常盤新平(第96回 昭和61年/1986年下半期受賞) 苦しんで小説を書いたのに、直木賞をとったら何か裏があるんじゃないかと疑われる、ザ・「朴訥にして狡猾」。
常盤新平。『遠いアメリカ』(昭和61年/1986年8月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。同連作「遠いアメリカ」での小説家デビューから1年半。55歳。
常盤新平さんの人柄について語られたものを読んでいると、印象に残るこんな言葉が出てきます。
「朴訥にして狡猾」。
直木賞を受賞した『遠いアメリカ』でも、この表現が使われていましたね。
主人公の重吉に対して、恋人の椙枝が言うセリフ。
「あなたって、気が弱そうで、人がよさそうに見えて、そのくせ、案外、図々しくて、狡いところもあるの。つまり、朴訥で狡猾」(昭和61年/1986年8月・講談社刊 常盤新平・著『遠いアメリカ』所収「アル・カポネの父たち」より)
常盤さんが「朴訥で狡猾」と指摘されたのは、作り話ではないらしいです。この椙枝のモデルになった女性がおりまして、のち結婚し、しかしこの小説が書かれた頃にはすでに別居状態にあったんだそうですが、その女性から、はっきり言われたのだそうで。
「突然、ひどくいいにくそうに、声を落として「実は」と切り出したのは、このあとだった。
「井上ひさしさんと同じで、ぼくも別れたんですよ。それで決着がついた、というか、ふっきれて小説を書くことができたんです」
地味で、おだやかなこの人を知る人にとって、およそ信じられない話である。(引用者中略)
「朴訥(ぼくとつ)にして狡猾(こうかつ)、別れた人に、そういわれました」」(『読売新聞』夕刊 昭和56年/1981年12月9日「人 常盤新平(翻訳家) 1 初小説、しんどさ身にしむ」より 署名:篠原大)
どういうことなんでしょう。普段は気弱そうで、腰が低くて、お人好しのように振る舞っておきながら、じつは腹のなかは計算高くて、まわりの状況を自分の良いように仕立て上げていく。しかし、そんな態度は絶対に他人に悟られないよう気を配る人。……みたいなことでしょうか。
その後、常盤さんは直木賞を受賞します。第三者からは、意外な受賞だなどと言われたりしたそうです。さらには「朴訥で狡猾」、と言いますか、常盤さんの計算高さが功を奏した結果なんじゃないのか、と指摘する人が現われたりもしました。
「選考前の文芸担当の編集者、記者達の下馬評では、常盤の名前は全くあがっていなかったという。(引用者中略)今回、初ノミネート、処女小説、しかも下馬評に全く上らなかった常盤の受賞には首を傾げる声は多い。
(引用者中略)
池波正太郎には五十八年の月刊講談社文庫『IN・POCKET』の対談でも次のようなオマージュを捧げている。
「アメリカの映画とかジャズに関しては、池波先生のほうがわたしよりはるかに詳しいんじゃないかと思っているんですよ」
「先生を拝見していると、今、シティボーイという言葉がありますよね、それの原型のような感じがありますけど」
「ニューヨークに行かれても、先生はやはり慣れた感じで歩かれていると思いますよ」
これだけたてつづけに持ち上げられたら、好感を持たない方がどうかしているだろう。“受賞のための大いなる布石”とは言わないが、人を持ち上げて取り入る才能が、後に効いたことは否定できないのではないか。
前述のように今回の直木賞は、まず、逢坂(引用者注:逢坂剛)に決まり、常盤と早坂(引用者注:早坂暁)で決選が行なわれた経緯がある。池波、山口(引用者注:山口瞳)が常盤を強く推したことも伝えられている。選考委員といえども人の子だ。どちらか一人をめぐって迷う際に、かつて一緒に対談をしてしかも自分を持ち上げてくれた相手の方に、つい肩入れをしたくなるということはあるだろう。」(『噂の真相』昭和62年/1987年3月号「直木賞・常盤新平に囁かれた選考委員根回し成功の“風聞”」より レポーター:後藤幹直)
文章の師とあおぐ何人かの先輩作家と対談して、心から褒めてまわったことが、直木賞を受賞すると、こう受け取られちゃうわけです。つらいですね。
つらいと言うか、常盤さんだってもう、自分がそういうふうに見られる役回りなことは、じゅうぶん承知のうえでしょう。善人の皮をかぶった悪人、とでも言うのでしょうか。
常盤さん自身は、こんな自己評価をしています。
「他人の文章を名文だとか悪文だとかいうのも簡単なことである。しかし、実は大変なことなのである。それは「悪人」か「善人」かのどちらかに決めつけるのと同じことではないか。
すると、私は善人なのか悪人なのかということになるのであるが、私は自分を善人でもあり悪人でもあると思っている。いや善人でも悪人でもなく、ケチな男にすぎないのかもしれない。」(昭和58年/1983年3月・筑摩書房刊 常盤新平・著『グラスの中の街』所収「悪文と名文」より ―引用原文は昭和62年/1987年5月・文藝春秋/文春文庫)
善人だとか悪人だとか、決めつけるようなことはしたくない、と。穏便なものに憧れる常盤さんらしい言葉ですなあ。
じっさい彼のエッセイ集を読んでいると、自分はこれまで数多く人を傷つけてきた、もう人を傷つけたくない、みたいな文に、ちょくちょく出逢います。傷つける意図はなくても傷つけてしまった、だから相当に意識して平和で穏やかな自分でいるよう努力していきたい、といったふうにも読めます。
そうそう。処女小説の「遠いアメリカ」も、そんな強い思いのもとに生まれてきた小説なのでした。
「私は佐々木さん(引用者注:新潮社の佐々木信雄)に電話をかけて、小説はどうやって書いたらいいんですかと訊いた。わらをもつかむ思いだった。
佐々木さんは言った。自分の恥をさらしなさい。でも、他人を傷つけるようなことはいけないと思いますね。あなたは現実に人を傷つけているのだから。大体、以上のような意味のことを佐々木さんはおだやかな口調で言った。」(『オール讀物』昭和62年/1987年4月号 常盤新平「“晩稲ソルジャー”駆けつけの記」より)
自分の青春時代のことを書くにあたって、当時の恋人でのち結婚する女性を描かないわけにはいかなかったでしょう。でも、その女性とは籍は入っているものの(昭和62年/1987年に正式離婚)、すでに常盤さんは新しい家庭をつくってしまっていました。この状況で常盤さんが小説を発表し出して、相手の女性が傷つかなかったかどうかは、まったくわかりません。ただ、受賞後のエッセイにこんな記述が出てきます。
「受話器を耳にあてると、おめでとうございますという、なじみのある声が聞こえてくる。田所省治さんの声だ。そのとき、私はどうしたのか、記憶にない。つぎの瞬間、万歳、万歳の声が聞こえていた。田所さんの声が聞こえなくなる。聞こえなくてもいい、ただ、有難うございますとなんども言い、頭を下げる。生涯最高の時。
(引用者中略)
便所の前でシャツを着がえていると、福澤さん(引用者注:『NEXT』編集部の福澤晴夫)がやってきて、耳もとでささやく。
「椙枝さんには知らせました。よろこんでいましたよ、絶句しちゃって」
涙がこぼれそうになる。彼女のために直木賞が欲しかった。また、支持してくれた編集者たちのためにも欲しかった。」(『文藝春秋』昭和62年/1987年4月号 常盤新平「この人の月間日記 感謝感激直木賞受賞日記」より)
これだけでは、相手の女性の心情はとらえづらいものがあります。でも、人を傷つけたくないと願う常盤さんのためには、小説の題材にされて離婚されることになった女性が、どうか傷つかなかったことを祈るばかりです。
○
そうです。常盤さんを、「自覚があるにしろ無自覚にしろ、どうにも人を傷つけないでは済まない男」として有名にしてしまった、アノ件にも触れざるを得ません。この一件もまた、常盤さんの『遠いアメリカ』が書かれる遠因になっているからです。
ご登場いただきましょう。小林信彦さんです。
昭和37年/1962年暮れ。宝石社の『ヒッチコック・マガジン』編集長だった小林さんは、江戸川乱歩さんから突然に、解雇通告に近い退社勧告を受けたそうです。
なにしろ自分の進退のハナシです。小林さんは当然まず最初に自分が聞いたものと思っていたのですが、じつはそれ以前から、社内や社外の人間のあいだで、彼なきあとの『ヒッチコック・マガジン』について会合が持たれていたことが後でわかったのだと。
その経験は、『夢の砦』の「第十九章 幻滅」あたり、主人公が定職を失いフリーになるまでに、ほぼ書かれている、ってことです。
「六二年の暮に、ぼくは、つとめていた小出版社をやめるのだが、どうしてそうなったかについて、ぼくは二十年間、口をとざしてきた。いつか、「スタジオ・ボイス」のインタビューで、その部分をスルドクつかれたが、あいまいにしか答えていない。ひとことで答えられない裏面があったのである。
「夢の砦」という長編小説は、しばしばたずねられるそうした疑問に対する、ぼくの解答をも含んでいる。これは、自伝的ではあるが、自伝ではなく、私小説でもない。(引用者中略)しかし、細部には真実が嵌め込んであり、とくに、物語の主人公が会社をやめて、フリーにならざるをえなくなるプロセスは、ほぼ真実といっていい。」(平成1年/1989年4月・筑摩書房刊 小林信彦・著『コラムは笑う―エンタテインメント評判記1983~88―』「15 一九六二年と「夢の砦」」より ―引用原文は平成4年/1992年5月・筑摩書房/ちくま文庫)
当時、常盤新平さんはまだ早川書房に在籍していました。宝石社の編集者と連絡をとりあって、『ヒッチコック・マガジン』の次期編集長になってほしい、みたいなハナシがあったのに、そのことは小林さんには黙ったまま、小林さんの退社を涙をためて惜しがった……みたいなことがほんとうにあったのかどうかはわかりませんが、ともかく『夢の砦』の登場人物・井田実の一部は、常盤さんがモデルだ、と噂されたのは事実なんですって。
「小説の出来とは関係なく、(引用者注:『夢の砦』を)読んだ後、かすかな苦いものが残った。彼の後釜になるかもしれなかったある登場人物への「毒」のようなものだ。それもそのモデルと噂された人物から、当時、私が聞かされていた事実と違っていたからで、知らなければ感じないですむ違和感である。もっとも、毒のないフィクションなど面白いはずがない。(引用者中略)
宇野(引用者注:宇野利泰)の傘寿を祝う会は、彼が出席を希望する人間だけの小規模のものになった。横浜シナ町の常連と、梅沢英樹・塙陽子・沼田の新潮社組のほかには、翻訳者深町眞理子と小林の『夢の砦』のモデルと噂された常盤新平だけであった。」(平成19年/2007年6月・みすず書房/大人の本棚 宮田昇・著『新編戦後翻訳風雲録』所収「好奇心 宇野利泰」より)
退社のいきさつにからんで、小林さんにとっての常盤新平は、人の前では人情味あふれるやさしい顔だけ見せておいて、裏では何を企んでいるかわからない信用ならぬ男、って人物像が強く頭に刻まれたのでしょうか。『小林信彦60年代日記』に有名な一節を残すことになったわけです。
「十月七日(火)晴(引用者中略)
常盤新平が早川書房をやめた、と人に教えられる。なにがあったのか?
稲葉明雄氏にTELすると、新平の退社の会の発起人に(福島正実によって)されてしまったとボヤく。
私にも案内状がくるというが、遠慮したい。
十月十八日(土)晴(引用者中略)
△△氏からもTELあり。新平が退社するさいのトラブルについて。
「とにかく、あれだけ悪い編集者はいなかったです」
と、言う。
翻訳という、氏の仕事の範囲からみれば、当然のことなり。だが、私はまず小説の問題があるので、かすかに〈当然のなりゆき〉と頷くのみ。」(昭和60年/1985年9月・白夜書房刊 小林信彦・著『小林信彦60年代日記』「1969年」より)
常盤さんが早川書房を辞めたころのことは、常盤さんの次の『ミステリマガジン』編集長を務めた各務三郎さんが『はじめて話すけど… 小森収インタビュー集』において語ってくれています。
いや。ご本人の証言も引用しないと、アンフェアですよね。常盤さん自身は退社の理由を、こう語っています。
「私のサラリーマン生活は短い。やめるときが辛かったのは、後半の五年が充実していたからだろう。いま思い出しても楽しい。(引用者中略)
会社をやめたのは、不遜にも何もすることがなくなったと自分で勝手に決めてしまったからである。貯金もなかったし、先の生活のことも考えずにやめてしまったが、ありがたいことに後悔することはなかった。」(昭和56年/1981年1月・筑摩書房刊 常盤新平・著『雨あがりの街』所収「I 街の風」「失格者*9月7日」より)
ちょっとキレイごとすぎますね。もう少し具体的なことに触れた文章だと、こういうのもあります。
「勤めをやめようと思ったのは、あることがあったからだ。組合ができて、会社との板ばさみになったといえば聞こえはいいが、そういうことはもうどうでもよくなっていた。
ある夜、自分が不能になっているのを知ったのである。ああ、これじゃあ、勤めをやめたほうがいいと思った。やめるしかないと思った。考えてみれば、じつに単純な理由である。ただ、そのときは、そんなに辛いことだとは思わなかった。大変な時期だったと気がついたのは、ずっとあとになってからである。」(平成1年/1989年2月・講談社刊 常盤新平・著『そうではあるけれど、上を向いて』所収「ガマン、ガマン」より)
ある意味、鈍感な方なのかもしれません。それが人によっては善人に見えるし、別の人から見ると悪人に見える、のかなあ。どうなんでしょう。
で、完全な悪人フィルター越しに常盤さんを見つめる男、小林信彦。彼の「60年代日記」の発表は、さすがの鈍感な常盤さんをさえカチンとさせました。
○
「小林信彦の『'60年代日記』に某氏が『あれだけ悪い編集者はいなかった』という件(ルビ:くだり)がある。
『'60年代日記』が『月刊プレイボーイ』に連載当時、常盤の名誉を傷つけたとして、編集部が詫び文を載せ、また常盤自身も『青春と読書』の誌上を借りて小林に反論したといういきさつもあった。」(前掲「直木賞・常盤新平に囁かれた選考委員根回し成功の“風聞”」より)
「60年代日記」の連載は昭和59年/1984年。これに常盤さんが『青春と読書』で反論しているそうなんですが、見つけられていません。たぶんワタクシの見落としです。見つかったらこのエントリーに追加しておきたいと思います(っていうか、ここら辺の情報、教えてください。大歓迎です!)
……(以下、平成25年/2013年2月6日に加えた補足です)
常盤さんが小林さんに反論したのは『青春と読書』昭和60年/1985年5月号「苦笑ばかりもしていられない」において。その少しまえに小林さんは、映画『Wの悲劇』のシナリオはアーウィン・ショー「愁いを含んで、ほのかに甘く」の盗作であると指摘した常盤さんのことを、映画賞の時期を狙って盗作さわぎを作為的に起こした、と『キネマ旬報』同年3月下旬号のコラムで書いたんですが、それに常盤さんが応戦したものです。
そこでは一緒に、「60年代日記」における小林さんの姿勢もからめて、「根拠もなく、人を誹謗し、それを活字にして恥じない」と言及。売られたケンカを、ざっと、このように買っています。
「盗作騒動で何もなかったように、私が早川書房を辞めるときも、べつに深い事情はなかった。しかし、小林は何かスキャンダルでもあったかのように、噂話を日記によって事実だとの印象をあたえようとする。
小林は永井荷風の日記を引き合いに出してあるが、荷風だって、こんなきたない真似はしなかった。「作品」とすることによって、小林はここに真実があると言いたかったのか。もしそうだとすれば、思いあがりもはなはだしい。
(引用者中略)
私を不倶戴天の敵、どうしても抹殺しなければ気がすまない敵と見ているようだ。私は苦笑するばかりである。その攻撃のしかたが意外なほど幼稚で、そのくせ、ずるい。
(引用者中略)
私は小林信彦が想像するほどの悪人でもないし、また私の親しい人たちが考えるほどの善人でもない。」(「苦笑ばかりもしていられない」より)
……(以上、補足終わり)
この一件では、常盤さんもそうとう傷ついちゃったらしいのです。覚えたての酒を飲んで、気をまぎらす日々を送ったとか、何とか。そして、小説を書き始めるにいたるには、さまざまな要因があったと常盤さんは回想しているんですが、そのなかの一つとして、小林信彦さんからの「60年代日記」攻撃をまともに食らったことも、含まれているわけです。
いちばん最初に、常盤さんが小説を書け書け勧められたのは昭和53年/1978年~昭和54年/1979年。しかし書きませんでした。昭和58年/1983年4月には、講談社の宮田昭宏さんから、具体的に昭和30年前後の六本木を舞台にして書きませんか、と締め切りまで指定されて促されます。それでも書きませんでした。
翌昭和59年/1984年。宮田さんからもう一度、小説のハナシを持ちかけられます。ちょうど、常盤さんと親しかった銀座の酒場の女性が亡くなって一年が経とうとしているころでした。
「死んだ彼女のためにも、私は小説を書かなければならないと思っていた。それに、私としては珍しいことだが、酒場で酒癖の悪い女流作家にからまれて、たかが翻訳家のくせに何言うのよ、あんたに小説なんか書けないでしょと毒づかれていた。また、ある男は六〇年代日記とかいう雑誌の連載読物でなんどか私を誹謗していた。機は熟していたのである。
その年はよく酒を飲んだ。「ニューヨーカー」というアメリカの週刊誌の内幕を描いたブレンダン・ギルの八年がかりの『「ニューヨーカー」物語』の翻訳が、新潮社の佐々木信雄氏のおかげで完成し、三月に出版されて、それが酒を飲む口実になったし、悪口を言われたことも飲む理由になった。」(前掲「“晩稲ソルジャー”駆けつけの記」より)
他人に悪口を言われた、それで発奮してついに小説を書き始めるにいたった、と。
なるほど。悪口に起因する執筆だったがゆえに、親しい編集者が諫める意味もこめて「自分の恥をさらしなさい。でも、他人を傷つけるようなことはいけないと思いますね。あなたは現実に人を傷つけているのだから」っていう言葉をかけたことにつながるんですね……って、これは想像。
人を傷つけたくない、でも生きているだけで無自覚に人を傷つけてしまう。ああ、朴訥にして狡猾。そういう人の書く小説だったりエッセイだったりするから、よけいに常盤さんの文章は味わい深いんですよねえ。
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