芦原すなお(第105回 平成3年/1991年上半期受賞) これ一作だけで、あとは書かなくてもいい、とまで言わしめた。
芦原すなお。『青春デンデケデケデケ』(平成3年/1991年1月・河出書房新社刊)で初候補、そのまま受賞。『スサノオ自伝』でのデビューから4年。41歳。
昭和54年/1979年のことです。30歳の男が、ある文芸誌の新人賞を受賞しました。村上春樹「風の歌を聴け」。
かつて彼と同じ大学、同じクラスに通っていた男がいました。同じく30歳付近。何か小説でも書きたいなあと思い始めていたころだそうです。村上春樹の受賞を知り、その作品を読んで、大きな衝撃を受けた、とのちになって語っています。
芦原すなおさんです。
「幼い頃から、自分には何かが創れる筈だ、という気持は、ずっと抱き続けてきた。そして、三十になるあたりから、ようやく文章の面白さというようなことも解りかけてきた。小説も、むしろ以前よりも読んで面白く感じるようになってきた。自分でも書いてみたくなってきた。(引用者中略)
そんなある日、新聞で、大学時代同じクラスだった村上春樹君が『群像』の新人賞をとったという記事を読んだ。びっくりした。そして、その作品を読み、出来ばえのあざやかで見事なのにまたびっくりした。我をかえりみて、こりゃいかん、と思った。ぼくは一体何をやってんだろう!?
本腰を入れて小説を書き始めたのは、それからしばらくしてからのことである。」(『オール讀物』平成3年/1991年9月号 芦原すなお「遊びをせむとや、たわぶれせむとや」より)
漠然と小説を書きたいなあと思っている。そのタイミングで、知り合いが新人賞をとったりして、しかもすげえ高い評価を受けて、一気に有力新人扱いされる。俄然、みずからのやる気も湧く。……みたいな経験をされた方は、芦原さん以外にもたぶんたくさんいることでしょう。
妄想のなかでふくらむ「おのれの壮大なデビュー作」。そこで芦原さんが偉かったのは、900枚あまりの長篇を5年をかけてきちんと書き切ったことでした。この難関を乗り越えたことが、のちに第二作へとつながっていきます。
苦しいとき、目標があいまいなとき、やめずに続けることの、ああ何と難しくて尊いことよ。
「この作品が仕上げられないようなら、本当に自分に愛想が尽きてしまうだろう、というような一種の意地というか、張りつめた気持もあった。
(引用者中略)真剣に打ち込んで書いた最初の作品は、かくして思いがけぬ長編となった。自分の中にこれほどの根気があったのを知って、本当に嬉しかった。
それから原稿を、以前アルバイトをした時に知り合った編集者に読んでもらった。彼が「よし、本にしよう」と言ってくれたときは飛び上がりそうになった。そして半年後、『スサノオ自伝』は集英社から刊行された。あの時の感激は生涯忘れられないだろう。」(同)
モッてるよなあ、芦原さん。知り合いに編集者がいて、その編集者に「本にしよう」と言ってもらえる星のめぐり合わせ。『スサノオ自伝』は出版されました。……ただ、せっかく大手の版元から出してもらっても、「売れる」領域まで行くかは別問題です。芦原さんのデビュー作はさほど話題になることもなく、無名の新人が一冊ぽっきり変わった小説を出した、ってところで終わってしまいました。
そうして書かれた二作目の小説。こちらも前作同様、当てもなく書きはじめ、二年をかけて800枚弱。かなりの長さです。
これをまた出版社に持ち込んだのかどうか、そこら辺はわかりませんが、一作目のときと違う気持ちが、芦原さんの頭にはあったようです。いわく、「できるだけ多くの人に読んでもらいたい」。ずいぶん『スサノオ自伝』は売れなかったのかな、と思わされちゃいます。
「書いたものはぜひ世に出したい。そして、できるだけ多くの人に読んでもらいたい。ではどうやって出せばいいのかと、あれこれ考えて、結局、河出書房新社の「文藝賞」に応募することにしました。」(平成7年/1995年4月・作品社刊 芦原すなお・著『私家版青春デンデケデケデケ』「あとがき」より)
なんと絶妙なチョイスだ!と感心しないわけにはいきません。「文藝賞」を選択するなんて。
もしも、あの「青春デンデケデケデケ」が、一作目と同様に唐突にどこかの出版社から出された無冠の小説だったら。または、エンタメがこぞって寄せられるような新人賞での受賞作だったら。……こんな仮定をすることに何の意味もない、と正論を述べたいところではありますが、いやそんな正論を阻むくらい、「青春デンデケデケデケ」の受け入れられ方は、絶妙なのでした。
「文藝賞」のネームバリューに、ノスタルジック性満載の青春小説、が掛け合わさって、この小説は発表当初から一気に世の中に広まったのでした。
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