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2011年11月 6日 (日)

伊集院静(第107回 平成4年/1992年上半期受賞) ほんのわずかな選評に傷つき、または勇気づけられ。……作家になるまでにいろいろあったうちの一ページ。

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伊集院静。『受け月』(平成4年/1992年5月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「皐月」でのデビューから11年。42歳。

 平成23年/2011年11月6日、今日東京では雨が降りました。天よりのしらせと受け取りまして、雨が降ったらこの作家、今日は伊集院静さんについてのエントリーを書くことにしました。

 ……っていうのはウソなんですけどね。たまたまです。

「受賞から丸二日。(引用者中略)

「あの日(引用者注:直木賞受賞の決まった日)は朝からベタ曇りで、今にも降り出しそうだったんですよ。ぼくの人生の転機には必ず雨が降るんです。吉川英治文学新人賞の時も、それから女房が死んだときも、やっぱり雨でした」」(『週刊文春』平成4年/1992年7月30日号「新直木賞作家伊集院静氏 祇園に沈む」より)

 直木賞受賞からさかのぼること3年前。平成1年/1989年、伊集院さんは処女小説集『三年坂』を刊行しました。はじめて小説を書いた昭和53年/1978年ごろから、すでに10数年たっていました。

 その間、伊集院さんは何をし、どんな心境でいたのか。嬉しいかな、ここ最近、当時のことを舞台にした小説や随想が書籍化されています。『いねむり先生』(平成23年/2011年4月・集英社刊)や『なぎさホテル』(平成23年/2011年7月・小学館刊)などです。

 もちろん、これらの本には伊集院マジックがふんだんにまぶされています。なので、事実関係をそのまま信用するとイタい目にあうんでしょう。……というか、「事実関係? そんな確固としたものなど、この世にあると信じているのかね?」みたいな伊集院さんの声が、そこかしこから聞こえてきそうな本です。

 酔わされますよお。読まされますよお。一度は小説を書いてみたものの、理解者が少なくて、イジけてしまい、それでも少ない理解者に励まされながらまた小説を書くにいたるまでの心の動き。

 まあ、伊集院さん自身、次のように語るほどの方です。今後どれだけ、当時を回想した文章が発表されたとしても、おそらくはっきりとしたことはわからずじまいなのかもしれません。

「直木賞を受賞する前後から、新聞・雑誌等のインタビューを受けることが続いた。

 その折に決まって聞かれる質問があって、私の返答がいつも歯切れが悪くなってしまうものがあった。

「小説を書くことを何時頃から志されたのですか?」

 そう聞かれる度に、あの時だったか、いや違うな、たぶんあの時期だろうと考え込んでしまった。(引用者中略)

 二十歳の初めに書いた小説はたぶんひどい代物だったろう。その時どうして小説を書いたのかも憶えていない。」(『オール讀物』平成4年/1992年9月号 伊集院静「胡蝶蘭」より)

 伊集院さんは28歳(かそれより前)、昭和53年/1978年ごろに3つの小説を書いたのだそうです。

「『緑瞳の椅子』、『皐月』、『十七階段』。

 それぞれのタイトルである。

 私はこの小説と呼べるかどうかも怪しい、拙い作品を、みっつの小説新人賞の公募へ送った。『皐月』だけを、中間小説誌と呼ばれる「小説現代」(講談社)へ送り、残るふたつは純文学系の小説誌に送った。

 それまで私が読んでいた小説はどちらかというと、純文学系の作家のものが多かった。なぜ『皐月』だけを、そちらの系統の小説誌に送ったのか、今もはっきりとした理由はわからないが、選考委員の一人に結城昌治氏がいて、その人の作品が好きだったせいかもしれない。

 純文学系は二次予選も通過しなかったが、『皐月』の方は最終選考まで残った。」(『なぎさホテル』「第七章 最終選考」より)

 ちなみに「純文学系の小説誌」とは、『本の話』平成15年/2003年2月号のロングインタビューによると、『群像』と『文學界』だそうです。

 純文学誌だの中間小説誌だのと分け隔てをせず小説を応募する、っていうのはよくあるハナシですが、ここで伊集院さんが純文学に固執しないで『小説現代』にも応募してくれて、ほんと、よかった。のちの直木賞受賞は、確実にこのときの『小説現代』応募が大きな転機点となったのですから。

 「皐月」が最終選考に残ったのは、第32回小説現代新人賞です。『小説現代』昭和54年/1979年6月号に決定記事が載りました。選考委員は結城昌治をはじめ、池波正太郎山口瞳野坂昭如五木寛之の5名。最終候補作は7作で、受賞したのは白河暢子「ウィニング・ボール」と後藤翔如「名残七寸五分」の2作。さらに佳作として橋本克「新宿十年殺し」、阿井文瓶「しんなあとりっぷ」の2作が選ばれました。

 応募のさいは、「趙忠来」という本名(正確には改名前の旧名)名義だったそうですが、最終候補の段階では、筆名「伊集院静」。昭和54年/1979年春に選考会が行われます。しかし、まるで歯牙にもかけられず、って感じの扱いだったみたいで、受賞にはほど遠い評価を受けました。

 このことが伊集院さんに、かなりのショックと落胆と憤慨(?)を与えたっぽいです。

 いや、憤慨はウソです。

「新人賞の選考会では、選者の大半に私の作品は無視された。中には、新人がなぜこんな明治、大正時代の副読本のような小説を書くのだとこきおろした選者もいた。

 ただ結城昌治さんだけが、私はこんな作品が好きだ、と発言されていた。」(同『なぎさホテル』より)

 平成12年/2000年の宮崎緑との対談では、こんな表現もしています。

伊集院 父のことは、25歳ぐらいのときに一度書いて、だめだったんです。ある賞の最終選考に残ったんですが、選考委員から酷評を受けましてね。そのときは、自分の小説はだめだというのと、この人たちには私の書いたものはわからないんだという二つの思いがあって、それでしばらく書かなかったんです。」(『週刊読売』平成12年/2000年2月6日号「宮崎緑の斬り込みトーク 「「執筆」と「遊び」に専念 だから人づきあいは悪いです」伊集院静さん」より)

 あるいは、結城昌治さんが亡くなったことを知った直後のエッセイでは、

「結城さんは私が小説誌の新人賞に作品を提出した時、ただひとり誉めて下さった先輩である。二行、十六文字の寸評を切り抜き私は机の壁に数年貼っていた。結城さんはここ数年体調を崩されて、その御礼を申し上げる機会がなかった。」(平成12年/2000年3月・文藝春秋刊 伊集院静・著『可愛いピアス』所収「雪のむこうから」より)

 と、結城さんだけが褒めくれた記憶を語っています。

 よほど結城さんの作品が好きだったんでしょう。それで結城評のみが強く印象に残ったんでしょう。……と、これはワタクシの推測。

 参考までに、この回の選評から「皐月」に関する評を引用しておきます。

「伊集院静さんの「皐月」は、好感のもてる作品で、どこかに難点があるというようなものではないが、迫力なり主張なりが無い。これも懸賞小説としては無理がある。」(山口瞳「白河さんの才能」より)

「「皐月」は、アバズレとまったく逆の世界、古い古い中学校の副読本の文章であり内容であり、これはいかにも新人賞には無理。」(野坂昭如「化ける魅力」より)

(引用者注:「名残七寸五分」と「新宿十年殺し」以外の)五篇についていえば、たとえば白いカンバスへ白の絵具を塗りつけたような感じがした。

 白の上へ白を塗ったところで、白の色は生きてこない。

 生きてこないのが新鮮だというのなら、もう私には、

「どこがよいのか、わからない……」

 ことになってくる。

 そして、一人称の小説というものは、よほどの力量のある作者でないかぎり、その実力をたしかめることができない。新人のうちに一人称の小説ばかり書くのは楽だからだ。」(池波正太郎「感覚の問題」より)

「「皐月」は篤実な作だが、小説の色艶というものについて一考を促したい。」(結城昌治「「ウィニング・ボール」の才気」より)

「残念ながら「名残七寸五分」と「皐月」、「リオ・グランデを越えて」ははずすつもりで選考会に臨んだのである。」(五木寛之「新しい波の予感」より)

 以上5人の選評のなかで、結城さんの書いた「篤実な作」って短いフレーズに、「褒めてくれた」と感じてしまった伊集院さんのイジらしさ。……その伝でいけば山口瞳さんも、いちおう、ひとこと「好感のもてる作品」とフォローしてくれているのにな、などと思ってしまうのは、ワタクシが第三者だからなのでしょう、きっと。

          ○

 「皐月」が最終候補になって落選。そこからがまた長いのです。

 そもそも、選考会で落選したものの、「皐月」という小説に惚れ込んだ編集者が『小説現代』にいたことが、長い旅路のはじまりでした。

「五月を過ぎた或る日、落選した小説誌の編集長と名乗る人から連絡があり、一度逢えないか、と言われた。用件もわからず上京すると、相手のK編集長が、私の落選作を掲載したいと申し出た。

「ああ、そうですか……」

 私はぼんやりと返答した。

 K編集長は、通常、新人賞に応募して落選した作品を雑誌に掲載することは異例で、それでも私の作品をどうしても掲載したい、と熱っぽく語っていた。」(前掲『なぎさホテル』「第八章 転機」より)

 落選したのが昭和54年/1979年春。上記引用のやりとりは、そのすぐあとに行われたものなんでしょうか。どうなんでしょうか。いずれにせよ「皐月」が『小説現代』に掲載されたのは昭和56年/1981年6月号です。屈辱の選考会から、2年の月日が流れていました。ちなみにこのときの『小説現代』編集長は、川端幹三さんです。

 それで、編集部から次の作品の執筆依頼を受けたのですが、どうにも小説が書けず、ようやく3年たって「チヌの歯」(のち「チヌの月」と改題)を手渡します。これが同誌昭和59年/1984年5月号に、趙忠来・名義で掲載され、ひきつづき同年7月号には同名義で「蝉籠」(のち「三年坂」と改題)が載りました。

 順番が逆になりましたが、伊集院さんの私生活の出来事を付け加わえさせてもらうと、昭和55年/1980年9月には、結婚して1年ほどの妻が病死。「皐月」が発表される1年ほど前のことでした。

 亡くなった妻は、伊集院さんの書くものを信頼し、評価していて、まだ作家としてデビューする前なのに、物書きになる夫の姿を夢みていたそうです。また伊集院静というペンネームじゃなくて、趙忠来として書くことを勧めていたのだとか、何とか。

 そんな妻の願いどおり、一作目を発表できて、編集部員からも期待されていた伊集院さん。なのに、どうして次の作品まで3年もかかったのか。自身の証言によれば、大きく4つの理由があるようです。

 ひとつは、あの小説現代新人賞で黙殺に近い評価を受けたことの心の傷が、尾をひいていたため。

「あの時の選評で私は一時期小説に向かう意欲がなくなってしまったことも事実です。次の小説を書き上げるまで、五年くらいかかっていますからね。嘘でもいいから褒めてくれたら、もう少し早く伸びたような気がするんですが(笑)。」(『文藝春秋』平成4年/1992年10月号 伊集院静「女の話はしたくない」より)

 ふたつめは、自分の書いたものに自信がなくて、妥協したくないと思って書き直し書き直ししていたら、数年かかったと。

伊集院 (引用者注:「皐月」が)掲載されたあと、すぐ次の作品をと言われて、結局三年かかってしまいました。何度も書き直して……、欲があったんでしょうね。(引用者中略)小説も妥協をしたくなかったから時間がかかったんでしょう。いずれにしても若かったんですよ。」(『本の話』平成15年/2003年2月号「ロングインタビュー 小説を鍛えるということ」より 聞き手:「本の話」編集部)

 みっつめは、妻の死によって我が身の無力感にとらわれたこと。

「四年前に、私は妻をガンで亡くした時、自分という人間の無能さを思い知らされた。私の小説はなにほども他人を揺り動かしたりはしないのだと、書き留めていたものを全て忘れ、捨てようとした。

 その私に小説を書くようにしむけて下さったのは、数人の編集者の人達と色川武大さんだった。」(平成1年/1989年9月・講談社刊 伊集院静・著『三年坂』「あとがき」より)

 よっつめは、小説なんか書いてもちっとも儲からず、その当時は子供2人の養育費やら何やらで、すぐに現金になる仕事が必要で、そっちに忙しかったから。

 ……などなどと言って、小説が書けなかった理由を、ひとつひとつ挙げてきました。でも、ふと思いました。ん。これって、伊集院さんの術中にハマったのかな、と。

 なにせ、けっきょくのところ伊集院さんに言わせれば、

「なぜ私にとって表現手段が小説なのか、と問うと(本当はあまりこんなことを自問したことはないのだが)気が付いた時には私は小説を書いていたとしか言いようがない。(引用者中略)

 この世にたしかなものなど何ひとつありはしないのだ、といつからか私は思うようになって、今小説を書いている。」(前掲「胡蝶蘭」より)

 ということらしいです。つまり、過去を振り返って何だかんだと理由めいたことを語っていても、たしかなようでもあり、たしかでないようでもあり。それを敢えて、ほじくり返して並べ立てる、といういつもながらのワタクシの愚行。失礼しました、としか言いようがありませんね。

          ○

 失礼ついでに、あと少し。平成4年/1992年の直木賞受賞のところまで、あともうちょっとですので。

 平成1年/1989年9月に、ようやく満を持して『三年坂』が刊行されました。文学賞においてはこの一作が、第11回吉川英治文学新人賞、第3回山本周五郎賞、第18回泉鏡花文学賞と3つの賞の候補に、ダッダッダッと挙がりまして、新人作家にして一躍注目の作家となりました。

 ただ、世間的には……いや、週刊誌や女性誌のなかでは、“アノ亡くなった女優の元・夫の小説”っていう取り上げ方が多く、「プレイボーイのイメージからはかけ離れた、落ち着いた雰囲気の小説」みたいなとらえ方をされました。

「小説的技巧は十分だが巷間流されている「プレイボーイ」のイメージとはなぜか、ほど遠い味わいの作品ばかりである。」(『週刊新潮』平成1年/1989年10月5日号「TEMPO Books」より)

「文章は人だとよく言われるけれど、この十年で書きためたという短編を収めた最初の小説集を前にした著者を見ていると、なるほどそうだと思う。照れながら、てらいのない口調で話す姿は、ユーミンのステージ演出や「ギンギラギンにさりげなく」の作詩(原文ママ)で知られ、写真雑誌が華やかな女性関係を噂する伊集院静像とは重ならない。」(『週刊文春』平成1年/1989年10月12日号「文春図書館 著者と60分 『三年坂』」より)

 20代はケンカっぱやくて、人と衝突ばかり繰り返していたという伊集院さんも、このころにはもう、あきらめっちゅうか、あきれ顔っちゅうか。あることないこと書き立てる週刊誌の記事には、少し自分を抑える術を会得したようです。

 吉川新人賞を受賞したときのエッセイは、こんな感じでした。

「受賞をするようなことがあれば、亡妻の写真と一緒に、“涙の受賞”とでもタイトルをつけるのだろうか。

 選考の対象になった本は『乳房』というタイトルの短編集である。

 この表題作が、亡妻と私の関係に似ているというので、出版の前から一部の芸能誌・紙が取りあげた。

 本人が違うと言っているのに、ライターが勝手に書き立てた。腹が立ったので、小説のタイトルを変えて欲しいと出版社に言ったら、

「『乳房』でないと売れません」

 と言われた。

 ――じゃ、本が出なくてもいいです。

 言いかけて、つまらないことにこだわっている自分に気付いた。

 と同時に、出版社もそう考えているのだと、よく理解ができた。」(平成3年/1991年10月・文藝春秋刊 伊集院静・著『時計をはずして』所収「春が来た」より)

 で、伊集院さんが想像したとおりになるわけです、笑えるほどに。たとえば『女性セブン』などでは、伊集院さんと亡き妻の写真を並べて載せて、

「『乳房』は、がんと闘う妻へのこまやかな心づかいが描かれた作品で昭和60年、白血病のため27才で亡くなった妻・夏目雅子さんの闘病体験がモデルとなっているともいわれている。」(『女性セブン』平成3年/1991年3月28日号より)

 と堂々と書いたうえに、記事のタイトルがド直球。

「伊集院静さん(42) 亡き妻夏目雅子さんがモデル?の小説で吉川英治文学新人賞」

 んもう。うちのブログもたいがい品がないですけど、女性誌の下品さにゃ、かなわんよなあ。

 この記事は最後に、「次は直木賞を狙う!?」っていう、真似したくても真似するのをためらってしまうほどの下品さを極めた文章で締められています。翌年、伊集院さんは『受け月』で直木賞を受賞。そしたら、当然のような顔をして、また亡妻の名前と写真をもってきて、記事を組んでしまう週刊誌が多発。……いやあ、このしつこさ。かなわんよなあ。

 さらに、直木賞受賞直後に、伊集院さんが再婚して、その再婚相手が相手だっちゅうことで、火に油をそそいだかのように大騒ぎ。

 むろん、伊集院さんのほうが一枚も二枚も上手です。

「女性週刊誌には、あれこれずいぶん書かれました。しかし私は、世間の方がそうおっしゃるなら、そういう顔で歩いていこうと思ってます。私の生きかたは他人に評価されるものではないし、受賞や結婚で変わるようなものではありませんしね。良い人と言われるのはむしろ危険だと思ってます。(引用者中略)

 私は結婚したから、直木賞を受賞したからといって、これまでの生活を変えるつもりはまったくありません。実際何も変わっていませんしね。」(前掲「女の話はしたくない」より)

 そうかあ。直木賞も女性週刊誌に負けず劣らず、ずいぶん頑張ったと思うんだけどなあ。みんなに注目されるように頑張って、ひとりの人間をガッツリ変えてやろうと力を発揮したと見えるんだけどなあ。そうですか。伊集院静さんは変えられませんでしたか。強い人です。

 直木賞、まだまだ力不足。伊集院さんに「参った」と言われるようになるぐらい、精進してください。

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