榛葉英治(第39回 昭和33年/1958年上半期受賞) 丹羽文雄のせいでエロ作家に転落し、海音寺潮五郎に救われた文壇人。
榛葉英治。『赤い雪』(昭和33年/1958年2月・和同出版社刊)で初候補、そのまま受賞。「渦」でのデビューから9年半。45歳。
ところで、榛葉英治さんってご存じですか?
ここ最近うちのブログでは、よく知られている受賞作家をかなり意識的に取り上げてきました。しかしそろそろ、我慢の限界です。ワタクシの一種の病気である「忘れられた作家に光を当てたいぜ」熱がおさえられません。そこで、今日はこの方。榛葉さんです。
榛葉さんが今、「誰それ?」な領域に追いやられているのは、無理もありません。生前から、彼のキャッチフレーズといえば「地味」だったからです。
たとえば約18年前の書評から。
「作者は直木賞作家である。昭和三十三年に『赤い雪』で受賞している。それ以来、三十五年後の今日まで地味な作風であるが、えいえいと執筆活動を続けてきた。」(『産経新聞』平成5年/1993年12月19日 松本鶴雄「書評 八十年現身の記 榛葉英治著」より 太字・下線は引用者によるもの)
さらに昔にさかのぼっても印象はあまり変わりません。受賞から20年弱たったころの、紹介文は、こうです。
「(引用者注:同時受賞の山崎豊子に比べて)榛葉英治のその後は、決してきらびやかではない。」(昭和52年/1977年6月『国文学 解釈と鑑賞臨時増刊号 直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より 執筆担当:小川和佑 太字・下線は引用者によるもの)
こういう受賞作家、ワタクシ好きなんですよねえ。「直木賞は芥川賞ほどでないにしても、受賞すれば一躍スターダムにのし上がるんですってよ」みたいな勝手な思い込みを、軽がるしく打ち壊してくれる作家。
ええ。榛葉さんは地味です。しかし彼の受賞には単に地味で済ますことの許されない、特別な事情がからんでいました。当然ですけど。
それを語るには、まず受賞する10年ほど前、昭和23年/1948年にまでさかのぼらなければなりません。
作家デビューの頃です。榛葉さんは戦前にも、早稲田の学生だったころ、『人間』という同人誌に参加して小説を書いていました。しかし、昭和11年/1936年に満洲に渡ります。現地の有力同人誌『作文』などから誘いを受けたりしたものの、断って、戦後になるまで小説を書くことはなかったそうです。
昭和23年/1948年、榛葉さんは妻の故郷である仙台にいました。「渦」なる作品を書いて、河出書房の『文藝』誌に投稿。編集者の杉森久英さんに見出されてデビューを果たします。翌年もひきつづいて同誌に「蔵王」などを発表。一気に、有力新人の地位に立ったのでした。
「彼は十五日会が出来る頃に、「蔵王」という作品で華々しく世に出ていた。その作品が文芸時評でも評判が高かったし、肉体文学の新しい作風として一般ジャーナリズムがさわいだ。そのために榛葉は忽ちにして流行作家になった。青野季吉氏はその「蔵王」を高く買っていた。青野氏は「蔵王」が芥川賞にならなかったことを何かの座談会で嘆いていられたから、相当に評価していたものと思われた。」(昭和56年/1981年1月・講談社刊 中村八朗・著『文壇資料 十五日会と「文学者」』「第四章 十日会というグループ」より)
榛葉さんの「渦」は『文藝』昭和23年/1948年12月号に、「蔵王」は昭和24年/1949年3月号に発表されました。
先に引用した中村八朗さんの文章に「芥川賞」のことが出てきます。芥川賞は、昭和20年/1945年上半期の第21回を最後にして中断していました。その代わりのように、芥川賞復活に先んじて改造社が横光利一賞を創設しまして、これの第1回の対象が昭和23年/1948年発表作品。ってことで、榛葉さんの「渦」は第1回横光賞の候補に選ばれました。
第1回横光賞は選考委員8名。川端康成、小林秀雄、中山義秀、河上徹太郎、林芙美子、橋本英吉、井伏鱒二、豊島与志雄。候補作は14篇、昭和24年/1949年1月9日に選考会が開かれまして、ごぞんじのとおり(?)受賞作は圧倒的な支持をうけて大岡昇平さんの「俘虜記」に決まりました。
8人の委員のうち、「詮衡後記」(選評)で榛葉英治「渦」のことに触れてくれたのはただ一人。林芙美子さんだけでした。
「榛葉英治氏の蔵王といふ作品を読んでゐたので、「渦」をきたいして読んだのだけれども、はるかに蔵王の方が候補作品の「渦」より佳作である。」(『改造文藝』4号[昭和24年/1949年5月]「横光利一賞詮衡後記」より)
やたらと評判のいい「蔵王」。先の中村八朗さんの文でも、青野季吉さんが惚れ込んだと出てきましたね。林芙美子さんもまた「蔵王」推し。
周囲の期待が高まる高まる。復活したばかりの芥川賞をとれちゃうのじゃないか、と思わせるほどの好評判。
がしかし。そこまでの作品が書けてしまって、なのに芥川賞を落選どころか候補作にすら残してもらえなかった昭和24年/1949年。榛葉英治さんの、賞に対する強い思いを芽生えさせる出発点となってしまったようなのです。
「「蔵王」については、杉森編集長が選考委員の丹羽文雄に芥川賞候補の可否を尋ねたところ、「その必要はない」といわれた。当時は、今でもそうかもしれないが、文芸誌に登場した作家は該当しないとの不文律があったようだ。いっぽうで、平林たい子はこの年の読売の「ベスト・スリー」に「蔵王」を挙げ、青野季吉と林芙美子も芥川賞に推薦している。私としては第二十一回芥川賞をとっていれば、その後の苦労はなく別の道を歩いていたかもしれないとのうらみは残る。佐藤春夫邸のまわりをどなって歩いた太宰治の気持はよく判るというものだ。」(平成5年/1993年10月・新潮社刊 榛葉英治・著『八十年 現身の記』「八章 中央誌にデビュー」より)
不文律ねえ……。もし、そんなものがあったとしても、不文律っていうのは、解釈次第でどうとでも変わってしまうモロいものなんですよね。とくに直木賞・芥川賞の不文律は。第22回の井上靖も、第23回の辻亮一も、ふつうに商業文芸誌に載せた作品で受賞しちゃっているわけですし。
ってことで、榛葉さんのからだのなかに発芽した「芥川賞、とれなくて悔しいっ!」の感情は、どんどんと膨らむ一方で、80歳になって過去を回想する一冊のなかでも、先に挙げた箇所だけでは飽き足らずに、こんな恨み節を残すほどになってしまいました。
「酒の席で、義徳(引用者注:八木義徳)がいった。
「榛葉があのときに芥川賞をとっていたら、だいぶ方向が違ったと思うよ」
そのとおりだと私は心で頷いたが黙っていた。昭和二十四年に「蔵王」で芥川賞をとっていたら、確に私の方向は違っていた。その後十年つづいた惨憺たる生活も、三流雑誌にエロ小説を書くこともなかったろう。その運命が、一人の選考委員の一言できまった。八木君、その人は君もよく知ってる人だよ……。」(同書「十一章 去りゆく人々」より)
榛葉さん、最後の三点リーダーに実感こもりすぎ。怖っ。
○
苦労人に対して、文学賞をとりまくジャーナリズムはたいてい冷たい。……ってことはないんでしょうが、10年間がんばって作家を続けてきた榛葉さんの身は、「苦節」のオーラで包まれていたのかもしれません。そして「苦節」はあまり見栄えがしません。
『読売新聞』で「中間小説評」を書いていた(LON)さんは、榛葉さんが直木賞をとってまもなく『誘惑者』を発刊したときに、「この一作は、東光ブーム(引用者注:今東光ブーム)に続く榛葉ブームを十分予想させる」と期待をこめて書きました。その予想がどういう結果になったかは、まったく、ご覧のありさまです。そんな(LON)さんは榛葉さんが受賞したときにも同欄で取り上げてくれたのですが、この方の目にも、榛葉受賞は華やかさとは遠く離れた風景として映っていました。
「榛葉英治の名を聞いてからだいぶ久しいが一向にパッとしなかった。どうやらカスミかけた存在だと思っていたが「赤い雪」(和同出版社 二八〇円)で直木賞を取り、遅まきながら脚光を浴びた。苦節十年の士としてお目出度うを言いたい。」(『読売新聞』夕刊 昭和33年/1958年8月19日「中間小説評 長年鍛えた筆の確実さ 直木賞の榛葉英治作「赤い雪」」より 署名(LON))
まあ、今と比べちゃいけないんでしょう。いけないんでしょうけど、今、直木賞をとる作家でデビュー10年以上たっている人などザラにいます。しかも、当時に比べて単行本を出す環境も整っていることですし、直木賞をとっても新鮮さを感じさせない受賞者、なんてのがおなじみの風景です。
榛葉さんは「苦節10年」とはいえ、受賞したときどれだけ世に知られていたことやら。新鮮さから言えば、最近受賞した誰それに比べても、格段に新鮮だったはずです。
それでも、当時の文献を見ても、榛葉さんの受賞を新鮮だととらえたものはまず見当たりません。
なぜ、そうなってしまったのか。
ひとつには、なにせ一緒に受賞したメンツがメンツでした。共に直木賞を受賞したのはデビュー2作目のフレッシュな女性、山崎豊子さんでしょ。しかもあなた、この回、芥川賞をとったのが若くてあどけない東大の学生、大江健三郎さんと来たら。榛葉さんのほうに光が当たるわけないでしょ、と。
「書き下しの長篇と卒業論文と―二つの仕事に追われてシンギンしている大江健三郎を励ます会が、このほど新橋の第一ホテルで開かれた。この会に集まった顔ぶれが面白い。ほとんどがジャーナリストで(引用者中略)いわゆる既成文壇からは、丹羽文雄、石川淳、十返肇らが顔をのぞかせたにすぎなかった。これをたとえば、榛葉英治の直木賞受賞祝賀会あたりとくらべてみると、意味シンだ。
大江、開高(引用者注:開高健)がクツワをならべて登場したころ、「二十代作家文壇を占領?」などと大ゲサな見出しのトップ記事を掲げた週刊誌があった。めまぐるしいニュー・フェイスの登場に、文壇崩壊論を唱える連中さえあった。ところが、榛葉あたりの会をみると、文壇は依然として健在である。大江たちは、そういう場所とは、まったく別のところで仕事をすすめているのである。」(『早稲田文学』昭和34年/1959年2月号「文壇雑記帳 大江健三郎の祝賀会」より)
要は、大江健三郎のまわりはキラキラしているけど、榛葉英治の受賞の周辺にあるのは、カビの生えたような旧来型の空気だと。
第39回の直木賞には、当時としては新鮮な作品・作家がいくつか候補に挙がっていました。山崎豊子さんは言うに及びません。ほかにも福本和也さんとか多岐川恭さんとか水島多樓(今日泊亜蘭)さんとか。しかし、事前の下馬評では、最も「直木賞をとりそう」と思われていたのが、地味で華やかさに欠ける榛葉さんだったという。
何なんだろ。地味だ地味だと榛葉さんのことばかり言い立ててきましたけど、もしかして直木賞そのものこそ、本質的に地味なものと見られていたってことじゃないの。
「候補作品に入った時、どうせはじめて候補に入ったばかりだからと、たいして期待せず、受賞者発表の日も、いつも通りの勤務をしていた。マスコミ関係者も、誰一人として私(引用者注:山崎豊子)に受賞の際の予定談話の依頼などしてこられる方もなく、学芸部に入って来るニュースも、芥川賞は大江健三郎氏、直木賞は榛葉英治氏が本命であった。」(平成21年/2009年11月・新潮社刊 山崎豊子・著『山崎豊子自作を語る2 大阪づくし 私の産声』所収「産声」より 初出『山崎豊子全作品』第一巻月報 昭和60年/1985年8月)
何なんでしょうね。直木賞の本命=榛葉さん、っていうマスコミ界隈の的確な予想。芥川賞周辺は「文壇崩壊」、でも直木賞は「文壇力学が働く」とでも思っていたのでしょうか。結果そのとおりになったんですけど。
さすがです。直木賞のことを、新しい何かが生まれる場所、みたいに期待していた人がいかに少なかったかが垣間見えて、笑えます。
○
榛葉英治さんの自伝『八十年 現身の記』は、ありのまま思ったままを書いてやろうとする意識のみなぎった、ホレボレする一冊です。
ここに描かれたところを読むと、たしかに直木賞受賞作『赤い雪』は、文壇っていうか文学仲間、文学グループの基盤がなければ生まれていないシロモノでした。あまりにも文壇に密着した直木賞の世界、っていう感じがあり、そこが榛葉英治さんの直木賞受賞に古くささを感じる部分なのかもしれません。
まず榛葉さんは、「渦」を発掘してくれた杉森久英さんに誘われて、『下界』の同人になります。
「私は「下界」という同人誌の同人になっていた。確か杉森久英の発案で、長老格の和田芳恵を中心にあつまったグループで、資金の一部は海音寺潮五郎が出してくれた。」(前掲『八十年 現身の記』「九章 妻の服毒、自宅売却の苦境」より)
どうやらこの糸が、直木賞へと通じていきます。
昭和33年/1958年、年が明けてすぐ、満洲から引き揚げて以来温めていた題材をもとに小説を書きます。2月末に脱稿。『面白倶楽部』の編集者を通じて講談社に持ち込んだものの、ハナシはまとまらず、返されてしまいます。
「海音寺先生の世話で、神楽坂にある小出版社の和同出版社に渡した。」(同)
講談社ならまだしも、和同出版社からの発刊です。そんなに評判になるわけもありません。しかしこれが、昭和33年/1958年7月、直木賞の候補作に選ばれます。
海音寺潮五郎さんが推薦したからでした。
「家にいては落着かないので、多摩川へ鮎釣りにいった。夕方、もどると、読売文化部の竹内良夫から何度も電話があったそうで、その連絡先に電話をかけた。そのすすめで、選考委員の海音寺潮五郎を訪ねることにきまった。
つぎの日に、経堂の海音寺邸へいった。候補になったのは、先生の推薦であることが判った。」(同書「十章 田園生活・直木賞受賞」より)
選考委員の紹介で出版までこぎつけ、選考委員の推薦で候補作になる。がっつり旧態依然のパターンです。
しかも、この先がまだあるのです。読売の竹内良夫さんが、榛葉さんに変な知恵をつけちゃうのです。
「竹内がほかの選考委員も訪ねたほうがいいと言う。事前運動じみて気はすすまないが、竹内が「同じ候補になった草川俊は、委員のあいだを歩いている」というので、その気になった。」(同)
そして榛葉さんは、律儀に中山義秀と吉川英治の自宅まで挨拶に行っちゃいます。竹内よ、おまえは『大いなる助走』の直木賞世話人か! と思わずツッコミたくなりました。
こんな榛葉さんの受賞、泥くさいですか? 作品一本勝負じゃなくて、受賞にはウラのウラがある感じで、馬鹿バカしいですか?
ええ、そうです。これが直木賞の一端です。それで榛葉英治さんは直木賞作家として、30年以上、作家生活を続けました。
「「自分乍らに生きる悔いなき人生」
頼まれる色紙に書いたりするが、悔いなき人生どころか、私の人生は後悔することばかりだ。(引用者中略)
私は中間雑誌といわれる雑誌に、これまで数百篇の小説を書いた。心をこめて書いた作品も多い。しかし単行本にしなければ、残らないだろう……。」(同書「十二章 八十歳の賀」より)
いいえ、榛葉さん。あなたの直木賞受賞作『赤い雪』ですら残っていませんので、ご安心ください。……って冗談です。ワタクシはあなたの、文学賞に翻弄されたデビュー10年間と、その後の地味な歩みが、かぎりなく好きです。
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