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2011年8月14日 (日)

ねじめ正一(第101回 平成1年/1989年上半期受賞) 暴力的詩人から人情派小説家への転身。計算なのか、はたまた天然なのか。

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ねじめ正一。『高円寺純情商店街』(平成1年/1989年2月・新潮社刊)で初候補、そのまま受賞。同連作「天狗熱」での小説家デビューから3年。41歳。

 「直木賞をとれるかどうかは、“人柄”で決まる」。と名言を吐いたのは石田衣良さんでした。……あれ、ちょっとニュアンス違っていたかな。

 で、人柄といえば、ねじめ正一さんです。……んん?

 ねじめさんが直木賞を受賞した直後に、こんな「ねじめ正一」評が書かれました。それを読んで、つい人柄のハナシが思い浮かんでしまったわけです。

「察するに、ほとんど本を読まず、何事につけ徒手空拳のおももちで応ずる彼は、それこそ長嶋(引用者注:長嶋茂雄)にも似た「動物的なカン」に恵まれており、加えて、彼の人柄のよさのようなものが、その「カン」を存分に生かす方向に働いているのかもしれない。

(引用者中略)

少なくとも、その人品のよさが彼の今日と無縁であるとは断じがたい。この点は、先の〈糸圭〉(引用者注:糸偏に圭の字。以下同)秀実をはじめ、ねじめと接した数多くの者たちが異口同音に認める事実なのだが、(引用者中略)本質的に人に憎まれることのないその人柄は、今回の小説にもたくまずしてよく現われていよう。まことに、「文ハ人ナリ」であって、直木賞の選考委員たちもきっと、この小説の文章に滲みだしている彼の人柄にホロリとさせられてしまったのだろう。」(『中央公論』平成1年/1989年9月号「人物交差点 ねじめ正一」より 署名:(渡))

 ええ、ええ。何つったって、それまでのねじめさんには強烈なイメージが刷り込まれていました。「人柄にホロリ」とは真逆のような執筆活動。ふんどし姿で詩を読んだり、地味な詩壇のなかにあって広く顔を売ってひんしゅくを買ったり。うんこやセックスを連発する目立ちたがり屋。

「じつのところ氏は、“詩の芥川賞”といわれるH氏賞を受賞している、その世界の実力者。“詩壇の古舘伊知郎”として雑誌の対談、ラジオのDJ、テレビの討論会にと、神出鬼没または支離滅裂に、あの顔を出しているのだ。(引用者中略)

友人である作家の高橋源一郎氏が「本人が芸人に憧れていたと言っているように、客へのサービス精神にあふれた詩人です」というとおり、

〈うんこにつるっこつるっこしてころんだデショー……〉(『うんこ差別』より)

 なんていう詩も得意技のひとつ。で、この調子の小説で直木賞かといえば、さにあらず。

 受賞作となった初の小説『高円寺純情商店街』(新潮社刊)は、その名に偽りもない、しみじみほのぼのムードの人情物。」(『週刊文春』平成1年/1989年「新直木賞作家 笹倉明・ねじめ正一 2人のわが詩、わが放浪」より)

 ただでさえ、直木賞は重苦しいもの、地味なもの、心に染み入るもの、あたりが有利な賞です。青島幸男さんもそうでした。ムチャクチャな芸風で知られる人が、そっと人情物なんか書いちゃうと、ギャップゆえにプラスオンの評価に転じてしまったりすることがあります。

 不良っぽいヤツの、なにげない優しい言葉にコロリと参るとか。馬鹿ばっかりやっているヤツの、ふと見せる真面目な態度にキュンとするとか。それと似たようなもんでしょうか。

 じっさい、一説によると、直木賞とは「変化」に対して与えられる賞である、と言われたりします。

 たとえば直木賞は、別の分野で活躍していた人が小説家に転じて実力を発揮した作品に与えられたことがあります。あるいは、作家として何年も歩んできた人がそれまでの作風をガラリと転換して別の顔を見せた局面で与えられたことも多い。そういう例を指して「変化」に対して与えられる、と言われているわけです。ねじめさんの場合も、その一例に数えられるでしょう。

 ねじめさんは、詩から小説への「変化」でした。

 詩、といっても、世の中にはいろんな種類の詩があります。ねじめさんの場合は、

「詩の方は、広告コピー、商品名も織りこんで、日常言語を暴力的、破壊的に駆使する。ロックで詩を読むパフォーマンスでも知られる。」(『朝日新聞』平成1年/1989年7月14日「ひと ねじめ正一さん 第101回直木賞を受賞」より 署名:由里幸子)

 暴力的で破壊的。これがキャッチフレーズです。

 ともかく彼のまわりは、昔から何だかにぎやかでした。たとえば、詩人として俄然名を知られるようになった昭和56年/1981年。H氏賞をとったころですが、この当時のねじめさんは、仲間とのあいだに起きたイザコザの真っ最中で、血の気の多い元気なアンちゃん、の印象が濃くあったようです。

 と言いますのも、昭和53年/1978年に、批評家の高橋敏夫、高野庸一、〈糸圭〉秀実らとともに『現代批評』(創刊時は『現代評論』)を創刊。

「昨年夏、詩のねじめ正一、批評の高野庸一、〈糸圭〉秀美(原文ママ)、それに私、の共同企画編集で、「季刊 現代批評」を創刊した。発行・櫓人出版会、販売・新時代社。櫓人出版会という名称は、ねじめ・高野らのすぐれた詩誌「櫓人」に由来している。(引用者中略)

 創刊号が送りだされるやいなや、「××一派」やら「党派性のかたまり」といった言葉が、何割かの真白な返品とともにかえってきた。修辞と流行風俗を唯一神としてその前にひざまづく者たちの形成する、多様性にみえてそのじつ一枚岩的“党派性”にとって、そういう「××一派」命名は、命名それ自体ですでに否定の身ぶりを意味するらしい。まったく気楽なものだ、といわざるをえない。」(『早稲田文学』昭和54年/1979年3月号 高橋敏夫「ケンカ雑誌事始め」より)

 当時のねじめのお仲間、高橋さん、威勢がいいです。

 ところが昭和55年/1980年にいたって、高野、高橋両人は同人から離れ、岡庭昇と結びついて『同時代批評』を立ち上げ。不穏な匂いがプンプンしますね。

「今日、「同時代批評」を含めた一部の雑誌や書評紙において、岡庭や高野、高橋という署名を持った文章のみならず、匿名コラムをもデッチ上げたりしてなされている、「現代批評」やそれを制作する個人へのデマゴギッシュな攻撃が、彼らが抜き難く抱いている――ニーチェ風に言えば――弱者の光学(俗に言えば、犬の遠吠え)に起因するものであることを指摘するのは手易いことである。(引用者中略)そもそも、ねじめの「同人制解体までのゆくたて」という文章(引用者注:『現代批評』5号に掲載)が多少スキャンダラスであるというので、そうした文章を書いたねじめ自身に対して陰に隠れて眉をひそめてみせる微温的な人々も多いと聞くし、また、旧同人やそのボスたちはねじめの文章を無視して、ガセネタを流すことで自己保身をしておけば事足りると、全く弱者にふさわしく思い込んでいるらしい様子だから、この際ねじめが所持している彼らの卑しさ丸出しの私信(とりわけ卑しいのが岡庭昇の手紙)なども公表して、面白おかしく彼らとの消耗戦をやってみるのも一興ではあろう。」(『詩学』昭和56年/1981年6月号 〈糸圭〉秀実「深夜の強打者あるいは聰明すぎる貴種――贋作ねじめ正一論」より)

 何だかケンカしている模様です。

 基本、ねじめさんにとっての詩の世界とは、ケンカも辞さない舞台であり、つまりはムチャクチャであり、暴力的なものだったんだろうなあ。……と、ちょっと短絡的な見方ですけど。

 むろん、そういう詩の世界こそ、「文学」と言いたければ言ってもいいでしょう。それぞれの文学観を盾に丁丁発止を繰り返す世界。熱いです。わかる人間にしか入り込めない濃さがあります。詩人が小説を書くと、多くは純文学みたくなる、っていうのは、そんなところから来ているのかもしれません。

 ねじめさんが小説を書く。もっと勢いがあって、トゲトゲしくて、暴力的なものが出来上がっていても、おかしくはありませんでした。しかし、彼はそういう方向を目指しませんでした。

「「詩は実験性の強いもの、暴力的じゃないといけないが、小説はみんな気軽に読んでもらえれば」

 と、ねじめ氏。」(『週刊朝日』平成1年/1989年7月28日号「F-P EXPRESS こんどは詩人が直木賞。ねじめ正一さん41歳の純情」より)

 「詩は暴力的じゃないといけない」。この言葉に、ねじめさんの詩観が現われているのでしょうね。そして、小説は違う、と考えるところ(考えてしまえるところ)が、ねじめさんに直木賞を受賞させた大きな要素だった、と言ってしまいましょう。

          ○

 ねじめさんが小説を書こうと思ったとき、重視したのは「いかに文学としての表現をするか」ではありませんでした。

 と言うと語弊がありますか。ええと、言い換えましょう。最も強くねじめさんの意識の上にのぼったのは、「物語、伏線、情報」の3つでした。

「いよいよ私は小説を書きはじめたのだが、小説という形式は詩と違って物語を入れたり、読者のために伏線をつくったり、情報を盛り込んだりと目配りの技術をたくさん必要とするので、小説が身につくまで時間がかかると思った。(引用者中略)

 小説には物語があり、それから情報があって、さらに読者への伏線を張っていくという、技術的な作業がすごく大事になってくる。それは商人がお客さんがどうやって入って、どうやって出ていくかという通路を考えていくのと似ている。」(ねじめ正一・著『私の日本語修業』「第一章 ことばと出会う」より)

 むろん、この世には、物語や伏線や情報などを考慮しない小説だってあるはずです。しかしねじめさんは、真っ先に、小説といえばこの3点を発想しました。

 そうなのかあ。ねじめさんが詩人なのに、芥川賞ではなく直木賞のほうを志向した、っていうのは、こういうところからもわかるよなあ。

 そうです。とにかくねじめさんは、芥川賞じゃなくて直木賞がとりたかったらしいんです。受賞直後の各種文献を読むと、イヤというほど語られています。

「すでに詩の世界の“芥川賞”と呼ばれるH氏賞を受賞しているねじめさん。小説では直木賞をと願い、その通りになった。」(『週刊読売』平成1年/1989年8月27日号「対談 三枝のホンマでっか」より 署名:編集部)

「「詩を書きながら意地でも直木賞を取りたかった」と手放しで喜ぶ。(引用者中略)

「詩は物語性は遠いので純文学になってしまう。また実験性が強いので、それを小説に持ちこみたくなかった。詩六割、言葉四割の比率で小説を書きました」」(『中日新聞』平成1年/1989年7月14日「この人 直木賞を受賞したねじめ正一さん」より 署名:(T))

「「詩を書いていると芥川賞という感じがあるが、僕は意地でも直木賞を取りたかった。物語性、ストーリー性に遠い詩は純文学に近いのだろうが、僕の詩はストーリー性がある。その延長線で取りたいと思っていた」」(『読売新聞』平成1年/1989年7月14日「顔 101回直木賞を受賞するねじめ正一さん」より 署名:文化部 吉弘幸介)

 まあ、新聞記事がどこもほとんど同じ内容なのは、事前の囲み取材の産物だからなんでしょうけど。

 「芥川賞も直木賞もどうせとっちまえば一緒だから、どちらでもいい」っていうのではない。ましてや、「より文学性が高くてカッチョいい芥川賞をぜひとりたい」っていうのでもない。自分が小説を書くなら、何としても直木賞をとる。……こういう思いを持ってくれる人がいたことに、直木賞を偏愛するワタクシなどは歓喜するわけですが、それはそれとして。

 詩人の書いた物語だったからでしょうか、選考会では山口瞳さんが「これは直木賞じゃなくて、芥川賞向きではないか」と読みました。

「雑誌連載中から面白いと思って読んでいたが、傾向からして直木賞の候補にはなるまいと思っていた。敢えて言うならば、これは芥川賞である。」

 あるいは、物語性を織り込むことに強い意識が注がれたからでしょうか、村上元三さんなどは、

「わたしはこの作品に最後まで票を入れなかった。主人公とその周囲はよく描けているが、どうしても作意が表面へ出てくる。それをもっとやわらかく内側に包んでほしかった、と思う。」

 として、授賞に反対しました。

 これら懐疑派・反対派があったにもかかわらず、なぜ授賞できたのか。ひとえに、ねじめさんの文章の力、そして好感を持たせるほのぼのした世界観を守ったため、だったようです。

          ○

 あとから見ると、『高円寺純情商店街』とねじめ正一、直木賞っぽい直木賞だよなあ、と思えてしまいます。もちろん、それは結果をあとから解釈する人間の思い上がりなんですけど。

 じっさい第101回(平成1年/1989年・上半期)が決まるまでは、どうだったんでしょう。ねじめさんいわく、周囲ではあまり受賞の期待はなかったようです。

ねじめ 僕の尊敬している詩人の谷川俊太郎さんとお会いした時に「これはいい小説だね」って言われたんです。「世の中は、もう新しいものを追いかける時代じゃないんだよね。今、人間てホッとしたいんだよ。僕自身そうだけど、ねじめ君もそうでしょ」って。

三枝(引用者注:桂三枝) ふーん。

ねじめ 「そういう意味ですごくホッとしたよ」って。ある程度時代をちゃんと生きてきた谷川さんみたいな人が読んでそう思うなら、選考委員の方々もわかってくれるんじゃないかと。

三枝 下馬評としては、印はどうだったんですか。

ねじめ ×印。要するに大穴だったんです。でも、前にH氏賞という詩人の賞を貰った時も大穴で、周りでは全然入るとは思ってなくても、僕には予感があったんです。」(前掲「対談 三枝のホンマでっか」より)

 新しいものを追いかける時代じゃない、ですか。みんなホッとするものを求めていると。なるほど。そうだったのかもしれません。

 で、ねじめさんが、そういう時代の空気感を読んで、小説にほのぼのした人間の交流を落とし込んだのか。あえて暴力性を排除した物語を選んだのか。それはわかりません。

 先に引用した『中央公論』の(渡)さんは「動物的なカン」などと言って、ある種、ねじめさんの無意識説を採っています。かつての同志、〈糸圭〉秀実さんも、『高円寺純情商店街』シリーズの成功を評して言いました。「ねじめが知らなかったのが、逆に強みになった」と。

「「ケイ子」という存在によって、ねじめの高円寺純情商店街シリーズは、「美登利」と「信如」の樋口一葉『たけくらべ』以来の少年少女小説の系譜につらなったわけだが、それがなぜ成功を収めたかといえば、中野重治の『梨の花』あたりを最後にして、『たけくらべ』的物語を今は誰もバカバカしくて書かなくなっていたからだ。この種の少年少女物語は、いわば、すたれた周縁的なジャンルであったからだ。それを、ねじめは――おそらく、すたれていることを知らなかったためであろう――突然浮上させたのであり、そのことによって、とりあえず新鮮な刺激を与えたと言える。「ケイ子」という脇役の印象深さも、そのことに由来している。知らないことが強みになることもあるという例。」(〈糸圭〉秀実・渡部直己・著『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』「高円寺純情商店街 本日開店」より)

 天性のカン。たまたま詩を追求するのに飽きて、自分の子供時代のことを書いたら直木賞。……みたいな、あくまで天然の人柄だけで小説家転向に成功したのだったら、それはそれで面白いのですけど。

 じつは全部、ねじめさんが計算づくのうえでやっていたのだとしたら。少なくとも「商人の息子」を自認して、商売人の感覚で詩から小説への移行を語っている人ですからねえ。自己プロデュースの一環で、小説を書き、芥川賞じゃなくて直木賞を選び、その作戦がまんまと当たって戦略的に直木賞を受賞したのだとしたら。……それもまた、面白い。

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