志茂田景樹(第83回 昭和55年/1980年上半期受賞) 直木賞作家が毎日テレビに出ている、なんて、まあ異次元な出来事ですわね奥さん。
志茂田景樹。『黄色い牙』(昭和55年/1980年4月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「やっとこ探偵」でのデビューから4年。40歳。
1990年代の直木賞は、ある意味、志茂田景樹の時代だった。……と言ってしまいましょう。
ほぼ100%テレビのおかげです。小説になど大して興味のない大半の日本人が、直木賞作家と言われて誰を連想するか、となったとき志茂田景樹さんを思い浮かべてしまう、という異常な事態がまき起こりました。
平成6年/1994年9月、岳真也さんが三田誠広・笹倉明との鼎談のなかで、カゲキ旋風の一端を語ってくれています。
「岳(引用者中略) 昨日も酒を飲んでて、店のバーテンに「直木賞と芥川賞とどう違うんですか」とか、素朴な質問を受けたもの。笹倉が以前に、雑誌の同じ目次に載るのは嫌だと言ってた作家がいるよね。テレビで唄ったり踊ったり……半裸になったりしてる人。実は彼も直木賞を取っている。それで、そのタレント作家がテレビなんかでやたらに言うだろ、自分は直木賞作家だってね。
そうすると、この賞にとってはすごい宣伝になるんだけど、よくない宣伝にもなるわけ。つまり、あのタレントが取った賞であるから、「ああ、そういう賞であるのか」という認識で、「それ、文学の賞なんですか」ってね。文学のことわからない人には見当もつかないから、直木賞というのはタレントの賞のように思われてしまっているところがある。
なにもボカして言うことないか。志茂田景樹だよね。飲み屋の話題では、志茂田景樹シンドロームみたいのがけっこうすごい。つまり、文学とか小説の話をすると、村上春樹の話と同じくらいに志茂田さんの話が出てくる。あの人はすごく宣伝してくれたね、直木賞のこと。」(『W大学文芸科創作教室番外篇 大鼎談』「番外その1 作家生活!」より)
ああいうのを「宣伝」と言うのかわかりませんけど、志茂田さんの過剰なテレビ出演が、少なくとも「直木賞作家」のイメージダウンに多く寄与してくれたとは思います。テレビで志茂田さんを知り、当時、数多く出版されていた志茂田さんの口述筆記による小説に、つい手を出してしまった人もいるでしょう。それらの小説によって、さらに「直木賞作家」のイメージダウンが増幅されたかもわかりません。
身を張って、直木賞そのもののくだらなさを世間に広めてくれました。なかなかできることではありません。志茂田さんの営みは貴重なものでした。
テレビにがんがん出演している時代、平成5年/1993年には『カゲキちゃんの秘密』(麻布十番カゲキ探偵団・著、実業之日本社刊)なる本も出ました。彼の小説の魅力をさぐる!……みたいな作家ファンブックにありがちな内容は、ほとんど書かれていません。カゲキの生い立ち、カゲキのファッション、カゲキの芸能活動、カゲキの生きざま、そういうハナシで埋めつくされています。
この本によると、志茂田さんがテレビに数多く出はじめたのは平成1年/1989年ぐらいなのだそうです。フジ「おはようナイスデイ」、読売「2時のワイドショー」などのコメンテーターとして招かれ、平成2年/1990年には「EXテレビ」準レギュラー、平成3年/1991年フジ「ヤマタノオロチ」、「元気が出るテレビ」ホモシリーズ、そして平成4年/1992年「笑っていいとも!!」レギュラー。
志茂田さんの当時のトレードマークでもあった(?)「口述筆記」もまた、やはりテレビに出始めたころ、取り入れられたスタイルでした。
「現在はカゲキちゃんが吹き込んだテープを、テープ起こし&ワープロ専門の女性に頼んで仕上げてもらい、編集者に直接届けてもらっています。もちろん直木賞受賞前もその後もしばらくは他の小説家となんの変わりもなく原稿用紙に作家らしく執筆をしてらっしゃいました。ところが89年ぐらいから小説以外のジャンルでも忙しくなってきたカゲキちゃんは、ある日締切りを目の前にしてギブアップしてしまったのデス!! 200冊達成を前にした壁だったのかな。そのとき10社ぐらいの依頼を受けていたんだけど、書けない理由を涙をそそるような文章で、各社に謝罪のFAXを送ったんだって。さあどうしよう、と困った10人の担当者は共同会議。ある一人が「テープに吹き込んでみては」と発言。それが今やカゲキちゃんの仕事のスタイルとして確立しちゃったってわけ。」(『カゲキちゃんの秘密』「書かない小説家の謎~テープ吹き込み式は、早い~」より)
ふーむ。完全に堕落しきった小説家の姿、って感じですねえ。笹倉明さんが同じ直木賞作家として毛嫌いするのは無理ありません。
テレビに出て有名になる。パーティーに出ればチヤホヤされる。夜の酒場で無尽蔵に遊び呆ける。それと引き換えに、小説は口述で仕上げる。のちに志茂田さんは、こんな回想をするに至ります。
「あい変らず、テープ吹きこみという形式の原稿執筆に追われていました。しかし、吹きこんでいるときの苦痛度は、さらに高くなっていました。
それでも、戦争シミュレーションもののシリーズは、ほどほどにヒットを続けていましたし、こんなんでいいのかな、と読者をあざむいているようなうしろめたさと、たかをくくる気持ちとが、かわるがわるによぎりました。
ただ、自分が納得するものを書けないでいる、というあせりに似た思いが、たえずぼくをしめつけていました。」(『男が家を出るとき帰るとき』「15 出版社を立ち上げてみたけれど」より)
いまはそんな状況を脱して、自身の納得のいく活動をされているんでしょうから、いいでしょう。でも果たして、なぜ志茂田さんは多忙→量産→苦痛のドツボにはまってしまったのか。仕事の忙しさにかこつけて、外に女をつくり、家庭をかえりみずに、妻や子どもたちを泣かせてしまったのか。
そこはそれ、「直木賞作家」なる超空疎なレッテルで売り出した志茂田さんだけのことはあります。ワタクシは、空疎な感じが大好物です。志茂田さんのドン底までの軌跡(と同時に華やかな舞台にひきよせられるまでの軌跡)を追うにあたって、やっぱり「直木賞」を軸にしたいと思うわけです。
そもそも志茂田さんが職を転々としながら、貧乏生活のなかで小説を書き始めるにいたったとき。デビュー前です。彼の目の前には、すでに「直木賞」の影がちらついていました。奇遇といいますか。運命といいますか。
○
志茂田さんは、当時を回顧したエッセイをいくつも書いています。たいてい、彼に小説を書くきっかけを与えてくれた人物のことが描かれています。それは純文学作家を志望していた360度文学青年の、とある友人でした。
『男が家を出るとき帰るとき』(平成14年/2002年10月・文芸社刊)では〈K〉なる仮名が使われています。
「Kは、ぼくより二歳年長で、既婚者でした。このKとぼくは、電電公社発行の電話帳に載せる広告とりをやっていたときに知りあいました。(引用者中略)
詩の同人誌にも入っていて、超難解な哲学詩を発表していました。あるとき、別の同人誌にショートショートを発表するということで、ぼくの目の前で書きだしたんですが、
「眠くなった。おい、続きを書いてみろよ」
と、ペンを放りだして眠ってしまいました。
興味をそそられて、三枚半ばかりの原稿を読んでみると、SFでしたね。いちおう、一生懸命結末を考えて、十枚にして書きあげました。
彼を起こすと、どれどれ、と読みだし、だんだん真剣な表情になって、読みおえると、
「うまいじゃないか。小説書けるかもしれないぞ」
と、マジにほめてくれました。
軽く言ったんだと思いますが、そのことはぼくの胸に深く突き刺さりました。そして、ずっといつも心にありました。」(『男が家を出るとき帰るとき』「4 腹膜炎から習作が生まれた」より)
〈K〉は石川淳に傾倒していまして、志茂田さんにこんなことを言います。
「「おい、おれは芥川賞をとるから、きみは直木賞をねらえよ」
酒を飲みながらまくしたてるKの話は、ぼくには刺激に充ちたものばかりでした。
この時期、Kとつきあっていなかったら、ぼくは作家になれなかったかもしれません。」(同書「5 希望に燃えて、そして、なにかが始まった」より)
いいですね。文学青年〈K〉。芥川賞あるいは直木賞への憧れが、ハンパありません。そんな友人と志茂田さんは一時期、ずっと行動を共にしていたのです。徐々に志茂田さんも、その強い憧れに感染していった、と見るのは不自然じゃありません。
もう一冊、資料をご紹介します。志茂田さんの「自伝的長篇」と銘打たれた小説『青ざめた彷徨』(昭和57年/1982年5月・中央公論社刊)です。こちらの作では、この友人には〈石村宏一〉っていう名前が与えられています。
はじめて書いた小説「終の棲家」を、〈石村〉に見せたときの光景。
「石村は、読みだしたが、その表情はしだいに真剣なものになり、原稿を繰る速度も早くなって、思いのほか早い時間で読み終った。
「おどろいたよ。きみにこんなものが書けるとは。周五郎調の現代版といった趣もあるが、ペーソスがある。『オール読物』の新人賞に応募したら入選は無理としても佳作ぐらいにはなるんじゃないの」
(引用者中略)
「なんだなあ、もしかすると、ぼくよりもきみのほうが先に世に出るかもしれんなあ。中間小説で、感銘は受けなかったけど、おもしろかったことはたしかだし」」(『青ざめた彷徨』「第五章 積木の家庭」より)
仮名ばっかりだと気持ち悪いですね。正体を明かしてしまいますと、志茂田景樹の作家誕生に偉大なる貢献をしてくれた友人。それは草間洋一さんって方です。
下記の記事では「学生時代からの友人、評論家」として草間さんが紹介されています。
「昭和四十六年、週刊誌の記者になった頃から(引用者注:志茂田は)「ペンで食うしかないのかもしれない」と考えるようになったという。このような心境の志茂田氏に小説を書くよう勧めたのは前出の草間氏。
「四十七年ごろ、彼は盲腸炎をこじらせて長期入院したことがあるんです。そのとき、『お前さん、小説家になるのがいちばんいいよ』といったのがきっかけになって、小説を一つ書いた。古風な私小説でしたけどね。」」(『週刊現代』昭和55年/1980年8月7日号「十種以上の職業を経験 直木賞の異色作家志茂田景樹氏(39)の「小説作法と仕事との間」」より)
草間さんは昨年平成22年/2010年2月に刊行された詩集『廓然無聖の朝がきた』(開山堂出版刊)の略歴によりますと、昭和13年/1938年新潟県生まれ。いまは「法人・団体・個人の各種表現を支援する「表現社」を経営。日本文明考究会主宰」だそうです。
志茂田さんがデビューする前後の昭和49年/1974年~昭和51年/1976年。作家をめざし、芥川賞をめざす草間さんがいました。そして、もうひとり。「直木賞」の匂いをぷんぷん発散させる人物が、志茂田さんの近くに現われました。
そうです。「生ける直木賞・しゃべる直木賞」とまで言われた(……冗談ですよ)、直木賞操縦術に長けた文藝春秋編集者、豊田健次さんです。
○
『男が家を出るとき帰るとき』では〈T〉、『青ざめた彷徨』では〈豊川〉っていう名前が付けられています。また『カゲキに生きてみないか』(平成6年/1994年4月・ぴいぷる社刊)では〈O〉です。
志茂田さんが「朝の断崖」でオール讀物推理小説新人賞の候補になった昭和49年/1974年、豊田さんは『オール讀物』編集次長でした。ゴールデン街「まえだ」のママに引き合されて、志茂田さんと顔なじみになり、同じ中学校の先輩後輩であることが判明したのだそうで。
「「朝の断崖」は落選したが、その後O氏のアドバイスを受けて応募するようになり、立てつづけに「オール読物」新人賞に三回候補になった。推理小説より普通の小説で賞を取りたかったのである。
結局、僕が受賞した新人賞は「オール読物」ではなく「小説現代」の新人賞だったが、O氏の励ましとアドバイスがなかったら、応募を諦めていたかもしれない。」(『カゲキに生きてみないか』「第一部 人生というギャンブルに賭ける」より)
小説現代新人賞をとるまでの志茂田さんは、オール讀物の新人賞に応募をつづける中で、豊田さんからの期待を一身に受けます。『オール讀物』に「冷血の罠(三億円保険殺人事件)」(昭和50年/1975年4月号 境忠雄・名義)、「大寄進」(昭和50年/1975年7月号 下田忠男・名義 新人賞候補作)を立てつづけに掲載してもらったりしました。
さらには、小説現代新人賞を受けたあとも、『別冊文藝春秋』143号[昭和53年/1978年2月]に問題作「折伏鬼」を発表。のちの志茂田さんからは想像もできませんが、このころ、志茂田さんの活躍の舞台のひとつは、文春の雑誌でした。
「じっくりと腰をすえて書いた作品で、仕あがりに自信がありました。何人もの知人から、
「あれは、直木賞の候補になるね」
と、言われましたが、ぼくはならないと思っていたので、いつも無理だと否定しました。
できばえはわるくなくても、実在の宗教団体をモデルにした小説で、いわゆるキワモノでした。当時はいまとちがって、キワモノ的な作品や、推理小説は、直木賞の候補作にはまず上がってこない時代で、それをぼくはよく知っていました。」(『男が家を出るとき帰るとき』「7 父から強く伝わってきたこと」より)
うーん。ここは志茂田さんの直木賞観に異議をとなえたいなあ。当時だって、キワモノ小説が直木賞の候補に挙がることは珍しくなかったんですもん。
「自分が直木賞をとったころは、直木賞もしっかりした評価基準だった」と言いたいのですか。いやいや、そうはいきません。たしかに志茂田さんの受賞作『黄色い牙』は、キワモノじゃありませんが、候補作にキワモノが挙がることもある、それこそ直木賞の真の姿じゃありませんか! そんなカタブツで行儀のいいものじゃないんですよ、直木賞って。
で、豊田さんです。第83回(昭和55年/1980年上半期)のとき、彼は『オール讀物』編集長になっていました。……なあんてハナシは前にも書きましたね。ええ、第83回直木賞と豊田健次、といえば、誰だって思い起こすのが〈山口瞳〉であり〈向田邦子〉でしょうよ。
じつはこのときの豊田さんは、志茂田景樹さんにも事前に連絡をしていた。ちゅうのですから、もう直木賞を裏でうごかす男トヨケンさん、ステキ。
「六月、『黄色い牙』は、第八十三回直木賞の候補作にノミネートされました。これを知ったときは、有頂天にならずに、意外と冷静でしたね。
(引用者中略)
文藝春秋のTからも、電話がかかってきて、
(今回のあれは、なかなか評判いいじゃないですか)
と、言ってくれました。
「そうですか、候補作に入っただけで満足です。励みになります」
(いや、わからない、わからないですよ。選考会まであと何日もないけど、あまり気にせずにいてください)
Tは、わからない、わからないですよ、と言ったときだけ、すこし語気が高かったんです。(引用者中略)
Tのような編集幹部は、芥川賞・直木賞の選考委員たちの候補作品に対する感触を得やすい立場にいます。きっと『黄色い牙』の感触がよかったんだろう、とぼくは思いましたが、その思いも封印しました。」(『男が家を出るとき帰るとき』「8 直木賞受賞と生活の激変」より)
『黄色い牙』は候補作中、もっとも多くの票を得ました。志茂田さん渾身の一作は、みごと、デビュー前から常にかたわらにあった「直木賞」の次元に達しました。
しかし、このとき同時受賞者がいました。向田邦子さんです。
果たして、志茂田さんが単独受賞者であったなら。……その後の志茂田さん、何か変わったでしょうか。変わらなかったでしょう。でも、奥さんの下田光子さんにとっては、「向田邦子との同時受賞」は象徴的な出来事に映ったようです。その後の志茂田さんの、栄光=転落の作家人生へのスタートラインとして。
「その日(引用者注:直木賞受賞)から、すべてが変わった。(引用者中略)夜は夜で、志茂田はほとんど毎晩のように出かけた。受賞祝いだといって編集長、あるいは出版部長と名のつく人たちが連れていってくれる店は、これまでとはランクの違うところであったらしい。いわゆる銀座の文壇バーであり、志茂田には初めて見るきらびやかな世界だった。
(引用者中略)
(引用者注:授賞式の)パーティ会場に着くと、私はさらにびっくりした。テレビでしか見たことのない、森繁久弥さんや森光子さんが談笑していたのだ。同時受賞した向田邦子さんが招待したゲストだったのだが、異次元の世界が突然目の前に現れたような、現実離れした気分だった。
この異次元から、武蔵境の実家の二階の六畳に、志茂田は戻れなくなってしまったのかもしれない。現実というものを、どこかで見失ってしまったのだろう。」(平成14年/2002年9月・洋泉社刊 下田光子・著『わたしはぜったい別れない〈見捨てられた妻の手記〉』「第二章 栄光」より)
ああ、そんなこともあんなこともありました。すべては過去のハナシです。派手な服を着た長身のおじさんがテレビ画面に映っては「直木賞作家」の文字がチラチラしていた時代、そんなものはとっくのとうに過ぎ去りました。
あのころのカゲキフィーバーは、直木賞にとっても異次元の世界のようでした。いまは直木賞も正常な世界に戻った……のかな。
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