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2011年9月の4件の記事

2011年9月25日 (日)

森荘已池(第18回 昭和18年/1943年下半期受賞) アノ有名人のことを語らずとも、この人には岩手文壇の牽引者としての立派な姿があります。

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森荘已池。「山畠」(『文藝讀物』昭和18年/1943年12月号)、「蛾と笹舟」(『オール讀物』昭和18年/1943年7月号)で初候補、そのまま受賞。創作集『店頭』での小説家デビューから3年。36歳。

 勢いを大切にしたいのです。前週綱淵謙錠さんを取り上げました。となれば、その勢いで森荘已池さんにコマを進める(コマを戻す?)のは、直木賞研究界の定石と言えましょう。

 名前を正確に書いてもらえない直木賞作家ランキングで、いまだ不動のトップクラスを維持しています。名は荘已池です。「そういち」と読みます。荘己池や荘巳池ではありません。

 本名は佐一。その佐一さんと家族一同に、長いあいだ幸福な生活をもたらすにいたった、霊験あらたかな(?)筆名なのです。以後お間違えなきよう。

「「佐」のつく名前が三代続き、長男が短命で病弱であったことと、幼少の頃の惣門の占い師から習い覚えた易学と四柱推命学を研究し、名前も本名森佐一から惣一、荘已池と改姓しようとするのである。」(平成15年/2003年11月・未知谷刊 森荘已池・著『山村食料記録―森荘已池詩集』所収 森三紗「解説と解題」より)

 それで荘已池さんといえば、十中八九、アノ有名人の関連人物として語られます。かつて『消えた受賞作 直木賞編』(平成16年/2004年7月・メディアファクトリー刊)っていうアンソロジーをつくったとき、ワタクシもその縛りから逃れることができず、アノ有名人との関わりを中心にして紹介文を書きました。

 でも、せっかくなので今日のエントリーは、一切アノ有名人のハナシを排して書きます。主役は森荘已池さん、あなたです。

 荘已池さん自身は、あまりオモテに出てきたくない人だったようなんですけど。まあ直木賞なんちゅうペンキが服に着いてしまったことを不運と思って、あきらめてください。

「父(引用者注:森荘已池)は写真を撮影するときには後ろに並んでいることが多く、無欲恬淡で自分の作品を出版するために出版社に足を運んだということを、ついぞ聞いたことはなかった。」(同)

 無欲恬淡。おそらく、そんな方だったんでしょうねえ。

 ただ、純粋に疑問に思います。無欲な人がなぜ、詩や小説を書くだけでは満足できず、公表したい欲求に駆られたのだろうかと。無欲恬淡な装いの内に、やはり自分の書いたものを他人に見てもらいたい、さらには評価されたい、褒められたい、みたいな野望も抱えていたのではないかと。

 荘已池さんは旧制中学時代、自分のノートにひそかに詩を書きためていました。と同時に、それを新聞に投稿したり、校友会雑誌に発表したりしていました。この積極的な行動を知ると、荘已池さんって少なくとも若い頃は、そうとうなやり手で、表舞台に出ようとする欲もたんまり持っていたのだな、とワタクシには思えるのです。

 つまり、みやこうせいさんが荘已池さんの本に寄せた解説文に、次のような一節があります。盛岡って街を表現した言葉です。これこそまさしく、盛岡人・荘已池さんの性格の一端をも表しているんだろうな、と感じます。

「今、この一文を盛岡の県立図書館で書いている。実にこの文を書きに、東京以北で一番しっとりと趣のある盛岡に来たのである。東京から離れるが故に、いささかコンプレックスにとらわれて、中央や世界に志向も高く、底にモダニズムを秘めた文化の街である。」(平成14年/2002年10月・未知谷刊 森荘已池・著『浅岸村の鼠』所収 みやこうせい「解説 南部の鼠のフォークロア、森荘已池の語り」より)

 コンプレックスにとらわれて、中央や世界に志向が高い。……いいですねえ。荘已池さんも内に秘めながら、東京進出への強い思いを抱えていたんでしょう。

 『消えた受賞作 直木賞編』の取材の折り、四女・三紗さんにいくつか聞かせてもらったハナシを思い出しました。

 昭和4年/1929年、結婚するときに新妻に語った「きっと作家になって東京に連れていくから」の言葉。

 昭和19年/1944年。ついに直木賞を得て、それを機に上京、友人の藤原嘉藤治さんに「家族を連れて東京に出てきたいのだが……」と相談したこと。

 三紗さんも、荘已池さんのことを「おそらく小説を書きたい思いはずっとあったのではないでしょうか」と見ていました。しかし、うまく中央文壇のなかで泳いでいく器用な技を身につけていなかった、と言いますか。量産体制を強いられる文壇ジャーナリズムを「うさんくさいな」と感じてしまう反骨の心をもっていたのかもしれません(想像)。

 ちなみに亡くなったときには、こんな記事が書かれました。

「創作集「店頭(みせさき)」に収めた「氷柱(つらら)」が四〇年の芥川賞候補になる。三年後の三十六歳のとき、「蛾(が)と笹舟(ささぶね)」と「山畠」で直木賞を受賞した。

 その後、小説家としては思うにまかせなかった。「書かなくちゃならない」と知人に漏らし、再起をめざした時期もあったといわれる。
(『朝日新聞』夕刊 平成11年/1999年4月8日「惜別 直木賞作家・森荘已池さん」より 署名:伊藤裕香子 太字・下線は引用者による)

 直木賞作家には、とかく読み物ふうの小説を大量に書くことが期待されたりもします。良くいえば、たぶん荘已池さんはそんな狭い世界で満足できる器じゃなかった、ってことでしょう。逆に悪くいえば……以下自粛。

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2011年9月18日 (日)

綱淵謙錠(第67回 昭和47年/1972年上半期受賞) 会社をやめて第一作目で直木賞。ほっと一息。と思ったら直木賞からキツい洗礼が一発。

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綱淵謙錠。『斬』(昭和47年/1972年5月・河出書房新社刊)で初候補、そのまま受賞。同作での小説家デビューから半年。47歳。

 中央公論社に勤める第一線の編集者、綱淵謙錠。40代半ば。作家たちから愛され、きっと職場の仲間からも愛されていました。役職のうえでも偉くなっていき、55歳の定年まで勤めようと思えば、何の障害もなく勤められたでしょう。

 昭和46年/1971年。なぜ定年を待たず、スパッと中央公論社を退社したのか。

 よくわかりません。

 主婦たちのグループに招かれたときは、こう答えています。

「「一流出版社をおやめになり、筆一本で生活しようと決心されたとき、奥さまや子どもさんのことを考えましたか」―さすが家庭の主婦の集まりだけあって、綱淵さんの“脱サラ”にまず質問の矢。

「(ちょっと考えるような表情になって)それは五十五歳が定年だから妻子のことも、やめたあとのことも考えましたよ。でも貧乏には慣れていますからね。(あとは淡々と)私は樺太に育って、この身一つで本土にのがれました。苦労しました。いまだに自分たちの結婚式も挙げていない始末です。だから食べるためという意味から作家生活にはいった、と表現するほうが正しいでしょう。」(『読売新聞』昭和47年/1972年9月26日「赤でんわ投稿グループ「こだまの会」 作家の綱淵謙錠さんと語る」より)

 「食べるためという意味から作家生活にはいった」……。意味、わかりますか? ワタクシはさっぱり真意が読み取れません。

 一般的に考えると、ずっと文学青年のまま育って、自分でも小説を書いてみたい気がおさえられずに思い切って職を辞した。ってかたちを想像します。でもその説は、綱淵さん本人が否定しています。

草柳(引用者注:草柳大蔵) 中公にいらっしゃるときも、なにかを書きたいという気持はおありだったんでしょう?

綱淵 それはありました。ぼくも若いころは文学青年だったし、編集者という商売からくるストレスもあるし、だからそういうものを、エリオットの翻訳やったりしてごまかしてたわけです。

草柳 とすると、中公をおやめになったのは、そういうものでは自分の気持をごまかしきれなくなって、本格的な作品を書きたいというふうに思われたからですか。

綱淵 そういうことでもないんですが、まあ、いろいろ考えるところもあって……。」(『週刊文春』昭和47年/1972年8月28日号「草柳大蔵 大物対談20 首斬り浅右衛門は戦中派サラリーマン」より)

 何でしょう。口ごもっています。

 退社の理由をはっきり言わないものだから、草柳大蔵さんは、突っ込んで尋ねました。すると綱淵さんは「時代がうつりかわったからだ」と答えます。

草柳 小説書きたくておやめになったんじゃないとすると、ほかに一大決心のキッカケがあったわけですか。

綱淵 具体的にどうのこうのというより、時代のうつりかわりですね。編集の問題にしても、われわれの年代のものと、若いひとたちとでは行き方がかわってきましたから。(引用者中略)

 正直言って、二回めの谷崎全集をやらされてそれがおわったときに(引用者注:昭和43年/1968年)、オレの編集者としての仕事はこれで終った、という感じになりましてね、そのあと『婦人公論』の編集長なぞやらされたんですが、だんだん現場からはなれていって、これで五十五歳の定年まで待つのか、と思ったらなんとか方向転換しなけりゃいかんなと思いだした。」(同)

 どういうことでしょう。よほど『婦人公論』での仕事に張り合いが持てなかったんでしょうか。

 まあ、綱淵さんが受け持っていたころの『婦人公論』誌は、編集長の異動が激しい時期でもありました。綱淵さんがどんなテンションで仕事に臨んでいたのか。想像すると、ちょっと身につまされます。

 在職中、綱淵さんは長らく、作家になるつもりはなかったそうです。しかし、なるつもりはなくてもずっと、ひそかに小説は書き続けていました。その行為が、いざ辞職する決心をかためるときに生かされることになりました。

「小説は戦後ずっと書いてました。文学青年みたいな形ではね。ただ発表するのは、機会もなかったし、編集者として作品を発表するのは、まずいんじゃないかっていう考えはありましたし……。

 それと、ぼくは谷崎先生の全集をやっていたので、いわば、大きな山のそばにいたために、自分が書いたものなどは、と思ったこともありましたね」(『週刊朝日』昭和47年/1972年8月4日号「人物スポット 「編集者の虚しさが身にしみた」」より)

 その谷崎潤一郎さんが死んで5年。全集の編集も完遂。編集者としての情熱も、何だか失速ぎみ。昭和45年/1970年のことです。もうおそらく、このころには綱淵さんは会社のなかでも死に体であったことでしょう。

 辞職を考えはじめる綱淵さん。しかし彼に何の目算もなかったわけではありません。在職中から創作は続けていました。長年の編集者生活で培ってきた人脈もあります。

 時に昭和45年/1970年11月、三島由紀夫が自殺。綱淵さんの作家人生へのスイッチが押された瞬間でした。

「わたくしの文章に「金色の死」という短い随筆がある。三島由紀夫さんを追悼した文章で、昭和四十六年一月発行の臨時増刊「新評」に掲載された。(引用者中略)昭和四十五年十一月二十五日、三島さんが自刃急逝されたとき、当時「新評」の編集長をしておられた吉岡達夫氏が四十六年二月号に三島さんの追悼特集を企画し、わたくしにも原稿依頼があって書いたのである。ところがその追悼特集を「三島由紀夫大鑑」と銘うって〈臨時増刊〉に変更したため、実際の二月号には原稿依頼の時間がなくなり、わたくしに「続いて何か書け」ということであった。そこで書いたのが「斬(ざん)」である。

 そのころ、わたくしはまだ中央公論社に勤めていたが、この作品をもって退社の足がかりにしようと考え、昭和四十六年一月発行の同誌二月号から書き始めた。次いで三月末日で中央公論社を退社した。」(平成1年/1989年3月・文藝春秋刊 綱淵謙錠・著『人生覗きからくり』所収「〈処女作の頃〉―三島さんの急逝」より)

 綱淵さんは該博な歴史に関する知識と、引き締まった文章を書くことで、編集者時代から一目おかれていたぐらいの人です。『新評』に連載しているあいだに、小説「斬」は一部の評論家界隈(ええと、尾崎秀樹さんですね)から注目を浴びます。

 「歴史小説の大型新人」と言って煽り立てられました。そして、そのまま直木賞も受賞してしまいました。選考会でほとんど異論を立てられることのない、まず納得の受賞でした。

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2011年9月11日 (日)

村山由佳(第129回 平成15年/2003年上半期受賞) 「直木賞をとっても何も変わらない」。わけはなくて、多少は効果があったようです。

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村山由佳。『星々の舟』(平成15年/2003年3月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「もう一度デジャ・ヴ」でのデビューから12年。39歳。

 さくっと行きたいと思います。かなりワタクシの苦手な部類の受賞作家なものですから。

 村山由佳さんが直木賞をとっていなかったら、その後どうなっていたのか。どんな小説を書き継いでいたのか。もうわかりません。

 直木賞をとってしまった(とれてしまった)ことが遠因となって、一気に肉欲路線に舵を切ってしまったのか。タガを外させてしまったのか。因果関係があると言えばありそうです。でも直木賞受賞がなくても、「文学」なるものに対する村山さんの強い憧れ志向はいずれ、いまみたいな作家になることを約束していた、と言えるかもしれません。

 ただ、これだけは言えます。直木賞をとる前と、いまとで、村山さんのもつイメージは相当変わりましたよね、と。

 どの作家もそうだと思いますが、村山さんの場合はとくに、「見た目」や「ライフスタイル」の放つイメージぬきでは語れない作家です。村山さんの顔を知らずに小説を読む、なんて、まず許されません。許されない環境があります。

 デビューまもない頃から、『LEE』だの『MORE』だの、集英社の女性誌にバンバン登場させられ、他の雑誌でも、

「無名な有名人は「目立たない」「さわがない」「流されない」 自給自足の野菜作りをしながら恋愛小説を書く“地に足のついた”美人小説家」(『DENiM』平成6年/1994年12月号)

 だとか、

「恋愛小説で売り出し中 美人作家・村山由佳さん“晴耕雨筆”の日々」(『週刊読売』平成7年/1995年9月3日号)

 だとか。小説を書いている本人がどんな生活をしているどんな人なのか、そんなの全然関係ないっ! と耳をふさぎたがっている読書子の口をこじ開けてノド奥に突っ込んでくるかのような、村山由佳ビジュアル攻撃。ないしは、農作業をし、馬にまたがり、猫を抱く写真、写真、写真。

 受賞直後の『週刊朝日』林真理子さんとの対談記事には、こんなリードもつけられました。

「作家生活10年の今年、/いままでの作風と違った『星々の舟』で/直木賞を受賞した村山由佳さん。/千葉県の鴨川で「農業」を営む/ライフスタイルも人気の理由です。/「女流作家には珍しい」さわやかさは、/どこから生まれてくるのか。/直木賞選考委員の林さんが鋭く迫ります。」(『週刊朝日』平成15年/2003年10月3日号「マリコのここまで聞いていいのかな」より ―「/」は原文では改行)

 この対談では林さんが、村山さんのことを「文壇の清純派」「どこから見てもさわやかなお嬢さん」と評し、対談後のコメントでは「写真で見ても、さわやかな美人ですが、お会いしてお話しすると、もっと好印象」と書いています。もう村山作品は、その印象どおりであろうと、印象を裏切られたと感じるのであろうと、彼女のビジュアルと切り離して読むことができないわけです。

 そして書かれた連作集『星々の舟』。単純にこの一冊だけが作者名を伏せたまま俎上に乗せられていたら、ほんとうに受賞できていたんですか。と疑いたくもなります。ただ、古くからの村山ファンにとっては、それまでの村山作品のエッセンスは確実に含みつつ、大胆に変貌を遂げた記念碑的な作品、なのだそうです。

 つまり、「これまでのイメージを果敢に打ち破ろうとした意欲作」扱い、と言いますか。

「「せつない恋愛小説の書き手」というのが、村山由佳という作家の一般的イメージだろう。十代、二十代の若者に圧倒的な支持を受けているため、ヤングアダルト系の作家と見なされることもあるようだ。(引用者中略)『星々の舟』は、村山が渾身の力で自己イメージを突き破ろうとした勝負作である。そのずっしりとした読後感、暗く沈み込むようなタッチは、従来のファンを驚かせた。」(『中央公論』平成15年/2003年9月号「人物交差点 村山由佳」より ―署名(石))

 従来のファンではなかったもので、ワタクシはそれほど驚けませんでした。どうもすみません。

 さらに、驚かなかった人の代表格がこの二人。

大森(引用者注:大森望) 村山由佳に授賞すること自体はいいと思うけど、なんでわざわざこういう作品に……。

豊崎(引用者注:豊崎由美) ひとつの家族の歴史を構成員それぞれの視点で綴った短編を連作にしてまとめてる作品です。これまでに幾度も、しかももっと高度な形で提出されてるありふれた手法をじぶんは使ってる、だから厳しい目で読まれるんだぞっていう畏れや緊張感が稀薄過ぎですね。文章も歌謡曲みたいっていうか……。

大森 ものすごくベタ。出来の悪いテレビドラマみたい。」(平成16年/2004年3月・パルコ刊 大森望・豊崎由美・著『文学賞メッタ斬り!』「ROUND2 エンターテインメント対決!直木賞vs山本賞」より)

 このときの直木賞選評(『オール讀物』平成15年/2003年9月号)を読んでいただければ、まるで真逆の好評価を、何人かの選考委員がくだしているのがわかりますので、合わせて読むと面白いですよ。で、選評のほうでは、これも何人かが『星々の舟』一作に関する感想を逸脱した評を書いているのが印象的です。

「すでに中堅作家でいられるが、この作品で更に飛躍されることであろう。」田辺聖子

「この作家がこの一作で、大きな壁を突き破ったことは、間違いないだろう。」渡辺淳一

「この方の初期のものから読んでいるが、いつのまにかこれほど大人の作家としての技倆を身につけられ、堂々とした大作だ。若い読者を中心に大変人気のある方であるが、今までの作品はやや甘口の感があった。ところが今回はきちんと人間をひとりひとり書き分け、大人の過去と苦さを与えている。」林真理子

 その最たる委員が、宮城谷昌光さんでした。

「「星々の舟」の村山由佳氏は、その成長が賛嘆されての受賞である、と私は理解した。(引用者中略)村山氏の作品をはじめて読む私は、作家としての成長という誉言が交驩を産む選考会に直面して、ひとかたならずおどろいた。それは多くの選考委員が村山氏の旧作を丹念に読んでいる証左であり、それは村山氏の幸運でもあろうが、作家としての徳というものでもあろう。」(宮城谷昌光)

 おお。ザッツ・直木賞。直木賞作が他を圧する傑作であるとは限らない、その必要もない、っていう姿の美しいまでの典型です。

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2011年9月 4日 (日)

高橋克彦(第106回 平成3年/1991年下半期受賞) 直木賞への期待感が徐々に薄れていった8年間。

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高橋克彦。『緋い記憶』(平成3年/1991年10月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。『写楽殺人事件』での小説家デビューから8年。44歳。

 昭和58年/1983年の江戸川乱歩賞受賞。それから直木賞受賞まで、高橋克彦さんは8年かかりました。

 ありがたいことに高橋さんには、生い立ちから作家活動までを通して語った文献がすでに、数多く刊行されています。入手しやすいものとして、『小説家―乱歩賞受賞作家の小説入門』(平成3年/1991年6月・実業之日本社刊)や、『開封―高橋克彦』(平成12年/2000年12月・平凡社刊 道又力責任編集)などがあります。

 これらを読むだけで高橋さんがいかにして直木賞作家となったかの道筋が容易にたどれちゃうのです。うーむ、ありがたい。

 うちのブログで、それに付け加えるものは何もありません。ただ、これらの本はワタクシのような文学賞偏愛者向けにはつくられていないので(当たり前だっ!)、高橋さんの受賞した文学賞ごとに、その周辺事項をまとめさせてもらいます。

●江戸川乱歩賞(昭和58年/1983年)

 前年に『岩手日報』勤務の中津文彦さんが歴史ミステリー『黄金流砂』で乱歩賞を受賞。同紙で大きく取り上げられた記事を見た高橋さんは、刺激をうけて、乱歩賞に応募することを決意します。

 そして高橋さんのかの有名な(?)「乱歩賞・傾向と対策」が生まれたわけです。

「傾向と対策なんかを考えて小説を書くと、それは小説をばかにしているとかというふうに、文学をすごく重要なものと意識している人たちは思うかもしれません。ぼくは逆に、賞に応募する当然の常識といったらいいかもしれないけど、敬意を払うという意味では、その賞がどういう賞なのかということを熟知してから応募するのが本当だと思うんです。」(平成3年/1991年6月・実業之日本社/仕事発見シリーズ 高橋克彦・著『小説家』「II 江戸川乱歩賞をとる、と大宣言!!」より)

 じっさいに高橋さんが編み出した「傾向と対策」は、次のようなものでした。『開封―高橋克彦』から引用します。見やすいようにワタクシのほうで、項目ごとに改行を入れました。

「①自分が熟知する世界を描くこと(当然、浮世絵。誰もが知っている写楽を選んだ)。

②連続殺人とする。しかも様々な土地に事件を分散した方がいい(東京をメインに、秋田でも事件を起こすことにした。写楽と秋田蘭画の結び付きという大胆な仮説は、場所の設定から逆に生まれた)。

③時刻表や地図など、図版を使うことも効果的である(人物関係図を挿入し分かり易くした)。

④謎解きの興味とは別に、主人公の苦悩をじっくり描くのも重要だ(優秀な研究家だが善良過ぎる津田良平が、事件に翻弄される様は読者の共感を呼んだ)。

⑤最後に、応募原稿は奇麗に清書すること(清書に手間取り、郵送したのは締め切り当日)。」(平成12年/2000年12月・平凡社刊 道又力・責任編集『開封―高橋克彦』「全作品解説〈刊行年代順〉 写楽殺人事件」より ―原文は改行なし)

 応募時の題名「蝋画の獅子――写楽殺人事件」。第29回江戸川乱歩賞を受賞しまして、約27万部ほど売れたそうです。

 写楽といえば高橋、高橋といえば写楽、っていうくらい強烈な印象を残しました。むろん、そのイメージに縛られずに次々と素材を見つけ、あるいは温めていた物語を形にできる力があったから、いまの高橋さんがいます。しかしデビュー後まもなく、関口苑生さんはこう書きました。

「デビュー作がその作家の一生を決定づけてしまうことがある。その後、いくら書いてもデビュー作の印象が拭い切れないというやつだ。最近で言えば、この高橋克彦が典型的な例だろう。八三年度江戸川乱歩賞受賞作の「写楽殺人事件」の印象は、それこそ強烈を通り越して衝撃に近いものだったからだ。(引用者中略)しかしぼく個人は、彼が単にこれだけでは終らない作家であると信じている。」(『潮』昭和59年/1984年4月号「ニュー・ビッグ―日本をリードする二〇八人」より ―執筆担当:関口苑生)

 デビュー長編一作きりの新人に対して、関口さんの寄せるこの信頼感。ずば抜けています。

 それだけ『写楽』の出来が高かった、と。皮肉なものです。その出来栄えのよさと周囲の好評価ゆえに、高橋さん自身、少々窮屈さを感じていたみたいです。

「処女作品というヤツはいつまでも自分の人生についてまわるものらしい。一年目は当り前だと思っていたが、発表して三年目になると言うのに、相変わらず写楽に関するインタヴューやエッセイの依頼が多い。(引用者中略)まだ三年目だから、それでも笑っていられる。これが十年、あるいは二十年続けば笑うどころか小説を書いている意味がない。どんなに苦しみ、頭を使っても、その何十年かは無駄な時間だったと言うことになるからだ。(引用者中略)

(引用者注:高橋自身)「結局○○はあのデヴュー(原文ママ)作を乗越えることなく死んでしまったね」などとしたり顔で仲間と話したことが何度もある。その後の作者の人生など無視してだ。強烈なしっぺ返しをくらった気分でぼくは毎日を暮らしている。死ねば○○がぼくの名前になり、どこかで話されていくのだろう。それを思うと辛い。ゾッとする。

 いつまでも写楽が忘れられないでいることは有難いが、いつかは写楽が忘れられてしまうような、そんな作品を書きたいものだ。」(平成1年/1989年10月・中央公論社刊 高橋克彦・著『玉子魔人の日常』所収「処女作品」より)

 処女作『写楽殺人事件』。といいますか、「江戸川乱歩賞」なる文学賞が周囲に放つ魔法のパワーは、相当なものでした。デビューとともに背負ってしまった、文学賞がもたらすイメージ。それが少しずつ少しずつ削り取られていく……。高橋克彦さんの作家人生って、そういうふうに見えます。

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