杉本苑子(第48回 昭和37年/1962年下半期受賞) 直木賞をとったあの娘にも、とらなかったあの娘にも、ともに幸あれ。
杉本苑子。『孤愁の岸』(昭和37年/1962年10月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「申楽新記」での懸賞佳作から11年。37歳。
20代なかば。作家になろうと志したひとりの女性がいました。杉本苑子さんです。志願して吉川英治さんの弟子になり、ひたすら習作をつづけました。
商業誌デビューを果たしたのは35歳。昭和36年/1961年のことです。吉川さんに師事して8年半ほどかかりました。
作家になると決めてから勤めていた仕事をやめ、ただただ、小説の勉強に励んだんだそうです。8年半。8年半ですよ。
杉本さんは昭和27年/1952年、弟子になりたいと吉川さん宛てに手紙でお願いをして、青梅吉野村の吉川邸をおとずれました。そこで、吉川さんにこう尋ねられたことが、彼女の運命を決めたのでした。
「これまで僕も、何人か面倒を見てあげた人がある。みな男の人だったが、家庭をかかえているせいもあり、その誰もが辛抱を切らして、僕の許しを待たずに原稿を売った。たったコーヒー一杯の値段でですよ。……僕は君に、十年間の勉強を要求する。その間、懸賞小説の応募はもとより、出版社、同人雑誌、すべてに近づかず、ひたすら勉強しぬくこと。――君にその辛抱ができますか」(『文芸朝日』昭和37年/1962年11月号 杉本苑子「恩師・吉川先生」より)
このときのセリフは、ほかの文献にもいろいろ登場するんですが、だいたい同じ意味です。10年間辛抱して勉強すること。師の許しが出るまでは出版社にも同人誌にも文章を発表しないこと。……この約束を呑んで、杉本さんは吉川門下生になりました。
ってことで、昭和27年/1952年、杉本さんが第42回『サンデー毎日』大衆文芸に「燐の譜」で入選して、作家になる決心をしてから、昭和36年/1961年までのあいだ、杉本さんの年譜は空白です。
「昭和二十七年(一九五二)
(引用者中略)この年から昭和三十五年までの期間、歴史小説の習作を書いて吉川氏の推敲を仰いだり、吉川邸の書庫の整理や年表の作成などに従事した。
昭和三十六年(一九六一)
二月、「柿の木の下」(吉川氏の紹介により、師事後、はじめて商業雑誌に発表した作品)を、「別冊週刊朝日」に発表。」(平成10年/1998年11月・中央公論社刊『杉本苑子全集 第二十二巻』 磯貝勝太郎編「杉本苑子年譜」より)
この空白の8年半があるからこそ、杉本さんの直木賞受賞は余計、爽快なのです。
「その十年に、習作は六十編以上も書いた。」(『週刊女性』昭和37年/1962年11月21日号「恩師・吉川英治の10年間の温情にこたえて 新進女流作家杉本苑子が『孤愁の岸』を書くまで」より)
すでにこの姿勢だけで、杉本さんに感服ですもんね。尊敬します。
8年半。いろいろな思いが去来したことでしょう。苦しいこともつらいこともあったでしょう。直木賞受賞当時、週刊誌や月刊誌で取り上げられた杉本さんの記事には、そこらあたりのことに少しだけ触れられていたりします。
「――十年のあいだには苦しいこともずいぶんあった。苦しみと不安の連続だったと言ってよいかもしれない。女の二十四、五から三十四、五……結婚の問題ももちろんあったし、一年々々老いてゆく両親をかかえて、生活の不安におののいた日々もある。そのたびに(こんなことをしていて大丈夫だろうか。果して私には、才能があるのだろうか?)
ひとつの道にこころざす人の誰もが、かならず逢着するであろう疑問に、私も何度かぶつかった。まじめに根気よく勉強する……言うまでもなくそれが根本だが、それだけでは駄目なのだということも、おぼろげながらわかって来ていた。
泣いて、私は“自分自身への疑い”を、先生に訴えたことがある。
「ばかだな、君は……」
と、しかし先生には、その時ひどく叱られてしまった。
「僕が信じられないのか。――人の一生の問題だ。君に見込みがなければ、とうの昔やめさせているよ。結婚したまえと注告しているよ。……なるほど、まだまだ君は未熟だ。だが未成熟ながら性根はある。性根さえあれば、かならずどうにかなるものなのだ。僕を信じ、そして自分自身にももっと自信を持つことだよ」
申しわけなかった。私はお詫びした。が、根深い自信喪失は一朝一夕に解消するものではなかった。ただ、先生のお言葉によって、一種、さわやかな“落ちつき”は得た。」(『婦人公論』昭和38年/1963年1月号 杉本苑子「私は吉川英治のただ一人の女弟子」より)
いやあ、惚れるなあ、吉川英治さんの言葉。さすがだ。厳しさと温かさを併せ持つ人格者、吉川さんだ。「性根さえあれば、かならずどうかになるものだ」。はい。ワタクシもその言葉を信じて、生きていきたいと思います。
……って、そんなことはどうでもいいのです。杉本さんは、「随筆」を書くのって自分自身がナマのまま出てしまうから嫌いだわ、と公言するほどの方でして、じつは8年半の弟子時代の苦しみについて、それほど詳細に語ってはくれていません。数か月後のエッセイでは、
「不安、瞋恚、焦燥……たたかいの苦しさに比して、たのしむことの余りにも少ないおとなの世界―― その入口に立ち、小説づくりという、血みどろな作業の中に身を置いてから、しんじつ、私の“苦闘”ははじまったのだ。むろんそれは、心理的な意味でのものだけれど、いままだ活字にして、そんな自分の内部の、自分ひとりの遍歴など、人目にさらす気に私はなれない。作家は作品によって、しんそこのものを語るのが本来なのだし、心ある読者は、それをこそ望んでいると私は信じるからだ。」(『マドモアゼル』昭和38年/1963年4月号 杉本苑子「わが華やかなりし苦闘時代」より)
と述べています。直木賞受賞にともなって、私生活だの、心情・感情だのを根ほり葉ほり知りたがるジャーナリズム攻勢をどっと受け、辟易している様子がうかがえますね。ほんと、「心ない読者」ですみません……。
空白の8年半。杉本さんがどんな思いで、何をしながら日々を送っていたのか。まあ永久に明らかになる日はこないのかもしれません。
たとえば、昭和34年/1959年。吉川さんに師事して7年目です。『オール讀物』が主催する懸賞「第15回オール新人杯」の、第1次予選通過リストのなかに「「福女一代」杉本苑子(東京)」(『オール讀物』昭和34年/1959年11月号)とあるんですが、これは同姓同名の別人の応募作なのか、どうなのか、とか。
別人なら別人でいいんです。もし杉本さんご本人ならば、吉川英治さんの許可を得ての応募だったのか、とか。気になってしかたありません。……って、あ、「心ない」ですか。
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