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2011年12月の4件の記事

2011年12月25日 (日)

高村薫(第109回 平成5年/1993年上半期受賞) ほんのささいな言葉をネタに、いい年こいた大人たちが騒げる楽しさ。直木賞のおかげ。いや、ミステリーのおかげ。

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高村薫。『マークスの山』(平成5年/1993年3月・早川書房/ハヤカワ・ミステリワールド)で初候補、そのまま受賞。デビュー作『黄金を抱いて翔べ』から2年半。40歳。

 年末です。ランキングの季節です。

 ミステリー界では昭和63年/1988年スタートの「このミステリーがすごい!」ってのがありまして、うちのブログでも何度か取り上げたことがありました。今日のハナシのまくらも「このミス」です。

 「このミス」と直木賞。腐れ縁です。その縁を結んでくれた超重要人物のひとりが、高村薫さんです。

 高村さんの単行本デビューは平成2年/1990年12月。これを対象期間とするはじめての「このミス」92年版(対象期間は平成2年/1990年11月~平成3年/1991年10月)において、『黄金を抱いて翔べ』(9位)と『神の火』(8位)の2作をベストテンにランクインさせる、っていう快挙をなしとげました。

 この年の同誌覆面座談会で、さっそくチョッカイを出されています。

 ぼくは、世間の評価は高いんですけれども、高村薫の作品がそんなにいいとは思えないんですよね。『神の火』なんかも、みんな口をそろえて褒めちぎってるでしょ。

 僕も同感ですね。ここだけの話ですけど、この人、怖そうなんですよね。あの佐野洋にも意見したっていうし(笑)。

 文章も論理的じゃないし、描写も曖昧だし。重厚というより、単に重いだけなのに。

 明晰な文章ではないですね。いわゆる情念の人なんですよ。

 『黄金を抱いて翔べ』は、もっとスカッと書けば、もっともっと面白くなるのに、もったいない。

 もうひとつ垢抜けないと、はっきり言っていいんじゃないですか。もちろん、すごい作家ではあります、媚びて言いますが(笑)。

 今年読んだなかで、『神の火』がいちばん疲れる本でした。

 うん、だからもう一皮剥けてほしいなという要望はありますね。剥けても、剥けなくても、どうでもいいような人が多いんだから、剥けてほしいというのは、これは非常な好意をもって言っているんですが…、あ、また媚びた(笑)。」(平成4年/1992年1月・JICC出版局刊『このミステリーがすごい!'92年版』「話題の覆面グループの辛口座談会PART2 '91年の作品を叱る!」より)

 なんだか、来たる騒動を予感させるような放言っぷりですねえ。脇の甘いこういう放言が、当時の「このミス」に、ある種のパワーを与えていたのは否めませんけれども。

 翌年。覆面座談会はガラリと態度が変わり、相当な高村推し、にひるがえりました。

 今年は『わが手に拳銃を』と『リヴィエラを撃て』でしょ。宮部みゆきが、十五馬身ぐらい離して逃げていたんだけれども、高村薫が、大外を一気にまくりきって……。牝馬二頭のマッチレースですね。これから、ぼくは高村薫のことは女王様と呼ぶことにします。宮部みゆきは王女様かな(笑)。

 '92年版の座談会で、高村薫はほんとに面白いのか、ということが話題になりましたね。

 去年言ったことも真実なんです。高村薫の実力は認めます。筆力はある。ものすごいと思うけれども、もうちょっとわかりやすく書いてほしいというのはあった。情念の文体には、どこかついていけないところがあったんですよね。(引用者中略)

 たしかに一時間読んだら三十分休憩しなければ読めないけれど、それでも途中で、もうやめようかなという気にはぜんぜんならなかったですね。これだったら大リーグにいっても、四番が打てますよ。

――登場人物一覧と簡単な地図が欲しかったという意見というか、お願いがあるんですが……。

 ささいなことです。書きっぷりが、もう、堂々たるものですからね。

 最初の『黄金を抱いて翔べ』は非常に読みにくかったけれども、だいぶこなれてきてますね。

 そんなこと言うと怒るよ、だって女王様だもん(笑)。今までは高村薫の文体があまり好きではなかったんですが、今回は、文学的香気さえ感じる(笑)。もう跪いて、足をなめちゃうというぐらいですよね。すごいんです、迫力が。」(平成5年/1993年1月・JICC出版局刊『このミステリーがすごい!'93年版』「ノーテンキ単純面白主義座談会」より)

 素直に褒めずに、なんだかんだとチャチャを入れる感じ。ワタクシ、個人的にそういう姿勢、大好きです。

 で、ところが。さらに翌年の覆面座談会では一気に様相が急変します。高村薫に対する怒りで染められてしまうのです。いや、「覆面座談会」が、というよりB=茶木則雄さんが、と言い換えたほうがいいかもしれません。

 茶木さんの怒りの様子を見る前に、別の方のキレ芸を見ておきたいと思います。このミス覆面座談会の仇敵ともいうべき、『産経新聞』の匿名コラム「斜断機」より。(寿)氏の怒りです。

「直木賞贈呈式での、高村薫のスピーチがミステリーファンの間で話題をよんでいる。というより顰蹙(ひんしゅく)を買っている。出席した知人のミステリー評論家が“何だ、あの言いぐさは!”と怒っていたので、どんな発言なのかと新聞を見たら、なるほど、これでは怒るのも無理はない。曰く“(受賞作『マークスの山』を)ミステリーではなく小説として評価されたのが嬉しかった”、曰く“自分の書くものをミステリーとは思っていなかったが、常にミステリーといわれて、すっきりしないものを感じていた。今回初めて小説として読んでいただけたのがいちばん嬉しい”。

 いやあ、傲慢傲慢。まるで自分はミステリーを書いてきたのではない、それをミステリーとして評価する評論家たちには違和感を覚えた、ということでしょうか。

(引用者中略)

 それにしても、高村の発言を読んで驚くのは、文学コンプレックスである。文学として一段低いミステリーの作家から“小説家”に認知されたと思っているらしいが、そんな考えは過去のもの。文学のなかにミステリーがあり、ミステリーの手法を選ぶのは主題の要請だと思っていたけどね。それともそういう風に高村は書いていないのか。

 高村の力量も将来性も認めるが、いまだノーコン気味で未完。もう少し小説を読んで、謙虚になってくださいませ、女王様。」
(『産経新聞』平成5年/1993年9月15日「斜断機 「ミステリーじゃない」傲慢」より 署名:(寿))

 平成5年/1993年7月、高村さんは『マークスの山』で第109回直木賞を受賞しました。8月23日、その贈呈式が行われ、恒例の受賞者スピーチで高村さんは上記のような発言をしたそうです。

 別に目くじら立てて怒るほどの発言じゃないよなあ。……などと思うのは、きっと常識人の感覚です。一部のミステリーファンは、それとはかけ離れた感覚を持っているらしいのです。驚くべきことに、こんな些末なスピーチがちょっとした騒ぎに発展したようなのですから。

奥泉(引用者注:奥泉光 あの方(引用者注:高村薫)は、すごく野蛮なところがありますよね、十九世紀的な小説をそのまま打ち出すというか、そういうやり方ですよね。すごく野蛮だとは思うけども、それは一つの力わざですよ。質もすごいし、やはり量もすごい。

(引用者中略)

法月(引用者注:法月綸太郎) 高村さんの場合っていうのも、直木賞を受賞された時に、「私はミステリーを書いているのではない」という発言があって、ミステリー畑ではあれはかなり問題になったんですよ。結局、それで何かいろいろ議論百出したにもかかわらず、あんんまり実のない議論がほとんどだったんですが、いずれにせよ、そういう形で何かものすごくはっきり出てくる場所があったんだなという気はしますね。」(『すばる』平成7年/1995年7月号 奥泉光、法月綸太郎「対談 「探偵小説」として読む中上文学」より)

 っていうことで「あんまり実のない議論」の一部を、いまからご紹介します。

 お待たせしました。覆面座談会のBこと茶木則雄さんです。たぶん、コレ笑うところです。牛乳を飲みながら読むと、スクリーンが汚れるでしょうからご注意ください。

 翻訳ミステリーでも何でも、今や高村女王様がお書きになるようなものこそ、ある意味でミステリーの王道じゃないですか。そういう作品を、まさに僕らはミステリーと呼んでいるわけで。それを書いている人が、こんな旧態依然のミステリー観しか持ってないとすればさ、あまりに不勉強で、悲しいよ(怒)。

(引用者中略)

 単に自分の書きたい小説を書いてきただけのことで、それがミステリー・サイドだけからしか褒められないのが不満だったんでしょ。ミステリー・サイドから評価されたこと自体は嬉しいんだけど、それがすべてではイヤだと。

(引用者中略)

 「斜断機」はミステリー・ファンといわれる人たち一般の、心情を代弁してくれたと言えるんじゃないかな。とにかく僕は、ミステリーに愛のない作家っていうのは、あんまり好きじゃないんだよね。

 高村薫の論調は、記事で読む限り、ミステリーより小説が一段上というのが前提になっているから、ミステリー・ファンとしては、がっかりしたというか、バカにされた感じも確かにありますね。

(引用者中略)

 いいじゃないですか。ミステリー・ファンを裏切ったことになるのかどうか、今後の作品で答えてもらえれば。どうせ読むんでしょ? 次の出たら。

 読まないよ、オレ。好きな女から裏切られると、ダメなんですよ、可愛さあまって(笑)。原リョウが直木賞取ったときにはね、挨拶で、直木賞をもらってもちっとも嬉しくないって言ったんですよ。それより自分には一万三千人の読者がいればいい、そういう、ほんとにミステリーが好きな読者に読んでもらいたかっただけだって言って、居あわせた関係者たちを感激させたそうですよ。それに比べて今度の高村薫のは可愛くないなあ、ほんと。」(平成5年/1993年12月・宝島社刊『このミステリーがすごい!'94年版』「ついに最終回か!?緊迫の匿名座談会 暴言かましてすみません」より)

 「お前こそ何サマだ」感がぷんぷん匂ってくる、この感じ。いいなあ。「ミステリー・ファンといわれる人たち一般の心情を代弁」って、ほんとうにミステリーファンって、そんなことで怒っちゃうんですか? 気持ちわるいなあ。

 直木賞が好きで好きでたまらなくて、直木賞のことばっかり取り上げる人間も、よほど気持ちわるい生き物だと思ってきましたけども。真正の「ファン」ってやつの感覚は、狂いかたが尋常じゃありませんよ。ワタクシなど足元にも及びません。お見それいたしました。

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2011年12月18日 (日)

安藤鶴夫(第50回 昭和38年/1963年下半期受賞) 仲のよくなかった三人の男。一人は受賞できて二人はとれなかったけど。みんな直木賞史に名を残しました。

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安藤鶴夫。『巷談本牧亭』(昭和38年/1963年7月・桃源社刊)で初候補、そのまま受賞。作家デビュー作「佳楽」から17年。55歳。

 みなさん、あれですか。成り上がり者、お嫌いですか。文学賞をとった途端に、周囲に対する態度を変えて、偉ぶるような人間はお嫌いですか。

 そんな人間のことを克明に描いているのが須貝正義さん『私説安藤鶴夫伝』(平成6年/1994年5月・論創社刊)の「第15章 直木賞作家」です。

 昭和39年/1964年2月27日、安藤鶴夫さんの直木賞受賞を祝う会が、東京ヒルトン・ホテルで盛大に開かれました。出席した人たちのなかから何人かの証言を、須貝さんがまとめてくれています。

「槌田満文談。

(引用者中略)それが、べら棒に盛大な、受付が長蛇の列で、誰かがいったけど、告別式だって。(引用者中略)世話人の顔触れみても、安藤さん、あの頃からはっきり河岸を変える気持ちがあったんじゃないか。直木賞あたりから、昔みたいな謙虚さはなくなって、はっきり変ったと僕には思えるんだが。(引用者中略)

 大木豊談。

『舟木一夫や木場の材木屋さんなんかが出入りするようになってから、昔の安藤鶴夫はどっかへ行っちゃったな。それはなぜかっていうと、名誉欲ですね。なんか褒美を貰いたかった人なんだな。あんなに貰いたくねぇっていってた人が――。ヒルトンで、須貝さん酔っ払っていったこと、あれは、須貝さんばかしじゃなくて、僕らもそう思ってたのよ。(引用者中略)

 土岐雄三談。

(引用者中略)ま、あんな莫迦げた騒ぎをするってのは、誰の趣味なのか。金屏風の前なんて。口の悪いのは、入口は葬式で、中は結婚式だって。僕は、なぜそんなに奴が飛び上がるほど嬉しいのか、判んなかったんですよ。そしたら、作家と書かれたことが凄く嬉しいんだってね。まあ、オリジナルなものを出すのが作家だとすれば、そういうことかも知れないけど、あの祝賀会の莫迦げた盛大さは、本当の江戸ッ子なら、とてもじゃないけど、こっぱずかしくて出来ないね。』

 榎本滋民談。

(引用者中略)要するに、地方議員が国会議員になって、これから国会議員としての世界を持たなくちゃいけないのに、地方議員時代のわれわれとは、違和感があるじゃない? それを、いちばん濃厚に持ってたのが、あなた(引用者注:須貝)なんだな。つまり、大台に乗ったことは結構だけど、大台に乗ってすうっと向こうへ行っちゃった。それで、乗っちゃったことを怒ろうとすると、あいつは僻んでんだてことになるから、プライドにかけても普段は念頭にのぼせまいとする。それが大酔すると、ばァッ噴き出したんだろうと、あの当時、了解がいったわけ。(引用者中略)

 以上の談話は、安藤鶴夫歿後数年経ってからのものだから、語る人の立場も、従って言葉のニュアンスも、当時とは大分違っていることを考えなければならないだろう。」(『私説安藤鶴夫伝』より)

 でも、まあ、みなさん嫌いなんですね。直木賞をとって豹変しちゃった人を見るのは。

 にしても、「本当の江戸ッ子」っていう言いぐさに、ぐふっと笑ってしまいました。ずいぶん面白い言い方をする人がいるものです。……だって、直木賞が権威主義というなら、江戸っ子はこういうものだ、と決めつける姿勢も、同じくらい、くだらなくて馬鹿バカしい分類行為だと思いますもん。江戸っ子江戸っ子とデカい口たたくやつほど無粋になっていく、つうハナシで。

 ハナシが逸れました。ともかくも、安藤さんは若いころから小説家を志望してきた方でした。演芸評論なんちゅう、権威や高尚芸術からほど遠いと見られていた分野で、ぐいぐいのし上がっていったわけですが、その一方で、小説家になるための鍛錬や努力や、ひと付き合いを怠らなかった、その帰結が直木賞ですから。本来、喜んであげるにふさわしい受賞だったと思います。

 安藤さんは『巷談本牧亭』の前から、芸人や芸事かいわいのおハナシをよく書いていました。「小説のようであり、読み物のようなもの」と受け取られていたようです。と言うと安藤さん、お得意の不機嫌ヅラになるでしょうけども。

 現に昭和38年/1963年下半期も、文春社員たちが行う下読み・予選候補選出の段階では、『巷談本牧亭』はその対象に含まれていなかったのだそうです。

 しかし、ひとりこの作に目をつけてくれた恩人がいました。文藝春秋新社、車谷弘さんです。

「車谷弘談。

『直木賞の時、社の何人かが下読みするんだけど、予選委員会に“巷談本牧亭”が入ってなかった。僕は、安藤君から貰って読んで、長編小説書ける才能あるんで驚いたんだ。構想ちゃんと出来てるんで。「これ、いいから入れといたら」って担当の尾関君に渡した。』」(前掲『私説安藤鶴夫伝』より)

 さすが慧眼、車谷さんだ。今東光さん復活の折りにも一枚噛んでいた人ですが、やはりこういう人物が、直木賞・芥川賞の歴史を動かしてきたんですねえ。

 そもそもです。どうして車谷さんのもとに安藤さんから『巷談本牧亭』が送られてきていたのでしょうか。ひもといてみますと、これもまた車谷さんの慧眼のなせるわざだったんですね。二人がはじめて出会ったのは、さかのぼること17年前。まだ車谷さんが『オール讀物』の編集長をしていて、安藤さんが東京新聞の演芸記者だったころでした。

 安藤さんの文章を読んで、この人なら小説が書ける!と見込んで、車谷さんのほうから訪ねていったのだとか何とか。

「いきなり、だしぬけに、

「どうです?」

 と私は云った。

「小説を書いてみませんか」

「小説?」

 安藤鶴夫は眼をパチパチさせて、

「小説を私にですか」

「えゝ、何でも結構です。四、五十枚の短篇小説を書いて下さい」

 東京新聞社に、演芸記者の安藤鶴夫を訪ねて、初対面の私がこうきり出したものだから、彼は鳩が豆鉄砲をくらったように、眼をまるくして、びっくりしていた。」(昭和51年/1976年10月・角川書店刊 車谷弘・著『わが俳句交遊記』「桑名の宿」より)

 『巷談本牧亭』に至るずーっと前から、車谷さんの慧眼は光っていたわけですね。

 こうして『オール讀物』昭和22年/1947年1月号に安藤さんの「佳楽」が載りました。

 まもなく車谷さんのもとに、川口松太郎さんから速達が届きます。安藤鶴夫のような人を、どうか大切に育ててやってほしい、という「佳楽」を読んだ感想でした。車谷さんは早速、そのことを安藤さんに伝えます。きっと喜ぶだろうと思ったからです。

 しかし、安藤さんはそれ以来、車谷さんと会っても小説のハナシを避けるようになってしまったのでした。

 ああ。安藤さんがそのころ、小説に色気を出して、もっと『オール讀物』誌上に顔を出していたら。ずっと早くに直木賞が取り沙汰されたりしていたかもしれません。小沢昭一さんや大西信行さんの危惧した事態が訪れていたかもしれません。

 川口松太郎さんといえば、劇壇の先輩であり流行作家、また直木賞選考委員を務めることになる人です。川口さんの激励を、なぜ安藤さんはそのまま受け取らなかったのでしょうか。昭和27年/1952年、新しい家を建てるとき、住宅公庫の申し込みの保証人にまでなってくれた恩義ある川口さんと、安藤さんのあいだに何があったのでしょうか。

 ……っていうことは、車谷さんの「桑名の宿」後段で明らかにされます。

 「佳楽」を発表したとき、安藤さんのもとにも川口さんから手紙が来たのだそうです。いわく、君の小説は久保田万太郎の模倣だ、君は君自身の小説を書かなければいけない、と。それで安藤さんは、小説を書こうとするとどうしても万太郎の影響から抜け出せないことに苦み、車谷編集長と会うのが辛くなってしまったのだとか。

 川口さんは、第50回(昭和38年/1963年下半期)の直木賞でも、当然選考委員をしていました。目をかけ、小説家として期待していた安藤さんの小説、そりゃあ人間関係からしてイの一番に推したんだろう。……と思うとさにあらず。出ました。自分に親しい候補者ほど厳しく採点する、っていう川口さんのクセがこの回でも発揮されまして、それほど『巷談本牧亭』は推さなかったみたいです。

 そういえば、川口さんも東京生まれの東京育ちな人でした。表立っては褒めないがウラで助力を惜しまない、そんな川口さんみたいなやり口を、土岐雄三さんならば、本当の江戸っ子と呼ぶんですかねえ。

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2011年12月11日 (日)

車谷長吉(第119回 平成10年/1998年上半期受賞) 文学賞への執念はからだに沁みついているので、文学賞のことを頭で考える必要なし。

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車谷長吉。『赤目四十八瀧心中未遂』(平成10年/1998年1月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。『新潮』掲載「なんまんだあ絵」から26年。53歳。

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2011年12月 4日 (日)

今東光(第36回 昭和31年/1956年下半期受賞) わざわざ直木賞の受賞など待たずとも、不死鳥は何度でもよみがえる。

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今東光。「お吟さま」(『淡交』昭和31年/1956年1月号~12月号)で初候補、そのまま受賞。処女創作集『痩せた花嫁』から31年。58歳。

 今東光さんの受賞は、そもそもが奇妙でした。少し調べると、奇妙につぐ奇妙のオンパレードで、もう頭が痛いです。

 さすが直木賞だ、常識では計れない奥深さ(底なしぶり?)をもっているぜ、といいますか。東光さんその人が、奇妙な人物だっただけなのかもしれませんけど。

 東光さんが直木賞を受賞したのは昭和32年/1957年1月。このことを紹介するとき、よく出てくる言葉があります。「奇跡のカムバック」ってやつです。

「一九三〇年東京浅草寺伝法院で得度し、天台宗延暦寺派の僧侶となって、一九三四年まで比叡山に入った。それより文壇から離れたが、一九五〇年に文壇との関係を復活させた。直木賞受賞は“奇跡のカムバック”といわれ、以後精力的な創作活動を続け、(引用者後略)(平成2年/1990年3月・教育社刊『芥川・直木賞受賞者総覧』「今東光」の項より ―編集委員会代表:溝川徳二)

 こういう紹介文にはよくありがちですが、奇跡のカムバックと言っていたのが「誰だったか」が書いてありません。残念です。

 もし、言った人間を特定できるのであれば、ワタクシはその人間に尋ねてみたい。文壇へのカムバックと言うけど、そこでいう「文壇」とは何を示しているのですか、と。

 そういう曖昧な定義で思いつきで、20年ぶりのカムバック、とか言う人がいるから、勘違いする人が出てくるのです。ワタクシもてっきり、今東光って人は昭和5年/1930年に仏門に入ってから、「お吟さま」を書くまで、ほとんど小説を発表していなかったと勘違いしてしまいましたよ。全然ちがうじゃないですか。

 『慧相 esou』っていう研究誌があります。長いこと今東光研究をしている漢幸雄さんと矢野隆司さん、お二人がつくった同人誌です。今東光に関する正確な書誌・年譜の制作をめざしながら、東光のあれこれを日々研究する二人の熱意と入れ込み方に圧倒されてしまいます。

 同人のひとり、矢野隆司さんは、『大阪近代文学事典』(平成17年/2005年5月・和泉書院刊)にある記述の誤りをバッタバッタと指摘しながら、直木賞受賞前のことをこう書きました。

「東光は、『事典』によると「これから〈昭和九年〉以後約二十年余りは(中略)数編の文学作品の発表はあったが、文壇からは遠ざかることになる」とされている。文壇から遠ざかったかどうかは別として、筆者および今東光研究家・漢幸雄の調査では一九三五(昭和一〇)年から一九五五(昭和三〇)年までの間に東光が発表した小説、随筆、評論はあわせて二五一篇(連載物は一篇と計算。対・鼎談七篇は除外)を数えている。」(『日本近代文学』74集[平成18年/2006年5月] 矢野隆司「研究ノート 今東光研究補遺」より)

 とくに戦後、出版界がにわかに賑わった昭和20年代前半には、かなり旺盛な創作活動をしていたように見えます。「文壇から遠ざかっていた」と表現するのも憚られるくらいです。

 ほら、『慧相』同人のもうおひとり、漢幸雄さんの調査結果を見てみてください。

「この時期(引用者注:昭和21年/1946年~昭和25年/1950年ごろ)の東光はそれでも小説を書き続けている。『日本文庫』に「悪童」を連載(昭和23[一九四八]年6月~、連載11回)、その原稿料でようやく一息つくことができたときよ夫人は述懐している。他にも創刊され続ける雑誌から入る原稿依頼に応えて、時代小説を中心に作品を発表し続けた。この時期の小説作品は、昭和21[一九四六]年が2作品、昭和22[一九四七]年が1作品、昭和23[一九四八]年が9作品、昭和24[一九四九]年が19作品《未確認ながら小説と思われるタイトルが他に11作品ある》、昭和25[一九五〇]年が10作品と、新進作家として書き続けていた時期に匹敵する作品数を生み出している。」(『慧相 esou』1巻1号[平成22年/2010年9月] 漢幸雄「今東光作品の系譜 その創作活動の軌跡〈連載第一回〉」より)

 何なんですか。全然、筆折ってないじゃないですか。

 いや、どうせそのころ、東光が書いていたのはイヤらしいカストリ雑誌ばかりで、そんなもの「文壇」とは呼べないのさ、ってことかもしれません。かの夏目漱石賞でおなじみ『小説と読物』までカストリ扱いされるのは、納得できませんが、まあいいでしょう。

 ともかく、今東光さんは長く文壇から離れていた、とおっしゃる。いったい、その「文壇」って何を指しているのだ、とイライラしてくるのです。

 たとえば昭和23年/1948年創刊の『歴史小説』って雑誌があります。東光さんはこの雑誌にも何篇か小説を書いていて、縁浅からぬ人物です。この雑誌のバックには「歴史文学会」っていう組織があるらしいんですが、その会の発起人は加藤武雄、邦枝完二、藤森成吉、中村白葉、木村毅、などなど。顧問には谷崎潤一郎を筆頭に、佐藤春夫、志賀直哉、武者小路実篤、折口信夫など、名前だけ借りたんだなってことがバレバレのお歴々を並べていまして、常任幹事5名のうちの一人が、そう、今東光さんなんです。

 文壇から離れているはずの人が、文壇人の頭数そろえたみたいな、こんな会の常任幹事、っていったい何なんですか。奇妙すぎて、ほんと頭が痛いです。

 少なくとも、昭和32年/1957年の直木賞受賞をもって「カムバック」と表現するのは、ずいぶん無理があるよなあ、と思います。ワタクシはやや非常識なので、昭和20年代前半の大衆雑誌にバリバリ書き出した段階が、カムバックじゃないの、と認定したいのですが、常識的な線でいえば、昭和28年/1953年『文藝春秋』2月号の「役僧」が、文壇カムバック作でしょう。

 常識的な雑誌(?)『週刊サンケイ』は、その見立てを採用しています。東光さん直木賞受賞から数か月後の「略歴」です。

「三十三歳で出家、戦後文芸春秋から「役僧」でカムバック「お吟さま」で第三十六回直木賞受賞」(『週刊サンケイ』昭和32年/1957年7月「阿部真之助対談 昨日・今日・明日」より)

 文壇から離れていた人がいきなり、悪縁ふかき『文藝春秋』誌で復活、っていうのも何だか不思議なカムバックではありますけども。

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