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2011年7月の6件の記事

2011年7月31日 (日)

安西篤子(第52回 昭和39年/1964年下半期受賞) 直木賞にまとわりつく「胡散くささ」を際立たせてくれる、代表的な作家。

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安西篤子。「張少子の話」(『新誌』4号[昭和39年/1964年10月])で初候補、そのまま受賞。「阿久津とその子供達」での同人誌デビューから11年。37歳。

 直木賞は、「胡散くさい企画」の代名詞として、日本のなかにすっかり定着しました。

 いったい、この賞のどこがどんなふうに胡散くさいのでしょうか。賞そのものの選考や運営が不透明だ、不公正だ、とはよく言われます。しかし、そのことは大したものじゃありません。影響範囲も小さいですし。

 やはり直木賞(ともうひとつの文学賞)の胡散くささは、大部分が「周囲の反応がもたらすもの」に由来するのじゃないでしょうか。

 たとえば、候補作のラインナップを見て、したり顔でどーのこーの解説する人たちが大勢います。受賞作が決まれば決まったで、それをもとに、「昨今の小説界は」「昨今の市場傾向は」「昨今の日本人は」と、鬼の首でもとったかのようにガーガー分析したがる人たちが湧いて出てきます。その現象全体が、直木賞の胡散くささを形づくっているのだと思います。

 むろん、その片隅にワタクシのつくっているサイトやブログも属しているわけです。微力ながら直木賞の胡散くささに加担できて、幸せです。

 さて、前置きが長くなりました。40数年前に直木賞を受賞した安西篤子さんです。

 この方は胡散くさくありません。しかし、この方の直木賞受賞がもたらした「周囲の反応」は、あまりに直木賞らしい馬鹿バカしさが充満していますからね、素通りするわけにはいきません。

「今月の話題としては、まず、第五十二回芥川賞、直木賞の発表ということがある。芥川賞は受賞者なし、直木賞は永井路子、安西篤子の二人に授賞された。(引用者中略)

 私が注目したいのは、今回の直木賞発表とともに「主婦作家」というような言葉があちこちに散見されたことである。かつて投書夫人とか書きますわよ夫人とかいう言葉があったようだが、ついにそれは主婦作家にまで昇格したか、というようなことである。こんなことを書くと、永井さんたちはイヤな気がするだろうが、私は直接に永井さんたちのことをいうつもりではない。一般に日本の近代文学は、これまで年寄りとか家庭の主婦などとは完全に無縁な存在として発達してきた、という歴史的な事実に照らして、いまさら私は一種の感慨にとらえられているのである。」(昭和50年/1975年10月・新潮社刊 平野謙・著『平野謙全集第十一巻 文藝時評II』「昭和四十年三月」より)

 昭和40年/1965年1月。直木賞に永井路子さんと安西篤子さんの二人が選ばれたとき、周囲――雑誌や新聞は「主婦作家」としてくくりました。

 笑いませんか。主婦作家。いや、安西さんはともかくとして、永井路子を称して「主婦作家」って……。

 安西さんご自身も、そのおかしさを受賞直後に口にしています。

「安西さんは三井物産社員の夫人なので、マス・コミから“奥さま作家”とか、“主婦作家”という名称で呼ばれている。

「わたくしは、ごらんのように主婦ですからそう呼ばれても、ちっともかまわないのですけれど、永井さんは、ちょっとお厭なんじゃないでしょうかしらねえ。あの方は、主婦業よりも、作家のほうに打ちこんで勉強していらっしゃるんですから」

 と、しきりに自分と同列にされた永井さんの立場に気を使う様子であった。」(『潮』昭和40年/1965年5月号 十返千鶴子「希望訪問 ふるさとを大陸に 安西篤子さん」より)

 そりゃそうでしょう。安西さんと永井さん、大した共通点はないですもん。かたや外での職をもたず、同人雑誌にのみ作品を発表しつづけて10年余。別段「大衆文学」で勝負しようという自覚もなし。かたや小学館に務めるかたわら、その間に大衆文学の懸賞に次々チャレンジしてきた経歴をもつ、すでに商業誌にいくつか作品を発表しているセミプロ。

 この二人がたまたま同時に受賞したからといって、ふつうなら、別に大層な分析などできないよな、とビビッて口をつぐんでしまいます。

 世の中には小説を書く人だけで何千人も何万人もいたでしょう。当時、発表されていた小説は数えきれないくらいありました。

 そのなかから、こじんまりとした一つの出版社が、ほんの少人数の手によって選び出した受賞者が、二人とも既婚の女性だったと。そのことだけで日本の文学の流れを語ろうだなんて、恐ろしすぎます。

 しかし、その恐ろしいことを、やすやすと周囲の人間にやらせてしまう。「直木賞」のパワーです。

「第五二回の直木賞が、ふたりの“主婦作家”におくられたことから、文壇における“主婦時代”の出現がマスコミの関心を集めている。昭和三十一、二年の“才女時代”は、もっぱら純文学の分野でさわがれた。こんどは大衆文学の領域で生起した問題だけに、時代のマスコミ的性格が、ある程度その現象に反映しているように思われる。

(引用者中略)

 大衆文学の領域に“才女”ならぬ“主婦作家”が登場する傾向は、大衆文学にとどまらず、文学の社会化にプラスの側面をもたらすにちがいない。女性はやっと文学創造の栄冠を男性とともに競うことのできる時代にきたのではないだろうか。」(『朝日ジャーナル』昭和40年/1965年2月7日号「文化ジャーナル 直木賞と主婦作家」より)

 何を言っているんでしょうか、この『朝日ジャーナル』の無署名子は。純文学で「才女」、大衆文学で「主婦作家」と、さらに恣意的な見立てを盛り込んでいるせいで、何が何だかわからないことになっています。

 たとえば、歴史的にみてこの時期、直木賞候補のなかに徐々に女性の作品が増えてきていた、っていうのは確かです。小説を書く女性が増えるにともない、出版ラインに乗る女性の作家も増加してきた、とは言えるとは思うんです。

 でも、女性が直木賞を独占(といっても二人が同時に受賞しただけのことですけど)したことで、大衆文学と女性作家のアレコレを語ることなどできるんでしょうか。それを語る人の論を信用できるものなんでしょうか。

 『朝日ジャーナル』の無署名子は言います。

杉本苑子の『孤愁の岸』が受賞した第四八回は、八候補中二人、四九回は、六候補中三人、五〇回は一〇人中四、五一回は八人中四、そして今回みられた九人中六と、(引用者注:直木賞の)候補中に占める女性の割合は、急速に増加していることがわかる。」(同「直木賞と主婦作家」より)

 はい、わかります。ただ、あなたより後に生まれたワタクシたちは、次の第53回(昭和40年/1965年・上半期)から、直木賞候補で女性の占める割合が急激に減って、以降20年間も、その状況が続いちゃったことも知っています。

 その間、大衆文学を書く女性って減っていましたか? ……んなことないでしょう。

 大衆文学を書く女性の数の推移と、直木賞候補に女性が占める率の推移に、因果関係なんてあるんでしょうか?

 過去数回の直木賞の傾向だけを見て、なにか大きなことを語ろうとするマスコミの記事。マユツバですね。胡散くさいですね。

 でも、あれです。こういう記事がなければ、直木賞の魅力は格段に落ちていたことでしょう。胡散くささこそ直木賞の華である、とワタクシが思うゆえんです。

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2011年7月24日 (日)

榛葉英治(第39回 昭和33年/1958年上半期受賞) 丹羽文雄のせいでエロ作家に転落し、海音寺潮五郎に救われた文壇人。

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榛葉英治。『赤い雪』(昭和33年/1958年2月・和同出版社刊)で初候補、そのまま受賞。「渦」でのデビューから9年半。45歳。

 ところで、榛葉英治さんってご存じですか?

 ここ最近うちのブログでは、よく知られている受賞作家をかなり意識的に取り上げてきました。しかしそろそろ、我慢の限界です。ワタクシの一種の病気である「忘れられた作家に光を当てたいぜ」熱がおさえられません。そこで、今日はこの方。榛葉さんです。

 榛葉さんが今、「誰それ?」な領域に追いやられているのは、無理もありません。生前から、彼のキャッチフレーズといえば「地味」だったからです。

 たとえば約18年前の書評から。

「作者は直木賞作家である。昭和三十三年に『赤い雪』で受賞している。それ以来、三十五年後の今日まで地味な作風であるが、えいえいと執筆活動を続けてきた。」(『産経新聞』平成5年/1993年12月19日 松本鶴雄「書評 八十年現身の記 榛葉英治著」より 太字・下線は引用者によるもの)

 さらに昔にさかのぼっても印象はあまり変わりません。受賞から20年弱たったころの、紹介文は、こうです。

(引用者注:同時受賞の山崎豊子に比べて)榛葉英治のその後は、決してきらびやかではない。」(昭和52年/1977年6月『国文学 解釈と鑑賞臨時増刊号 直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より 執筆担当:小川和佑 太字・下線は引用者によるもの)

 こういう受賞作家、ワタクシ好きなんですよねえ。「直木賞は芥川賞ほどでないにしても、受賞すれば一躍スターダムにのし上がるんですってよ」みたいな勝手な思い込みを、軽がるしく打ち壊してくれる作家。

 ええ。榛葉さんは地味です。しかし彼の受賞には単に地味で済ますことの許されない、特別な事情がからんでいました。当然ですけど。

 それを語るには、まず受賞する10年ほど前、昭和23年/1948年にまでさかのぼらなければなりません。

 作家デビューの頃です。榛葉さんは戦前にも、早稲田の学生だったころ、『人間』という同人誌に参加して小説を書いていました。しかし、昭和11年/1936年に満洲に渡ります。現地の有力同人誌『作文』などから誘いを受けたりしたものの、断って、戦後になるまで小説を書くことはなかったそうです。

 昭和23年/1948年、榛葉さんは妻の故郷である仙台にいました。「渦」なる作品を書いて、河出書房の『文藝』誌に投稿。編集者の杉森久英さんに見出されてデビューを果たします。翌年もひきつづいて同誌に「蔵王」などを発表。一気に、有力新人の地位に立ったのでした。

「彼は十五日会が出来る頃に、「蔵王」という作品で華々しく世に出ていた。その作品が文芸時評でも評判が高かったし、肉体文学の新しい作風として一般ジャーナリズムがさわいだ。そのために榛葉は忽ちにして流行作家になった。青野季吉氏はその「蔵王」を高く買っていた。青野氏は「蔵王」が芥川賞にならなかったことを何かの座談会で嘆いていられたから、相当に評価していたものと思われた。」(昭和56年/1981年1月・講談社刊 中村八朗・著『文壇資料 十五日会と「文学者」』「第四章 十日会というグループ」より)

 榛葉さんの「渦」は『文藝』昭和23年/1948年12月号に、「蔵王」は昭和24年/1949年3月号に発表されました。

 先に引用した中村八朗さんの文章に「芥川賞」のことが出てきます。芥川賞は、昭和20年/1945年上半期の第21回を最後にして中断していました。その代わりのように、芥川賞復活に先んじて改造社が横光利一賞を創設しまして、これの第1回の対象が昭和23年/1948年発表作品。ってことで、榛葉さんの「渦」は第1回横光賞の候補に選ばれました。

 第1回横光賞は選考委員8名。川端康成、小林秀雄、中山義秀河上徹太郎、林芙美子、橋本英吉井伏鱒二、豊島与志雄。候補作は14篇、昭和24年/1949年1月9日に選考会が開かれまして、ごぞんじのとおり(?)受賞作は圧倒的な支持をうけて大岡昇平さんの「俘虜記」に決まりました。

 8人の委員のうち、「詮衡後記」(選評)で榛葉英治「渦」のことに触れてくれたのはただ一人。林芙美子さんだけでした。

「榛葉英治氏の蔵王といふ作品を読んでゐたので、「渦」をきたいして読んだのだけれども、はるかに蔵王の方が候補作品の「渦」より佳作である。」(『改造文藝』4号[昭和24年/1949年5月]「横光利一賞詮衡後記」より)

 やたらと評判のいい「蔵王」。先の中村八朗さんの文でも、青野季吉さんが惚れ込んだと出てきましたね。林芙美子さんもまた「蔵王」推し。

 周囲の期待が高まる高まる。復活したばかりの芥川賞をとれちゃうのじゃないか、と思わせるほどの好評判。

 がしかし。そこまでの作品が書けてしまって、なのに芥川賞を落選どころか候補作にすら残してもらえなかった昭和24年/1949年。榛葉英治さんの、賞に対する強い思いを芽生えさせる出発点となってしまったようなのです。

「「蔵王」については、杉森編集長が選考委員の丹羽文雄に芥川賞候補の可否を尋ねたところ、「その必要はない」といわれた。当時は、今でもそうかもしれないが、文芸誌に登場した作家は該当しないとの不文律があったようだ。いっぽうで、平林たい子はこの年の読売の「ベスト・スリー」に「蔵王」を挙げ、青野季吉と林芙美子も芥川賞に推薦している。私としては第二十一回芥川賞をとっていれば、その後の苦労はなく別の道を歩いていたかもしれないとのうらみは残る。佐藤春夫邸のまわりをどなって歩いた太宰治の気持はよく判るというものだ。」(平成5年/1993年10月・新潮社刊 榛葉英治・著『八十年 現身の記』「八章 中央誌にデビュー」より)

 不文律ねえ……。もし、そんなものがあったとしても、不文律っていうのは、解釈次第でどうとでも変わってしまうモロいものなんですよね。とくに直木賞・芥川賞の不文律は。第22回井上靖も、第23回辻亮一も、ふつうに商業文芸誌に載せた作品で受賞しちゃっているわけですし。

 ってことで、榛葉さんのからだのなかに発芽した「芥川賞、とれなくて悔しいっ!」の感情は、どんどんと膨らむ一方で、80歳になって過去を回想する一冊のなかでも、先に挙げた箇所だけでは飽き足らずに、こんな恨み節を残すほどになってしまいました。

「酒の席で、義徳(引用者注:八木義徳がいった。

「榛葉があのときに芥川賞をとっていたら、だいぶ方向が違ったと思うよ」

 そのとおりだと私は心で頷いたが黙っていた。昭和二十四年に「蔵王」で芥川賞をとっていたら、確に私の方向は違っていた。その後十年つづいた惨憺たる生活も、三流雑誌にエロ小説を書くこともなかったろう。その運命が、一人の選考委員の一言できまった。八木君、その人は君もよく知ってる人だよ……。」(同書「十一章 去りゆく人々」より)

 榛葉さん、最後の三点リーダーに実感こもりすぎ。怖っ。

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2011年7月17日 (日)

向田邦子(第83回 昭和55年/1980年上半期受賞) 76年の直木賞の歴史のなかでも奇跡的に異例で特別な受賞者。

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向田邦子。連作「思い出トランプ」のうち「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」(『小説新潮』昭和55年/1980年4月号~6月号)で初候補、そのまま受賞。同誌連作の第一作「りんごの皮」から9か月。50歳。

 直木賞の歴史は70余年におよびます。そのなかで直木賞の威力を感じさせる事柄はいくつもあります。

 「直木賞の威力」。このお題を考えるとき、思い浮かぶ人物はいろいろいるんですが。その筆頭は断然、向田邦子さんだ! と思いきって言っちゃいましょう。

 いったい彼女が小説を書かず、直木賞と無縁なままの人であったなら、こうまで神格化されていたのかどうなのだか、とつい疑いたくもなりますよ。どうですか。研究書・身の上詮索本・ファン本の氾濫ぶり、すさまじすぎませんか。

「作家には、死んだあと急速に読まれなくなる人と、死んだあといよいよ読まれる人とがある、と何かで見たことがある。向田邦子はあとのほうのピカ一である。なにしろ、はたして当人が書いたものそのままなのかどうかもはっきりしないテレビドラマの台本や、さらにはそれを他人が小説風に書きなおしたものまでが当人の著作として売れるのだから。」(平成12年/2000年7月・いそっぷ社刊 高島俊男・著『メルヘン誕生――向田邦子をさがして』「あとがき」より)

 むろん、直木賞の威力だけのせいではないんでしょう。ただ、あのとき、昭和55年/1980年7月に向田さんが直木賞をとれていなかったら、この状況も相当変わっていたと思います。

 じっさい、第83回(昭和55年/1980年・上半期)に、なぜ向田さんが候補になったのか。不明な点がいくつもあります。

 その最大の不明点は、なぜ単行本になるのを待たずに雑誌連載中に候補になったのか、ってことです。

「『小説新潮』に連載中の『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』が、この年の上期の第八十三回直木賞の候補になったと姉(引用者注:向田邦子)からの電話である。

「連載中の作品が対象になるのは珍しいし、そういう例は私も知らないの。候補に選ばれるのも大変なことみたい。小説書き始めたばっかりだし、まあー、もらえないと思うけれど、悪い気はしないわよ。励みになるかな……。お母さんにも話しておいてくれる。大げさでなく……」

 はずんだ声だった。」(平成6年/1994年12月・文藝春秋刊 向田和子・著『かけがえのない贈り物 ままやと姉・向田邦子』「III ままや誕生」より ―引用文は平成9年/1997年11月・文藝春秋/文春文庫)

 連載中の候補、っていうだけで珍しいことでした。そのうえ商業誌への連載になると、前例ははるか昔です。連作のもので似た例を探すなら、戦前の第17回山本周五郎「日本婦道記」くらいまでさかのぼらなきゃいけません。

 「候補になって意外」だと感じたのは、当人だけではありませんでした。友人にして女性初の『小説新潮』編集長、「思い出トランプ」を書かせることに成功したデキる人、川野黎子さんもそう感じていたようです。

「川野も雑誌連載中での受賞は前例がないので、たとえあるとしても一冊にまとまってからだろうという見方だった。」(平成10年/1998年6月・読売新聞社刊 小林竜雄・著『向田邦子 最後の炎』「第四章 〈小説〉への熱き想い」より)

 いやいや。向田応援隊隊長である山口瞳さんですら同様です。まさか連載中に候補になるとは予想外だったことでしょう。

「暮に出た『小説新潮』二月号を売店で買った。向田邦子が小説を書いている。それが『思い出トランプ』という短篇連作の第一回の「りんごの皮」だった。

(引用者中略)

 私は、この連作短篇が完結すれば直木賞の大本命になるなと思った。」(平成6年/1994年6月・新潮社/新潮文庫 山口瞳・著『男性自身 木槿の花』所収「木槿の花(五)」より)

 いまの直木賞なら、まず絶対、単行本にまとまってから候補に挙がったに違いありません。第83回は30数年前の出来事ですが、その当時だって、連作のうち何篇かが単行本になる前に候補になるのは異例でした。異例と言いますか、異状です。

 小林竜雄さんは、こう解釈しています。

(引用者注:直木賞の候補にあげられたのは)この連作を邦子がいくら「小説の練習曲」と思っても、作品としての完成度はとても高かったことを意味していた。」(前掲『向田邦子 最後の炎』より)

 そうかもしれません。ただ、「単行本になる前に候補になった理由」にはなっていません。

 候補作は誰が決めたのでしょうか。日本文学振興会です。もっと言えば、文藝春秋の編集者たちです。

 もちろん、彼らに言わせれば「候補作とするに値する出来だったから」って理由なのでしょう。そりゃそうです。しかしなぜ、単行本になるまで待てなかったのか。……この疑問に答えてくれる文献に、まだワタクシ、めぐりあえていません。

 「雑誌掲載でも候補にしていいんじゃないか」と案を出したのは、当時、文藝春秋で候補作選びにかかわっていた高橋一清さんだそうです。

「直木賞の方は、雑誌・単行本をふくめて対象にしているから、長さの制限はない。(引用者中略)短いものは向田邦子さんの作品である。向田さんは「小説新潮」に短篇小説を書いていた。しかし、いくら完成度が高くても二十二、三枚のものでは候補にしにくい。そこで、ある日の会で、私は提案した。

「いかがでしょう、これまでの三篇をまとめて、予選通過作品としては」

 この案はすんなり受けとめられ、雑誌発表の三つの短篇をまとめて、選考委員のもとに届けられた。そして、満場一致で直木賞受賞作となった。」(平成20年/2008年12月・青志社刊 高橋一清・著『編集者魂』所収「「芥川賞・直木賞」物語」より)

 高橋さんの文章は、重要な部分が、どうも省かれている気がするんだよなあ。なにせ、向田さんの受賞を「満場一致で」と書いちゃっているんですもの。他の方の文章を総合すれば、とてもそうは思えないのに。連載中に候補にする理由の真意は、この文章からははかることができません。

 いまひとり、向田さんの受賞に大きく関わった関係者が、回想文を残してくれています。参考にさせてもらいましょう。直木賞70余年のなかでもトップクラスに位置する策士(これ褒めてるんですよ)、豊田健次さんです。

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2011年7月14日 (木)

第145回直木賞(平成23年/2011年上半期)決定の夜に

 受賞作なし、なんてこともありうるぞ。と脅されていたので、ともかく一人の受賞作家が誕生して、ホッとひといきです。今夜19時24分ごろ、第145回(平成23年/2011年・上半期)直木賞の結果が発表されました。

 もうひとつの文学賞とは違って、直木賞は、過去を見返しても、その受賞作が日本の文学の方向性を指し示してきたことはありませんし、そこまで大きな期待を寄せられたこともありません。のびやかで、自由な賞です。そのくせ、どんな結果が出ても文句を言う人が後を断たない天然イジメられっ子キャラです。カワユイですね。

 今回もおそらく例にもれません。この結果にブーブー文句を言う人もいることでしょう。どうぞ言ってやってください。ワタクシも尻馬に乗って文句を……と行きたいところではありますが、いや、それは封印しまして、今日は他の4人の候補作家にお礼を言うところから始めさせてもらいます。

 ほとんど受賞したかと思いました。辻村深月さんの『オーダーメイド殺人クラブ』。大仕掛けのトリックやドンデン返しから解き放たれて、またひとり、ミステリー界から別の領域に去ってしまう作家が、今日生まれるかと思いましたよ。今年は、吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞、直木賞と、たてつづけにしかもすべて違う作品で候補になり、お疲れ様なことでした。直木賞は目前でしょう。どうぞこのまま、快進撃を続けてください。

 島本理生さんの小説、正直ワタクシははじめて読みました。『アンダスタンド・メイビー』。この小説が直木賞候補になってくれなければ、おそらく敬遠して、ずっと「あのときの女子」の印象のままで終わっていたと思います。意外にミステリーチック、そしてサスペンス調。何だちっとも「女性専用小説」じゃないんだな、と気づかされました。なに、芥川賞や直木賞をとらずとも、作家生活20周年でも30周年でも迎える方は、ゴロゴロいます。文学賞のことなど気にせず、ガシガシ進んでいってくれる方でしょう。おそらく。

 ああ。葉室麟さんがまだ直木賞に届かないとは……。だいたい、候補作そのものは大したことないのに、候補歴の多さで××や△△に与えたっつうのに、葉室さんはオアズケかよ。酷なことをしやがるぜ。葉室さんといえば、『恋しぐれ』みたいな堅実で静かな作風の作品を書かれるいっぽうで、活劇モノでも時代ミステリーっぽいモノでも、器用にそしてハイテンポでこなすたくましさ。もう何ともステキ!

 そして、あなた、『ジェノサイド』です。高野和明さんの放った強烈な、「アンチ直木賞あぶりだし装置」です。ワタクシは思います。心底思います。直木賞、どれだけ空気の読めるヤツなんだと。絶対直木賞向きでない小説を候補にし、それでもひょっとしたら、とワクワクさせておいて、お約束どおり落選させて、エンタメ小説好きから「直木賞はダメだ」と総ツッコミを受けることで、直木賞がみずからの存在感を際立たせる、っていう展開。高野さんには、そういう爆弾を放り込んでくれて、直木賞ファンとしてお礼の申しようがありません。『ジェノサイド』読みましょう。そして直木賞に罵詈雑言を投げつけましょう。直木賞はそうやって生き永らえてきましたし、光り輝いてきました、そういう生き物です。

          ○

 5人目の候補者。『空飛ぶタイヤ』や『鉄の骨』のときに受賞していても、何の不思議もなかった、おまたせしましたのこのお方。

 池井戸潤さんが受賞されて、嬉しくないはずがありません。昔うちのブログで「直木賞の名候補作」を紹介していたことがあって、そのとき取り上げた作家が、まさかの(!?)受賞ですから。『下町ロケット』は、断然、直木賞っぽくない。その直木賞っぽくない作品で直木賞をとってしまう痛快、爽快感。しかも、前回第144回(平成22年/2010年・下半期)で、「ああ、『下町ロケット』、候補にもならなかったかあ」と一度落胆させておいての、大逆転劇。どこか池井戸作品を思わせるような受賞のなりゆきで、つい拍手を送りたくなりました。

 ……ってことで、小学館、初の直木賞作品おめでとうございます。営業の不手際があろうが、増刷配本が候補発表のタイミングに間に合わなかろうが、受賞しちゃえば受賞したモノ勝ちです。『下町ロケット』、ぜひ大切に、にぎにぎしく売りつづけていってください。

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2011年7月10日 (日)

第145回直木賞(平成23年/2011年上半期)の選考会当日は、晴れるのか雨が降るのか。気象条件で受賞作をうらなう。

 毎日暑いですね。今年の夏は例年に比べて暑い日が多いらしいです。7月14日(木)はどんな天気になるんでしょうか。

 ……って、「直木賞専門ブログ」の分際で、ガラにもない書き出しをしてしまいました。第145回(平成23年/2011年・上半期)の選考会まであと4日、大事なときです。それなのに、どうして天気のハナシなどしてご機嫌をうかがっているのか。

 夏がくるとつい思い出すメールがあるからです。

 直木賞に関するサイトとかやっていますと、ほんの時たま見知らぬ方からメールをいただくことがあります。3年前の7月のことでした。「直木賞予報士」と名乗る方から、一通のメールが寄せられました。

「こんにちは。小生、10年ほど前から天気と芥川賞・直木賞の受賞結果との相関関係について研究をおこなっている者です。近年、「生気象学」という学問が世界的に注目を浴び、様々な研究が進められていることはご存知かと思いますが、人間の健康・生態・思考・心理などに天気がどのように影響を与えているかが日々研究されています。芥川賞と直木賞も結局人間が決めるものでありますから、天候や気象状況によって結果が左右されるのは当然でありましょう。」

 生気象学? ご存じなわけないでしょう、はじめて聞きましたよ。

 書き出しを読んで、正直、胡散くさいなと思いました。たしかにワタクシの知っている直木賞研究者のなかには、文芸や文学史の観点ではない別の視点、たとえば芸能スキャンダル史や出版文化、大衆文化などからのアプローチで、直木賞を研究されている方がいます。ただ、いくら何でも気象のフィールドで直木賞をとらえようだなんて、無謀で飛びぬけてイッちゃっている人がこの世にいるとは、メールをもらってはじめて知りました。

 そのメールはけっこうな長文でした。「直木賞予報士」さんが調べた各年度の1月と7月、東京における気温、湿度、天候が掲げられ、そのときの直木賞の候補作と受賞結果の分析がめんめんと書かれていたのです。

 ご丁寧に各回の選考会が開かれた日の、まさに選考が行われている時間である18時段階の気象情報まで、ことこまかに挙げられていました。げげっ、何だこの暇人は、と少しヒいてしまったほどです(お前が言うな、って感じではありますが)。

 メールの最後には、当時の候補作6つをもとに、選考会の開かれる平成20年/2008年7月15日の気象条件に応じて、この場合は受賞作はコレ、この場合はアレと、いくつかの予想が書かれていました。

 結果は井上荒野『切羽へ』単独受賞……。「直木賞予報士」さんの予想が的中していました。

 以来なぜか7月になると、この方からのメールがワタクシ宛に送られてくるようになりました。「なぜ1月の選考会は予想なさらないのですか?」と聞いたことがあるのですが、返信文いわく「気温が低い環境の場合は、まだ自分の予想の精度が低いから」だそうです。

 ちなみに、平成21年/2009年7月も平成22年/2010年7月も、気象条件ごとの予想メールをもらいました。「ピタリ」とまではいきませんが、2年ともおおむね当たっていました。

 ……と前置きが長くなってすみません。

 今日のエントリーは、そんな「直木賞予報士」さんのメールに、おんぶにだっこです。選考会が行われる日の、気温や天候などによって直木賞受賞作を予想してしまおう、っていうあなたの知らない(ワタクシですら付いていけない)めくるめく異常な世界にご案内します。

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●当日18時の気温が高いとき

 「直木賞予報士」さんは言います。気温が高いときは、人間イライラする、集中力を保てなくなる、といった理由からか「二作受賞」が発生しやすい、と。(以下、典拠の書籍データなどは一部、引用者であるワタクシが適宜補っている箇所があります)

「我々も体験として認知していることですが、暑さは冷静な判断を妨げる材料になります。

「不快指数が上がる状況では、精神的にも肉体的にも疲れる。思考力や判断力が薄れる。そしておこりっぽくなる。」

「頭がボーッとなり、眠くなる。集中力が薄れる。ふだん慎重な人でも、思わぬ事故を起こすというわけだ。」(平成11年/1999年3月・河出書房新社刊 原田龍彦・著『人はなぜ天気に左右されるのか』より)

 受賞作を一作に絞る作業は、しばしば根気を要する場面があると思います。一作に絞り込む集中力が保てず、二作受賞でもよしと判断してしまう確率は、当日18時の気温が28度を上回った場合に急に跳ね上がります。第135回(平成18年/2006年・上半期)の三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』と森絵都『風に舞いあがるビニールシート』の例、あるいは第131回(平成16年/2004年・上半期)の奥田英朗『空中ブランコ』と熊谷達也『邂逅の森』の例などは、その顕著な例だと見て取れます。」

 ええっ。まじかよ。

 じゃあ、比較的涼しい日はどうなるというんですか。

●当日18時の気温が低いとき

「基本的に全般的に気温の高い夏場は、精神的に昂揚し、より刺激の高いものを求める傾向が人体に生じます。言い方を換えれば「攻撃性が増す」とも言えましょう。

「アメリカにおける「性的暴力と季節の果たす役割」という論文では、性的暴力は7月と8月にピークがあるという解析結果を導いている。(中略)男性ホルモンであるテストステロンは季節変動を示し、夏にピークがあるという。このホルモンは人間においても動物においても攻撃行動に影響を及ぼすことが知られている。温度という気象要素のもつ重要性に注目したこの論文には強い反論があるらしいが、それに対して家庭内暴力の発生も夏にピークを迎え、それが気温のピークに一致していることを実証している。筆者らの本研究でも衝動的・生理的な欲求に強く結びつく犯罪の方が気温との関係が強く出たのは注目すべきことと思う。」(平成20年/2008年10月・成山堂書店刊 福岡義隆・著『健康と気象』より)

 これが暑い夏に起こる現象です。逆に、過ごしやすいくらいの温度まで下がった日には、まず波乱は起こらないと見ていいでしょう。従来の直木賞らしい作品、いわば地味な印象すら持たせるしみじみ心に沁みるような「いい話」系の候補作が俄然有利になるということです。

 その代表例として、第107回(平成4年/1992年・上半期)伊集院静『受け月』、第113回(平成7年/1995年・上半期)赤瀬川隼『白球残映』、第133回(平成17年/2005年・上半期)朱川湊人『花まんま』等を挙げておきたいと思います。」

 心に沁みるような、ですとお。それは何ですか、つまり今回の候補作でいえば葉室麟さんの『恋しぐれ』みたいな作品ってことですか。

続きを読む "第145回直木賞(平成23年/2011年上半期)の選考会当日は、晴れるのか雨が降るのか。気象条件で受賞作をうらなう。"

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2011年7月 3日 (日)

藤原伊織(第114回 平成7年/1995年下半期受賞) 「会社勤めしながら書きたいものだけ書いていきたい」男の、理想と現実。

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藤原伊織。『テロリストのパラソル』(平成7年/1995年9月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「ダックスフントのワープ」でのデビューから15年。47歳。

 つい先日まで、うちのブログではいろんな文学賞に注目していました。直木賞と関係の深い文学賞をあれこれと。

 江戸川乱歩賞について、じつはどう扱おうか迷ってはいたのです。いたのですが、注目度の低い賞を優先的に取り上げることにかまけて、スルーしてしまいました。ごめんよ乱歩賞。

 直木賞と乱歩賞。ネームバリューにおいては、エンタメ小説界の二大巨頭だと言っちゃいましょう。この二つを一つの作品がかっさらったと聞いたら、興奮を覚えない賞マニアはまずいません。

 関口苑生さんだって興奮しています。

「藤原伊織の『テロリストのパラソル』は、四十年に及ぶ乱歩賞史上初めて、予選選考、本選考ともに満場一致でAランク評価を受けた作品として世に出、第一一四回直木賞も受賞、史上初の乱歩賞、直木賞のダブル受賞作となったのだった。

 過去においても、乱歩賞受賞作が直木賞の候補となった作品はいくつかある。新章文子『危険な関係』、陳舜臣『枯草の根』、小林久三『暗黒告知』、高柳芳夫『プラハからの道化たち』などがそれだ。また乱歩賞受賞作家が直木賞を受賞した例も多岐川恭、陳舜臣、高橋克彦らがいるが同一の作品で受賞したのは、正真正銘『テロリストのパラソル』が初めての作品、作家であったのだ。」(平成12年/2000年5月・マガジンハウス刊 関口苑生・著『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』「第二十一章 乱歩賞と直木賞のダブル受賞」より)

 そもそも、なぜ乱歩賞作は即・直木賞をとりづらいのでしょう。今日のハナシは、そこから行きます。

 と言いますか、いまさら居ずまいを正して解説するようなことでもありません。両賞の評価軸が明らかに違うからに決まっています。

 乱歩賞はミステリー小説が対象です。有名無名問わず、プロでもアマでも参加資格があります。が基本、何冊も小説を出版してきたような人は、講談社の編集者にけしかけられたりしない限り、あまり応募しません。

 いっぽう直木賞は、はっきりいって対象の枠が曖昧です。小説なら何でも候補にしちゃうところがあります。ミステリー大好きな人たちからは、「どうして直木賞はミステリーに厳しいんだ!」と叱られますが、じゃあ直木賞がミステリーばかりひいきし始めたらどうなるか。特別そのジャンルの興味のない小説好きが嘆き悲しむのは目に見えています。

 直木賞は、ミステリーとしての出来の良し悪しをはかる場ではありません。ミステリー作として評価された新人の作品、乱歩賞の受賞作があまり受け入れられてこなかったのは、不自然でも何でもありません。

 じゃあ、『テロリストのパラソル』はどうだったんでしょう。どうして直木賞の選考会で評価されたのか。

 この時期に乱歩賞と直木賞、両方の選考委員をしていた方がいます。せっかくなので、その方の選評を参考にさせてもらいましょう。

 ようこそ阿刀田高さん。語っちゃってください。

「藤原さんの「テロリストのパラソル」は推理小説としては、いくつもの欠陥が指摘できるだろう。なによりも犯罪の動機が、「それがテロリストなんです」では、推理小説としては戸惑ってしまう。

 しかし、人物の描写力がただごとではない。とても魅力的だ。そして、なによりも文章が巧みである。よい点はいくつもあるが、とりわけ文章の中にそこはかとなく漂うユーモア感覚、これは、なかなか得がたい特色だ。

 ――これ以外にどんな作品が書けるのだろうか――

 という声はあったが、この筆力ならば、きっと今後もよい作品を書いてくれるだろうと、私はこのギャンブル好きの作家に賭けてみたくなった。」(『オール讀物』平成8年/1996年3月号 阿刀田高「文章の力」より)

 ははあ。「推理小説としては、いくつもの欠陥が指摘できる」ですか。逆に「完璧な推理小説」だったのだとしたら、どうだったんだろう。直木賞とれていたのかなあ。

 推理小説として不出来、だったからこそ直木賞で受け入れられたのでは、って視点。

 ではもう片方の乱歩賞は、どうなんでしょう。さすがに推理小説として評価されたんでしょ。と思いきや、案外そうでもなさそうです。

 そうでもない、と言いますか。「推理小説」としては不自然だけど、「ミステリー」としては最高の出来、みたいな感じ。

「最も歴史の古い乱歩賞はトリッキーな本格派の作品を世に出してきたことで知られるが、「90年代に入ってからはエンターテインメント傾向が強くなり、間口が広くなった」とフジテレビとともに同賞を後援する講談社。」(『毎日新聞』平成8年/1996年9月20日「ミステリー界最新事情――「定型」超えた作品増え…エンターテインメント色、さらに」より 署名:松村由利子)

 ええ、ええ、平成7年/1995年、『テロリストのパラソル』が世に登場した時期、っつうのはいわゆる「ミステリー」バブル華やかな頃でした。

 90年代。とにかくエンターテインメント小説なら、全部「ミステリー」ってラベルを貼っちゃえ、っていう乱暴な仕掛けが横行していましたよねえ。

 先に引用した毎日新聞の記事から。

「ミステリー作家の北村薫さんは「今使われているミステリーは、ほとんどエンターテインメントと同義」という。「戦前から本格と変格を巡る論争があったようにもともとミステリーの幅は広いが、さまざまな表現、高い技量をもつ作家の登場で、さらに広がりを増した」

(引用者中略)

 ミステリー評論家の北上次郎さんは「もうミステリーという名称をやめた方がいいのではないか」という。大沢在昌逢坂剛船戸与一らが登場した80年代に一連の作品を「冒険小説」と名づけた北上さんは、「その時代の新しい才能を示す名称が必要」と話す。

 ミステリーの作品数が少なかった時代には、SFも「変格推理小説」の中に含まれていたという。「ハードボイルドや冒険小説、ホラーなど、もともとミステリーを出自とするエンターテインメントが豊かに広がった今、何かよいネーミングはないでしょうか」と頭を悩ませている。」
(前掲記事より)

 この当時は、『このミステリーがすごい!』と直木賞候補作とが、ある意味、似たような作品群になってきた、なんて言われていたりもしました。これは、推理小説側の「ミステリー化」と、直木賞側の「推理小説アレルギーの減少」、両面があると思いますが、もっと言っちゃうと、単にラベルの貼りかたの問題だとも言えます。

 直木賞がミステリーに甘くなってきた。ってホントですか?

 その気になれば、どうでしょう、適当にピックアップするとして、たとえば第61回(昭和44年/1969年上半期)の直木賞候補作を見てみてください。これらほとんどが、90年代基準の「ミステリー」に属するものばっかりだ! と強弁したって許されるかもしれません。

 直木賞は元来、「推理小説」は嫌いだけど「ミステリー」は許容する。そんな性格だから、『テロリストのパラソル』も受賞できた。って、そんな解釈も成り立つと思います。

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