長部日出雄(第69回 昭和48年/1973年上半期受賞) 受賞はまず無理だと思われていた作家の、きらびやかさとは無縁の受賞。
長部日出雄。「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」(昭和47年/1972年11月・津軽書房刊『津軽世去れ節』所収)で初候補、そのまま受賞。「あゝ断餌鬼」での小説家デビューから3年半。38歳。
直木賞が決まる前に受賞作を予想する。これ、浅はかな行為です。
その行為のなかでも、「はじめて候補になった人だから、たぶん受賞しない」と予想すること。さらに浅はかです。
今、当ブログでは「初候補で受賞した作家」を集中的に取り上げています。なぜか。「ほら直木賞には、はじめて候補になった人が受賞した例はこんなにあるんだぜ」と毎週調べつづけることで、浅はかな自分を嘲笑うためだ、と言っても過言じゃありません。
長部日出雄さんの『津軽世去れ節』所収の二篇。これもまた、周囲の人からは「たぶんとれないだろう」と思われていた受賞作のひとつです。
「長部日出雄の作品「津軽世去れ節」「津軽じょんがら節」が、直木賞の候補になったと知ったとき、嬉しかった。
その作品は立派なもので受賞の値打ち十分とおもったが、しかしそれが実現するとは考えていなかった。なぜなら、直木賞の場合、はじめての候補作品が受賞するという例は、あまり無いからだ。競馬でいえば、穴馬というところか、とひそかに期待はしていた。」(昭和57年/1982年9月・潮出版社刊 吉行淳之介・著『甲羅に似せて わが文学生活1971~1973』所収「長部日出雄の乱れ酒」より ―初出『週刊読売』昭和48年/1973年8月4日号)
いや、事実として「あまり無い」なんてことはありません。なのに、吉行さんほど文壇に精通した人まで「あまり無い」と感じてしまっています。ほとほと直木賞ってのは、小悪魔ですのう。
なぜ、長部さんの場合、受賞の芽はほとんどないと思われていたのでしょうか。おそらく、だいたい現代の直木賞予想と似たような理由です。一、著者はじめての創作集だから。二、版元が「文春・新潮・講談社」トリオ以外の本だから。
しかし、そういう浅ーい考えの予想子は吹きとばされました。昭和48年/1973年7月17日、選考会当日。「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」は、選考委員たちからほぼ満票を得て受賞してしまうのです。
長部さんの受賞周辺には、やけに「反・主流」めいた空気が漂っています。無理だと思われていた予想を覆しての受賞、っていうのもそのひとつ。他にも、そもそも長部さんが小説の舞台に津軽を選んだ動機からして、反・主流です。
「弘前へ帰ったのは、すこぶる実利的な理由からである。一昨年の夏からわたしは小説を書き始めた。小説といっても、純文学ではなく読み物(娯楽小説)で、読み物作家には、たとえばエロチシズム、現代風俗、ミステリー、時代物……といったような得意のレパートリーを持つことが必須の条件なのに、こっちは東京に十数年暮らしていても、つき合ったのはやや時代遅れの無器用な男ばかりで、現代の尖端を行く風俗には縁が薄く、ましてエロチシズムともなると、あまりに縁が遠すぎて、まるで雲をつかむようである。
いちおうユーモア小説という看板を掲げてみたものの、それだけではどうも心もとなくて、そうだ、あの明るい笑いと暗い哀しみ、ジョッパリとエフリコギ、甘えとその反動である僻み、拗ね、ひねくれ……などの複雑な要素が混然となっている津軽の風土を自分のフランチャイズにしよう、と考えたのが帰郷の動機だった。それに、自分のこれまでの雑文稼業を小説一本にしぼろうと思ったことと、いまの娯楽小説の舞台が、都会に集中しすぎているように思ったこともある。」(昭和49年/1974年6月・津軽書房刊 長部日出雄・著『津軽空想旅行』所収「津軽に住んで……」 ―初出『東奥日報』昭和46年/1971年4月)
70年代に「ユーモア小説」でやっていこう、と思いつくなんて、天然な時代遅れ坊やですよなあ。自分のレパートリーとなるジャンルを探すに、あえて売れている路線を外して津軽に行きついている、という。
そして、大学時代の先輩、『小説現代』大村彦次郎編集長からの期待を存分に受けて、同誌に精力的に作品を発表。
長部の津軽モノといえば『小説現代』。ちゅうぐらい書き継いで、さてその作品集を出すにあたって、講談社ではなく津軽書房を選んだ長部さんの感覚たるや。そうです。講談社からの打診を断って、みずから津軽書房を選んでしまうのです。これを、反・主流といわずとして何といいましょう。
「わたしは当時「小説現代」編集長だった大村彦次郎さんに小説を書く場を与えられた人間であるので、最初の創作集は講談社から出すのが筋であるとおもわれ、実際に講談社からもそういう話があったのだが、わたしはもっと自信の持てる作品ができるまで「もう少し先にして下さい」と担当の編集者に待ってもらっていたところだった。
小説を書くことを職業にしたいとねがっている人間が、最初の創作集を、中央の大出版社と、地方の小出版社の、どちらかから出せる機会があったとしたら、前者のほうを選ぶのが普通ではないだろうか。けれども二年半ほど住んだ弘前から、また東京に戻ってしばらくしたころ、あるとき直感的に、「そうだ、津軽を舞台にして書いたものをまとめて、津軽書房から第一創作集を出して貰おう」とおもいついたのは、一体どういう心理の働きであったのだろう。
(引用者中略)わたしのなかには山を掘り当てるのに、人が大勢集まるところよりも、あまり人のいないところへ行こうとする、あるいは確率の高いものよりも、むしろ低い(したがって的中したときに得られるものの倍率も高い)ほうに賭けてみようとする、津軽人風の反抗的なジョッパリの気分が動いていたのかも知れない。」(昭和54年/1979年8月・津軽書房刊『年輪―津軽書房十五年―』所収 長部日出雄「継続は力なり」より)
そして、長部さんは言うのです。その直感は、このときばかりは正鵠を射ていたことになった、と。
「文壇に詳しい人たちが、もしも入れば大穴を予想していたのに、その作品集が直木賞を受けることになったのには、津軽書房から出したことも、重要な因子のひとつになっていたのに違いなかったのだから――。」(同「継続は力なり」より)
重要な因子のひとつ? ほんとうですか。『津軽世去れ節』がもしも講談社から出ていたら、どのくらいの割合で、直木賞候補に残らず終わってしまったんだろう。時間を巻き戻して検証してみたいですよなあ。無理ですけど。
○
かつて、『小説現代』創刊ごろと直木賞との関係性について書いたことがありました。1960年代後半(昭和40年代)以降10数年の、直木賞の盛り上がりは、文藝春秋の『別冊文藝春秋』と講談社の『小説現代』が、両輪となって醸成されていったもの、とワタクシは見ています。
長部日出雄さんは、『小説現代』が送り出した何十人もいる(!)「有力新人」のなかのひとりでした。
『小説現代』昭和44年/1969年11月号。この号で、編集部が新鋭扱いして押し出したのは、オール讀物推理小説新人賞をとったばかりの加藤薫さんと、長部日出雄さんでした。
「▼今月の有力新人「あゝ断餌鬼」の長部日出雄氏は前回の石堂淑朗氏につづく映画界からの文壇移籍第二弾です。映画評論家、ルポライターとしてはすでに定評のある人、しかし志は早くから創作にあり、このたび満を持しての登板です。
▼「ハーバーライト」の加藤薫氏は今年の「オール読物」推理新人賞でデビューした人。35歳。今回の作品はあえて推理小説とうたいませんでしたが、その緻密な構成、文体は作家的資質を保証するにじゅうぶんです。「オール」編集部にお礼をひと言。」(『小説現代』昭和44年/1969年11月号「LAST BALL」より)
「志は早くから創作にあり」の表現が、どこまで編集部の誇張なのか、よくわかりません。長部さんいわく、小説に手を染めたのは第一に、大村彦次郎さんのすすめ、なのですが、知り合いの石堂淑朗が「大型新人」と持ち上げられてデビューしたことと、大学の先輩、高井有一さんが芥川賞を受賞したこと(昭和41年/1966年1月)が大きな刺激になった、とのことです。
大きな刺激。っていうのは、要するに、俺も小説書いて顔が売れてちやほやされたい!有名になりたい! ってことなんでしょうか。
「もう何度か書いたことだが、夜のテレビのニュースで、田口哲郎さんという名前で知っていた先輩が、高井有一という筆名で小説を書いていて芥川賞を受けたのを知って、びっくりした。
(引用者中略)数人の早稲田学報の仲間が集まって開いた祝賀会で、お恥ずかしいことに、ぼくはべろべろに酔って高井さんにからみ、あげくに「おれは直木賞をとるぞ」といきまいたそうである。まことに赤面のほかはない。」(平成2年/1990年8月・津軽書房刊 長部日出雄・著『振り子通信』所収「春の夜II」より ―初出『弘前』昭和57年/1982年)
酒席の狼藉から始まる小説家人生のスタート、つうのもまた、長部さんらしいハナシなわけです。
酔ったあげくに「おれも芥川賞をとるぞ」ではなくて、「おれは直木賞をとるぞ」と宣言するところなんぞが、またまた長部さんの「反・主流」ぶり炸裂だなあ。
と言っても、長部さんの反・主流は決して、脱俗、超俗の類いではありません。そりゃそうです、もしも長部さんが完全なるアマノジャクで、完全なる反抗精神の持ち主だとしたら、その先に直木賞なんてありません。それこそ津軽の地に帰ったまま、そこで人生を謳歌したことでしょう。
芥川賞をとった先輩を見て、おれは直木賞をとる、と言ってみせる神経。この俗なる反・主流が、長部日出雄その人であり、魅力でもあろうかと思います。
長部さんは処女作「あゝ断餌鬼」が、親交のあった吉行淳之介さんに褒められたことに後押しされ、雑文業を整理して小説一本で食っていこうと決意します。津軽に取材した小説を書くために、思い切って、東京から離れて津軽に帰り、そこで暮らしを始める徹底ぶり。
貯えは底をつき、帰郷先では下宿代も払えない日々を送ったといいます。この先の自分がどうなっていくのか、不安にさいなまれて、ノイローゼになってしまったんだとか。
しかし。しかし、です。おそらく精神的に追い詰められていたんでしょう。小説家としてやっていけるか、先の保証はなく、苦しんだんでしょう。小説家デビューから直木賞をとるまで、欲を断った、ずいぶんとストイックな生活をされていたのかなあ、と想像してしまうのですが、さにあらず。長部さんは東京にも家を借りて、仕事のために何度も東京・青森を往復していたっていう。
「小説を書き始めたわたしは、津軽を舞台にした作品を書くために、それまで東京でやっていた映画評論やルポや雑文の仕事を一切たちきって、生まれ故郷の青森県弘前市へ引越した。まだ海のものとも山のものとも判らない小説を書くために、そんなことができたのは、子供がいなかったせいだろう。(引用者中略)弘前で借りたのは、町はずれにある4Kの二階家で、家賃は二万円だった。(引用者中略)
小説はなかなか書けなかった。このままでは飯の食い上げである。
そこで、東京へ出稼ぎに行くときのために、渋谷区の笹塚に四畳半の部屋を借りた。この部屋代は五千円だった。」(昭和51年/1976年10月・津軽書房刊 長部日出雄・著『いつか見た夢』所収「引越し人生」より ―初出『文藝春秋デラックス』昭和51年/1976年4月号)
一切たちきるはずが、霞を食っては生きていけないことがわかって、すぐさま東京で仕事を再開させちゃう、モヤモヤっとした感じ。2年半して東京に戻ってくるまでも、全然仕事の口がなかったわけじゃなく、「出稼ぎ」と称する、つまりこれまでと変わらない仕事を続け、また『別冊小説現代』には定期的に小説を書かせてもらえる状況。
何だか、スッキリと小説の道に邁進、ってわけではないこのグダァーっとした感じが、結果的に、長部さんを直木賞受賞者=文壇の一住人へと導いた要因だったのかもしれません。
○
反・主流。……まあ、いまもって直木賞作家としてさまざまな媒体に登場し、定期的に本も刊行しつづける方をつかまえて、「反・主流」もなかろう、とは思うのですけど。
ただ、長部さんは、いちおう流行作家ではありません。ベストセラーにもほど遠い人です。「直木賞とれば、がっぽがっぽ儲かる」ふうの、小学生レベルの浅はかなイメージがあるとすれば、それとは無縁の人です。
「さほど売れておらず、作品の数も少ないのに、やたらに忙しがっておるな、という印象をもたれたかもしれない。さよう、売れていない物書きは、流行作家は引きうけない短い文章の注文が多く、まずそれで生計をたてなければならないので、案外に忙しいのである。」(前掲『振り子通信』「あとがき」より)
おのれを卑下する文章もまた、長部さんお得意とするところです。
「津軽書房から第一創作集を出したことで、わたしはさまざまな幸運に恵まれた。(引用者中略)地味で無器用な(という事実その通りの)感じの物書きとして受取られたために、たいへん仕事の注文を断りやすかったこと。それでも能力の範囲をこえた仕事の忙しさに追われて、ペースを崩し、目標を見失いかけたこともあったのだが、やはり地味であったことと無器用であったことが幸いして、間もなくわたしは売れない物書きとなったので、あらためて目標を遙か遠方に定め、四十代のなかばにして、ついに本気で文学の追求を決意するに至った。」(前掲「継続は力なり」より)
無器用かどうかは、異論があるでしょう。ただし、地味である。はい、これはワタクシも同意します。
直木賞作家。なのに地味。いいですねえ。「反・主流」。
ワタクシのように浅はかな予想をして喜んでいる人間をギャフンといわせる反・主流の受賞作・受賞作家を、これからも直木賞ががんがん生んでいってくれることを期待します。
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