戸川幸夫(第32回 昭和29年/1954年下半期受賞) 日々精進する勉強集団、新鷹会。ゴシップネタを生み出す集団、新鷹会。
戸川幸夫。「高安犬物語」(『大衆文藝』昭和29年/1954年12月号)で初候補、そのまま受賞。作家デビュー作。42歳。
よ。待ってました。いぶし銀のシブーい大御所の登場です。
まあ、たいていの大御所はシブーいものなんでしょうけども。
毎日新聞記者であり、『毎日グラフ』編集次長だった戸川幸夫さんが、直木賞をとったのは昭和30年/1955年のことでした。第32回(昭和29年/1954年下半期)です。以前とりあげたことのある有馬頼義さんが受賞して、すぐ次の回でした。
ちなみに戸川さんも、直木賞を受賞した直後の活躍は、有馬さんに負けず劣りません。受賞したその年から早くも、『オール讀物』や『別冊文藝春秋』をはじめ、数多くの雑誌に作品を発表しはじめました。
この働きぶり。職業作家として申し分がありません。でも、戸川さんは直木賞を受けた当時は、まだ「小説家」ではありませんでした。なにしろ「高安犬物語」は、小説を書くぞと意識して書き上げた、実質はじめての作品だったんだそうで。
「高安犬物語は私が小説らしい小説を書いた第一作のものであった。
実をいうと、私は当時、新聞記者をやっていて、ちょいちょい雑文めいたものは書いていたが本格的な小説は書いたことがなかった。
ある時、作家になっていた友人が、私に「本格的に小説を勉強してみる気はないか」といった。」(昭和31年/1956年12月・大日本雄弁会講談社/ロマン・ブックス『直木賞作品集4』所収 戸川幸夫「あとがき」より)
戸川さんを誘った「作家になっていた友人」とは誰か。それは俺だ、と村上元三さんは言っております。
戦時中、村上さんは海軍報道部の指令で南洋におもむきました。その際、報道班員として働いていたのが毎日新聞の戸川幸夫さんだったのですね。それ以来、親しくなったのだとか。
「そのころ(引用者注:昭和29年/1954年)の戸川は、われわれの新鷹会に入ったばかりで、毎日新聞社に籍があり、日本で初めてではないか、と思う写真を主にした日刊紙の編集長になっていた。
戸川とはそれまであまり深いつき合いではなかったが、新鷹会へ入ったのは、わたしの紹介で、最初に読んだのが「高安犬物語」であった。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊 村上元三・著『思い出の時代作家たち』「十六」より)
ははあ。そうですか。
ただし、戸川さんが新鷹会に入るに至った経緯については、
「朝日の社会部記者だった大庭鉄太郎のすすめで、昭和二十八年十二月に長谷川伸を中心とした新鷹会(二十六日会)の研究会に出席、」(昭和40年/1965年7月・冬樹社刊『戸川幸夫動物文学全集第1巻』 尾崎秀樹「解説」より)
とする人もいたりして、やや混乱しているんですけども。
ともかくも戸川さん、小説の勉強のために長谷川伸の門を叩いたと。やがて数か月後、ついに、不安と緊張の入り混じったアノ日を迎えることになるのでした。
もはや伝説となっている、アノ日です。
「新鷹会へ入って会員と認められた新人は、先ず会の席上で自作を朗読する義務があった。朗読といっても、なにも節をつけて朗々と読む必要はないが、正面には長谷川伸先生がきちんと膝も崩さずに坐っている。」(前掲『思い出の時代作家たち』「十六」より)
戸川さん、42歳にして生まれてはじめて、自分の書いた小説を人前で朗読する羽目になる図。しかも、戸川さん自身は、
「実をいうと私は長谷川先生の門に入れてもらったのは、作家になる希望からでなく、先生の訓話を聞くためだった」
と言っているくらいでして。いかに冷や汗ものだったかがしのばれます。
アノ日……つまり、この朗読が行われたのは、昭和29年/1954年10月15日、新鷹会の研究会の日だったそうです。村上さんも、上記の文章の先で書いています。直木賞受賞作にまつわる名場面の一コマと言っていいでしょう。
今回は、記憶力に難のある村上元三さんではなく、同じ新鷹会の古参会員、棟田博さんの回想を引くことにします。ごめんね、元三さん。
「戸川君が「高安犬物語」を読んだのは、いま調べてみると昭和二十九年の十月の席上であった。戸川君は新鷹会に入ってから、まだ一ヵ年とちょっとくらいであったと記憶している。
中央の机に原稿をひろげて、
「では、お願いします」
といってから、
――チンは、高安犬としての純血を保っていた最後の犬だった、と私はいまも信じている……
と、低い声で読みはじめた。
私は、あまり上手とはいえない戸川君の朗読に耳を傾けながら、お庭の仙台萩の白い花が風に揺れているのを眼に映していた。(引用者中略)
「終り」と戸川君はいい、誰彼の批評を待つ表情で、ハンカチで額を拭いた。
誰も発言をしなかった。そのかわりに全員の一斉の拍手が湧き起った。
すでに二十年以上の昔になるが、そのときの情景を私はよく憶えている。聞いていたすべての人々を搏った清冽なあの感動は、そうたびたび味わえるものではない。
事実、私の知るかぎりでは、朗読が終ったあと全員の拍手を浴びた作品は戸川君の「高安犬物語」のほかにはない。」(昭和51年/1976年8月・講談社刊『戸川幸夫動物文学全集第4巻』「月報4」所収 棟田博「清冽な感動」より)
ちなみにこの名場面については、戸川さん自身の目から振り返っている文章も残されています。以下、合わせて堪能しておきましょう。
新鷹会に参加したばかりの戸川さんは、自分では書かず、ただ他の会員の発表を聴講して数か月を過ごしたと言います。しかし、昭和29年/1954年3月15日のことでした。長谷川伸さんの古稀の祝いの席で「新鷹会賞」の設定が発表されまして、会員は決められた月に作品を朗読しなくてはならない、と決まってしまうのです。
さあ、のんきに構えてはいられなくなりました。20年ほど前の思い出をもとに、小説づくりに取り組みはじめます。米沢に取材に出かけたり、山形弁と米沢弁の使い分けを旧友に頼んで書き直してもらったり、耳ざわりになりそうな部分を推敲したり。
「さてこれでよしと思ったらとたんに“ハテこれが小説といえるじゃろか”とむやみに気になり出した。しかしもう研究会の前日になっていたからいまさら仕方がない。ズタズタに批判されることを覚悟して一同の前に座った時は頬がこわばってボーッとなった。これで四十二才新聞記者を十八年もしてきた男なんですよ。
読み終って拍手を戴いた時は身体がガクガク震えた。」(『大衆文藝』昭和30年/1955年3月号 戸川幸夫「受賞呆然記」より)
新鷹会といえば、真剣に小説づくりに邁進する「大衆文芸バカ」がひしめき合う場です。そこで、満場の拍手を浴びた稀有な作品。読み終えて、作者がガクガク身体を震わせた、息遣いと熱気。そんなものを想像しながら「高安犬物語」をいま、50ン年たってワタクシたちは読むことができるのですよ。幸せじゃないですか。
○
今日は、新鷹会、新鷹会、とくどいほど書いています。この会のことは、これまでも、うちのブログではたびたび触れてきました。
直木賞オタクにとって、なぜ新鷹会は外せない存在なのか。……数多くの受賞作家、候補作家を輩出しているから、ってだけではありません。その発表媒体である『大衆文藝』(第三次)を発行していた新小説社の島源四郎さんが、もう可愛いほど直木賞大好き人間だからなんです。
たとえば、昭和29年/1954年当時。このころ、『大衆文藝』は経営難から一度休刊して、どうにか昭和28年/1953年に復刊を果たして、まもないころでした。
再スタートを切った。でも経営はまだ苦しい。そんな折り、「高安犬物語」が直木賞の候補に残った! 『大衆文藝』の編集後記には、喜びがハジけています。
「この後記を書いている時に、二十九年度後期の直木賞候補者と作品の発表がありました。幸いにして、本誌よりは、七、八、九月号に連載した邱永漢氏の『濁水渓』と十二月号に発表した戸川幸夫氏の『高安犬物語』の二篇が採り上げられて居ります。二篇共昨年度に於て傑出した作品でありますが、本誌に掲載された作品がその作者の第一作品であるに拘らず候補になた(原文ママ)と云うことは真に喜ばしいと同時に本誌編集部の強靭な精神を買って頂きたい。他の大衆文学を掲載している雑誌が新人を扱う場合は、懸賞で出るか、さもなくば、余程大家の推薦でもない限り採用されない。すでに直木賞候補作者となれば、水準以上の作品を書いている者と認定されるのであります。本誌は今回の光栄におごることなく益々大衆文学発展の為めに努力を致す者であります。」(『大衆文藝』昭和30年/1955年2月号「編集者の手帳」より 署名(G))
いや、ハジけている、っていうより、ネトーッと粘りついている、とでも言いましょうか。
大手版元の大衆誌や中間小説誌などより、うちの雑誌のほうがよっぽど苦しんでいる、だけど偉いんだぜ、と裏の声が聞こえてきそうです。ええ、島さん、そんなに言わなくても『大衆文藝』誌の貴重な功績はわかっておりますですよ。ええ。
それで島源四郎さんは、出版業界人にして直木賞好き。ってことで、うちのブログではもはやおなじみの、あの妙ちくりんな確固たる直木賞観の持ち主でもありました。
「直木賞は、はじめての候補で授与されることはほとんどない」っていう。
「直木賞は初期の頃の新人発掘に重点を置かずに、受賞者が作家として堂々と世間に乗り出して行ける人を、取るのだそうであります。ですから一作や二作の佳作を発表した位では、中々受賞してくれません。幸い戸川氏が報道文学、随筆、其他の業績と、十八年という第一線の新聞記者生活がものを云ったと思います。」(『大衆文藝』昭和30年/1955年3月号「編集者の手帳」より 署名(G))
何つったって、直木賞作家の先輩、かつこの回から選考委員になった村上元三さんが、「直木賞は二回三回と候補になって、それから受賞するのが理想。おれみたいに」っていう直木賞観の持ち主ですからねえ。『大衆文藝』誌界隈では、直木賞といえば一回ではとれない、と話が広まっていたとしても不思議じゃありません。
むろん、戸川さんの耳にも、その噂は届いていました。
「直木賞候補作品になったと聞いた時は、もっと呆然となった。芥川賞や直木賞なんて、遙かな雲の上のものと考えていたが、その雲がスーッと顔の上に近づいたように思われた。
しかし聞くところによると、直木賞は一回でパスすることはまずない、という話だったから、私は賞決定の夜も東京には居なかった。
それがパスしたことを新聞で知って一層呆然とした。」(前掲『直木賞作品集4』「あとがき」より)
ということで、戸川さんは直木賞受賞を直接知らされることのなかった受賞者のひとりとなってしまったのでした。だれか、「直木賞って、初候補でも受賞すること、けっこうあるんだってよ」と教えてあげていれば、よかったのに……。
○
もう一発、島源四郎さんってほんと、直木賞の世界が好きなんだなあ、と思わされるハナシを。
第32回(昭和29年/1954年下半期)。以来、第102回(平成1年/1989年下半期)まで35年の長期にわたって選考委員を務めることになる村上元三さんが、はじめて選考会に参加した回だった、ってことはさっきもご紹介しました。
ふだん仲のいい作家どうしが、片や選考委員、片や候補作家、なんてことになると、とたんに直木賞好き(直木賞ゴシップ好き?)は胸がおどるものです。けっきょく私情をもちこんで選考するわけでしょ、ちがうのかい、おう、おう、と妄想モードが発動してしまうからです。
新鷹会の先輩、村上元三が、後輩、戸川幸夫の作品を選考する。……どんな選考をしたのでしょう。
まずは村上さんの答弁より。
「うれしくもあり、また困ったのは、いろんな候補作品がふるい落され、戸川君の「高安犬物語」と梅崎春生君の「ボロ家の春秋」の二作にしぼられてきたからであった。こういう場合、あくまで委員は公正であり、私情をまじえてはいけない、と思ったものの、いい作品はいい作品に違いないのだから、自分の意見は正直に述べた。
結局、第三十二回の直木賞は、戸川君と梅崎君に決った。はじめて委員になって、友人が直木賞を得たのはうれしいが、あまりにたにた笑顔を見せるわけに行かず、我慢をした。」(昭和51年/1976年9月・講談社刊『戸川幸夫動物文学全集第5巻』「月報5」 村上元三「直木賞と戸川君」より)
まあ、ぎりぎり理性を保って公正にやりました、というわけでしょうか。
これが、島源四郎さんの手にかかるとどうなるか。
「戸川幸夫さんが「高安犬物語」で昭和29年の下期に受賞していますが、この時の審査員に長谷川先生の門下から村上元三さんがはじめてなったんです。そこで一所懸命、同門の戸川さんの作品の提灯もちをしたらしいのです。」(『日本古書通信』昭和60年/1985年5月号 島源四郎「出版小僧思い出話(10)終戦直後の出版界――直木賞のうら話など」より)
ぷっ。「提灯もち」……! ひ、ひどい。そして面白い。
直木賞が放つきらびやかさと、バカバカしさ、両面とも好きでないと、こんな表現は出てこないでしょうに。島さん。島源四郎さん。代わりに、「直木賞のすべて」のブログを書いてもらいたいぐらいですぜ。
そして、こんな方の率いる『大衆文藝』誌や、そこに原稿を載せていた新鷹会の方々だからこそ、ワタクシは〈直木賞のなかの新鷹会〉が好きなのです。
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コメント
戸川幸夫さんの新鷹会入会のいきさつを拝読させていただきました。大庭鉄太郎氏は本名、小平徹男さんと言い、神奈川新聞を皮切りに朝日新聞社の記者をお勤めになり、朝日退社後、婦女界の編集長を経て、また海軍の報道班員として南方に赴きました。戦後は本名で童話作家としても活躍、時代物作家としては山手樹一郎先生に兄事、長谷川紳先生に師事しました。社会部時代に毎日の戸川さんと記者仲間であったようです。年月日は失念しましたが、初期の頃の「私の履歴書」(日経新聞)に、戸川さん自身で、入会のくだりを書かれていました。貴者が尾崎氏の言を借りて、晩年の村上氏の良い加減さを、はっきりさせられたことは、件を知るものとしては、とても痛快至極、梅雨の合間の爽快事と感じ入りました。
投稿: 連心斎 | 2012年6月25日 (月) 16時28分
連心斎さん、
戸川幸夫さんご本人も「入会のくだり」を書かれていたんですね。
ちゃんと調べて紹介すればよかったですが、手間を惜しんでしまいました。
教えていただき、ありがとうございます。
また、大庭鉄太郎さんについてのご教示にも感謝いたします。
村上さんの晩年の回想は、読む分には面白いのですが、
ところどころ「んん?」と思わされるところもあり、
調べる身にとっては、ほんと苦労させられます。
投稿: P.L.B. | 2012年6月26日 (火) 00時54分