綱淵謙錠(第67回 昭和47年/1972年上半期受賞) 会社をやめて第一作目で直木賞。ほっと一息。と思ったら直木賞からキツい洗礼が一発。
綱淵謙錠。『斬』(昭和47年/1972年5月・河出書房新社刊)で初候補、そのまま受賞。同作での小説家デビューから半年。47歳。
中央公論社に勤める第一線の編集者、綱淵謙錠。40代半ば。作家たちから愛され、きっと職場の仲間からも愛されていました。役職のうえでも偉くなっていき、55歳の定年まで勤めようと思えば、何の障害もなく勤められたでしょう。
昭和46年/1971年。なぜ定年を待たず、スパッと中央公論社を退社したのか。
よくわかりません。
主婦たちのグループに招かれたときは、こう答えています。
「「一流出版社をおやめになり、筆一本で生活しようと決心されたとき、奥さまや子どもさんのことを考えましたか」―さすが家庭の主婦の集まりだけあって、綱淵さんの“脱サラ”にまず質問の矢。
「(ちょっと考えるような表情になって)それは五十五歳が定年だから妻子のことも、やめたあとのことも考えましたよ。でも貧乏には慣れていますからね。(あとは淡々と)私は樺太に育って、この身一つで本土にのがれました。苦労しました。いまだに自分たちの結婚式も挙げていない始末です。だから食べるためという意味から作家生活にはいった、と表現するほうが正しいでしょう。」(『読売新聞』昭和47年/1972年9月26日「赤でんわ投稿グループ「こだまの会」 作家の綱淵謙錠さんと語る」より)
「食べるためという意味から作家生活にはいった」……。意味、わかりますか? ワタクシはさっぱり真意が読み取れません。
一般的に考えると、ずっと文学青年のまま育って、自分でも小説を書いてみたい気がおさえられずに思い切って職を辞した。ってかたちを想像します。でもその説は、綱淵さん本人が否定しています。
「草柳(引用者注:草柳大蔵) 中公にいらっしゃるときも、なにかを書きたいという気持はおありだったんでしょう?
綱淵 それはありました。ぼくも若いころは文学青年だったし、編集者という商売からくるストレスもあるし、だからそういうものを、エリオットの翻訳やったりしてごまかしてたわけです。
草柳 とすると、中公をおやめになったのは、そういうものでは自分の気持をごまかしきれなくなって、本格的な作品を書きたいというふうに思われたからですか。
綱淵 そういうことでもないんですが、まあ、いろいろ考えるところもあって……。」(『週刊文春』昭和47年/1972年8月28日号「草柳大蔵 大物対談20 首斬り浅右衛門は戦中派サラリーマン」より)
何でしょう。口ごもっています。
退社の理由をはっきり言わないものだから、草柳大蔵さんは、突っ込んで尋ねました。すると綱淵さんは「時代がうつりかわったからだ」と答えます。
「草柳 小説書きたくておやめになったんじゃないとすると、ほかに一大決心のキッカケがあったわけですか。
綱淵 具体的にどうのこうのというより、時代のうつりかわりですね。編集の問題にしても、われわれの年代のものと、若いひとたちとでは行き方がかわってきましたから。(引用者中略)
正直言って、二回めの谷崎全集をやらされてそれがおわったときに(引用者注:昭和43年/1968年)、オレの編集者としての仕事はこれで終った、という感じになりましてね、そのあと『婦人公論』の編集長なぞやらされたんですが、だんだん現場からはなれていって、これで五十五歳の定年まで待つのか、と思ったらなんとか方向転換しなけりゃいかんなと思いだした。」(同)
どういうことでしょう。よほど『婦人公論』での仕事に張り合いが持てなかったんでしょうか。
まあ、綱淵さんが受け持っていたころの『婦人公論』誌は、編集長の異動が激しい時期でもありました。綱淵さんがどんなテンションで仕事に臨んでいたのか。想像すると、ちょっと身につまされます。
在職中、綱淵さんは長らく、作家になるつもりはなかったそうです。しかし、なるつもりはなくてもずっと、ひそかに小説は書き続けていました。その行為が、いざ辞職する決心をかためるときに生かされることになりました。
「小説は戦後ずっと書いてました。文学青年みたいな形ではね。ただ発表するのは、機会もなかったし、編集者として作品を発表するのは、まずいんじゃないかっていう考えはありましたし……。
それと、ぼくは谷崎先生の全集をやっていたので、いわば、大きな山のそばにいたために、自分が書いたものなどは、と思ったこともありましたね」(『週刊朝日』昭和47年/1972年8月4日号「人物スポット 「編集者の虚しさが身にしみた」」より)
その谷崎潤一郎さんが死んで5年。全集の編集も完遂。編集者としての情熱も、何だか失速ぎみ。昭和45年/1970年のことです。もうおそらく、このころには綱淵さんは会社のなかでも死に体であったことでしょう。
辞職を考えはじめる綱淵さん。しかし彼に何の目算もなかったわけではありません。在職中から創作は続けていました。長年の編集者生活で培ってきた人脈もあります。
時に昭和45年/1970年11月、三島由紀夫が自殺。綱淵さんの作家人生へのスイッチが押された瞬間でした。
「わたくしの文章に「金色の死」という短い随筆がある。三島由紀夫さんを追悼した文章で、昭和四十六年一月発行の臨時増刊「新評」に掲載された。(引用者中略)昭和四十五年十一月二十五日、三島さんが自刃急逝されたとき、当時「新評」の編集長をしておられた吉岡達夫氏が四十六年二月号に三島さんの追悼特集を企画し、わたくしにも原稿依頼があって書いたのである。ところがその追悼特集を「三島由紀夫大鑑」と銘うって〈臨時増刊〉に変更したため、実際の二月号には原稿依頼の時間がなくなり、わたくしに「続いて何か書け」ということであった。そこで書いたのが「斬(ざん)」である。
そのころ、わたくしはまだ中央公論社に勤めていたが、この作品をもって退社の足がかりにしようと考え、昭和四十六年一月発行の同誌二月号から書き始めた。次いで三月末日で中央公論社を退社した。」(平成1年/1989年3月・文藝春秋刊 綱淵謙錠・著『人生覗きからくり』所収「〈処女作の頃〉―三島さんの急逝」より)
綱淵さんは該博な歴史に関する知識と、引き締まった文章を書くことで、編集者時代から一目おかれていたぐらいの人です。『新評』に連載しているあいだに、小説「斬」は一部の評論家界隈(ええと、尾崎秀樹さんですね)から注目を浴びます。
「歴史小説の大型新人」と言って煽り立てられました。そして、そのまま直木賞も受賞してしまいました。選考会でほとんど異論を立てられることのない、まず納得の受賞でした。
○
処女作『斬』で直木賞受賞。これはもう、直木賞作のうちでも名作に数えられる歴史小説ですので、ぜひ読まれつづけていってほしいなと思います。
意気揚々と作家への転身を果たし、綱淵さんは幸運な創作人生をスタートしました。幸運だったはずでした。がしかし、ほんの1年半で早くもトラブルに見舞われてしまいます。
直木賞作家になってしまったがゆえのトラブルと言いましょうか。
小説「怯(きょう)」に対して、無断借用の難癖をつけられた事件です。昭和48年/1973年12月のことでした。
この一件は、盗作事件史のバイブル『〈盗作〉の文学史 市場・メディア・著作権』(栗原裕一郎・著 平成20年/2008年6月・新曜社刊)でも当然のごとく、詳細に扱われています。ぜひこの本を読んで、いかに当時の『朝日新聞』が無茶な盗作(めいた)事件のでっちあげをやらかしていたか、確かめてください。
綱淵さんが『オール讀物』(昭和49年/1974年1月号)に発表した「怯(きょう)」は、岩手の作家、森荘已池さんが数十年前に刊行した『私残記』(昭和18年/1943年刊)を参考にして書かれました。しかし、そのことについての断り書き(参考文献としての表記)がなく、また森さん当人への連絡もなかったことに目をつけて、岩手日報社と朝日新聞が昭和48年/1973年12月24日、大きな記事を載せたわけです。
「小説『怯』は私の本を
無断借用したものだ
同じ直木賞作家が指摘
綱淵氏謝る」(『朝日新聞』見出しより)
この見出しと記事を読んだとき、直木賞オタクのワタクシは思わず笑ってしまいました。……いや、失礼。胸がジンジンしちゃいました。
なぜって。綱淵さんが、別の作家・森さんの著作物をもとに小説を書いた。でも事前に連絡をしなかった。って、そんなことで記事になっているのも驚きですし、なにより見出しを見てもわかるように、「新しい直木賞作家が、古い直木賞作家のものを無断借用」みたいな感じで、やたらと直木賞作家同士ってことが押し出されているからです。
笑いますでしょ。たとえ新進作家が何かをやらかしたとしても、その当事者同士が直木賞作家だったから何だというのだ。
この新聞記事への反論として、綱淵さんは「“無断借用”事件と私の言い分」(『中央公論』昭和49年/1974年3月号)を書きました。そして、その文章で明らかにされている細かな経緯を読んで、直木賞オタクのワタクシは思わず笑ってしまいました。……いや、たびたび失礼。胸が震えちゃいました。
昭和48年/1973年12月23日。綱淵さんは『岩手日報』記者から電話を受けます。そのやりとり。
「「怯」を書くにあたって森氏の『私残記』を参考にしたか、というので、「しました」と答えた。すると、森氏が直木賞作家であることを知っているか、という。私は「知りません」と答えた。」(「“無断借用”事件と私の言い分」より)
何なんですかこの記者の質問は。「参考にしたかどうか」の次に聞くことが、直木賞作家だと知っていたか、なの? 『私残記』の著者が直木賞作家かどうかが、どうしてそんなに大切なんですか。
まったく恐ろしいな、「直木賞」のかもし出す底力は。
綱淵さんほど出版社に長く勤めていた編集者ですら、そのとき、森荘已池が直木賞作家だとは知らなかったそうです。綱淵さんは「文壇の常識としては、芥川賞と並んで、その受賞者の名前くらいは知っておくべきものかもしれなかった」と書かれているんですが、まあどうなんでしょう。作家の名前を聞いて、それが芥川賞作家か、直木賞作家か、どちらでもないか、判別できるほうが一般的にはキモいと思います。
12月24日、『朝日新聞』に記事が出たことで、途端に綱淵さんは公私ともども迷惑をこうむる羽目になりました。綱淵さんは、その記事を読んだ人々からさまざまな反響を受けました。おそらく「犯罪者扱い」に近い反応があったのでしょう。
そういった反響を体験して、綱淵さんは以下のように朝日の記事を分析しました。
朝日の記事は「綱淵が著作権法に違反した」、「綱淵はその行為の犯罪性を認め、森に謝罪した。森は寛大にもそれを許してもよいといっている」、っていう二つの印象を読者に与えた。
では、なぜ、そういう印象を与える結果になったのか。記事の作製者が明らかに以下二点のような書き方をしているからだ、と。
「イ 森氏の『私残記』は森氏がそれで直木賞を受賞した作品であり、それを三十年後に同じ直木賞作家の私が厚かましくも先輩の作品を〈無断借用〉したという印象を与える書き方をしていること。
ロ 私がこの小説で取り扱っている択捉島事件および大村治五平に関する資料は森氏の『私残記』以外にこの世に存在せず、したがってこの事件について書くためには森氏の本を剽窃または改変しなければ不可能だという印象を与える書き方をしていること。」(同)
ほほう。ワタクシなぞは、キモい人種に属しますから、記事を読んで『私残記』と書いてあっても、それが森荘已池さんの直木賞作だなんて全然連想できません。しかし、綱淵さんがこうむった感覚だと、朝日の記事はそういう方向に読めるように書かれているのだそうです。
「『私残記』は文学作品ではない。(引用者中略)いわば歴史書なのである。したがって直木賞作家の文学作品を後輩の直木賞作家が自分の文学作品に〈無断借用〉した、という印象は拭い去らねばならない。ところが、この印象が意外に強くあの新聞記事の読者に滲透しているのに驚いた。これは新聞作製側は、その罪を読者の読みの浅さにかこつけようとするであろうが、そういう印象を与えた事実は蔽うべくもない。」(同)
なるほど。昔の直木賞作家の書いた直木賞作品から、最近の直木賞作家が黙ってパクった、と読めるように書かれているわけですな。いわば、「直木賞」がふんだんに登場するハナシだから新聞記事たりえるのだ、ってことのようで。
新聞にとって「直木賞」とは、それだけでセンセーショナルな味を持っている、お手軽で便利なアイテムなんですのね、おほほほほほ、ずいぶんお下品なこと。ねえ、奥さま。
○
当時の『朝日新聞』は、とにかく「作家のモラル」を糾弾したがっていたみたいです。綱淵さんの事件に先立つこと2か月前、昭和48年/1973年10月には、山崎豊子さんの『不毛地帯』に盗用が発覚したと朝日だけが特ダネ扱いしました。
山崎さんの場合は、『花宴』での盗作・盗用騒ぎ、っていう前例を受けて二度目のことだったんで、朝日が仕立てる彩りも派手なものになりました。新聞記事は公正中立よりもまず、どんな彩りを施すかに力が注がれます。綱淵さんの場合はどうだったでしょう。「直木賞作家が、直木賞作家のものを盗む」っていう華があしらわれました。
ほんと、綱淵さんが直木賞を受賞していなかったら……。天下の朝日新聞が相手にしていたでしょうか。こんな悲しい出来事を誘発していたでしょうか。
「この記事の出た十二月二十四日、小学六年生の次男は学校で担任の女の先生に、「けさ綱淵クンのお父さんのことが新聞に出てるけど、ボクはボクだから、しっかりしなさいよ」といわれたという。
しかも翌日になると、その先生はクラス全体の児童に向って、「きのう綱淵君のお父さんのことが新聞に出ていたことを知っている人は手を挙げなさい」といい、だれ一人手を挙げないのを見て、「じつは……」と新聞記事の内容を説明し、「あなたたちはちっとも心配しなくてよいからね」と指導したという。
私はこの担任の先生を責めるためにこれを書いているのではない。(引用者中略)私はこの先生の反応はたいへん素直な反応だと思っている。新聞というもののもつ影響力を如実に示している。そういう意味では、朝日新聞の記事作製側の意図しただけの効果はあったというべきである。」(前掲「“無断借用”事件と私の言い分」より)
常に権力・体制側ではなくて被支配者・弱きものの立場にたつ、綱淵さんならではの文章です。
新聞というもののもつ影響力ですか。一歩進んで、やはりワタクシは直木賞というもののもつ影響力のことを考えてしまいます。
で、けっきょくこの騒ぎはどうなったかと言いますと、綱淵さんは森さんに事情の説明や、掲載前に仁義を通しておかなかったことの詫び、などを書いた手紙を送って終わり。日本文芸家協会でも、
「この問題について日本文芸家協会理事会(49・3・5)が検討、著作権侵害とは認められず、新聞社側が作家のモラルの問題として考えているが、モラルは画一的に決められるものでなく報道の方法にやや問題がある、と発表した。」(『文芸年鑑 昭和四十九年版』「資料 日誌一九七三年一二月」より)
と、新聞側に文句をつけ返して終了。
何だかなあ、の感じです。綱淵さんの心に熱い怒りを与えるだけの結果になってしまいました。
いや。森荘已池さんの『私残記』が何と30年の時を経て、中公文庫で復刊!(昭和52年/1977年10月)なんていう余禄をもたらしてくれました。それで心をなだめることにしましょう。
……ええと、『朝日新聞』の記事は、さんざん「直木賞作家」「直木賞作家」と直木賞を印籠のように掲げていました。でも、森さんの直木賞作「山畠」「蛾と笹舟」のことには一切触れられておらず、こんなことがあってもなお、これらの受賞作が復刊されなかったことに、ワタクシは涙を滲ませるのでした。
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コメント
すると、『婦人公論』の編集長を務めるまでに中央公論社で出世したものの、定年を待たずに辞めて作家活動を開始した直木賞候補作家、という細かい条件で絞り込んでも2人の作家がいるわけですね。直木賞の懐の広さのなせる業でしょうか。
2人とも「出版部門から異動してきた編集長の仕事の居心地が悪かったと回想している」点も共通していることを考えると、中央公論という会社の問題のような気もしますが(笑)
投稿: 毒太 | 2011年9月19日 (月) 18時32分
うーむ、毒太さん、するどい。
中央公論社と(その編集者と)直木賞、っていうテーマは面白そう。
いずれ、直木賞とそれに関係した出版社、みたいなブログテーマを掲げて
調べてみたいです。
投稿: P.L.B. | 2011年9月20日 (火) 01時21分