高村薫(第109回 平成5年/1993年上半期受賞) ほんのささいな言葉をネタに、いい年こいた大人たちが騒げる楽しさ。直木賞のおかげ。いや、ミステリーのおかげ。
高村薫。『マークスの山』(平成5年/1993年3月・早川書房/ハヤカワ・ミステリワールド)で初候補、そのまま受賞。デビュー作『黄金を抱いて翔べ』から2年半。40歳。
年末です。ランキングの季節です。
ミステリー界では昭和63年/1988年スタートの「このミステリーがすごい!」ってのがありまして、うちのブログでも何度か取り上げたことがありました。今日のハナシのまくらも「このミス」です。
「このミス」と直木賞。腐れ縁です。その縁を結んでくれた超重要人物のひとりが、高村薫さんです。
高村さんの単行本デビューは平成2年/1990年12月。これを対象期間とするはじめての「このミス」92年版(対象期間は平成2年/1990年11月~平成3年/1991年10月)において、『黄金を抱いて翔べ』(9位)と『神の火』(8位)の2作をベストテンにランクインさせる、っていう快挙をなしとげました。
この年の同誌覆面座談会で、さっそくチョッカイを出されています。
「A ぼくは、世間の評価は高いんですけれども、高村薫の作品がそんなにいいとは思えないんですよね。『神の火』なんかも、みんな口をそろえて褒めちぎってるでしょ。
B 僕も同感ですね。ここだけの話ですけど、この人、怖そうなんですよね。あの佐野洋にも意見したっていうし(笑)。
A 文章も論理的じゃないし、描写も曖昧だし。重厚というより、単に重いだけなのに。
D 明晰な文章ではないですね。いわゆる情念の人なんですよ。
C 『黄金を抱いて翔べ』は、もっとスカッと書けば、もっともっと面白くなるのに、もったいない。
D もうひとつ垢抜けないと、はっきり言っていいんじゃないですか。もちろん、すごい作家ではあります、媚びて言いますが(笑)。
C 今年読んだなかで、『神の火』がいちばん疲れる本でした。
D うん、だからもう一皮剥けてほしいなという要望はありますね。剥けても、剥けなくても、どうでもいいような人が多いんだから、剥けてほしいというのは、これは非常な好意をもって言っているんですが…、あ、また媚びた(笑)。」(平成4年/1992年1月・JICC出版局刊『このミステリーがすごい!'92年版』「話題の覆面グループの辛口座談会PART2 '91年の作品を叱る!」より)
なんだか、来たる騒動を予感させるような放言っぷりですねえ。脇の甘いこういう放言が、当時の「このミス」に、ある種のパワーを与えていたのは否めませんけれども。
翌年。覆面座談会はガラリと態度が変わり、相当な高村推し、にひるがえりました。
「B 今年は『わが手に拳銃を』と『リヴィエラを撃て』でしょ。宮部みゆきが、十五馬身ぐらい離して逃げていたんだけれども、高村薫が、大外を一気にまくりきって……。牝馬二頭のマッチレースですね。これから、ぼくは高村薫のことは女王様と呼ぶことにします。宮部みゆきは王女様かな(笑)。
D '92年版の座談会で、高村薫はほんとに面白いのか、ということが話題になりましたね。
B 去年言ったことも真実なんです。高村薫の実力は認めます。筆力はある。ものすごいと思うけれども、もうちょっとわかりやすく書いてほしいというのはあった。情念の文体には、どこかついていけないところがあったんですよね。(引用者中略)
B たしかに一時間読んだら三十分休憩しなければ読めないけれど、それでも途中で、もうやめようかなという気にはぜんぜんならなかったですね。これだったら大リーグにいっても、四番が打てますよ。
――登場人物一覧と簡単な地図が欲しかったという意見というか、お願いがあるんですが……。
A ささいなことです。書きっぷりが、もう、堂々たるものですからね。
C 最初の『黄金を抱いて翔べ』は非常に読みにくかったけれども、だいぶこなれてきてますね。
B そんなこと言うと怒るよ、だって女王様だもん(笑)。今までは高村薫の文体があまり好きではなかったんですが、今回は、文学的香気さえ感じる(笑)。もう跪いて、足をなめちゃうというぐらいですよね。すごいんです、迫力が。」(平成5年/1993年1月・JICC出版局刊『このミステリーがすごい!'93年版』「ノーテンキ単純面白主義座談会」より)
素直に褒めずに、なんだかんだとチャチャを入れる感じ。ワタクシ、個人的にそういう姿勢、大好きです。
で、ところが。さらに翌年の覆面座談会では一気に様相が急変します。高村薫に対する怒りで染められてしまうのです。いや、「覆面座談会」が、というよりB=茶木則雄さんが、と言い換えたほうがいいかもしれません。
茶木さんの怒りの様子を見る前に、別の方のキレ芸を見ておきたいと思います。このミス覆面座談会の仇敵ともいうべき、『産経新聞』の匿名コラム「斜断機」より。(寿)氏の怒りです。
「直木賞贈呈式での、高村薫のスピーチがミステリーファンの間で話題をよんでいる。というより顰蹙(ひんしゅく)を買っている。出席した知人のミステリー評論家が“何だ、あの言いぐさは!”と怒っていたので、どんな発言なのかと新聞を見たら、なるほど、これでは怒るのも無理はない。曰く“(受賞作『マークスの山』を)ミステリーではなく小説として評価されたのが嬉しかった”、曰く“自分の書くものをミステリーとは思っていなかったが、常にミステリーといわれて、すっきりしないものを感じていた。今回初めて小説として読んでいただけたのがいちばん嬉しい”。
いやあ、傲慢傲慢。まるで自分はミステリーを書いてきたのではない、それをミステリーとして評価する評論家たちには違和感を覚えた、ということでしょうか。
(引用者中略)それにしても、高村の発言を読んで驚くのは、文学コンプレックスである。文学として一段低いミステリーの作家から“小説家”に認知されたと思っているらしいが、そんな考えは過去のもの。文学のなかにミステリーがあり、ミステリーの手法を選ぶのは主題の要請だと思っていたけどね。それともそういう風に高村は書いていないのか。
高村の力量も将来性も認めるが、いまだノーコン気味で未完。もう少し小説を読んで、謙虚になってくださいませ、女王様。」(『産経新聞』平成5年/1993年9月15日「斜断機 「ミステリーじゃない」傲慢」より 署名:(寿))
平成5年/1993年7月、高村さんは『マークスの山』で第109回直木賞を受賞しました。8月23日、その贈呈式が行われ、恒例の受賞者スピーチで高村さんは上記のような発言をしたそうです。
別に目くじら立てて怒るほどの発言じゃないよなあ。……などと思うのは、きっと常識人の感覚です。一部のミステリーファンは、それとはかけ離れた感覚を持っているらしいのです。驚くべきことに、こんな些末なスピーチがちょっとした騒ぎに発展したようなのですから。
「奥泉(引用者注:奥泉光) あの方(引用者注:高村薫)は、すごく野蛮なところがありますよね、十九世紀的な小説をそのまま打ち出すというか、そういうやり方ですよね。すごく野蛮だとは思うけども、それは一つの力わざですよ。質もすごいし、やはり量もすごい。
(引用者中略)
法月(引用者注:法月綸太郎) 高村さんの場合っていうのも、直木賞を受賞された時に、「私はミステリーを書いているのではない」という発言があって、ミステリー畑ではあれはかなり問題になったんですよ。結局、それで何かいろいろ議論百出したにもかかわらず、あんんまり実のない議論がほとんどだったんですが、いずれにせよ、そういう形で何かものすごくはっきり出てくる場所があったんだなという気はしますね。」(『すばる』平成7年/1995年7月号 奥泉光、法月綸太郎「対談 「探偵小説」として読む中上文学」より)
っていうことで「あんまり実のない議論」の一部を、いまからご紹介します。
お待たせしました。覆面座談会のBこと茶木則雄さんです。たぶん、コレ笑うところです。牛乳を飲みながら読むと、スクリーンが汚れるでしょうからご注意ください。
「B 翻訳ミステリーでも何でも、今や高村女王様がお書きになるようなものこそ、ある意味でミステリーの王道じゃないですか。そういう作品を、まさに僕らはミステリーと呼んでいるわけで。それを書いている人が、こんな旧態依然のミステリー観しか持ってないとすればさ、あまりに不勉強で、悲しいよ(怒)。
(引用者中略)
A 単に自分の書きたい小説を書いてきただけのことで、それがミステリー・サイドだけからしか褒められないのが不満だったんでしょ。ミステリー・サイドから評価されたこと自体は嬉しいんだけど、それがすべてではイヤだと。
(引用者中略)
B 「斜断機」はミステリー・ファンといわれる人たち一般の、心情を代弁してくれたと言えるんじゃないかな。とにかく僕は、ミステリーに愛のない作家っていうのは、あんまり好きじゃないんだよね。
C 高村薫の論調は、記事で読む限り、ミステリーより小説が一段上というのが前提になっているから、ミステリー・ファンとしては、がっかりしたというか、バカにされた感じも確かにありますね。
(引用者中略)
A いいじゃないですか。ミステリー・ファンを裏切ったことになるのかどうか、今後の作品で答えてもらえれば。どうせ読むんでしょ? 次の出たら。
B 読まないよ、オレ。好きな女から裏切られると、ダメなんですよ、可愛さあまって(笑)。原リョウが直木賞取ったときにはね、挨拶で、直木賞をもらってもちっとも嬉しくないって言ったんですよ。それより自分には一万三千人の読者がいればいい、そういう、ほんとにミステリーが好きな読者に読んでもらいたかっただけだって言って、居あわせた関係者たちを感激させたそうですよ。それに比べて今度の高村薫のは可愛くないなあ、ほんと。」(平成5年/1993年12月・宝島社刊『このミステリーがすごい!'94年版』「ついに最終回か!?緊迫の匿名座談会 暴言かましてすみません」より)
「お前こそ何サマだ」感がぷんぷん匂ってくる、この感じ。いいなあ。「ミステリー・ファンといわれる人たち一般の心情を代弁」って、ほんとうにミステリーファンって、そんなことで怒っちゃうんですか? 気持ちわるいなあ。
直木賞が好きで好きでたまらなくて、直木賞のことばっかり取り上げる人間も、よほど気持ちわるい生き物だと思ってきましたけども。真正の「ファン」ってやつの感覚は、狂いかたが尋常じゃありませんよ。ワタクシなど足元にも及びません。お見それいたしました。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント