三好京三。『子育てごっこ』(昭和51年/1976年11月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「聖職」でのデビューから18年。45歳。
今日のエントリーは長くなりそうです。心してかかります。
なにせ、直木賞を代表する作家であり、受賞作なのですよ。さまざまな観点において。すでに没後4年もたってしまいましたが、遅ればせながら取り上げさせてもらいます。直木賞オタク冥利に尽きます。
さまざまな観点、と言いました。三好京三さんと受賞作『子育てごっこ』。直木賞にまつわる数多くのテーマが、凝縮されて詰まっています。
純文学と大衆文学との区別。純文学への憧れ。東京と地方との温度差。権威欲。名誉欲。週刊誌を中心とした、あることないことのゴシップ。そこから生まれた印象が独り歩きしての、文学とは何の関係もない批判や批評の雨あられ。……
とくにゴシップについては、直木賞界広しといえども京三関連の右に出るものはいない、っていうぐらいで。いやあ強烈でした。いまだ京三さんに対する悪い印象は、根づよいものがあります。血のつながっていない娘に手をつけたエロ爺い。ゴシップを境に文壇から脱落した哀れな一発屋。教育評論家として偉そうな口を叩いておきながら一皮むけば権威主義の俗物。などなど。
そのほとんどが、20数年前のある一時期、ワイドショーと週刊誌がまきちらしたイメージから来ています。ゴシップ、楽しいですよね。偏った報道、真偽不明なハナシだけを信じて、一人の人間を悪しざまに罵倒する。心おどりますよね。
わかります。わかるんですが、ワタクシはそれだけでは満足できません。直木賞に関することを、狭くて一方的な視点で終わらせるのはもったいない。もっと数多くの資料から眺めてみたいんです。
ってことでまとめてみました。三好京三さんの人生を変えた小説『子育てごっこ』と、そのモデル、千尋さんのことを。
一連のハナシは37年前の出来事から始まります。三好京三こと本名・佐々木久雄さんの勤める岩手県の分校に、きだみのるとその娘が訪れた日からです。
■昭和49年/1974年 【京三(43歳)・千尋(11歳)】
・6月14日 きだみのる(79歳)と千尋が岩手県衣川小学校大森分校を訪れる。
――京三、千尋に授業を受けさせ、児童として編入させる準備をする。
――昭和50年/1975年5月まで一緒に生活する。
「わたしは言ってみた。
「ミミさん(引用者注:千尋のこと)を、この分校に留学させませんか」
このとき、入学といわず、留学と言ったのは、フランス好みのきだみのるへの迎合である。
「そうしようか」
きだみのるは、思いがけずこだわりなくこたえた。(引用者中略)
京子は教材室に蒲団を敷いてきだみのるとミミの寝室とした。きだみのるがその部屋に立ったあと、それまで漫画本を読んでいたミミは、
「ね、留学の話、ほんとうなの」
と訊きながら、わたしの首に手を巻いた。
「ほんとうさ」
「ね、あたし、入ってあげてもいい」
「何?」
「田舎の分校だけど、入ってあげてもいいわ」
わたしは毒気を抜かれ、ミミの腕をほどきながら、
「おじいちゃん(引用者注:きだみのるのこと)次第だよ」
とこたえた。」(平成13年/2001年7月・本の森刊 三好京三・著『分校ものがたり――山の子どもたちと14年』「十七、学区への移住者たち」より)
・7月 千尋、正式に大森分校児童(小学5年生)となる。
■昭和50年/1975年 【京三(44歳)・千尋(12歳)】
・3月20日 京三、きだみのるをモデルにした小説「兎」(〈森笙太〉名義)を第3回小説新潮新人賞に応募。最終候補に残るが落選。
――応募総数は、「小説新潮サロン」昭和49年/1974年1月号~12月号に入選および佳作となり、新人賞応募資格を得た人たちから寄せられた22篇。選考委員は藤原審爾、源氏鶏太、曾野綾子の3名。
「山の分校の教師をしていたそのようなわたしのところに、放浪作家に伴われた一一歳の少女がやってきた。(引用者中略)翌年、この放浪作家をモデルにした小説を書き、ある雑誌の懸賞に応募した。それが最終候補に残り、わたしはやっと作家になれそうであった。
しかし落選である。」(『悠』平成12年/2000年9月号 三好京三「娘・師匠との出会い」より)
・5月 千尋、東京の実母に引き取られる。
・6月 京三、懸賞応募のために小説「子育てごっこ」を書き上げる。
「(引用者注:「兎」について『小説新潮』に)各審査員の作品評が掲載されている。藤原審爾さん、源氏鶏太さん、曾野綾子さんのものである。中で曾野さんの評に衝撃を受けた。(引用者中略)
「小説とはこのように芝居がかったものだったでしょうか」
というものだ。これを読み、恥ずかしくてたまらなかった。小説を面白く仕立てようとするあまり、リアリティーに欠ける筋立てを作り続けた、そのあたりのところがすっかり見透かされている。(引用者中略)
――よし、芝居がからずに、ありのままを書こう――
題材はわが生活、そしてきだみのる親子である。私小説じみたものになるから、これは中間小説雑誌ではなくて、純文学雑誌向きだった。それであらためて「文学界」や「群像」などを読み、純文学の作風に触れた。
そして書き始めたのが小説「子育てごっこ」である。」(平成15年/2003年9月・洋々社刊 三好京三・著『なにがなんでも作家になりたい!』「18「子育てごっこ」執筆」より)
・7月25日 きだみのる、胆道結石と老衰により東京にて死去(80歳)。
・8月 千尋、夏休みを利用して京三夫婦の家で生活。
・10月15日 京三、小説「子育てごっこ」により第41回文學界新人賞を受賞、『文學界』12月号に掲載。
――応募総数1,274篇。選考委員は石原慎太郎、開高健、坂上弘、丸山健二、森内俊雄の5名。
「書きあげて不安であった。自虐的に血を流しすぎたような、あるいはモデルを告発しすぎたような気がした。教師として不適格な自分がもろにあらわれてしまった、とも思った。」(『週刊文春』昭和54年/1979年10月4日号「マイ・ベストワン」 三好京三「「子育てごっこ」―《わが記念碑》」より)
・10月末 京三、千尋の実母から千尋を引き取ってほしいと依頼されるが断る。
・12月末 千尋、一人で突然京三夫婦の家を訪れる。翌昭和51年/1976年1月4日まで夫婦と生活。この間、親子になる約束をする。
「十二月末の冬休みが始まった日、千鶴(引用者注:千尋のこと)が突然現われた。古戸のバス停から、六キロの道を歩いてやって来たのだという。いじらしい。京子と共に実の親子ででもあるかのように迎え腹いっぱいごちそうして、その夜はもと通りに川の字になり、夜遅くまで語り合った。(引用者中略)
千鶴はいま一緒に暮らしている母親が自分を姉たちとひどく差別し、疎まれて生活していることをさりげなく告げた。(引用者中略)
東京の学校の短い冬休みはすぐに終わり、一月四日の日曜日、千鶴はいつも疲れ果てた顔をしているらしい実母のところへ帰って行った。
しかしわたしたちはそのとき、すでに千鶴と親子になる約束を交わしていた。千鶴のほとんど生れ変わったと言っていいほどにもかいがいしい働きぶりと、何よりも、大森をこの上なくいい所と思いこんでいるその気持が嬉しかった。」(前掲『分校ものがたり』「二十、さよなら分校」より)
■昭和51年/1976年 【京三(45歳)・千尋(13歳)】
・3月3日 京三夫婦と千尋の間に養子縁組が成立。
――京三は妻との間で、千尋には手を出さないこととの約束を交わした。
「「うちの主人は、そんなこと(引用者注:いやらしいイタズラ)をする人じゃない、千尋を預かったときに、そういうことはしない、という約束になっています」」(昭和61年/1986年5月・データハウス刊 花柳幻舟・著『文化人エンマ帖 オッサン何するねん!』「“子育てごっこ”の後始末」より)
「「ひとつの布団に3人で朝まで寝たこともあります。私は主人が千尋に手を出そうものなら“おやめなさい!”と言うつもりでしたから、目を光らせていました。」」(『女性自身』昭和61年/1986年3月25日号 広瀬千尋「衝撃の告白 心の傷をしるした高校時代の日記を発見!」より)
・3月27日 京三、東京に千尋を迎えに行き、同居を始める。
・3月31日 京三、14年間勤めた大森分校を離れ、真城小学校に転任。
・4月 千尋、前沢中学校に入学。また、この年、初潮を迎える。
「(引用者注:『子育てごっこ』の)八九ページに『(略)思いがけず濃厚な媚の表情を見せたりすることが多く(略)「いやね、にやけてみつめないで」(略)』と書いてあるように、非常に女を感じる印象が強いんですが、先生自体、その危険はなかったんですか? 久雄先生、教育者の顔になる。「マセッコみたいなこというわりには、あどけないんですよ。女としては娘です」。生理はいつあったんです? 「それが遅かったので助かりました。昨年(引用者注:昭和51年/1976年)でした」」(『週刊サンケイ』昭和52年/1977年2月10日号「密着ルポ 直木賞受賞作「子育てごっこ」」より 太字下線部は原文傍点)
――京三の教育方針は、暴力を辞さないスパルタ。その反面、千尋が中学生のころは親子三人で一緒に風呂に入るなどしていた。
「「久雄先生は「この子は本気でぶっ殺すぐらいのつもりでやらないと、直らない」と、家庭では教師の体面を捨てて真っ裸で千尋ちゃんと朝から晩までスパルタ教育をする。(引用者中略)京子先生は千尋ちゃんを当然かばう。情も移る。
“お前がベトベト甘えさすからおれの教育の障害になっている。厳しくやるのがこの子には必要なんだッ。ただベトベトするだけなら動物じゃないかッ、おれは動物と結婚してんじゃないッおれに合わないようなら二人で出て行けッ”――。
「どっちも必死だったんです。疲れましたったねえと……」京子先生柔和な顔が正直に曇る。」(前掲『週刊サンケイ』「密着ルポ 直木賞受賞作「子育てごっこ」」より)
・11月 京三、小説集『子育てごっこ』(文藝春秋刊)出版。
――文學界新人賞を受賞した「子育てごっこ」と続編「申し子」(『文學界』昭和51年/1976年5月号)を合せて加筆修正した「子育てごっこ」、および「親もどき〈小説・きだみのる〉」(『別冊文藝春秋』137号[昭和51年/1976年9月])を収める。
■昭和52年/1977年 【京三(46歳)・千尋(14歳)】
・1月18日 京三、『子育てごっこ』により第76回直木賞を受賞。
――以下引用は、受賞後のインタビュー記事。これ以後も、千尋本人は小説のモデルにされることを嫌がっていた、と各種記事に書かれる。
「受賞作では妻のことや少女のことをあしざまに書いている。「別に悪いとも思ってはいません。事実なんだから仕方がないんだという気持ちです」。モデルの少女は拾い読みして、いまは養父となった三好さんに〈これはうそ。こんなことはなかったわ〉という。そんな時、いまは「それは小説だからね」と答えることにした。(引用者中略)成長する少女と、父となった自分との果てしなく続くであろう確執ほど、教育者として「手のひら」で確かめなければならない問題はないはずだ。」(『読売新聞』昭和52年/1977年1月20日「人間登場 「子育てごっこ」で第76回直木賞を受ける三好京三さん」より 署名:田中信明記者)
・2月7日 京三、直木賞授賞式のために上京。式には千尋も出席。
――以下は、2回前の直木賞受賞者、佐木隆三の文。
「五十二年二月に、東京のホテルで授賞式があり、わたし(引用者注:佐木隆三)も出席したので、三好さんと顔を合わせています。
パーティーが終わり、選考委員の水上勉先生が、受賞者の労をねぎらうため、銀座へくり出すという。「お前もつきあえ」と言われ、わたしもお供をして、何軒かハシゴをしました。しかし、途中で、三好さんは帰ったんですね。
「女房と子どもが、宿で待っていますので……」
ハシゴ酒の最中に、こういう理由で抜けるのは、なかなか出来ません。家族のことが、よほど気になったのでしょう。
「娘さんが来てたなア」
ポツリと水上先生がつぶやき、それから先は、話題になりませんでした。作中人物の「吏華」が中学生になり、可憐なセーラー服姿で、パーティー会場に居たのですから、強烈な印象でしたが、それだけに沈黙したのだと思います。」(『サンデー毎日』昭和61年/1986年4月20日号 佐木隆三「佐木流事件記者 三好京三、「子育てごっこ」受難の春」より)
・10月ごろ 京三、性不能者になり以後、夫婦の交渉が途絶える。
「(引用者注:京三の妻いわく)「夫は、五十二年十月以降から性不能者です。(引用者略)」(前掲『オッサン何するねん!』より)
■昭和53年/1978年 【京三(47歳)・千尋(15歳)】
・4月 京三、27年余の教師生活を退き、専業の作家・教育評論家となる。
――千尋の中学時代の成績はトップクラスだったという。
「最近のことだが、中学三年になる娘の千尋に、夜な夜な求愛の電話をかけてくるのがいるんですよ。塾で会った相手らしいんですけど、いまは入試を控えた忙しい時でしょ。それなのに、よくもヌケヌケと求愛の電話をしてくるんだから、腹立たしいんです。」(『現代』昭和54年/1979年4月号「公憤義憤オレは怒ったぞ!全員集合」 三好京三「娘への求愛電話」より)
■昭和54年/1979年 【京三(48歳)・千尋(16歳)】
・4月 千尋、岩手県立一関高校(訂正→)一関第一高等学校に合格し入学。
「娘は今、高校一年生である。その高校は、今、よほど値打ちはさがっているが、昔の岩手の名門校で、わたしの母校だ。(引用者注:養子にしてから)四年たった今でも、さすがわが娘、よくぞ我が母校に入ってくれたと浮かれているが、」(『婦人公論』昭和55年/1980年5月号 三好京三「“子育てごっこ”以後のとまどい」より)
■昭和55年/1980年 【京三(49歳)・千尋(17歳)】
・12月13日 京三と千尋、交換日記を始める。
――のちに刊行された千尋の手記『過去へのレクイエム』では、この年の11月、親しくしている男友達がいることを、京三に責められたのを機に自殺未遂をはかったことになっている。
「「わたしにできることは……」
と考えた。わたし(引用者注:京三)は元国語教師で、現在は小説書きである。わたしにできることは、やはり娘の作文を手直しすることぐらいのようだ。よし、交換日記をやろう、と決めた。娘に持ちかけると、「いいわね」という。うてばひびくというやつで、この辺が娘のいいところだ。」(昭和57年/1982年12月・講談社刊 三好京三・佐々木千尋・著『三好京三の娘と私』 三好京三「プロローグ」より)
「私(引用者注:千尋)は、ミッション系の大学か、哲学を専攻しようと思う。というのは、近ごろ、どうも自分が信じられず、ひどいときには、「死にたい、私なんか存在価値がない」などと、限りなく気分が滅入ることがしばしばあるからなのだ。」(前掲『三好京三の娘と私』「第一部 高校三年受験時代」より)
■昭和56年/1981年 【京三(50歳)・千尋(18歳)】
・2月 京三、『娘はばたけ』(文藝春秋刊)出版。
――「子育てごっこ」続編の位置づけの小説(初出『河北新報』昭和53年/1978年8月24日~昭和54年/1979年4月13日)。娘の中学時代を題材にしたもの。
「わたしには、少年時代からずっと、自分の小説で人を傷つけてきた、という反省があった。売れもしない小説で人を傷つけるもないものだが、モデルはすべて独断的、かつピカレスクな視点で切りきざまれるのである。(引用者中略)親になることをあきらめていた男の、突如親になったさもしいほどの喜びを、節度なく書いてしまったという感想もある。そういう意味では、この小説はわが私小説でもあるのだ。」(昭和56年/1981年2月・文藝春秋刊 三好京三・著『娘はばたけ』「あとがき「子育てごっこの続編」」より)
・3月ごろ 千尋、京三の妻とことごとく対立するようになる。
「私がいちばん心配したのは、高校二年生の三月ころから、母親に対して反抗的になっていったことです。ことごとく母親と対立するんです。」(『婦人倶楽部』昭和59年/1984年2月号 三好京三・京子夫妻「わが家の体験的教育論 娘を下宿させてみて初めてわかった子どもの心情」より)
・このころ 京三の妻、ノイローゼで入院。
「更年期障害がひどくなり自律神経も乱れていたから、その治療、検査のためだった。
母は退院しても家には帰らず、一ヶ月間、家を出たままだった。」(昭和61年/1986年6月・オーク出版刊 広瀬千尋・著『過去へのレクイエム』より)
・7月1日 千尋、自宅を離れ下宿生活を始める。
――千尋は高校2年ごろからしきりに、下宿生活がしたいと京三夫婦にせがんでいたという。
「子どもより親が大事であり、親より子どもが大事である。それの均衡をとりかね、わが家は険悪なムードとなったことがある。この本の中では、娘が下宿した時期である。それは娘が思春期、反抗期を迎えたからそうなったのかも知れないし、家内が更年期を迎えたからそうなったのかも知れない。いやいや、何よりもわたしに指導性が欠けていたのである。」(前掲『三好京三の娘と私』 三好京三「エピローグ」より)
■昭和57年/1982年 【京三(51歳)・千尋(19歳)】
・冬 千尋、同い年の男性と彼の部屋で初体験。
「初めてキスをした。
相手は、我が高校きっての不良。(引用者中略)
冬。雪が降っていたかどうかは思い出せない。
心も、身体も冷えていた。
彼の家で、私は、彼に抱かれようと思った。」(前掲『過去へのレクイエム』より)
――ただし、初体験はそれより半年後、19歳の夏とする文献もある。
「初体験は、意外と遅くて19のときなんです。外人が特に好きってわけじゃないんで、相手は日本人ですよ、同い年の。(引用者中略)私も19歳の夏に彼の部屋でシタのね。やっぱり、こわかった。気持ちよくなかったし、罪悪感だけが残りましたよ。」(『週刊宝石』昭和62年/1987年9月11日号「穂積由香里と佐々木千尋がプッツン激論! あの事件で騒がれた異色の2人がいま語る男、親、非行……」より)
・4月 千尋、大学受験に失敗し、浪人生となる。上京して都内の予備校に通う。
――京三夫婦、東京市ヶ谷に3000万円のマンションの一室を購入し、千尋を住まわせる。
・11月 京三、千尋、共著で『三好京三の娘と私』(講談社刊)出版。
――千尋の高校3年生時代を中心とした京三と千尋の交換日記形式の書(初出『お母さんの勉強室』昭和56年/1981年4月号~昭和57年/1982年3月号、『螢雪時代』昭和56年/1981年4月号~昭和57年/1982年3月号、『出会い』昭和57年/1982年4月号~9月号)
■昭和58年/1983年 【京三(52歳)・千尋(20歳)】
・4月 千尋、東京女子大学英文学科に合格し入学(以後2年間留年)。
……と、ここまでで一区切り。大衆から暴力的な好奇の視線を浴びる一歩手前です。さあ、ここからです。深呼吸しましょう。「直木賞作家」の肩書きの威力がフルに活用されてしまう、異常なステップに突入します。
最近のコメント