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2011年6月19日 (日)

司馬遼太郎(第42回 昭和34年/1959年下半期受賞) 吉川英治がどこまで本気で授賞に反対したのかは、もはや藪の中。

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司馬遼太郎。『梟の城』(昭和34年/1959年9月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「ペルシャの幻術師」でのデビューから3年半。36歳。

 いきなりの巨人です。巨人ってことはつまり、有象無象の周囲の人たちが、ありとあらゆる観点から調べ尽くし、評し尽くし、取り上げてきた作家だということです。

 生前から本を出せばたちまち売れるベストセラー作家。周辺の人たちを愛し愛され、死んでのちもその名は忘れられることもなく、さらに新たなファン層を獲得しつづけ、いまだ関連書籍もひっきりなしに市場に現れる大にぎわい。

 直木賞作家の鑑です。もとい。大衆作家の鑑です。

 そんな司馬さんが直木賞をとるまでのなかで、今日は二つの時期に絞って、ハナシを進めたいと思います。

■『近代説話』創刊準備(昭和31年/1956年)

 司馬さんのデビューは「ペルシャの幻術師」で講談倶楽部賞受賞、ってことになっています。昭和31年/1956年2月のことでした。

 ではそもそも、なぜ産経新聞記者の福田定一が講談倶楽部賞に小説を応募したのか。と言いますと、当人から他人まで含めてじつに、諸説が入り乱れています。少しまとめておきましょう。いや、逆にかき混ぜちゃうことになるかも。

 彼の応募までの出来事として、以下のような事柄があったと言われています。

  • 福田(司馬)と成田有恒(寺内大吉)が大阪で飲んだときに、同人誌設立のハナシが持ち上がった。
  • 福田は、同人誌のような文学亡者たちの集まりには興味がなかった。
  • 成田は、福田に小説を書かせるために、何種類かの懸賞小説の応募要項を送ってやった。
  • そのうち一番締め切りの早かった講談倶楽部賞向けに、福田は二晩かけて短篇を書いた。

 まずはご本人の弁です。

「小説を書けと勧めてくれたのは成田有恒君でした。(引用者中略)大阪へやってきた彼と一杯飲みまして、こんなにおもしろい人間はないとおもいました。「あんた小説書けや」といわれた。「しかし同人雑誌はいやだし……」というと、「世の中には懸賞小説というものがあるじゃないか」といってくれたのが小説を書くキッカケといえばそうですね。

 親切な人で、彼は東京に帰ると、さっそくあらゆる懸賞小説の応募規定を切り抜いて送ってくれたんです。そのなかで一番締切りの早いのが「講談倶楽部賞」で、二晩で「ペルシャの幻術師」を書きました。」(昭和49年/1974年4月・文藝春秋刊『司馬遼太郎全集32』「年譜」より)

 次に、磯貝勝太郎さんにお出で願います。司馬さんのデビュー前後の逸話にもお詳しい方です。司馬さん本人の述懐にもまして、具体性に富んでいます。東京にいたユーモア作家クラブ所属の作家、大平陽介なる新たな登場人物まで出てきて、興味ぶかいことこのうえありません。

(引用者注:「ペルシャの幻術師」を)書きあげたときの心境は、自作ながらおもしろい、とおもう一方で、落選は一〇〇だと覚悟は決めており、自信と不安があいなかばするという複雑な気持ちであった。書き終えて、原稿を大平陽介に送り、読んだ上で、講談社へ転送してほしい、と依頼した。

「ペルシャの幻術師」は、「講談倶楽部賞」に応募するため書いたのである。懸賞小説を書いてみる気持ちになったのは、寺内大吉がすすめたからだ。(引用者中略)

 一九五三年(昭和二十八年)ごろのある夜、大阪の桜橋の交叉点に立って、司馬遼太郎と赤信号を待つあいだに、寺内が、

「同人雑誌をやろうか」

 と、はなしをもちかけると、

「世にいう同人雑誌なら、いややなあ」

 といって、乗り気がない態度をしめしたという。(引用者中略)

 数日後、寺内から封書がとどいたので、開けてみると、同人雑誌が嫌いならば、世の中には懸賞小説というものもあるから、入選して、名を売っておいたほうがいい、という趣旨の手紙と、各雑誌の懸賞広告が入っていた。その懸賞広告のなかで、もっとも締め切りの早いのが『講談倶楽部』だった。送り手の温かい心にこたえるために、二晩で書きあげたのである。」(平成13年/2001年2月・日本放送出版協会刊 磯貝勝太郎・著『司馬遼太郎の風音』「第I部 司馬遼太郎という物語」より)

 磯貝さんの司馬エピソードは、具体味に厚くて面白くて、また参考になります。でも、うーん、引用した箇所は、ずいぶん無理のあるストーリー展開じゃありませんこと? 昭和28年/1953年ごろの会話から数日で、最も締切りの早いのが昭和31年/1956年度の講談倶楽部賞、ってどういうことですの?

 もうひとつ、『新聞記者司馬遼太郎』からも文章を拝借しましょう。ここでは、「ペルシャの幻術師」も講談倶楽部賞応募も、同人誌発刊の案が前提として生まれたものだった、ってハナシになっています。

「「同人雑誌をやろう」と言い出した寺内大吉は、後には引かない。(引用者中略)ついに司馬も折れて、お互いの周辺にいる連中を集めようということになり、同人誌刊行会結成の初会合を開いた。昭和三十一年二月である。(引用者中略)

 同人にも一つの基準をつくった。ただの文学の愛好者の集まりではなく、あくまでプロをめざすという目的をはっきりさせるため、無名でも懸賞小説に入選していれば参加を認めよう、ということにした。

 ところが、自分(引用者注:司馬のこと)には入選歴がない。そのため急ぎ応募したのが講談倶楽部賞だったのである。これで同人の資格を得たのだから、受賞の喜びもわかろうというものだ。」(平成12年/2000年2月・産経新聞ニュースサービス刊、扶桑社発売『新聞記者司馬遼太郎』「第5章 作家への助走」より)

 なるほど。そうだったんだ。

 ……ところがです。このあたりの経緯を、したり顔で紹介するワタクシのような人間の頬を張り倒す人たちがいます。それはだれか。『近代説話』同人のみなさんです。

 ん? 『近代説話』同人って……。つまり、当の登場人物のみなさん、こぞって回想を自分なりに面白おかしく改変して語るクセをお持ちなのです。さすが「説話」を誌名に選ぶ人たちなだけのことはありますなあ。

 たとえば、寺内大吉さん。本名・成田有恒さん。これまで引用してきた司馬デビューの経緯を根底からくつがえすようなことおっしゃっていますよ、よくお聞きください。

「東京で私が盛んに懸賞小説をやっているのに刺激されてか、福田定一(司馬遼太郎)がこつこつ懸賞のための小説を書いていた。「ペルシャの幻術師」という大変風変わりな作品を送ってきた。私は一読して、これはイケルと信じた。すぐに講談倶楽部賞の募集規定を貼りつけて原稿を送り返した。司馬遼太郎というペンネームでそのまま「講談倶楽部」へ投じた。」(平成16年/2004年9月・大正大学出版会刊 寺内大吉・永井路子・著『史脈瑞應 「近代説話」からの遍路』「第1章 寺内大吉の生い立ちから「近代説話」まで」より)

 ええっ!? 言うに事欠いて、司馬さんのほうが寺内さんの応募活動に刺激を受けて、みずから小説を書きだした、ですと? あなたがこの世界に誘い込んだんじゃなかったんですか。

 さらに。

「昭和三十年(一九五五)の冬、私は司馬遼太郎と夜の道頓堀を歩いていた。(引用者中略)

 「同人誌をやろうや」司馬が言い出した

 「うん、やろうか」(引用者中略)

 話はすらすらとまとまった。お互いの周囲にいる若手の文筆家を糾合することになった。」(同 太字・下線は引用者によるもの)

 ムチャクチャですがな。うおう。いったい、だれの言葉を信用したらいいっていうんだあ。

          ○

■『梟の城』直木賞受賞(昭和35年/1960年)

 だれがどの程度正しいことを証言しているかわかりません。ゾクゾクしてくる展開ですね。

 ただ、仮に間違ったことが書かれている文章があったとしても、ないがしろにできない魅力が、そこにはあります。資料探索の醍醐味と言えましょう。

 昭和35年/1960年。司馬さんは『梟の城』ではじめて直木賞候補になります。じっさい、その周辺の事柄にも、さまざまな証言が渦巻いていて、ワタクシたちの目をくらましてくれるのです。

 このときのハナシにも、まずは、ほぼ揺るがしがたい前提があります。先輩作家、海音寺潮五郎さんが、新人司馬さんの作品にぞっこんだった、って事実です。

 これはもう間違いのないところでしょう。ひとつだけ、直木賞関連エピソードをご紹介しておきます。司馬さんが講談倶楽部賞を受賞してまもなく、『近代説話』に発表した短編「戈壁の匈奴」(昭和32年/1957年5月)を海音寺さんが読んで、いたく感動し、直木賞候補に推薦しようと思ったのだそうです。

「「戈壁の匈奴」を読んで、大いに感動した海音寺潮五郎は、直木賞の受賞作になると確信し、当時、直木賞選考委員だったので、選考会に推薦しようとおもった。だが、日本の作家は、日本が舞台でなく、日本人が主人公でない作品を好まないため推しても落ちるかもしれないと考えて、見送ってしまった。彼が確信したごとく、この短篇は直木賞に価する作品であることはいうまでもない。」(平成13年/2001年2月・文藝春秋/文春文庫 司馬遼太郎・著『ペルシャの幻術師』 磯貝勝太郎「解説」より)

 たしかに。「日本が舞台でなく、日本人が主人公でない作品を好まない」って空気はあったでしょうねえ。

 「ペルシャの幻術師」も含め、司馬さんデビュー前後に、海音寺潮五郎さんが果たした役割は、そりゃ重大なものでした。この件については、海音寺作品を愛してやまないモモタさんが「海音寺潮五郎応援サイト~塵壺(ちりつぼ)~」で紹介されています(コチラコチラ)。海音寺さんがいなければ、司馬遼太郎のデビューはなかった、と言っても過言じゃありません。

 海音寺さんは、『梟の城』も直木賞候補になる前に読んで、お褒めの手紙を司馬さんに送ったりしています。昭和35年/1960年1月、この作品が第42回の候補作になるや、もちろん直木賞に推しました。

 さあ、ここからが伝聞情報となります。

 直木賞選考会っていうのは昔も今も非公開です。司会の『オール讀物』編集長はじめ、会場に出入りを許されている文春社員も、その模様は絶対口外してはならじ、と決められている密室協議です。

 ですので、その選考模様は、当の選考委員たちが書く選評、ならびに彼らの回想文ぐらいからしか知ることができません。

 同時受賞の戸板康二「團十郎切腹事件」その他、とはちがい、『梟の城』はほぼ出席した委員みなが高得点をつけ、難もなく決まった。と見立てる向きもありますが、そのいっぽうで、

「『梟の城』が直木賞の選考会の席上で審査されたとき、吉川英治は作者が才気走って、歴史の勉強が不足していると指摘したため受賞を逸するかとおもわれたが、海音寺が人を酔わせる才筆は、吉川英治の初期の作品をほうふつさせると、強く主張し、当選作にしてしまった。」(平成19年/2007年12月・勉誠出版刊 志村有弘・編『司馬遼太郎事典』「海音寺潮五郎」より 執筆担当:磯貝勝太郎)

 みたいな一件があった、と磯貝さんは語っています。「吉川英治は授賞に難色をしめし、海音寺潮五郎が吉川を説得した」。これがいまでは定説、と言っていいでしょう。

 ええと、吉川英治さんのハナシの前に。もう一度、寺内大吉さんに回想していただきましょう。どこまで本当かわかりませんよ。でも、やっぱり講談倶楽部賞といい直木賞といい、司馬さんのデビュー期には、この方の陰ひなたの後押しは絶大だったんだろうな、という。

「直木賞というのもいろいろ裏がありまして、司馬君の『梟の城』が候補に上っていたでしょう。それで、審査の二、三日前にたまたま源氏鶏太さんと一緒になって、源氏さんの家は渋谷ですから、タクシーで送っていきました。送っていったら、ちょっと寄れと言う。源氏さんのうちに寄った。源氏さんは、『梟の城』というのは、直木賞に値するかと問いかけてくる。(引用者中略)値しますよと言った。「おれはどうも感心しないねえ」と源氏さん。これはまずいと思って、とうとうと『梟の城』のどこがどうだと、司馬君はなぜああいう小説を書いたかというところから始めて、司馬君は私にこう言って、実際にそれを小説の中に実現したことを話しました。それは朝日新聞と毎日新聞のことで、その当時は毎日と朝日が、これ二大新聞。ここの社会部の特ダネの作り方が対照的なんだ。そのことを描こうとしたと言った。(引用者中略)そうしたら、源氏さん、「よし、もう一度読み直してみよう」と。そういう視点からもう一度読み直して、源氏さんは本当に司馬君の作品を推してくれたんです。」(前掲『史伝瑞應』「第4章 文学の登竜門―懸賞小説と直木賞(対談)」より)

 源氏さんが正面切って推してくれたかはマユツバです。しかしともかく、『梟の城』に好意をもって選考会にのぞむきっかけをつくったのは、寺内さんだったらしいと。源氏さんの一票があるのとないのとでは、大きく違います。おそらく。

 第42回選考会。どんな様子だったかは、もうわかりませんが、直後の『週刊文春』が取り上げていますので参考にさせてもらいましょう。昭和35年/1960年2月1日号「芥川賞・直木賞決定の夜 風変りな受賞者 直木賞作家戸板と司馬の誕生」です。

 候補作のうち、最後に残ったのは4篇。水上勉『霧と影』、戸板康二「團十郎切腹事件」、司馬遼太郎『梟の城』、杉森久英『黄色のバット』でした。

 『梟の城』に関しては吉川英治が反対意見を述べた。海音寺潮五郎が反論した。といったあたりのやりとりは、こう紹介されています。

「吉川委員「しかし、どうも生ま煮えだなあ。引例が学者じみているし、ロマンならロマンにするで徹底すればよかった」

(引用者中略)

源氏委員「司馬氏の作品は、そうとうに肩をいからして書いたものだな、その点あとあと書き続けられるか、どうか」

中山義秀委員「とにかく、リアリティが感じられないですよ」

 という疑問派に、吉川委員は一々うなずいて賛同していたが海音寺委員の、

「そうですかなあ。わたしは吉川先生の若いころの作品を読んだときのような、ふとした安心というか、一読清々しい気持にさせられましたよ」

 という一言に吉川委員も苦笑。(引用者中略)

 一篇は、票決をとると、司馬遼太郎氏になりそうである。吉川委員とても、数を相手に、どうしても論パクするほどのことではない。

 ここで、戸板康二氏の“團十郎”が論争戦線にカム・バック、結局、川口(引用者注:川口松太郎委員の最初の反対は、本質的な反対ではない、吉川委員が、司馬遼太郎氏に反対したほどのニュアンスなのだ、ということで雰囲気がやわらぎ、

「それでは、もう一人を戸板氏に上げようじゃないか」」(『週刊文春』昭和35年/1960年2月1日号より)

 選考会の空気っつうのは、正直、外野の人間にはわからないことだらけです。しかも、当時の直木賞は、いまと違って、安易な多数決を嫌う傾向にあったことが知られています。選考委員の重鎮である吉川さんが頑強に反対すれば、ほかの委員も同調して授賞を見送る、なんてことも、なかったとは言い切れません。

 言い切れないんですが。

 にしては、このころ、吉川英治さんが推したものが平気で落選しているんですよねえ。逆に吉川さんが疑義を呈した作品だって、受賞していたりもするし。池波正太郎さん(第43回)に対して、吉川さんはあまり高い点をつけませんでした。でも受賞。第40回には、多岐川恭さんの授賞に反対して、野口冨士男さんを推しています。結果は吉川さんの意向どおりではありませんでした。

 吉川英治さんが反対したせいで、司馬作品の授賞も危なかった。っつう見解はどこまで正しいのか。意外にそんなことないんじゃないのか。……と推察できるんですけど、どうなんでしょう。

 「重鎮がウンと言わなきゃ直木賞を受賞できない」っていうのは、あれなんでしょうか。菊池寛さんのいた戦前のころから、何となくそういう感じはあったけど、のちに検証することができない、資料探索者泣かせの「時代の空気感」なんでしょうか。

          ○

 人の回想文のなかには、多分に虚構や願望や空想がまぎれ込んでいるものです。おそらく、当人の回想ですらそうでしょう。

 『新聞記者司馬遼太郎』の「あとがきにかえて」で、石井英夫さんは、こんな推察を展開しています。司馬さん自身の手による回想文のなかに、事実と異なる点があるらしい、と指摘したのち、

「司馬さんはなぜ間違えて書いたのだろうか。ささいな思い違いという見方もできないことはない。しかし、どうでもいいようなことのようで、実はどうでもよくないことに思えるのだ。(引用者中略)

「新聞は面白くなければならない。記事は興味ぶかく書かれなければならない」――司馬さんはそう説いていたという。」(前掲『新聞記者司馬遼太郎』より)

 自然とハナシが面白くなるように脚色しちゃったんでしょう、と。

 直木賞をとった小説、とらない小説、そこら辺の大ボラ吹き小説を読むのがワタクシは何より好きです。なぜ、たかが小説好きの人間が、受賞前後のエピソードやらを集めて、正しそうだな、間違っているな、と調べて飽きないか。それはもう、小説のもつ空想世界と、同じレベルの空想世界が、事実を書いたはずの資料のなかにも色濃く漂っているからなんです。

 そしてこれから一年間。直木賞受賞作家の、受賞前後のあれこれを正誤に惑わされながらもてあそんでいこうと思います。ああ、幸せ。

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初候補で受賞した作家列伝」カテゴリの記事

コメント

モモタです。こんばんは。

私のブログを取り上げて頂いてありがとうございます。これを機にブログの当該ページを読み直しましたが、何ともお恥ずかしい限りです。ネットでの情報発信は世界中に向けて行われているわけですから、迂闊なことは書けませんね。もちろん、根も葉もないことを書いているつもりはありませんが、こうして著名なサイトに取り上げて頂くと、気持ちが引き締まります。

ところで、少し前に海音寺潮五郎さんの最初期の作品をいくつか(特に短編を)読む機会があったのですが、海音寺さんがなぜ司馬さんの作品を高評価したのか分かる気がしました。
海音寺さんが司馬さんの作品を評した「幻覚美を巧みに描き、大衆文学の幅をひろげる作品だ」というのは、そのまま海音寺さんが自身の初期作品で到達したかった境地だったのではないだろうかという印象です。たぶん、海音寺さんは自分をしのぐ才能の持ち主が現れたことを明確に認識したと思います。

これは私の勝手な感想ですが、大きくは間違っていないという確信があります。などと言うと多くの方に笑われそうですね。いちファンの戯言とご笑覧下さい。

投稿: モモタ | 2011年6月20日 (月) 19時51分

モモタさん、

コメントいただきまして恐縮です。

自分の言いたかった思いが、きちんとエントリーに反映されているか、いつもヒヤヒヤなのですが、
海音寺潮五郎さんがいてくれなければ司馬遼太郎さんのデビューはなかった、という大前提のなかで、
それをネットに書き残してくださっているモモタさんは、素晴らしいなあ、見習いたいなあ、と思っているところです。

ワタクシも「多くの方に嘲笑されるブログを書いていること」では人後に落ちない自覚はありますが、
みずからの信じたことを書いて、人に笑われて、でも新たな知見がまたどこかからか生まれる、
そんなふうになればイイですね。

投稿: P.L.B. | 2011年6月20日 (月) 21時36分

まぁー、直木賞に関するブログだから仕方ないけど、漱石と並んで偉大な国民作家について、この程度にしか語れないのかい?

司馬さんなら、色々、資料、残っているはずだけど。
例えば、彼の特異な才能、直観像資質により、凄まじい量の資料を読みほぐしたとか。

なんか、保守派連中のおまちゃにされてるけど、彼らは、司馬が、その作品の中で、新選組の事を、単に“人斬り集団”と切って捨てたことを知ってるのかい?

少なくとも、名前の由来くらい、書けば?

情けないブロガー。

今のつまらん保守派や、勿論、薄っぺらなサヨクと呼ばれてる連中が、つべこべ言えるような作家ではなく、もっと偉大な作家なんだけど。

追記)

それから、ごくついでに。
人を批判する前に、もっと勉強して下さい。

どこかで、あなたに、とても不愉快な気分を味わった者より。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 10時59分

君、まだ俺が誰が分からんらみたいですね。

他人のふんどしでサイト、作って・・・。
まぁ、その煩雑さだけは認めてやろう。

幼稚園の絵日記程度の文章か何か、こんなの文とも呼びたくないのだが、絵文字でもないし・・・

それで、よく俺に・・・、度胸だけは、認めてあげよう。

でも、普通、無礼なことをすれば謝罪するものだが・・・

ほんと、幼稚園でもう一度、礼儀作法とか習いなおした方が・・・

まったく、不愉快。

まさか、直木賞の専門家気取り??
これで??

そこまでは、さすがに書いていないようだ。
ただ、そう言わんばかりの態度だったけど・・。

君が、謝罪すれば、俺も大島と同じ武士の家系だ。
あっさり許してやろうと思っていたのだが、下衆野郎は、どこまで行っても下衆野郎だ。

ただ、こんな絵日記を、飾られると非常に不愉快なんだ。

僕は、文学の専門家でもなんでもないのだが・・・。
まったく、可哀想な奴。

井の中の蛙。
違うなぁー。
井・・・、もっとずっとずっと狭い。
蛙・・・、そんな可愛いものでもない。

ん~、いい比喩、思いつかない。
残念。


こんな程度を、崇める人々。
まったく、世も末だなぁ。

何か、君は僕のことを気遣ってくれているようだが、心配ご無用。
こんな絵日記、なぞるのにまったく時間、とられないから。

暇つぶしに、君が態度を改めるまで、色々、アドバイスしてあげよう。

ある程度の知性がある人間なら、見当がつくと思ったのだが・・・。

少し工夫しただけのだが、僕にとっては。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 15時45分

一つだけ、ヒントをくれてやろう。

人間は、多面的な存在なんだ。
もしかしてもしかすると、こういう当たり前のことを、大衆文学だけを、どうも読んでいるらしい君には、もしかすると理解出来ないのかも知れない。

ただ、どうだろう。
最近のとも言わずに、松本清張も人間を深く掘り下げて、描いていたはずのだが。

何か、こういうことを書いて、また、君にイチイチ、指摘されるのは、非常に不愉快なのだが・・・。

吉本隆明という人物が、僕の学生時代、こういう当たり前のこと。
現代人は、会社、家で、顔を使い分けている・・・。

僕が言っている意味とは、少し違うのだが。

よくこういう当たり前のことを、恥ずかしげもなく、大声で言うなぁ・・・。
恥ずかしくないんだろうか?

間違っていたら、君が訂正してくれたまえ。
こんなことを、一つ一つ、確かめる時間はないんだ、さすがに我々は。

まあ、もはや大衆文学というフィールドは、もはや僕の関知しないところなのだが。

僕も、体育会系で育ったフェアプレーを愛する種類の人間の一人だ。
君の、どうも得意なのかな?
大衆文学で、勝負してやろう。

少し、ヒント、多すぎたのだろうか?

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 16時16分

ほぅ。
落ちた人間を・・・

君、もしかすると単なる権威主義者・・・・のようだ。
あくまでも、直木賞に拘る態度。

普通、本読みという奴は、自分にとって意味のある作品。
それが、他人からどう言われようと・・・が、意味があるはずなのだが。

君の意味のない、しかし、君は、さも意味があるように語るように僕には見えるツイッターというやつの、つぶやきを晒すのは、よしたほうがいいと思うのだが。

まぁ、余計なおっせいかもしれない。

メールとか便利な時代なんだけど、僕のもとには、何も届かないんだが・・・。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 16時31分

さすがに、僕は君なんかと違って、言葉を考えて書くから、君の記号の戯れなんかは、数秒で読めてしまうのだが、書くのには、時間が取られてしまう。

それに、君に限らず、文章全体の意ではなく、単語に拘る人々ばかりのようだ。

一旦、退散することにする。

では、また。

投稿: | 2011年9月 3日 (土) 16時35分

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