井伏鱒二(第6回 昭和12年/1937年下半期受賞) フィクションじゃなく小説っぽくもない。でも、だからこそ直木賞をとれたのかもしれない。
井伏鱒二。『ジョン万次郎漂流記』(昭和12年/1937年11月・河出書房/記録文学叢書)およびユーモア小説で初候補、そのまま受賞。同人誌デビュー作「幽閉」から14年半。39歳。
たいへん不本意なことがあります。「直木賞は正統的な大衆文学に与えられるもの」といった勘違いが、昔から広く深く流布してしまっていることです。
現実はちがいます。ご存じのとおり。直木賞には「大衆文芸」の枠で収めるには違和感のある、数々の作家にも与えられてきました。その筆頭として、まず名前の挙がるのが、井伏鱒二さんです。
「今官一が直木賞を受けた。芥川賞の書き間違いではない。直木賞にはときどき、こういうことがあって、それが面白いのかもしれないが、昭和二十九年(後期)に梅崎春生が戸川幸夫とともに受賞したときも、梅崎春生は芥川賞でないとおかしいのではないかという感じだった。二十五年(後期)の檀一雄のときもそうだった。これは古く昭和十二年(後期)の井伏鱒二の受賞のときから始まるのである。そのときの井伏鱒二は、いまさら芥川賞でもあるまいという作家であった。(引用者中略)いまさら芥川賞でもあるまいという作家に、と言ってこれも違った意味で見当違いだと思われる直木賞を与えるというところに、この直木賞の面白さがあるようだ。」(昭和33年/1958年3月・文藝春秋新社刊 高見順・著『昭和文学盛衰史(一)』「第五章 津軽の作家」より ―初出『文學界』昭和27年/1952年8月号~昭和32年/1957年12月号)
「見当違いだと思われる」の一文にご注目ください。つまり、高見さんの頭のなかには「直木賞とは、こういうものだ(こういう作家に与えられるはずのものだ)」っていう固定観念があり、そこから外れた授賞だった、と指摘しているわけです。
あるいは、佐伯彰一さんもそうです。
「昭和十三年、すでに四十代の井伏が『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を受賞したという出来事が、文壇における評価の曖昧さを端的に集約して見せたといえそうである。(引用者中略)わが国の文壇における純文学、大衆文学という区別の偏狭さ、不確かさは、その後、いろんな形で批判を浴びるようにもなって、無しくずしの形で、しだいにぼやけ、消滅しかけてはきたものの、戦前の昭和十年代には、まだ確固たるものがあった。そこで、すでに「山椒魚」、「鯉」、「屋根の上のサワン」などの個性鮮烈な名作を物し、さらには『川』、また『逃亡記』(直木賞の年に『さざなみ軍記』として完結、刊行された)を書き上げた四十一歳の井伏に対して、直木賞というのは、不穏当というに近く、そぐわなさ、落着きの悪さを感じとらずにいられない。」(平成2年/1990年3月・明治書院刊『井伏鱒二研究』所収 佐伯彰一「井伏鱒二の位置――カタストロフィ執心の意味――」より)
はいはい、そうですか。とうてい会話が噛み合いそうにありませんよ。
「不穏当」って、どういうことですか。「直木賞が与えられる大衆文芸」像を勝手に決め付けないでほしいよなあ。
「純文芸」もそうでしょうけど、「大衆文芸」には、確たる境界・領域が定められているわけじゃありません。とくに昭和10年代は、まだ「大衆文芸」運動が興って、ほんの10年ほどしか経っていない時期です。その枠を広げていきたい、いや、現状のなかでも広げることはできる、と直木賞が努力して既成の概念を壊そうとしていた試みを、あなたたちは無視するのですね?
むろん、井伏さんの直木賞授賞は相当にインパクトがあったと思います。永井龍男さんが回想するように、
「銓衡会席上各委員から大衆文芸賞を(引用者注:井伏鱒二が)受理するか否か危ぶまれていた」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第二章」より)
というのも事実でしょう。井伏さんが快く直木賞を受けてくれるか、文藝春秋社のほうでも気を遣って、受賞を発表する前に佐佐木茂索専務みずからが直接、井伏さんに念押しをしたぐらいです。
「直木賞の授賞の知らせがある前に、そのころ文芸春秋社の専務であつた佐佐木茂索氏から私に速達手紙が来た。「ちよつと話があるから至急来社を願ふ」といふ意味の文面である。さつそく出かけて行くと、「実は内談だが、君の『ジョン万次郎漂流記』に直木賞を贈ることになつた。選者諸君の意見だ。君は貰ふ気があるかね。芥川賞でなくて直木賞だ」と云つた。」(平成9年/1997年9月・筑摩書房刊 井伏鱒二・著『井伏鱒二全集第二十二巻』所収「時計と直木賞」より ―初出『オール讀物』昭和38年/1963年10月号)
井伏さんはともかく、戦前の文士の多くは、本気で純文芸より大衆文芸を下に見ていたらしいですしね。その淀んだイメージに立ち向かわなければならなかった直木賞は、いろいろ苦労しました。
だいたい、アレです。井伏作品は純文芸だ純文芸だとおっしゃいますけど、当時、井伏さんが『オール讀物』にも小説を発表していたこと、ご存じでしょ? 大衆文芸誌のツラをしながら、その実、直木賞と歩調を合わせるがごとく、もっと広い感覚で新たな大衆文芸を生み出そうとしていた『オール讀物』誌。この雑誌にも、佳作を発表していた作家に対して直木賞を贈る、いったい何の文句があるのでしょう。
「第六回直木賞は、(引用者中略)井伏鱒二を推薦候補とし、最近刊行された「ジョン・万次郎漂流記」及び「オール讀物」其他に掲載されたユーモア小説を以て、委員各自の審議を経ることとなった。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年3月号「芥川龍之介賞・直木三十五賞委員会小記」より 太字下線は引用者による)
なので、ワタクシは思うわけです。井伏さんの直木賞授賞は「不穏当」でも何でもありません。直木賞が、それまでの枠組みに固執しようとする人たちの頭上をはるかに超えて、「大衆文芸」っていう言葉さえも無視して、狭い視点にとらわれない自由な文学賞になりうる、ってことを示した大いなる一歩だったと思います。
あ、井伏鱒二の研究をしている滝口明祥さんも、こう書いていました。
「まさしく「大衆文学」と「純文学」の境界が再定位され始めていたこの時期、「大衆文学の新生面」を待望する動きの一環として、井伏の直木賞受賞という出来事はあったのである。(引用者中略)幾人かの選考委員においては『ジヨン万次郎漂流記』という作品が特に授賞に価すると考えられていたわけではなく、むしろ井伏作品全体に共通して見られる「大衆性」に主眼があったことがわかる。授賞対象として『ジヨン万次郎漂流記』だけでなく「其他ユーモア小説」が付け加えられているのも、その辺りに関係があるに違いない。」(『昭和文学研究』62集[平成23年/2011年3月] 滝口明祥「「庶民文学」という成功/陥穽――文学大衆化と井伏鱒二――」より)
ほんと、そう思います。この「枠組みを突破しようとする直木賞」の動きが、70年以上たった現在では、ほとんど影もかたちもなくなっているのが、悲しくもあり、寂しくもありますが。
○
直木賞は頑張りました。でもまあ、その革新的な挑戦は、ほぼ周囲には伝わらなかったようです。ね。「直木賞は権威主義だ」「通俗っぽいものだけ選んでいればいいものを」「直木賞受賞作なんて実は大したことないんだぜ」などなど、言われたい放題、もてあそばれています。けなげなヤツです。
井伏鱒二さんの『ジョン万次郎漂流記』も、ご多聞にもれずです。ある一派からはガンガン馬鹿にされてきました。
その一派のおひとりが、猪瀬直樹さんです。
「『ジョン万次郎漂流記』には重大な問題が隠蔽されていた。井伏はこの作品を、いつもの生活のための雑文書きの延長の仕事として受け止めていた。
「『ジョン万次郎漂流記』を書いたのは、漂民にとくに関心をもっていたわけではない。河出書房が三十冊くらい出す予定の『記録文学叢書』のなかの一冊をやってくれと言うので、えらく生活に困っていたからね。なにか書こうと、行きあたりばったりで百三十枚ちょっと書いたんだ」と、最晩年に回想している。
(引用者中略)
最晩年の井伏の回想は警戒感が薄れかけている。
「河出書房から頼まれたとき、記録から抜き書きしたようなものが記録文学だと思ってね。材料がなにかないかなと思っているとき、散歩にでかけたら阿佐ヶ谷で平野零児にばったり会った。なにかいい材料はないかと話したら、俺のところに木村毅から資料をたくさん持ってきていて、そのなかにジョン万次郎というのが三冊くらいあるから、それをお前に貸してやる、それを使って書けというんだ」」(平成12年/2000年11月・小学館刊 猪瀬直樹・著『ピカレスク―太宰治伝』「三鷹・下連雀へ」より)
『ピカレスク』っていう物語は、構成上、井伏さんを悪人に描かないと成立しません。そのため、ことさら井伏さんを責め立てるような表現が、そこかしこで選択されています。
要は、『ジョン万次郎漂流記』なんて本は、石井研堂の『中浜万次郎』を種本にして、手すさびで書き直しただけの作品だ。それなのに、「井伏鱒二はすぐれた歴史的知識と文章力がある」という誤ったイメージが流布していたせいで、直木賞の選考委員たちが騙されてしまった、みたいな指摘が行なわれています。
ははあ。「小説はオリジナリティが大事だ」と信じている人たちもいますからね。盗作まがいの作品で直木賞をとるなんてモッテのほかだ! と熱弁をふるいたくなる人もいるのでしょう。
でも、猪瀬さんが吠え立てなくても、『ジョン万次郎漂流記』がオリジナリティに乏しい作品だ、なんてことは、みんな知っていることだと思っていましたよ。わざわざ最晩年の回想を待つまでもなく。
「井伏「私の以前書いた「日本漂流民」にしても、今度の「ジョン万次郎漂流記」も実話物で、史実(材料)によつて描いたものだから、厳密にいへば小説ではない。私は格別漂流文学なるものに興味をいだいてゐたといふのでもない。
「ジヨン万」の材料は平野(引用者注:平野零児)君から借りたものだ。平野君の知合の河出書房で風流漂民奇譚といふ叢書を出版するから、書かないかとすゝめられて書下ろしたものである。私は昨年の夏、暑熱とたゝかひながら苦しんで書いた記憶がある。長い材料を百五十枚に短くまとめた。」(「直木賞受賞者 井伏鱒二氏と一問一答」より ―初出『信濃毎日新聞』昭和13年/1938年2月23日)
ちなみに、こんな回想文もあります。
「資料は平野嶺夫(引用者注:零児のこと)が木村毅から借りて私に貸してくれたので、図書館に出かける面倒を省くことが出来た。しかし私は記録文学とは如何なるものであるか定見がない。ただ文献にしたがつて読物を書く立場で書いた。ジョン万次郎は過去の実在の人物である。万次郎の末孫の人も詳しい一代記を書いてゐる。石井研堂氏も中浜万次郎漂流記を書いてゐる。明治時代には市川団十郎が、万次郎物語を歌舞伎座で上演したことが記事に残つてゐる。アメリカやハワイの新聞記事から採つた記録もある。だから、かちかち山や桃太郎の話を書くやうなもので、私は書くとき別に間の悪さを覚えなかつた。」(井伏鱒二「時計・会・材料その他」より ―初出『別冊文藝春秋』43号[昭和29年/1954年12月])
まあ、たしかに井伏さんの回想は、時代時代で少しずつディテールが変わっていくきらいはあります。たとえば、「かちかち山や桃太郎の話を書くようなもの」ってハナシが出てきました。これも、別の随筆では、ちょっとニュアンスが違っています。
「「しかし、これ(引用者注:中浜万次郎の話)はもうちやんとした物語ぢやないか。書きなほすとすれば、和文邦訳か邦文和訳といふことになるね。」
私が決心つきかねてゐると、
「万次郎なんていふのは、明治時代に団十郎が芝居でやつてをるよ。桃太郎の話と同じだもの、誰が書いたつて、幾ら蒸し返したつていいさ。」」(「平野零児のこと」より ―初出『小説新潮』昭和37年/1962年1月号)
と、平野さんが井伏さんを説得する言葉として使われていたりするんですね。
少しずつ言っていることが違う。その、のらりくらりとした感じが「悪人」っぽい、と言えば悪人っぽいんですけど。
○
『ジョン万次郎漂流記』は、井伏さんに言わせれば「小説のつもりではない」作品です。昔、誰かが書いたものを書き直しただけの読み物です。
しかし、だからこそ、「オリジナリティの乏しい史伝」だったからこそ、直木賞を受賞する道が開けたのではないか、とワタクシは思ったりもします。
と言いますのも。第6回(昭和12年/1937年下半期)の選考会において、『ジョン万次郎漂流記』を最初に推薦したのは、大佛次郎さんだったそうです。
なにせ大佛さんです。直木賞選考委員としての大佛さんは、改革派といいますか、型破り待望論者といいますか。無理やりにでも「既成の大衆文芸ではない」作品に、直木賞をとらせようと働いていた人なんです。
たとえば、第22回(昭和24年/1949年下半期)の、大佛さんの選評。
「外側の文学でも傑出したものがあったら直木賞を贈るべきだと考えて来た。新聞雑誌に現れる訪問記事、会見記の類いでも優れたものならいゝのである。」(『文藝讀物』昭和25年/1950年6月号より)
すげえぜ。過去には、こういう直木賞選考委員もいたんだってこと、絶対に忘れたくないよなあ。
『ジョン万次郎漂流記』と直木賞を結びつけた第一の功績者、大佛次郎さんの評は、こういうものでした。
「史実を素朴に貫きながら、終始、人生に対する作家の瞳が行間に輝いてゐるのである。甚だ単純なことのやうだが、実は現在、人の理解してゐる所謂大衆文芸の本流とは背中合せの特徴である。」
相馬正一さんは、大佛さん以外の委員たちの選評を、ずらーっと引用したうえで、
「以上が第六回直木賞受賞作「ジョン万次郎漂流記」に対する選評であるが、いずれも井伏に大衆文芸賞としての直木賞を授与することに幾分の逡巡が感じられる。」(平成23年/2011年3月・津軽書房刊 相馬正一・著『続 井伏鱒二の軌跡 改訂版』「第三章 「ジョン万次郎漂流記」の意図」より)
と感想を述べています。
うーん。ワタクシの目から見ると、大佛さんの選評には、何ほどの逡巡も感じられないけどなあ。もしも「所謂大衆文芸の本流とは背中合せ」の言葉に、井伏さんに大衆文芸の賞を贈ることの逡巡をみているのだとしたら、大佛さんの直木賞観を教えてあげたいですよ。
他の委員は、たしかに「純文芸作家・井伏鱒二」として、井伏さんの諸作を選考したかもしれません。純文芸の要素を大衆文芸に取り込む一策と、この授賞に賛成した人もいそうです。
しかし、大佛さんだけは違う気がするんです。『ジョン万次郎漂流記』が「実話であること」に注目したのではないかなあ。あるいは、猪瀬直樹さんの表現を借りれば「新書の判型に近い百ページほどの小さくて薄い五十銭の安価な本」であったことも、大佛さんの心をくすぐったかもしれません。
大佛さんは、次の第7回(昭和13年/1938年上半期)でも、独特の直木賞観を見せつけます。『グラフィック』誌なんちゅう、写真報道雑誌に載った実話物、松村益二「僕の参戦手帖から」を直木賞に推薦しちゃうのです。ほとんどの人が大衆文芸(あるいは文学作品)とは見做さない領域です。
井伏さんの直木賞受賞は、直木賞が純文芸に手をのばした最初の例でしょう。でも、純文芸と大衆文芸、みたいな小さな二項対立にとどまるものではなく、直木賞が「純文芸」でも「大衆文芸」でもない、とらえどころのない文学賞であると、ワタクシに印象づけてくれる回なんですよね。
ああ。いまの直木賞も、このくらいとらえどころのない賞であってくれたらなあ。……って、くどい。
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