安西篤子(第52回 昭和39年/1964年下半期受賞) 直木賞にまとわりつく「胡散くささ」を際立たせてくれる、代表的な作家。
安西篤子。「張少子の話」(『新誌』4号[昭和39年/1964年10月])で初候補、そのまま受賞。「阿久津とその子供達」での同人誌デビューから11年。37歳。
直木賞は、「胡散くさい企画」の代名詞として、日本のなかにすっかり定着しました。
いったい、この賞のどこがどんなふうに胡散くさいのでしょうか。賞そのものの選考や運営が不透明だ、不公正だ、とはよく言われます。しかし、そのことは大したものじゃありません。影響範囲も小さいですし。
やはり直木賞(ともうひとつの文学賞)の胡散くささは、大部分が「周囲の反応がもたらすもの」に由来するのじゃないでしょうか。
たとえば、候補作のラインナップを見て、したり顔でどーのこーの解説する人たちが大勢います。受賞作が決まれば決まったで、それをもとに、「昨今の小説界は」「昨今の市場傾向は」「昨今の日本人は」と、鬼の首でもとったかのようにガーガー分析したがる人たちが湧いて出てきます。その現象全体が、直木賞の胡散くささを形づくっているのだと思います。
むろん、その片隅にワタクシのつくっているサイトやブログも属しているわけです。微力ながら直木賞の胡散くささに加担できて、幸せです。
さて、前置きが長くなりました。40数年前に直木賞を受賞した安西篤子さんです。
この方は胡散くさくありません。しかし、この方の直木賞受賞がもたらした「周囲の反応」は、あまりに直木賞らしい馬鹿バカしさが充満していますからね、素通りするわけにはいきません。
「今月の話題としては、まず、第五十二回芥川賞、直木賞の発表ということがある。芥川賞は受賞者なし、直木賞は永井路子、安西篤子の二人に授賞された。(引用者中略)
私が注目したいのは、今回の直木賞発表とともに「主婦作家」というような言葉があちこちに散見されたことである。かつて投書夫人とか書きますわよ夫人とかいう言葉があったようだが、ついにそれは主婦作家にまで昇格したか、というようなことである。こんなことを書くと、永井さんたちはイヤな気がするだろうが、私は直接に永井さんたちのことをいうつもりではない。一般に日本の近代文学は、これまで年寄りとか家庭の主婦などとは完全に無縁な存在として発達してきた、という歴史的な事実に照らして、いまさら私は一種の感慨にとらえられているのである。」(昭和50年/1975年10月・新潮社刊 平野謙・著『平野謙全集第十一巻 文藝時評II』「昭和四十年三月」より)
昭和40年/1965年1月。直木賞に永井路子さんと安西篤子さんの二人が選ばれたとき、周囲――雑誌や新聞は「主婦作家」としてくくりました。
笑いませんか。主婦作家。いや、安西さんはともかくとして、永井路子を称して「主婦作家」って……。
安西さんご自身も、そのおかしさを受賞直後に口にしています。
「安西さんは三井物産社員の夫人なので、マス・コミから“奥さま作家”とか、“主婦作家”という名称で呼ばれている。
「わたくしは、ごらんのように主婦ですからそう呼ばれても、ちっともかまわないのですけれど、永井さんは、ちょっとお厭なんじゃないでしょうかしらねえ。あの方は、主婦業よりも、作家のほうに打ちこんで勉強していらっしゃるんですから」
と、しきりに自分と同列にされた永井さんの立場に気を使う様子であった。」(『潮』昭和40年/1965年5月号 十返千鶴子「希望訪問 ふるさとを大陸に 安西篤子さん」より)
そりゃそうでしょう。安西さんと永井さん、大した共通点はないですもん。かたや外での職をもたず、同人雑誌にのみ作品を発表しつづけて10年余。別段「大衆文学」で勝負しようという自覚もなし。かたや小学館に務めるかたわら、その間に大衆文学の懸賞に次々チャレンジしてきた経歴をもつ、すでに商業誌にいくつか作品を発表しているセミプロ。
この二人がたまたま同時に受賞したからといって、ふつうなら、別に大層な分析などできないよな、とビビッて口をつぐんでしまいます。
世の中には小説を書く人だけで何千人も何万人もいたでしょう。当時、発表されていた小説は数えきれないくらいありました。
そのなかから、こじんまりとした一つの出版社が、ほんの少人数の手によって選び出した受賞者が、二人とも既婚の女性だったと。そのことだけで日本の文学の流れを語ろうだなんて、恐ろしすぎます。
しかし、その恐ろしいことを、やすやすと周囲の人間にやらせてしまう。「直木賞」のパワーです。
「第五二回の直木賞が、ふたりの“主婦作家”におくられたことから、文壇における“主婦時代”の出現がマスコミの関心を集めている。昭和三十一、二年の“才女時代”は、もっぱら純文学の分野でさわがれた。こんどは大衆文学の領域で生起した問題だけに、時代のマスコミ的性格が、ある程度その現象に反映しているように思われる。
(引用者中略)
大衆文学の領域に“才女”ならぬ“主婦作家”が登場する傾向は、大衆文学にとどまらず、文学の社会化にプラスの側面をもたらすにちがいない。女性はやっと文学創造の栄冠を男性とともに競うことのできる時代にきたのではないだろうか。」(『朝日ジャーナル』昭和40年/1965年2月7日号「文化ジャーナル 直木賞と主婦作家」より)
何を言っているんでしょうか、この『朝日ジャーナル』の無署名子は。純文学で「才女」、大衆文学で「主婦作家」と、さらに恣意的な見立てを盛り込んでいるせいで、何が何だかわからないことになっています。
たとえば、歴史的にみてこの時期、直木賞候補のなかに徐々に女性の作品が増えてきていた、っていうのは確かです。小説を書く女性が増えるにともない、出版ラインに乗る女性の作家も増加してきた、とは言えるとは思うんです。
でも、女性が直木賞を独占(といっても二人が同時に受賞しただけのことですけど)したことで、大衆文学と女性作家のアレコレを語ることなどできるんでしょうか。それを語る人の論を信用できるものなんでしょうか。
『朝日ジャーナル』の無署名子は言います。
「杉本苑子の『孤愁の岸』が受賞した第四八回は、八候補中二人、四九回は、六候補中三人、五〇回は一〇人中四、五一回は八人中四、そして今回みられた九人中六と、(引用者注:直木賞の)候補中に占める女性の割合は、急速に増加していることがわかる。」(同「直木賞と主婦作家」より)
はい、わかります。ただ、あなたより後に生まれたワタクシたちは、次の第53回(昭和40年/1965年・上半期)から、直木賞候補で女性の占める割合が急激に減って、以降20年間も、その状況が続いちゃったことも知っています。
その間、大衆文学を書く女性って減っていましたか? ……んなことないでしょう。
大衆文学を書く女性の数の推移と、直木賞候補に女性が占める率の推移に、因果関係なんてあるんでしょうか?
過去数回の直木賞の傾向だけを見て、なにか大きなことを語ろうとするマスコミの記事。マユツバですね。胡散くさいですね。
でも、あれです。こういう記事がなければ、直木賞の魅力は格段に落ちていたことでしょう。胡散くささこそ直木賞の華である、とワタクシが思うゆえんです。
○
安西篤子さんと永井路子さん、この二人を「主婦作家」と総称するなら、どう見ても安西さんのほうがシックリくる呼び方です。しかし、その安西さんが受賞当時ですら夫婦間に愛情はなく、いずれ「主婦」の座から下りてしまうことになるんですから。ああ。諸行無常だ。
そもそも安西さんには、直木賞をとるまで、職業作家になるつもりはありませんでした。
昭和21年/1946年、19歳で結婚。二人の子を産み、育児のかたわら小説を書く勉強をしたいと志します。実父の中学時代の同窓に作家の中山義秀がいて、安西さんも義秀の作品が好きだったものですから、「小説を勉強したい」と手紙を出します。
「文学の「いろは」から、私は先生に教えていただいた。「文学は教えられるものではない」というのが、中山先生の信条で、従って「文学に師弟関係はあり得ない」と言われ、私も正式に弟子と認められたわけではない。「モグリの弟子なんですよ」と、私が笑って人に話すのは、そのためである。
(引用者中略)
「文学に師弟はない」と考えておられた中山義秀先生は、私を直接、指導することはなさらず、同人雑誌『南北』に加入できるよう、紹介して下さった。」(昭和56年/1981年2月・海竜社刊 安西篤子・著『ひとりでも幸福か』所収「男によって変わるもの変わらないもの」より)
『南北』は、昭和28年/1953年に鎌倉で発行された同人誌です。亡き横光利一の門下だった多田裕計、清水基吉、石塚友二らを中心に、眼科医の後藤杜三を発行人として季刊でスタートしました。安西篤子さんは、その創刊時から加わった唯一の女性でした。
『南北』に最初に載せた作品は、第2輯(昭和29年/1954年1月)の「阿久津とその子供達」。その後、昭和38年/1963年に誌名を『新誌』と変えつつ10年、安西さんはこの同人誌に作品を発表します。
「同人雑誌の仲間に入れてもらって、小説の勉強をはじめた若いころ、私は自分が女であることが、いやでたまらなかった。一面でそれは異性へのあこがれの変形であったかも知れないが、とにかく自分の中の女である部分を、できるだけ削り落としたかった。
(引用者中略)
小説という虚構の世界の中で、私は男になりたかったのかも知れない。同人雑誌に発表した小説は、一、二篇を除いて、男性を主人公としている。」(平成7年/1995年3月・中央公論社刊 安西篤子・著『生きてきて、いま』所収「女流俳人いまむかし」より ―初出『毎日グラフ別冊』平成3年/1991年7月)
安西さんの属する『南北』または『新誌』は、同人に芥川賞作家は加わっているし、後ろ盾に芥川賞作家で直木賞選考委員の中山義秀はいるし、ってことで、ここから両賞の候補作が出てもおかしくないくらいのところに位置する同人誌ではありました。ただ、丹羽文雄の『文学者』のような大所帯でもなく、有名になりたいぜなりたいぜとギラギラした人の集まっている雰囲気もありません。地道に文学修業をする場、といった感じの印象を残す雑誌です。
昭和40年/1965年1月。「張少子の話」が直木賞候補に残ります。安西さんは、周囲の人たちから、あまり期待するな、期待するなよとさんざん言われて選考会の日を迎えたそうです。直木賞委員を務める中山義秀さんからも、
「このお正月の二日に、師の中山義秀邸に年賀にいったら「直木賞の候補に残っているが、まあダメだろうよ。そのつもりでいなさい」といわれたそうだ。」(『朝日新聞』昭和40年/1965年1月20日「人 第52回直木賞を受ける 安西篤子」より)
と直接に諭されていました。
じっさいの選考会では、そうは言いつつ中山義秀は「張少子の話」に一票を入れたみたいですし、まあ無事に「モグリの弟子」を世に出すことに成功したわけですが、その後の安西さんの人生を、ある意味見通していたのかもしれません。義秀さんは、周囲の人にこう洩らしていたそうです。
「義秀門の安西篤子氏が直木賞受賞の栄誉を受けた直後ですら
「彼女に作家の道を歩むことを勧めたのは、俺の誤ちではなかったろうか。作家の道は険しいからなあ。無理にも平凡な妻の座に戻らすべきではなかったろうかと、昨夜は思い惑ってまんじりともしなかったよ」
沁々とそう述懐していた。」(『新潮』昭和57年/1982年8月号 後藤杜三「義秀帖―未帰の客―」より)
直木賞をとったことで、商業誌から注文を受ける作家になったことが、その後の安西さんの離婚にどのような影響を与えたのか、与えなかったのか、わかりません。ただ「作家の道は険しいからなあ」っていう義秀さんの言葉は、安西さんの作家人生をズバリと言い当てているようで、ぞくりとします。
○
直木賞受賞直後のことでした。安西さんは悩みを吐露しています。「これから何を書いていったらいいのか、方向が定まらない」と。
「「受賞はしたものの、これからいったい何を書いていったらよろしいのか、ぜんぜんまだ、方向が定まらないのです。世間の評価によりますと、永井さんのほうは、すぐでもプロ作家になれるけれど、わたくしのほうは分らない、ということですが、まったくそのとおりです」
と素直に認めて背のびもしなければ、てらいもしない。
(引用者中略)
「同人誌とちがって、これからは、いろいろと、きびしい場に立たされると思いますけれど、まあ、おいおい勉強してゆくより仕方ありません。父は平凡な銀行員でしたし、わたくしも、ただ、家庭環境に恵まれて書くことが出来ただけで、これといった人生経験はないのですけれど」
と、自身でも、内部に眠る作品への鉱脈を探り当るのに悩んでいる様子である。」(前掲「希望訪問 ふるさとを大陸に 安西篤子さん」より)
当時、受賞作が「張少子の話」といって昔の中国を舞台にした物語だったために、安西さんは歴史作家と見られていました。しかし、その後、歴史小説の王道を書きつづけた永井路子さんとはちがって、安西さんは現代の身近なことをモチーフにした作品世界にも足を踏み出し、もはや彼女を「歴史作家」と呼ぶのは違和感があるまでになりました。
もちろん、いま安西さんを「主婦作家」と呼ぶ人など、きっと誰もいません。
直木賞受賞直後のにぎわいなんて、ほんと、むなしいですね。
「(引用者注:第52回直木賞の)選考会場となった東京築地の新喜楽に集った報道関係者の数は、これまでの記録をはるかに上まわった。
もしかしたら、“主婦作家”が誕生するのではないか、いやその可能性のほうが大きい、そう判断した報道陣が多かったのである。
一月十九日午後八時すぎ、選考委員代表の大佛次郎氏が、記者会見の会場に姿を現した。
「発表いたします。第五十二回直木賞は、安西篤子さんの“張少子の話”と永井路子さんの“炎環”に決定いたしました」
ヘェ、やっぱり、女性陣の独占か、という声が洩れた。」(『週刊文春』昭和40年/1965年2月1日号「“奥さま作家”直木賞をさらう 文壇におどりでた永井路子 安西篤子さんの横顔」より)
むなしいですけど、こんなこと、直木賞はそれ以後も50年弱、一年に二回ずつ続けているんですよ。
はてさて。今年決まった第145回(平成23年/2011年・上半期)の受賞周辺のことは、50年くらい後には、どう見えるんでしょうか。
もしそれまで、うちのブログ記事が残っていたら、50年後の人は読みながら嘲笑するんでしょうか。そうであったら……ちょっとイラッとするけど、ちょっと嬉しい。
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