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2011年11月27日 (日)

原尞(第102回 平成1年/1989年下半期受賞) 直木賞と無縁であることが似合う作家・作品に、直木賞が授けられてしまった奇跡。

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原尞。『私が殺した少女』(平成1年/1989年10月・早川書房刊)で初候補、そのまま受賞。『そして夜は甦る』でのデビューから1年9か月。43歳。

 繰り返しますが、ワタクシは直木賞のファンです。と同時に、原尞作品のファンでもあります。

 直木賞は、虚飾と卑俗に満ちあふれた世界です。小説の中身を語らず、ただ「直木賞作家」と言うだけで、ああでもない、こうでもない、としたり顔でものを述べたりすることが、平気で行われる世界です。当ブログもそのうちのひとつとして。

 原さんの小説は、そういったものに背を向けています。いや、原小説側から見れば、おのれの世界こそ正常であって、背を向けているのは、「賞」ってだけで騒いだり本を買ったりするような人たちのほうだ、ってことかもしれません。

 まったく異質な二つの世界。直木賞と、原尞の小説。これが平成2年/1990年に接触しました。しかも、原さんが直木賞を受賞してしまった。これはもう奇跡です。正直、いまもって信じられません。

 ひとつに、この奇跡を演出してくれたのは、新潮社の山本周五郎賞でした。山周賞よ、ありがとう。心からお礼申し上げます。

「私は最初の原稿もミステリ関係の種々の賞に応募する気はまったくありませんでしたし、その他のどのような賞にも無縁だろうと思っていました。万一何かの対象になったとしても、「読者が読んでくれるという賞以外に賞はない」と応えて直木賞を辞退された山本周五郎さん――私は彼の愛読者で、ほぼ全作品を読んでおりますが――その周五郎さんに倣って、いかなる賞もご遠慮するつもりでした。だから、昨年の五月に第一作(引用者注:『そして夜は甦る』)が山本周五郎賞の候補になったと聞かされたときは、最大の味方が敵方にまわったような気分でした。賞は遠慮したいが、周五郎さんの名前のついたものを断わるわけにはいかない。「候補にしてよろしいか」という問い合わせに「どうぞ」と答えてしまいました。幸い落選したので、大事には至りませんでしたが、こんどは『私が殺した少女』が直木賞の候補になるとおっしゃる。あっちは承諾してこっちは承諾しないというわけにはいかないし、どうせ落選するに違いないと決めて、また「どうぞ」と答えてしまいました。」(平成7年/1995年6月・早川書房刊 原尞・著『ミステリオーソ』所収「受賞のことば」より)

 山本周五郎賞は、原さんがデビューするほんの1年前につくられたばかりでした。果たして、この賞のできるのが少し遅れていたら……。最初の文学賞候補が直木賞のほうだったら、きっと原さんはサクッと辞退したに違いありません。あぶないところでした。

 ……と言っても、原さんの場合はアレです。発せられた言葉を全面的に信頼するわけにはいきませんけども。原さんが口にする、新作の刊行に関する目標、には毎度毎度、裏切られているわけですし。

 言葉そのまんまを受け取るわけにはいかない、ってハナシで言いますと、たとえば原さんが直木賞授賞式のスピーチで語った、有名なセリフがあります。

「私自身は受賞によって特に変化することはないと思っています。直木賞に恥じない作家になりたいと言うべきところでしょうが、むしろ直木賞のほうが恥ずかしくなるような作家にならなければと思っております。」(同)

 これにしても、うわあ、原さんカッコいい、などとウットリして目を潤ませていると痛い目に遭います。

「――受賞後のインタビューで原さんは「賞の方が恥ずかしくなるような作家になりたい」という発言がありましたが……。

原 いや、あれは多少面白いスピーチがあった方がいいと思って言っただけです。(笑い)」
(『西日本新聞』平成2年/1990年4月3日「九州の文字を語る・芥川賞、直木賞作家座談会(1) 賞の意味」より ―出席者:大城立裕高樹のぶ子村田喜代子白石一郎杉本章子・原尞・光岡明[紙上参加]、司会:山下国誥・西日本新聞社文化部長)

 と、きれいにスカされてしまうわけですし。

 さすが原さん、しっぽをつかませませんよねえ。こう言えばああ言う、のへらず口、冴えてますよねえ。

 ええ。そんな原さんが、世間一般がかもし出す「直木賞」なる虚像に、いやがおうでも巻き込まれたのですよ。いったい、どんな感想をもち、どんな発言をしてくれるか。ワクワクしないはずがありません。ワタクシは直木賞ファンであって、つまり裏返しでアンチ直木賞でもあります。原さんの直木賞に関する一言ひとことがズシンと胸にひびきます。そして拍手喝采してしまうのです。

 授賞式スピーチに関しては、こんな感想を残してくれています。

「四十才を過ぎて新人賞をもらってもあまり喜んでいられないし、それ以上に、賞などに関係なく読んでくださった読者に対しても、ハードボイルドの“看板”からしても、ごく平静に反応することに決めていた。(引用者注:授賞式での)挨拶はかなり“辛口”で、賞を金科玉条のように思っている人の神経を逆撫でするようなものになった。」(前掲『ミステリオーソ』所収「大竹九段に会う」より)

 逆撫で大歓迎です。賞信者たちの頬をばんばん叩いちゃってください。……しかし、ほんとに、原さんのスピーチを聴いて(あるいは読んで)、神経を逆撫でされた人などいるんでしょうか。あなたの神経がどっちなのかは、原さんの『ミステリオーソ』を読んでみれば判別できます。ぜひどうぞお試しください。

          ○

 原さんの直木賞受賞は奇跡に属する、と前段で言いました。受賞にいたるまでの経緯もそうです。またそれ以上に受賞後の展開が展開だったからでもあります。

 直木賞さわぎの中心に身をおいて、原さんは次のような感想を持ちました。

「直木賞なるものには、当初菊池寛が制定したときの“ささやかな新人賞”から、水準(?)以上の作品に与える賞のように評価するもの、事情を知らない人の中には大衆文学の最高賞のように勘違いしているものまで、実に混乱した認識があって、当事者も困惑するのだが、私自身ははっきりと菊池寛の規定でとらえた(引用者略)(前掲「大竹九段に会う」より)

 直木賞が創設期されたときの目的を、まるで無視する人たちの多さに戸惑っているようです。

「東京あたりの事情を知らない者ならともかく、地元の記者に「直木賞御殿はもう出来上がりましたか?」と面と向かって訊かれたときには、私は開いた口が塞がらなかった。直木賞に対する世間の認識が、菊池寛の制定した“ささやかな新人賞”を大きく逸脱してしまっていることに驚くばかりである。」(前掲『ミステリオーソ』所収「木造三階の家」より)

 菊池寛さんが果たして「ささやかな新人賞」のつもりで直木賞を制定したかどうかは、また異論がありそうですけど、まあ、いいでしょう。また、正確にいえば直木賞は、菊池寛さんが制定したというより、佐佐木茂索専務の意向が相当に反映された賞、と見るべきでしょうが、それも措いときます。

 なんといってもワタクシには、原さんが創設期の直木賞規定を持ちだしてきているのが興味ぶかい。

 だって原さんといえば、直木賞が本来もっていた規定の一部を、その行動でもって叩きつぶしてしまった人なんですもん。

 昭和10年/1935年(いや昭和9年/1934年末)当時、文藝春秋社は「芥川・直木賞委員会」を設け、その名で「直木三十五賞規定」を発表しました。規定は全部で五条。そのいずれも、時代に応じて徐々に変更を余儀なくされていきまして、平成23年/2011年の現在まで、一字一句間違えずに守られてきているのは、じつは一項目しかありません。四条目です。

「一、直木三十五賞は六ヶ月毎に審査を行ふ。適当なるものなき場合は授賞を行はず。」

 しかし、創設期は「ささやかな新人賞」であった、ってことを持ち出すのであれば、ほかの条項のうち、一条目と五条目を外すわけにはいきませんよね。その二つは、直木賞が本来もっていた性質を如実に表わす条項なんですから。

「一、直木三十五賞は個人賞にして広く各新聞雑誌(同人雑誌を含む)に発表されたる無名若しくは新進作家の大衆文芸中最も優秀なるものに呈す。」

「一、直木三十五賞受賞者には「オール讀物」の誌面を提供し大衆文芸一篇を発表せしむ。」

 直木賞はたしかに新人賞でした。ただし、純粋な新人賞と受け取らず、『オール讀物』を中心とした文藝春秋勢力に新人作家を取り込んでいく、文春の党略(社略?)のひとつ、と見る人もいました。ワタクシもその面は否定できないと思います。つまり五条目があったからです。

 現にいまでも、直木賞を受賞した作家は、多くの機会で『オール讀物』の誌面を提供されます。かつて大林清さん(講談社の野間文芸奨励賞を受賞した人)がイジけたように。

 ひるがえって原さんです。直木賞を受賞して20数年。受賞決定号(平成2年/1990年3月号)に自伝エッセイのかわりに「ある男の身許調査―渡辺探偵事務所のファイルより―」を寄せてお茶を濁した程度で、『オール讀物』には小説作品をただの一篇も発表していません。

 書けないのか。書かないのか。もしも山本周五郎賞を受賞していたら、『小説新潮』には新作を発表していたりしたのか。それとも、どんなことがあっても『ミステリマガジン』&早川書房だけなのか。

 原さんにそのつもりはなくても、『オール讀物』に一篇も小説を発表しない直木賞作家、それは、菊池寛さんらが制定した「直木賞」の立場からすれば、たしかに「直木賞のほうが恥ずかしくなる」。と見えてきてしまうのですから、エラいことです。

「記者「受賞の喜びを」

 本人「ない」

 記者「落ちるよりはよかったでしょう」

 本人「どちらでもよかった」

 ハードボイルド小説「私が殺した少女」で89年に直木賞に選ばれた原尞さん(59)の受賞会見は、素っ気ないものだった。(引用者中略)

 「遅れてきた新人としては、賞を取ったことより、本が売れてもらわないと困る」というのが正直な気持ちだった。

 受賞後第一作を出すまで6年かかった。

 それでも、「ハードボイルドはたくさん書いても質が上がるとは限らない」とマイペースを貫く。

 「死んだとき、新聞に『直木賞作家』とは書かれないようにしたい。それだけで終わりたくない」」(『朝日新聞』西部版夕刊 平成18年/2006年4月7日「文学賞ってなに(上) 誰がために賞はある 金看板、掲げて知る重さ」より 署名:井上秀樹)

 こういう作家がいることが嬉しい。そして、こういう作家が直木賞をとってしまったことは、もっと嬉しい。

          ○

 ワタクシが好きな直木賞受賞者の「受賞のことば」は、いくつかあります。そのうちの一つが原さんのこのフレーズです。

「直木賞をいただいたからといって、私自身は何ら変化いたしませんが、良い意味でも悪い意味でも、直木賞のほうに変化があることは結構だと思います。」(『オール讀物』平成2年/1990年3月号)

 「私自身は何ら変化いたしません」、のところが周囲のさわぎをスカしている感じがして、好きなのです。

「「大変だったでしょう?」

「周囲の人たちがね」

「忙しくなったでしょう?」

「いいえ、暇ですよ」

「これからはそうは行かなくなりますよ」

「いや、なぜです?」

 これが受賞後の私の挨拶代わりの恒例の会話になった。

「このたびはおめでとうございます」「どうもありがとうございます」はだいぶ少なくなった。

 一日も早くかつての「読んだよ」「そうですか」の状態に戻りたいものである。」(「受賞以後」より)

 スカしています。ご本人は「自分は変わらない」と宣言して実際に変わっていないのですから、スカしているも何もないんでしょうが、はたから見ると「直木賞さわぎ」と「原尞の姿勢」が掛け違っているところがゾクゾクするのです。

 東京っていう街のなかでひとりぼっちで生きながら、自身の行動規範にもとづいて発言して、周囲の人物たちを面食らわせる探偵〈沢崎〉。直木賞っていう大量生産・大量消費の世界にぽつんと投げ出されながら、自身の行動規範にもとづいて創作活動をおこなう作家〈原尞〉。……いやあ、どっちもゾクゾクします。

 直木賞をとったことで体調を崩したり、方向性に迷いが生じたり、精神的に追い詰められたり、そんな受賞者を見るのは直木賞ファンとしては苦しいことです。原さんが直木賞受賞で何も変わらず、それまでの延長で創作活動をしてくれて、ほっと安堵したりするのです。

 それでも、一時はギクッとさせられたりもしました。

 直木賞受賞から次の長篇『さらば長き眠り』まで5年かかったときのことです。

 一部のインタビュー記事で、こんな言葉が取り上げられていたからです。

「「過去にこんな事件があってて、という構想はわりあい早めに考えてたんですが、それを現在とどうつなげるかに時間がかかった。(引用者注:直木賞の)受賞騒ぎと、沢崎のイメージが食い違っていたものですから、向こうを向いた沢崎をこちらに向かせるまでに細工が必要でした」」(『佐賀新聞』平成7年/1995年2月1日「直木賞作家原尞さん」より)

「「直木賞という派手な騒ぎと、自分のどちらかと言えば地味な作風の間にギャップを感じ、ほとぼりがさめるのを待っていた」と、「受賞第一作」に五年をかけた理由を語る。」(『読売新聞』平成7年/1995年3月6日「本と人 「さらば長き眠り」の原尞さん 5年かけた「受賞第一作」」より)

 新聞インタビュー以外にも、

「書こうとはしていたんですが、直木賞受賞後1年半ぐらいは、書きたくなかったんですね。どうも僕が書いているものと賞はチグハグな気がしたし、受賞ではね上がった部数はいずれ受賞前の4万~5万部に戻るだろうと思ってもいたので、書きながらそれを味わっていくのは精神衛生上よくないですから。」(『週刊ポスト』平成7年/1995年3月31日号「面白いものを書こうとしているうちに5年も間があいてしまった」より)

 なんていう雑誌記事もありました。

 つまり、直木賞をとってしまったがゆえに、発表までの時間がより多くかかってしまった? それって「直木賞をとって変わってしまった」ってことなの?

 ……しかし、第2長篇と第3長篇のあいだに5年の月日が必要だった理由は、ほかにも語られています。「ちゃんとした長編を書こうと思ったら、五年くらい必要だと思っていた」とか、「十一年前の事件を私立探偵が調べるのに不自然でないようにするにはどんな話にしたらいいか考えていたら、時間がかかってしまった」とか。

 直木賞さわぎのせいにしたのは、インタビュアーと記事を書いた人の思い込みでしょう。はてまた、原さん特有の「ハナシを面白くするための脚色」なのかもな、と考えるようにしています。

 なにせ、つづいて第3長篇から第4長篇までの年月が年月ですしね。あるいは第4長篇から、いまだ姿を見せない第5長篇までの時の流れを考えますと……。もう7年ですか。ねえ。「直木賞のほとぼりがさめるまで時間をかける」なんてハナシ、かき消されてしまいますよ。

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投稿: 阪神ジュベナイルフィリーズ 2011 | 2011年12月 2日 (金) 12時59分

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