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2011年11月20日 (日)

三好京三(第76回 昭和51年/1976年下半期受賞) あることないこと小説に書いて、あることないこと書き立てられて……。「直木賞作家」の鑑です。

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三好京三。『子育てごっこ』(昭和51年/1976年11月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「聖職」でのデビューから18年。45歳。

 今日のエントリーは長くなりそうです。心してかかります。

 なにせ、直木賞を代表する作家であり、受賞作なのですよ。さまざまな観点において。すでに没後4年もたってしまいましたが、遅ればせながら取り上げさせてもらいます。直木賞オタク冥利に尽きます。

 さまざまな観点、と言いました。三好京三さんと受賞作『子育てごっこ』。直木賞にまつわる数多くのテーマが、凝縮されて詰まっています。

 純文学と大衆文学との区別。純文学への憧れ。東京と地方との温度差。権威欲。名誉欲。週刊誌を中心とした、あることないことのゴシップ。そこから生まれた印象が独り歩きしての、文学とは何の関係もない批判や批評の雨あられ。……

 とくにゴシップについては、直木賞界広しといえども京三関連の右に出るものはいない、っていうぐらいで。いやあ強烈でした。いまだ京三さんに対する悪い印象は、根づよいものがあります。血のつながっていない娘に手をつけたエロ爺い。ゴシップを境に文壇から脱落した哀れな一発屋。教育評論家として偉そうな口を叩いておきながら一皮むけば権威主義の俗物。などなど。

 そのほとんどが、20数年前のある一時期、ワイドショーと週刊誌がまきちらしたイメージから来ています。ゴシップ、楽しいですよね。偏った報道、真偽不明なハナシだけを信じて、一人の人間を悪しざまに罵倒する。心おどりますよね。

 わかります。わかるんですが、ワタクシはそれだけでは満足できません。直木賞に関することを、狭くて一方的な視点で終わらせるのはもったいない。もっと数多くの資料から眺めてみたいんです。

 ってことでまとめてみました。三好京三さんの人生を変えた小説『子育てごっこ』と、そのモデル、千尋さんのことを。

 一連のハナシは37年前の出来事から始まります。三好京三こと本名・佐々木久雄さんの勤める岩手県の分校に、きだみのるとその娘が訪れた日からです。

■昭和49年/1974年 【京三(43歳)・千尋(11歳)】

 ・6月14日 きだみのる(79歳)と千尋が岩手県衣川小学校大森分校を訪れる。

  ――京三、千尋に授業を受けさせ、児童として編入させる準備をする。

  ――昭和50年/1975年5月まで一緒に生活する。

「わたしは言ってみた。

「ミミさん(引用者注:千尋のこと)を、この分校に留学させませんか」

 このとき、入学といわず、留学と言ったのは、フランス好みのきだみのるへの迎合である。

「そうしようか」

 きだみのるは、思いがけずこだわりなくこたえた。(引用者中略)

 京子は教材室に蒲団を敷いてきだみのるとミミの寝室とした。きだみのるがその部屋に立ったあと、それまで漫画本を読んでいたミミは、

「ね、留学の話、ほんとうなの」

 と訊きながら、わたしの首に手を巻いた。

「ほんとうさ」

「ね、あたし、入ってあげてもいい」

「何?」

「田舎の分校だけど、入ってあげてもいいわ」

 わたしは毒気を抜かれ、ミミの腕をほどきながら、

「おじいちゃん(引用者注:きだみのるのこと)次第だよ」

 とこたえた。」(平成13年/2001年7月・本の森刊 三好京三・著『分校ものがたり――山の子どもたちと14年』「十七、学区への移住者たち」より)

 ・7月 千尋、正式に大森分校児童(小学5年生)となる。

■昭和50年/1975年 【京三(44歳)・千尋(12歳)】

 ・3月20日 京三、きだみのるをモデルにした小説「兎」(〈森笙太〉名義)を第3回小説新潮新人賞に応募。最終候補に残るが落選。

  ――応募総数は、「小説新潮サロン」昭和49年/1974年1月号~12月号に入選および佳作となり、新人賞応募資格を得た人たちから寄せられた22篇。選考委員は藤原審爾源氏鶏太曾野綾子の3名。

「山の分校の教師をしていたそのようなわたしのところに、放浪作家に伴われた一一歳の少女がやってきた。(引用者中略)翌年、この放浪作家をモデルにした小説を書き、ある雑誌の懸賞に応募した。それが最終候補に残り、わたしはやっと作家になれそうであった。

 しかし落選である。」(『悠』平成12年/2000年9月号 三好京三「娘・師匠との出会い」より)

 ・5月 千尋、東京の実母に引き取られる。

 ・6月 京三、懸賞応募のために小説「子育てごっこ」を書き上げる。

(引用者注:「兎」について『小説新潮』に)各審査員の作品評が掲載されている。藤原審爾さん、源氏鶏太さん、曾野綾子さんのものである。中で曾野さんの評に衝撃を受けた。(引用者中略)

「小説とはこのように芝居がかったものだったでしょうか」

 というものだ。これを読み、恥ずかしくてたまらなかった。小説を面白く仕立てようとするあまり、リアリティーに欠ける筋立てを作り続けた、そのあたりのところがすっかり見透かされている。(引用者中略)

 ――よし、芝居がからずに、ありのままを書こう――

 題材はわが生活、そしてきだみのる親子である。私小説じみたものになるから、これは中間小説雑誌ではなくて、純文学雑誌向きだった。それであらためて「文学界」や「群像」などを読み、純文学の作風に触れた。

 そして書き始めたのが小説「子育てごっこ」である。」(平成15年/2003年9月・洋々社刊 三好京三・著『なにがなんでも作家になりたい!』「18「子育てごっこ」執筆」より)

 ・7月25日 きだみのる、胆道結石と老衰により東京にて死去(80歳)。

 ・8月 千尋、夏休みを利用して京三夫婦の家で生活。

 ・10月15日 京三、小説「子育てごっこ」により第41回文學界新人賞を受賞、『文學界』12月号に掲載。

  ――応募総数1,274篇。選考委員は石原慎太郎開高健坂上弘丸山健二森内俊雄の5名。

「書きあげて不安であった。自虐的に血を流しすぎたような、あるいはモデルを告発しすぎたような気がした。教師として不適格な自分がもろにあらわれてしまった、とも思った。」(『週刊文春』昭和54年/1979年10月4日号「マイ・ベストワン」 三好京三「「子育てごっこ」―《わが記念碑》」より)

 ・10月末 京三、千尋の実母から千尋を引き取ってほしいと依頼されるが断る。

 ・12月末 千尋、一人で突然京三夫婦の家を訪れる。翌昭和51年/1976年1月4日まで夫婦と生活。この間、親子になる約束をする。

「十二月末の冬休みが始まった日、千鶴(引用者注:千尋のこと)が突然現われた。古戸のバス停から、六キロの道を歩いてやって来たのだという。いじらしい。京子と共に実の親子ででもあるかのように迎え腹いっぱいごちそうして、その夜はもと通りに川の字になり、夜遅くまで語り合った。(引用者中略)

 千鶴はいま一緒に暮らしている母親が自分を姉たちとひどく差別し、疎まれて生活していることをさりげなく告げた。(引用者中略)

 東京の学校の短い冬休みはすぐに終わり、一月四日の日曜日、千鶴はいつも疲れ果てた顔をしているらしい実母のところへ帰って行った。

 しかしわたしたちはそのとき、すでに千鶴と親子になる約束を交わしていた。千鶴のほとんど生れ変わったと言っていいほどにもかいがいしい働きぶりと、何よりも、大森をこの上なくいい所と思いこんでいるその気持が嬉しかった。」(前掲『分校ものがたり』「二十、さよなら分校」より)

■昭和51年/1976年 【京三(45歳)・千尋(13歳)】

 ・3月3日 京三夫婦と千尋の間に養子縁組が成立。

  ――京三は妻との間で、千尋には手を出さないこととの約束を交わした。

「「うちの主人は、そんなこと(引用者注:いやらしいイタズラ)をする人じゃない、千尋を預かったときに、そういうことはしない、という約束になっています」」(昭和61年/1986年5月・データハウス刊 花柳幻舟・著『文化人エンマ帖 オッサン何するねん!』「“子育てごっこ”の後始末」より)

「「ひとつの布団に3人で朝まで寝たこともあります。私は主人が千尋に手を出そうものなら“おやめなさい!”と言うつもりでしたから、目を光らせていました。」」(『女性自身』昭和61年/1986年3月25日号 広瀬千尋「衝撃の告白 心の傷をしるした高校時代の日記を発見!」より)

 ・3月27日 京三、東京に千尋を迎えに行き、同居を始める。

 ・3月31日 京三、14年間勤めた大森分校を離れ、真城小学校に転任。

 ・4月 千尋、前沢中学校に入学。また、この年、初潮を迎える。

(引用者注:『子育てごっこ』の)八九ページに『(略)思いがけず濃厚な媚の表情を見せたりすることが多く(略)「いやね、にやけてみつめないで」(略)』と書いてあるように、非常にを感じる印象が強いんですが、先生自体、その危険はなかったんですか? 久雄先生、教育者の顔になる。「マセッコみたいなこというわりには、あどけないんですよ。女としては娘です」。生理はいつあったんです? 「それが遅かったので助かりました。昨年(引用者注:昭和51年/1976年)でした」」(『週刊サンケイ』昭和52年/1977年2月10日号「密着ルポ 直木賞受賞作「子育てごっこ」」より 太字下線部は原文傍点)

  ――京三の教育方針は、暴力を辞さないスパルタ。その反面、千尋が中学生のころは親子三人で一緒に風呂に入るなどしていた。

「「久雄先生は「この子は本気でぶっ殺すぐらいのつもりでやらないと、直らない」と、家庭では教師の体面を捨てて真っ裸で千尋ちゃんと朝から晩までスパルタ教育をする。(引用者中略)京子先生は千尋ちゃんを当然かばう。情も移る。

“お前がベトベト甘えさすからおれの教育の障害になっている。厳しくやるのがこの子には必要なんだッ。ただベトベトするだけなら動物じゃないかッ、おれは動物と結婚してんじゃないッおれに合わないようなら二人で出て行けッ”――。

「どっちも必死だったんです。疲れましたったねえと……」京子先生柔和な顔が正直に曇る。」(前掲『週刊サンケイ』「密着ルポ 直木賞受賞作「子育てごっこ」」より)

 ・11月 京三、小説集『子育てごっこ』(文藝春秋刊)出版。

  ――文學界新人賞を受賞した「子育てごっこ」と続編「申し子」(『文學界』昭和51年/1976年5月号)を合せて加筆修正した「子育てごっこ」、および「親もどき〈小説・きだみのる〉」(『別冊文藝春秋』137号[昭和51年/1976年9月])を収める。

■昭和52年/1977年 【京三(46歳)・千尋(14歳)】

 ・1月18日 京三、『子育てごっこ』により第76回直木賞を受賞。

  ――以下引用は、受賞後のインタビュー記事。これ以後も、千尋本人は小説のモデルにされることを嫌がっていた、と各種記事に書かれる。

「受賞作では妻のことや少女のことをあしざまに書いている。「別に悪いとも思ってはいません。事実なんだから仕方がないんだという気持ちです」。モデルの少女は拾い読みして、いまは養父となった三好さんに〈これはうそ。こんなことはなかったわ〉という。そんな時、いまは「それは小説だからね」と答えることにした。(引用者中略)成長する少女と、父となった自分との果てしなく続くであろう確執ほど、教育者として「手のひら」で確かめなければならない問題はないはずだ。」(『読売新聞』昭和52年/1977年1月20日「人間登場 「子育てごっこ」で第76回直木賞を受ける三好京三さん」より 署名:田中信明記者)

 ・2月7日 京三、直木賞授賞式のために上京。式には千尋も出席。

  ――以下は、2回前の直木賞受賞者、佐木隆三の文。

「五十二年二月に、東京のホテルで授賞式があり、わたし(引用者注:佐木隆三)も出席したので、三好さんと顔を合わせています。

 パーティーが終わり、選考委員の水上勉先生が、受賞者の労をねぎらうため、銀座へくり出すという。「お前もつきあえ」と言われ、わたしもお供をして、何軒かハシゴをしました。しかし、途中で、三好さんは帰ったんですね。

「女房と子どもが、宿で待っていますので……」

 ハシゴ酒の最中に、こういう理由で抜けるのは、なかなか出来ません。家族のことが、よほど気になったのでしょう。

「娘さんが来てたなア」

 ポツリと水上先生がつぶやき、それから先は、話題になりませんでした。作中人物の「吏華」が中学生になり、可憐なセーラー服姿で、パーティー会場に居たのですから、強烈な印象でしたが、それだけに沈黙したのだと思います。」(『サンデー毎日』昭和61年/1986年4月20日号 佐木隆三「佐木流事件記者 三好京三、「子育てごっこ」受難の春」より)

 ・10月ごろ 京三、性不能者になり以後、夫婦の交渉が途絶える。

(引用者注:京三の妻いわく)「夫は、五十二年十月以降から性不能者です。(引用者略)(前掲『オッサン何するねん!』より)

■昭和53年/1978年 【京三(47歳)・千尋(15歳)】

 ・4月 京三、27年余の教師生活を退き、専業の作家・教育評論家となる。

  ――千尋の中学時代の成績はトップクラスだったという。

「最近のことだが、中学三年になる娘の千尋に、夜な夜な求愛の電話をかけてくるのがいるんですよ。塾で会った相手らしいんですけど、いまは入試を控えた忙しい時でしょ。それなのに、よくもヌケヌケと求愛の電話をしてくるんだから、腹立たしいんです。」(『現代』昭和54年/1979年4月号「公憤義憤オレは怒ったぞ!全員集合」 三好京三「娘への求愛電話」より)

■昭和54年/1979年 【京三(48歳)・千尋(16歳)】

 ・4月 千尋、岩手県立一関高校(訂正→)一関第一高等学校に合格し入学。

「娘は今、高校一年生である。その高校は、今、よほど値打ちはさがっているが、昔の岩手の名門校で、わたしの母校だ。(引用者注:養子にしてから)四年たった今でも、さすがわが娘、よくぞ我が母校に入ってくれたと浮かれているが、」(『婦人公論』昭和55年/1980年5月号 三好京三「“子育てごっこ”以後のとまどい」より)

■昭和55年/1980年 【京三(49歳)・千尋(17歳)】

 ・12月13日 京三と千尋、交換日記を始める。

  ――のちに刊行された千尋の手記『過去へのレクイエム』では、この年の11月、親しくしている男友達がいることを、京三に責められたのを機に自殺未遂をはかったことになっている。

「「わたしにできることは……」

 と考えた。わたし(引用者注:京三)は元国語教師で、現在は小説書きである。わたしにできることは、やはり娘の作文を手直しすることぐらいのようだ。よし、交換日記をやろう、と決めた。娘に持ちかけると、「いいわね」という。うてばひびくというやつで、この辺が娘のいいところだ。」(昭和57年/1982年12月・講談社刊 三好京三・佐々木千尋・著『三好京三の娘と私』 三好京三「プロローグ」より)

「私(引用者注:千尋)は、ミッション系の大学か、哲学を専攻しようと思う。というのは、近ごろ、どうも自分が信じられず、ひどいときには、「死にたい、私なんか存在価値がない」などと、限りなく気分が滅入ることがしばしばあるからなのだ。」(前掲『三好京三の娘と私』「第一部 高校三年受験時代」より)

■昭和56年/1981年 【京三(50歳)・千尋(18歳)】

 ・2月 京三、『娘はばたけ』(文藝春秋刊)出版。

  ――「子育てごっこ」続編の位置づけの小説(初出『河北新報』昭和53年/1978年8月24日~昭和54年/1979年4月13日)。娘の中学時代を題材にしたもの。

「わたしには、少年時代からずっと、自分の小説で人を傷つけてきた、という反省があった。売れもしない小説で人を傷つけるもないものだが、モデルはすべて独断的、かつピカレスクな視点で切りきざまれるのである。(引用者中略)親になることをあきらめていた男の、突如親になったさもしいほどの喜びを、節度なく書いてしまったという感想もある。そういう意味では、この小説はわが私小説でもあるのだ。」(昭和56年/1981年2月・文藝春秋刊 三好京三・著『娘はばたけ』「あとがき「子育てごっこの続編」」より)

 ・3月ごろ 千尋、京三の妻とことごとく対立するようになる。

「私がいちばん心配したのは、高校二年生の三月ころから、母親に対して反抗的になっていったことです。ことごとく母親と対立するんです。」(『婦人倶楽部』昭和59年/1984年2月号 三好京三・京子夫妻「わが家の体験的教育論 娘を下宿させてみて初めてわかった子どもの心情」より)

 ・このころ 京三の妻、ノイローゼで入院。

「更年期障害がひどくなり自律神経も乱れていたから、その治療、検査のためだった。

 母は退院しても家には帰らず、一ヶ月間、家を出たままだった。」(昭和61年/1986年6月・オーク出版刊 広瀬千尋・著『過去へのレクイエム』より)

 ・7月1日 千尋、自宅を離れ下宿生活を始める。

  ――千尋は高校2年ごろからしきりに、下宿生活がしたいと京三夫婦にせがんでいたという。

「子どもより親が大事であり、親より子どもが大事である。それの均衡をとりかね、わが家は険悪なムードとなったことがある。この本の中では、娘が下宿した時期である。それは娘が思春期、反抗期を迎えたからそうなったのかも知れないし、家内が更年期を迎えたからそうなったのかも知れない。いやいや、何よりもわたしに指導性が欠けていたのである。」(前掲『三好京三の娘と私』 三好京三「エピローグ」より)

■昭和57年/1982年 【京三(51歳)・千尋(19歳)】

 ・ 千尋、同い年の男性と彼の部屋で初体験。

「初めてキスをした。

相手は、我が高校きっての不良。(引用者中略)

冬。雪が降っていたかどうかは思い出せない。

心も、身体も冷えていた。

彼の家で、私は、彼に抱かれようと思った。」(前掲『過去へのレクイエム』より)

  ――ただし、初体験はそれより半年後、19歳の夏とする文献もある。

「初体験は、意外と遅くて19のときなんです。外人が特に好きってわけじゃないんで、相手は日本人ですよ、同い年の。(引用者中略)私も19歳の夏に彼の部屋でシタのね。やっぱり、こわかった。気持ちよくなかったし、罪悪感だけが残りましたよ。」(『週刊宝石』昭和62年/1987年9月11日号「穂積由香里と佐々木千尋がプッツン激論! あの事件で騒がれた異色の2人がいま語る男、親、非行……」より)

 ・4月 千尋、大学受験に失敗し、浪人生となる。上京して都内の予備校に通う。

  ――京三夫婦、東京市ヶ谷に3000万円のマンションの一室を購入し、千尋を住まわせる。

 ・11月 京三、千尋、共著で『三好京三の娘と私』(講談社刊)出版。

  ――千尋の高校3年生時代を中心とした京三と千尋の交換日記形式の書(初出『お母さんの勉強室』昭和56年/1981年4月号~昭和57年/1982年3月号、『螢雪時代』昭和56年/1981年4月号~昭和57年/1982年3月号、『出会い』昭和57年/1982年4月号~9月号)

■昭和58年/1983年 【京三(52歳)・千尋(20歳)】

 ・4月 千尋、東京女子大学英文学科に合格し入学(以後2年間留年)。

 ……と、ここまでで一区切り。大衆から暴力的な好奇の視線を浴びる一歩手前です。さあ、ここからです。深呼吸しましょう。「直木賞作家」の肩書きの威力がフルに活用されてしまう、異常なステップに突入します。

          ○

 ……大学に入った娘が、勉強もせず遊び呆けてしまうところから、一気にハナシは加速します。

■昭和59年/1984年 【京三(53歳)・千尋(21歳)】

 ・4月 千尋、大学を留年。

 ・このころ 京三夫婦、講義に出席せず留年した千尋に対し、養子縁組の解消を申し出る。

「離縁については、(引用者注:昭和61年/1986年から見て)二年前ごろから妻が娘と話し合っている。その趣旨は、千尋は生命力はあるが生活力に欠けるといったところがあり、金銭的な面でもずいぶんと困らせられてきているし、大学に行かずに無軌道な生活をしているようすだから、この際、真の自立をうながすために籍を抜こうというものであった。」(『週刊文春』昭和61年/1986年6月19日号 三好京三「一度だけ書く」より)

 ・8月 『ZOOMin』9月号が「黒人グルーピーになった三好京三の愛娘」と記事を掲載。

  ――千尋はひんぱんにディスコに現れ、自分は三好京三の娘だ、と自慢げに語っていたという。

「20歳のときに白人のアメリカ人とダンパで知り合ったの。4~5ヵ月もつき合って、真剣に結婚も考えたのに、彼のお父さんの反対で結局は悲恋に終わったの。白人の上流階級にイエローは必要ない、っていうわけ。」

「白人の彼と別れてからブラックとつき合ったのね。ディスコで知り合って、痛手を受けてた私を慰めてくれたの。」(前掲『週刊宝石』「穂積由香里と佐々木千尋がプッツン激論!」より)

 ・ 千尋、20日間ほど京都の瀬戸内寂聴のもとに身を寄せる。

■昭和60年/1985年 【京三(54歳)・千尋(22歳)】

 ・4月 千尋、大学をふたたび留年。

 ・7月8日 『ZOOMin』8月号が「千尋さんが渋谷道玄坂でホテトル嬢をしていた」と記事を掲載。

  ――この記事が、各週刊誌に取り上げられ、一気に「直木賞作家・三好京三と、その堕落した娘」が有名になる。

「三好氏は、つぶやくように、

「私の教育の敗北です。もう、教育の講演なんて恥ずかしくてできません。予定が入ってるところは……そうですね、失敗者の弁でも語りますか……。(引用者中略)

 でも、彼女を責めようなんて気持ちは一切ありません。これから先、親子ともども重いハンディを背負って生きてゆくつもりです」」(『週刊サンケイ』昭和60年/1985年7月25日号「娘が「ホテトル嬢」になった三好京三『子育てごっこ』の結末」より)

 ・7月11日 京三、『週刊文春』7月18日号に手記「「娘へ」父・三好京三痛恨の手記――直木賞「子育てごっこ」モデルの一人娘が「ホテトル」に堕ちて」を発表。

「似た者親子だった。実は、それが自慢であった。(引用者中略)どだい、似ているのは“ものぐさ”であった。“気儘”であった。それから“いい加減”“遊び好き”“怠け者”。

 そこを直さなければならない。なのに気が合うものだから、放置した。(引用者中略)親はやっぱりこうしてわるい子をつくるのである。似ているからいいと自分たちを許し、かわいいからときびしく矯正しない。

 一つだけ、まったくちがうところがあった。お前が頻繁に嘘をつくことだった。お母さんもそれを心配していた。「平気で嘘をつくのがこわい」お前も注意を受けたはずだ。嘘つきはどろぼうの始まり。わたしだって、「嘘をつくな」と何度もはげしく叱った。

 しかし、それがあわれにもかなしくお前の身につきすぎていた。(引用者中略)

 お前はしゃべったことをすぐ忘れ、衝動に従って行動する。それが、世の中からは変わっていると見られ、無軌道と見られ、ついには破廉恥となる。それをゆっくりと反省することなく、つぎの衝動に従う。それが自らを転落させることにお前は気づかなかったか、あるいは気づいても衝動がおさえられなかった。(引用者中略)お前は丈夫だし、自殺するようなひよわな人間ではないから、その点だけは安心している。そしてこちらはといえば、自殺もできない情けない男だ。」(『週刊文春』昭和60年/1985年7月18日号 三好京三「「娘へ」」より)

 ・10月 千尋、月刊誌の編集者の紹介で花柳幻舟と会い、幻舟事務所所属となる。

  ――花柳幻舟は舞踊家。家元制度に反発し、昭和55年/1980年には花柳流家元に対し刃傷事件を起こすなど、反体制の立場で活動。

「なんで、今回こんなことにまで関わってしまったかというと、去年、つまり一九八五年の一〇月に、某月刊誌の女性編集者が、

「三好京三さんの娘が、もう、ここんとこ次から次、スキャンダルが多くて私とこでしばらく預かってたんですけど、なにか生きる目的意識とか、そういうものを持たせる方法はないか、と考えて、幻舟さんならやっていただけるんじゃないかと思って……、一度、会っていただけませんか」

という話になったことからです。」(前掲『オッサン何するねん!』より)

 ・12月16日 千尋、花柳幻舟に京三の淫行のことをはじめて話す。

「あまりの(引用者注:千尋の)無責任な感性に対して、私は、その日、ゆっくりと話しました、千尋と。

「三好京三は教育者やで、ほんまに、なんであんたみたいな無責任な人、許してきたん。あんた、三好京三は、あんたに弱いシッポを握られてるんちゃうか?」

 と言いながら、ひょっとしたら二人は恋愛関係にあるんじゃなかろうか? という気持ちもあって、率直に切り出したんです。

 そのとき、千尋は、

「十年前に、お父さんにイタズラされたことがある」

と、一言、告白したんです、これがあれです、あれなんです。

 私は千尋のその言葉を聞いたときに、

「やっぱり」

と思ったと同時に、

「なんちゅうオッサンやねん!」

と、頭の中で、交互によぎりました。(引用者中略)

「あんた、ホンマか? これがウソや、冗談やったら指つめもんやで、えらいこっちゃ。相手は教育評論家やで、ホンマやねんやろうな、ウソついたら、えらいこっちゃねんで、指つめさせるで、私はね、そのあたりの文化人や、芸能人とちがうよ。わかってるんやろうねえ」

と言いながらも、千尋の言うてることのほうがホントのような感じがしたんです。」(前掲『オッサン何するねん!』より)

■昭和61年/1986年 【京三(55歳)・千尋(23歳)】

 ・1月 千尋、『女性自身』1月7日・14日合併号~1月28日号に手記を連載。

 ・2月3日 千尋、『ペントハウス』のためのヌード撮影。

 ・2月7日 花柳幻舟が、京三の妻に、千尋が昔父親に性的なイタズラをされたと話していると告げる。親子でじっくり話し合うべきだと提言。

「三好夫人はいつも、夫京三と千尋の間から退け者的存在に扱われてきた。だから、千尋が告白した問題を夫人の耳に入れることにした。親娘三人対決させ、なんとしても話し合わせ、親として、夫として、教育者としての責任を三好京三にとらせるよう夫人に行動させようと思った。その姿を見せることによって、千尋自身にも責任ある生き方を迫ろうと、私は決意した。岩手の三好夫人と電話で話した。」(『噂の真相』昭和61年/1986年6月号 花柳幻舟「私は三好京三の娘・千尋の後見人ではなかった!!」より)

 ・2月15日 千尋、京三の行動に怒り、告発する意志を固める。

  ――このときのことを、まずは花柳幻舟の視点から。

「父、三好京三は、なにを血迷ったのか、千尋のプライベートの女性の友だちのところへ電話をして、

「あの子はどうしてあんなウソをつくのか、ひどいことを幻舟先生に、言ってる。

このウソつきには、参ったものだ、信用しないでくれ、彼女の言っていることは、絶対に信用しないでくれ」

と、言うとるわけです。

 千尋がたまたま友だちの家に電話をして、このことがわかったわけです。

 千尋は、その瞬間、

「男のウソを見てしまった」そうです。

 男の保身を見てしまったんですね。」(前掲『文化人エンマ帖 オッサン何するねん!』より)

  ――対して京三の視点。

「合間に何度も友だちのところに電話をし、千尋と話すが、どうもちぐはぐである。やがて千尋は電話に出なくなった。こちらはいらだつばかりだ。こんないやな話題が大っぴらになったらどうなるか。

 十四日の午後、岩手から千尋のもう一人の友人に電話した。

「どうも困りました。そんな事実はないのだし、千尋がどうしてああいうことを言ったのか、取り消さないのか。たとえ取り消すわけに行かないとしても、裁判沙汰などは他人でなく本人が告訴をしなければ成立しないのだから、千尋にそのことを伝えてください」

 告発するという幻舟氏と、取り消せというわたしとの板ばさみになって、千尋も困り果てているのかも知れなかった。」(前掲『週刊文春』「一度だけ書く」より)

 ・2月18日 京三(松本市内ホテル)と千尋(東京市ヶ谷自宅)との間で電話の通話。

  ――このときの会話が、のちに「淫行自白テープ」と呼ばれ公表される。

千尋 お父さんさ、花柳さんに対してあの件は嘘だったとかいうのは、気持ち分かるから、それは納得できるけど、どうしてあたしの友達にね、わざわざ聞かれもしないのに、あたしが嘘つきだなんてね。お父さんがあたしに嘘つきになってくれっていった時に、あたし、ウンて言ったでしょうォ。

京三 そう、そう。

千尋 そういう気持ちも全然分からないで、どうして私の友達にわざわざ、しかも親しい友達にそんなこと言わなきゃいけないの?

京三 これはね、絶対ね、ウンと言ってはいけないことだから……千尋にはこの前、ほんとに悪い悪いって言ったでしょ。

千尋 う~ん。

京三 ほんとにお父ちゃんは悪者なんだから、勘弁してもらいたいと、この前言ったわけだ。

千尋 う~ん。

京三 そしたらおまえは、幻舟さんにそのまんま言ったというのではね、やっぱりやってはいけないことだしね……。

千尋 でも、それやったのは、お父さんじゃない。

京三 やってはいけないことだし、言ってはいけないことだから……。」(『週刊サンケイ』昭和61年/1986年6月26日号「「幻舟演出」で三好京三氏“淫行自白テープ”まで公表した養女千尋さんの怨念」より)

  ――花柳幻舟と千尋はこれを「淫行の証拠」としたが、京三は手記で次のように書いた。

「無防備すぎたのはたしかであった。しかし親子のプライベートな会話である。迎合妥協のようすを人にきかれるのは恥ずかしいが、何の証拠にもなりはしない。だから録音の事実を知ったあともそれほど心配はしなかった。何よりもいたずらの事実はまったく存在していないのだ。」(前掲『週刊文春』「一度だけ書く」より)

 ・3月3日 千尋、『夕刊フジ』3月4日号に告白文を掲載。

  ――花柳幻舟によれば、すでに『女性自身』による取材が進んでいたが、同誌に笹沢左保から連絡が入り、笹沢の機嫌をそこねたくない同誌は記事をトーンダウンさせようとした。そこで、千尋の言葉が曲解なく伝わる媒体として、『夕刊フジ』に打診したのだという。

  以下、週刊誌に引用された告白文より。

「小学五年の頃、三好夫妻と三人で川の字になって寝ていました。私が真ン中。突然、下着の中に手が入ってきた……」

「母がいなかった時、二人で横になってテレビを見ていた。酒が入っていたからか、突然抱きついてきたのです」

「月に一、二回は母が留守にする。そんな時は怖くてたまらなかった。丸裸にされたり、下半身だけ脱がされて。これが中学三年の夏まで一年間続きました」

「あなたは昔、私に人間として最低のことをしました。そのことは耐え難い傷となって私の胸に残っています。忘れよう忘れようとしていたことです。でもある時私は自分の気持を抑えきれず幻舟先生に打ち明けてしまいました。私が人に口を滑らしたことを知ったあなたは、自分の本性を次第に私に曝け出し始めました。あなたはそのことが世間に公表されることによって、自分の作家生命が絶たれると思い込み、怖くて怯えていたのでしょう。(引用者中略)私に言わせれば、あなたはあなたの言う通りのサイテーの偽善者です。そしてそういう人間に十年間も育てられていた自分が私は恥しい。」(『週刊サンケイ』昭和61年/1986年3月20日号「『子育てごっこ』の娘が衝撃告白 「許せない!私に乱暴した三好京三」より)

 ・3月4日 千尋、京三を告発する記者会見を開く(同席者:花柳幻舟、代理人:三島駿一郎弁護士)。

「報道陣の質問は、やはり千尋さんが三好氏にどの程度のいたずらをされたかという点に集中した。

「とても……口では言えることではありません」

 という千尋さんの言葉を引き取って話したのは花柳幻舟さん。

「最初のころは、小学生のときに寝ている間にパンツのなかに手を入れてこられたことです。そのあとは14才のころで、オッパイを揉まれた。つまり、だんだんエスカレートしていったということですね。それで最終的には挿入はしてないけれども、していないというだけのことで、わかります? まあ、セックスの前戯というんですかねえ」」(前掲『女性自身』「衝撃の告白 心の傷をしるした高校時代の日記を発見!」より)

 ・3月 千尋、『女性自身』3月18日号~4月1日号に告白文を連載。

「「実は、私、中学2年のときに父に!」

 養女とはいえ、親と娘の間柄である。記者は思わず耳を疑った。

「中2の夏の日のことでした。母が実家に帰った留守中、私は父と一緒の布団に入ってテレビを見ているうちに眠ってしまったのです。夜中、ふと気がつくと、父の手が……。

 その夜は寝苦しい夜だったと記憶しています。じっとりと汗ばんだ父の手が寝返りをうつ私の体に、まるでまつわりつくかのように……」(引用者中略)

「小学校5年生のときにも一度そんなことがありました。私が“ヤダァ”と言えば、何ごとにつけすぐ平手で殴る父でした。父はこう言ったものです。“いいか、これは2人だけの秘密だ。誰にも言ってはいけないぞ”。そう怖い顔で念を押すのです」(引用者中略)

 三好京三氏を取材すると、三好氏は、ガックリと肩を落とし、苦渋に顔をゆがめた。

「そういう事実はない! なぜ娘がそういうことを言い出したのか理解に苦しむ。何か事情があってのことかもしれないので、3~4ヵ月、いや1年でも2年でも静観するつもりです」」(『女性自身』昭和61年/1986年3月18日号「衝撃の告白 父は私を女として愛した!」より)

  ――千尋の告発は、数多くの週刊誌に取り上げられたが、そのなかから、京三親子を知る地元の人たちの声を引用する。

「「はっきり言って、京三先生に同情するもんな。あの娘の言うことだ、信じられね。分かんねーよ、あの子は、なにすっか」(近所の主婦)

(引用者中略)

「芝居っ気たっぷりだった。高校のころから品つくって、『おじちゃまー』と寄ってくる。小悪魔的とでも言うのかな」(三好さんの友人)

 町で拾う話も、あまりかんばしくない。親に内証で本をツケで買ったり、子供のくせにワインを飲んだり……とんでもない子だった、というふうに。」(『週刊読売』昭和61年/1986年3月23日号「直木賞三好京三氏作家生命大ピンチ! 養女千尋さん「衝撃告白」の敵・味方」より)

 ・4月 千尋、東京女子大学を休学(のち退学)。

 ・4月 千尋、『ペントハウス』5月号にヌードを発表。

 ・5月 花柳幻舟、『文化人エンマ帖 オッサン何するねん!』(データハウス刊)出版。

  ――オビにはこう書かれている。

三好京三に告ぐ! 三好京三の養女淫行事件を聞くに及んで、怒り心頭に発した、あの“刃傷事件”のヒロイン=花柳幻舟が、三好のオッサンを叩きのめす。さらに、著名な文化人の先生方を、次々と引き摺りだして、その悪行と、アホ的行状の数々をあばいていく、文化人脅威のエンマ帖!!」

 ・5月29日・30日 千尋、花柳幻舟・『FOCUS』カメラマンとともに岩手の京三の家に乗り込み、ガラスを蹴破って謝罪を迫る。

 ――以下は、京三からの視点。

(引用者注:5月30日)午前十一時四十五分ごろ、千尋たちはまた車で乗りつけ、門の前で演説を始めた。スピーカーを通した声がひびく。

 千尋はやや細い声で、

「話し合いをしましょう。五分間だけ待ちます。これ以上卑怯者にならないで、出て来なさいよ……」

 と呼びかけている。代わって幻舟氏が甲高く、

「ご町内の皆様、たいへんおさわがせいたしておりますが、これは個人的な親子の問題ではありません……」

 と強姦未遂の非を鳴らす。玄関を閉ざし、わたしたちはじっときき入るだけである。

 十二時十分ごろ、演説は終わった。

「もうタイムリミットです」

 千尋は前夜病院に行くとき、妻から「返さなくともいいよ」と借りたサンダルを玄関に投げつけ、もう一度ガラス戸を割って帰って行った。」(前掲『週刊文春』「一度だけ書く」より)

 ・6月 千尋、〈広瀬千尋〉名義で『過去へのレクイエム』(オーク出版刊)出版。

  ――生い立ちから京三告発に至るまでを語った書。内容は以下のとおり。

  • 「第1章 放浪の子 1963~1974」(「おじちゃん」「小さなイタズラ 大きな誤ち」「東京のヒヨコ」「東南アジアの旅」「教科書はマンガ」)
  • 「第2章 子育てごっこ 1974~1983」(「大森分校」「初めての通信簿」「中学時代」「子育てごっこって何?」「淫行」「自殺未遂」「母との確執」「ロスト・バージン」)
  • 「第3章 希望 東京へ 1983~1984」(「大学への失望」「ディスコ狂い」「茶色い瞳のキース」「後遺症」「快楽」)
  • 「第4章 堕ちる 1984~1986」(「鋼鉄の処女」「甘い夜」「唯一の友 理奈」「ミミ・ローリー・ちひろ」「ホテトル事件」「沖縄へ」)
  • 「第5章 半生 1963~1986」(「五才の罪」「一期一会」「エピローグ《レット・イット・ビーを聞きながら》」)。

 ・6月7日 千尋、花柳幻舟とともに「淫行の証拠」と称する2月18日のテープを公開、終結宣言をする。

「千尋さんやその“指導者”花柳幻舟さんは、このテープこそ三好京三氏の“ワイセツ行為”を証明する何よりの証拠、としているが、テープを聞いたところでは、それほど明確なものではない。」(前掲『週刊サンケイ』「「幻舟演出」で三好京三氏“淫行自白テープ”まで公表した養女千尋さんの怨念」より)

 ・6月12日 京三、『週刊文春』6月19日号に手記「一度だけ書く――娘・千尋、花柳幻舟氏の実力行使でついに沈黙を破った!」を発表。

「親子のあらそいを、人様の前でやるものではない、千尋はいつか興奮がさめ、自分のことばで話しにやってくる。隠忍し、ひたすらそれを待つ、というのがこれまでの態度であった。マスコミを避け、身を隠したのも、そこは親子問題のための土俵ではないと判断したからだ。ひたすら待った。まがまがしい事実は断じてない。それを仰々しくマスコミ沙汰にした千尋が解せない、腹だたしい。しかし沈黙を守る。他人語で話し、行動している千尋は、やがて自分のことばをとりもどす。そう信じていた。」

「三月、いたずら事件が麗々しくマスコミに紹介されるに及び、わたしは貝になった。何よりも、あのようなことを引き起こした千尋が、わたしの十年間育てた子どもであった。それがすべてである。弁明の余地はない。わたしの小説、エッセイの読者、講演をきいてくださった方々には、お詫びのことばもなかった。

 断じていたずらの事実はない。しかしそのことを言いたてたところで、元教師の力不足の罪が、毫も軽減されるものではなかった。(引用者中略)

 わたしの身を案じてくれる人たちのためにも、事実の表明をあえてしなければならないのではないか、いや、親子の問題を明るみにさらすのは、どうあってもまちがいだ、という相剋の中で、けっきょくは沈黙を続けた。そのみずからの禁を破って筆をとったが、わたしはふたたび沈黙にもどる。事実は無根である。」(前掲『週刊文春』「一度だけ書く」より)

 ・7月 千尋、〈広瀬千尋〉名義でヌード写真集(マドンナメイト文庫)刊行。

 ・8月 千尋、幻舟事務所から独立。

「千尋さんの生活は全く改善されることもなく、しかも、6月の末、相変わらずマンションに黒人を出入りさせている千尋さんの生活が『フライデー』に載ってしまった。

 これには、さすがの幻舟さんもあきれ返ったようだ。

「養父として育てられた恩があり、しかも三好は、教育者、文筆家であったわけです。そういう人を告発するということは、大きな権力に立ち向かうということですけど、闘う人ほどその身辺は、限りなくきれいにしていなければいけないんです。じゃなければ、いくら告発しても世間に信じてもらえないでしょうし、三好を正当化することになってしまいます。」(引用者中略)

「六本木辺りで面白おかしく遊び戯れることなんかもう卒業して、華やかなものだけを追うのではなく、地道にひとつひとつ積み重ねていくという生き方になってもらいたい。(引用者中略)人は、本能のおもむくままに生きるのではないと思うんです。だから人間だと思うのです。

 人間としての誇りある生き方をしてほしい」」(『週刊サンケイ』昭和61年/1986年8月21日・28日合併号「花柳幻舟から「私の元を旅立った千尋」へ」より)

 ・10月~翌年1月 千尋、『週刊大衆』10月27日号~翌年1月19日号に風俗レポート「あぶないあぶな~い突撃ルポ 千尋がイク!」を連載。

「ある女性誌の編集者はこう言う。

(引用者中略)小説を書きたいというので書かせたら、これはまるでダメでした」

 千尋さんの実父は放浪作家のきだみのる。才能は遺伝しなかったようだ。しかし、小説を発表したことはした。黒人男性と交際していたときのことを書いたものだが、関係者はつぎのように言う。

「セックスシーンなんかも、喋らせると実にリアルなんですけどね。表現力が足りないんで、文章にするとどうしようもない。結局、ゴーストライターを使わなければなりませんでした」

 それでも活字の世界で生きたいという望みは捨てられないようで、近頃では風俗関係の女性たちに取材したルポなどを、週刊誌に書いている。」(『週刊文春』昭和61年/1986年12月25日号「1986年の「回顧録」 才能は遺伝しなかった?三好千尋サンの“執筆活動”」より)

 ……昭和61年/1986年に吹き荒れた嵐です。ここから先、千尋さんがメディアで発言する機会は、多少あったのですが、父親の淫行のことは絶えて口にしなくなります、なぜだか。

          ○

 ……前段階で、記事タイトルに「『子育てごっこ』の結末」と付けてしまった週刊誌がありましたね。先走ってしまったようです。結末はまだ訪れていません。そこから先があります。

■昭和62年/1987年 【京三(56歳)・千尋(24歳)】

 ・このころ 千尋、黒人兵を追って渡米。在米中に中国系男性と交際。

「一時、週刊誌に風俗レポートを連載したりしていたが、

「連載が終った昭和六十二年初め、黒人兵を追っかけて渡米し、四ヵ月ほど滞在してました。その黒人兵との間がうまく行かなくなると、今度は向うで知り合った華僑の愛人になって遊び回っていたようです。

 と彼女を知るあるジャーナリスト。」(『週刊新潮』平成2年/1990年5月3日・10日合併号「親子の縁も切る「子育てごっこ」三好京三父娘」より)

■昭和63年/1988年 【京三(57歳)・千尋(25歳)】

 ・6月ごろ 千尋、マリーン関係の会社の事務職に就く。

「「いまはOLをやっています。クルーザーを作って販売するマリーン関係の会社の事務で、毎日9時出勤です。だからお酒もずいぶん減ったし、踊りにいくのも2週間に1回くらいかしら」(引用者中略)

 一時はスキャンダルを利用して芸能界入りか、とも噂された。事実、週刊誌のレポーターをやったり、自身の写真集を出版したりしたが……。

「結局、回ってくるのは風俗の仕事ばかりでしょ。いくら生活のためとはいえ、男の人を喜ばせるためのものなら男の人がやればいい、と思って仕事がきても引き受けなくなったんです」(引用者中略)

 彼女はいま、三好氏に対してどんな気持でいるのだろうか。

「以前から三好さんとは、本気で親子で話し合う機会がありませんでした。あの人は教育者だし、お互い逃げてたんです。あのときは、わたしも子供でしたし……。でも、いまのままでは三好さんとの接触はないでしょうね」

 これに対して三好氏は――、

「親子のつもりでずっとやってきたので、どかんとやられてびっくりしました。目が覚めることを期待しています。本人が反省してこちらに接触してきたら、そのときまた考えます。絶望はしているにしても、いまは静観している状態です」」(『アサヒ芸能』昭和63年/1988年8月4日号「この有名人「事件のしこり」 佐々木千尋“子育てごっこ”モデルはお化粧もやめOL勤め」より)

■平成1年/1989年 【京三(58歳)・千尋(26歳)】

 ・このころ 京三、過労から一過性の心筋梗塞により入院。

  ――週刊誌の記事が、京三の忙しさを伝えている。

「「三好さんは岩手県では相変らず人気のある直木賞作家です。名士の一人として、文壇以外の人たちとの付合いは、あの事件の後も変ってませんし、講演も、地元を中心によくやってます」

 と地元記者。

「本業の執筆の方でも、地方紙に連載していた歴史小説がもうすぐ本になるそうですし、ほかにもスケジュールが一杯に詰っているということです」」
(前掲『週刊新潮』「親子の縁も切る「子育てごっこ」三好京三父娘」より)

  ――京三の人生を題材にした橘善男の小説では、次のように書かれている。

「一九八九(平成一)年三月二十七日。五十八回目の誕生日を迎えたこの日から、歴史小説『生きよ義経』が地元の岩手日報をはじめ、新日本海新聞、日刊福井、倉敷新聞、東奥日報、日高報知、十勝毎日新聞、千葉日報、鹿児島新報の九紙で連載開始となった。(引用者中略)この二、三年は新聞連載小説がつづき、京三は目のまわるような忙しさに追われた。(引用者中略)

 机にうつぶせる京三の額に脂汗が浮いていた。顔面は蒼白である。

 京子はあわてて救急車を呼ぶ。

 担架に乗せられた京三は、一関市の磐井病院に運ばれた。

 過労からきた一過性の心筋梗塞と診断され、三日間の入院を余儀なくされた。」(平成15年/2003年8月・鳥影社刊 橘善男・著『風媒花抄―小説・三好京三―』「第四章 惻隠の心」より)

 ・このころ 千尋、花柳幻舟との連絡を断つ。

「“告発”の記者会見をアレンジした花柳幻舟さんも、

「私と千尋さんが連絡を取り合っていたのは四年前(引用者注:平成1年/1989年)まで。私の誕生日には必ず電話をくれたり、バースデー・カードを送ってくれたりしていたんですが」」(『週刊文春』平成5年/1993年3月4日号「「子育てごっこ」騒動から7年 直木賞作家三好京三父と娘 四つの和解条件」より)

■平成2年/1990年 【京三(59歳)・千尋(27歳)】

 ・5月 千尋、OLをやめ既婚男性と不倫同棲していることが報じられる。また、京三夫婦との養子縁組解消が大詰めの段階に入っているとも伝えられる。

「千尋さん側の近況を語ってくれるのは、今は群馬県で喫茶店を経営している彼女の実母(六二)である。(引用者中略)

「現在彼女は、不動産関係の仕事をしている妻子持ちの男性とあの市ヶ谷のマンションで同棲していて、それで、その男性と一緒に、何か会員権を売るような事業を考えているようなんですね。」」

「「三ヵ月か四ヵ月ほど前だったですかねえ、養子縁組の解消と、何をどう分けるのかという財産分与の話が大分煮詰っていて、あと一、二回の裁判で決定するという話を聞きました」

 と言うのは、三好氏と親しいある編集者だ。」(前掲『週刊新潮』「親子の縁も切る「子育てごっこ」三好京三父娘」より)

■平成3年/1991年 【京三(60歳)・千尋(28歳)】

 ・このころ 京三夫婦と千尋の間の養子縁組が解消。

――以下は、京三がのちに発表した小説「和解旅行」より。あくまで小説なので事実とは限らないが、参考までに引用する。

「一、向後、ばかばかしい傷つけ合いは誓ってなしにすること

二、信吉は、吏華をモデルにエッセイを書かず、講演の材料にもしないこと

三、吏華は××万円の自立資金を受け、マンションを明け渡すこと

四、右の条件により、信吉、容子と吏華との親子関係を解消すること

 たがいに弁護士に相談するという時期もありはしたが、けっきょくは第三者を入れない、当事者間だけで、右のような申し合せによる和解が成立したのは、昨年の六月のことだ。」(『三田文學』平成5年/1993年冬季号[2月] 三好京三「和解旅行」より)

■平成4年/1992年 【京三(61歳)・千尋(29歳)】

 ・ 京三、『三田文學』編集長の坂上弘から小説の依頼を受ける。「和解旅行」の構想を練る。

■平成5年/1993年 【京三(62歳)・千尋(30歳)】

 ・2月 京三、『三田文學』冬季号に小説「和解旅行」発表。

「ほかの子だったら、高校時代、夜遊びが多くとも、大学時代、単位をとらずに黒人兵と踊りくるっても、特に注目を浴びることはなかったはずである。信吉が書いたから吏華は目立った。それに反撥し、吏華は放埓を尽した。揚句の果ては恥も外聞もない親子の争い。

(引用者中略)

 容子が吏華を心から許し、信ずる気持になったのは、三ヵ月前、この旅のガイドを申し出るときに、吏華が珍しくきちんと膝を揃え、両手をついて、

「お母さん、ごめんなさい。あのときは変な人に脅されて、嘘をつきました」

 と、おぞましい事件について詫びてからである。信吉にも同様のことを言ったのかどうか、容子はわからない。」(前掲『三田文學』「和解旅行」より)

  ――同作発表後、『週刊文春』がこの小説について記事を組んだ。

「執筆の動機を三好氏本人に語っていただこう。

「私は『子育てごっこ』を純文学のつもりで書きました。ところが、この作品で直木賞をいただいたので、その賞や雑誌に相応しい作品を心がけるようになり、純文学を書く機会をあまり持てないできたのです。

 ですから、純文学雑誌の『三田文學』の坂上(引用者注:坂上弘)編集長に、『珠玉の短編を書いてくれ』と依頼されたときには、正直いって胸がときめきました。

 そのとき、テーマとして『子育てごっこ』の続編を、しかもそれを超えるものを書かなければ、と思ったのです。

 『子育てごっこ』はバカバカしい事件のために、薄汚れた社会的話題になってしまったことがあります。私はそれを無視する態度を通しました。

 しかし、この依頼があったとき、偶然、娘との和解が出来ていたこと、坂上弘さんが『子育てごっこ』で文學界新人賞をいただいたときの審査員であったこと、そして純文学を書くのが『子育てごっこ』以来久方ぶりであることなどの条件が重なって、この小説が書けたのです」

(引用者中略)

「これで『子育てごっこ』のテーマは完結しました。もう取り上げることはないでしょう」」(前掲『週刊文春』「「子育てごっこ」騒動から7年 直木賞作家三好京三父と娘 四つの和解条件」より)

■平成7年/1995年 【京三(64歳)・千尋(32歳)】

 ・3月 千尋、イギリス人と結婚。

  ――それより前、ロンドンで大学に入学し4年間で卒業。現地で銀行に就職。

「わたしは最近、イギリス人と親しく接する機会を得たが、その若者の礼儀正しさと抑制のきいた暮しぶりは、まさに小気味がいい。(引用者中略)前記のイギリス人の若者というのは、わたしの小説「子育てごっこ」に出てくる少女と、一昨年(引用者注:平成7年/1995年)結婚してくれた、謹厳な婿殿なのである。」(『潮』平成9年/1997年6月号 三好京三「躾そして宗教」より)

  ――以下は、京三の妻の談。

「ずっと親子関係を続けておりました。立ち直ったのは、娘自身の力です」

 と、京子さんは語る。

「娘は後にロンドンにある大学の首席となり、現地で銀行に就職しました。(引用者中略)

 英国人との良縁にも恵まれ、娘夫婦はよく帰省した。」(『週刊新潮』平成19年/2007年5月24日号「墓碑銘 『子育てごっこ』で直木賞 三好京三さん家族のそれから」より)

■平成8年/1996年 【京三(65歳)・千尋(33歳)】

 ・11月現在で千尋、都内の銀行に勤務。

「愛称「ミミちゃん」。都内の大手銀行に勤め、いまは三十三歳。今年夏、岩手県大船渡市の船渡洋子さん(六三)の自宅に、二十数年ぶりに元気な顔を見せた。(引用者中略)

 県内の中学、高校に進学したミミちゃんは、やがて都内の女子大に入る。だが、「子育てごっこ」のモデルというだけで、世間からは好奇の目で見られた。その反動で、私生活は荒れ、あげくは三好氏を名誉棄損で訴える事態にまで発展した。「養子解消か」と週刊誌やワイドショーが騒いだ。

 そのミミちゃんも昨年、英国人と結婚し、落ち着いた生活を送っている。以前のような突っ張った態度は消えていた。

 近況を話しているうちに、「おばちゃんには、いろいろ心配かけたね」と、ちょこんと頭を下げた。」
(『朝日新聞』平成8年/1996年11月9日 東京地方版「東京ものがたり 再会 当時9歳だったミミちゃんは」より 署名:(泉))

■平成9年/1997年 【京三(66歳)・千尋(34歳)】

 ・このころ 京三、講演のさいに「人間は変われる、か?」という演題を用いることが多くなる。

「人間は変われる、か?

(一九九七年以後、京三が好んで用いた講演演題)

 講演のたびに京三は、吏華と自分の生きざまを中心に置きながら、誰にでも自己変革の可能性があることを説いた。

 自己を変える秘訣はただひとつ、それは努力という二文字を継続することです。成功したひとは、ともすればこの二文字を隠して話します。それを鵜呑みにしてはいけません。

 わたしの娘はせっかく入学した大学を、一単位も取得できずに退学しました。その後イギリスに渡り、 自分の意志で大学に進学し、そして四年間で卒業しました。親のわたしが言うのもおかしなことですが、優秀な成績で卒業しています。日本では一単位も取れな かった、あの娘がです。(引用者中略)

(一九九八年十月二十一日/神奈川県茅ケ崎西浜高等学校での講演概要)」(前掲『風媒花抄』「第四章 惻隠の心」より)

■平成17年/2005年 【京三(74歳)・千尋(42歳)】

 ・1月現在で千尋、大手銀行に勤務しイギリス在住。

「娘はわたしの小説「子育てごっこ」のモデルだが、現在はすてきなブリティッシュジェントルマンと結婚して、大手銀行に勤めている。それで電話をもらうとか、夫と共に帰省した娘と十日間ほどを一緒に暮らすのが、嬉しくてたまらない。(引用者中略)

「いつもお父さんとお母さんのそばにいてあげるから」

 と、夫と二人の写真を居間、応接間、寝室の各所に何枚も掲げて行った。」(『フォーブス日本版』平成17年/2005年10月号 三好京三「孫待ちごっこ」より)

■平成19年/2007年 【京三(76歳)・千尋(44歳)】

 ・3月25日 京三、入浴中に倒れ入院。

  ――千尋、京三の看病に訪れる。

 ・5月11日 京三、脳梗塞により死去。

 ・5月15日 京三、葬儀・告別式が霊桃寺で営まれる。千尋、夫とともに葬儀に参列。

「葬儀では元分校児童が「私たち教え子の行く手を温かく見守ってください」と話しかけた。44歳となった(引用者注:「子育てごっこ」の)モデルの元女児も遠方の嫁ぎ先から参列し、ただただ号泣していた。」(『毎日新聞』平成19年/2007年6月6日「悼 作家・三好京三さん」より 署名:石川宏)

「500人余りが参列した葬儀には英国から娘夫妻も駆けつけ、祭壇の前で号泣した。妻京子さんによると、意識が遠のく病床で最後に口にしたのは、娘を託した英国人の夫の名前だった。」(『朝日新聞』夕刊 平成19年/2007年6月22日「惜別 直木賞作家・三好京三さん 岩手を愛した元熱血教師」より 署名:加賀元)

「県内の文芸愛好家による文芸同人誌「天気図」の第六号が発行された。同人の立川ゆかりさん(花巻市東和町)が故三好京三さん追悼として紀行文「三好先生と歩く」を執筆。(引用者中略)目を引くのは、「子育てごっこ」のモデルで一時確執が伝えられた養女「吏華」(作中の名前)との和解を描いた小説「和解旅行」の一節が紹介されている点だ。

 「三田文学」に発表された同作は単行本未収録のため、事実上「幻の作品」と化している。「吏華」さんは三月に倒れた三好さんの看病に駆け付け葬儀にも参列しているが、メディアの取材は固辞しているだけに、伝記資料としての「和解旅行」の重要性が際立つ。」
(『岩手日報』夕刊 平成19年/2007年12月6日「2年ぶり6号発行 県内の文芸誌「天気図」 三好京三さんの追悼も」より)

 ……昭和61年/1986年の騒動のとき、三好京三さんは「おれの作家生命が断たれる」と口走ったそうです。そりゃそうでしょう。青年時代から、何でもいいから新人賞をとって自分は作家になるんだ!と夢を持ち続けていた人です。ようやく作家の座をつかんだんですよ。しかも、「直木賞作家」と言えば、岩手の人たちは尊敬のまなざしで仰いでくれるし。ここから脱落したくない、と思わないわけないですもの。

 しかし、京三さんの不安は杞憂だったのかもしれません。大スキャンダルを経てもなお、結果的に、「直木賞作家」のメッキは剥がし落とされなかった、と見ていいでしょう。「直木賞」の虚名性が、ゴシップの虚飾を上まわった、さすがだなあ直木賞。……とワタクシなどは思ってしまうわけです、ぐふふふ。

 いずれにしても京三さんは、千尋さんとの出会いのおかげで直木賞がとれました。直木賞のおかげで作家になれました。直木賞作家になったおかげでゴシップに巻き込まれました。直木賞作家の肩書に守られて文学人生を最後まで突き通しつづけられました。おお、まさに。直木賞を代表する作家です。

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コメント

素晴らしいブログ記事でした、ありがとう

投稿: | 2016年2月 6日 (土) 13時12分

千尋さんが入学したのは、岩手県立一関第一高等学校です。

投稿: コメントごっこ | 2016年12月18日 (日) 21時13分

コメントごっこさん、

誤りに対するご指摘、ありがとうございます。
本文、訂正させていただきました。

投稿: P.L.B. | 2016年12月21日 (水) 22時01分

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この記事へのトラックバック一覧です: 三好京三(第76回 昭和51年/1976年下半期受賞) あることないこと小説に書いて、あることないこと書き立てられて……。「直木賞作家」の鑑です。:

» [直木賞受賞作家]『北の文学』第55号(平成19年/2007年11月)「三好京三氏追悼特集」 [直木賞のすべて 資料の屑籠]
直木賞史上最大のゴシップの主人公となった三好京三。彼は岩手県の有力文藝誌『北の文学』から作家人生をスタートさせ、一時休刊となっていた同誌が昭和55年/1980年に復刊すると、編集委員を引き受けた。以後、長きにわたって編集委員を務め、岩手の地で新進作家の育成に大... [続きを読む]

受信: 2011年11月23日 (水) 01時01分

« 戸川幸夫(第32回 昭和29年/1954年下半期受賞) 日々精進する勉強集団、新鷹会。ゴシップネタを生み出す集団、新鷹会。 | トップページ | 原尞(第102回 平成1年/1989年下半期受賞) 直木賞と無縁であることが似合う作家・作品に、直木賞が授けられてしまった奇跡。 »