、中山千夏山口洋子ら“異業種”の人々が小説に参入する傾向が目立ってきた。こうした現象は、部数減を何とか食い止めようとした編集部が、他分野に新しい鉱脈を求めた結果でもあった。」(同)

 青島さんの小説デビュー作「人間万事塞翁が丙午」は、両者の危機感が合致して生まれました。青島さんは次の一手を模索している、『小説新潮』は新しい書き手を探している、昭和55年/1980年に。

 まあ、それはいいとしましょう。しかし、疑問に思います。どうしてそこに「直木賞」がひっぱり出されてきたんでしょうか。

 その答えを導き出すためには、さらに2つの要素を組み合わせなければならないようです。

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