女流文学賞その他 「女流」ってくくりが時代遅れだ何だ、とそっちに目を奪われているうちに、なぜか直木賞系の賞になっていました。
これほどまでに文学賞ファンを勇気づけてくれる賞があったでしょうか。「女流文学賞」その他、です。その他、がミソです。
勇気づけてくれる、というのは他でもありません。
文学賞って事業は、お金がかかります。手間がかかります。その割に、出版界隈をのぞけば、事業に対して喝采を送ってくれる人は少数です。ほんのちょっとしたことで、すぐやめることができます。やめても、世間からはあまり文句は出ません。世の中は粛々と未来に進んでいきます。
それで「女流文学賞」系の賞。さかのぼれば、その起源は戦中でした。以後、何度も危機を迎えます。そのつど、運営母体を変えたり、賞名や対象を変えたり……。で、2011年/平成23年現在、いまもなお、その系統を継ぐ賞が残っているのですよ。おお、感動の歴史。
まあ、いまの「中央公論文芸賞」に、戦中の「一葉賞」をしのばせる何が残っているのだ、と問われたら、身もふたもないんですけど。
昭和18年/1943年創設の「一葉賞」は、いわば女性版芥川賞、の意味合いが濃くありました。
「一葉賞規程成る
女流文学者委員会
(引用者注:昭和18年/1943年)三月の女流文学者委員会は十八日午後二時から本会々議室で、吉屋信子、宇野千代、板垣直子、円地文子、四賀光子、齋藤史、若山喜志子、阿部静枝、関みさを、江間章子、中村汀女、真杉静枝、永瀬清子の委員に甲賀(引用者注:甲賀三郎)総務部長、河上(引用者注:河上徹太郎)審査部長等出席のもとに開会、(引用者中略)既報の一葉賞の規程条に付いて検討した。一、範囲 女流小説家の新人(芥川賞より今少し無名の人、小説家に限らず一般応募は無しにする)
一、選衡方法 同人雑誌より選出、女流文学者会員の推薦
一、期間 第一回発表十九年四月とし、昭和十八年中に発表執筆の作品より選ぶ
一、賞金 一名五百円、二、三名入賞差支なし
一、選者 『選衡方法』中第一項第二項に属する者も約十名以上共に女流文学者会員より選出、最後に全体の決定委員を男子作家も加え数名選出して之に充つ」(『日本学藝新聞』昭和18年/1943年3月15日 二面より 太字・下線は引用者による)
女流文学、なるくくりで文学賞を設定しちゃおうぜ、と言っています。
この発想は戦時中ならではだなあ。……と思わないでもないですが、いや、戦後平和になってから改めて仕切り直して、鎌倉文庫&女流文学者会で懲りずに賞をつくってしまうんですもの。
文学賞ちゅうのは、時に戦時下の象徴にもなり、時に平和の象徴にもなるという。ニクいなあ。
ともかく、せっかく樋口一葉の名を借りた賞だったのに、一回こっきりで中断(終了)。唯一の受賞者・辻村もと子の名前とともに、なんだか忌まわしい戦争を思い起こすようでイヤだわ。なんてことはなかったでしょうが、戦後は「女流文学者賞」などという、華のない賞名になってしまいます。
華がない、といいますか。インパクトに欠けるといいますか。
どうインパクトに欠けるのか。……この賞名、呼ぶ人によってマチマチなんです。賞名ひとつとっても、まともに正しく表現されないことが多い。文学賞としては、そうとう哀れな姿です。
「女流文学者会は、なんらかの形で、『婦人文庫』に協力するために、女流文学者賞を設定した。(引用者中略)賞は、正賞が記念品、副賞が一万円であった。それらの経済面は鎌倉文庫が受持った。(引用者中略)
女流文学者賞は、現在は女流文学賞となって続いているが、鎌倉文庫から出されたのは三回までで、第二回は網野菊の「金の棺」(昭和二十二年度)、第三回は林芙美子の「晩菊」(昭和二十三年度)である。」(昭和52年/1977年6月・中央公論社刊 巌谷大四・著『物語女流文壇史 下巻』「女流文学者会」より)
巌谷さんみたいに、当時の賞を「女流文学者賞」と呼ぶのは、おそらく昭和36年/1961年から中央公論社が引き継いだものと区別するため、つう理由が強いみたいです。現に『婦人文庫』がやっていた3回とも、誌面では「女流文学賞」として発表されていますしね。
その『婦人文庫』=鎌倉文庫が昭和24年/1949年に倒産。賞も中断を余儀なくされます。
しかし、女流文学者会の方々の、文学賞にかける情熱はすさまじく(?)、3年後には復活してしまうのです。
復活の回で吉屋信子さんが選ばれて、「これで純文学作家の仲間入りができた」と喜んだのは有名なおハナシです。当時はまだまだ、女流文学者賞は純文学の賞、と思われていたんですね。
しかし、賞名はあいかわらず混乱しています。当時の各新聞で使われた名称を挙げておきますと、「女流文学賞」や「女流文学者賞」や「日本女流文学者会賞」などなど。新聞記者がテキトーなのか、女流文学者会がテキトーなのか。
え? 正式な賞名なんてどうだっていいだろ、って声が聞こえてきそう。そんな悲しいこと言わないでください。文学賞だってそれぞれ立派な人格(ならぬ賞格)をもっているんですから。
さて、昭和36年/1961年にいたって女流文学者賞は、大きな事件に巻き込まれます。もとい。大きな事件を巻き起こします。賞存続の、三たびの危機です。
揉めごとの大好きな同志のみなさん。お待たせしました。内紛ゴトです。
「あれは、十四五年も前のことです、私は第何回目かの女流文学者賞の銓衡の席上で、或る揉めごとを引起し、そのとき限り、選者になっているのもご免だと言うので、二度と女流文学者会に、顔を見せなくなったりしたからでした。そんなことは、どんな賞の銓衡にもありがちなことで、冷静に考えれば、何でもなく済むことでしたのに、私はそうではなかったのです。
何でも、銓衡の最後のどん詰りになって、作品の題名は忘れましたが、芝木好子か倉橋由美子かと言うことになり、私はあくまで倉橋を推して譲りませんでした。満場一致を建て前とする賞だったものですから、出席している全会員にはかると、殆んど同点になり、まだ賛否をはっきり言わない大谷藤子によって、どちらかが入賞しそうになりました。「大谷さん、はっきり意見を言って下さい。いつでも、あなたの文学的な見方は、はっきりしてたじゃありませんか。」そう言って、まごまごしている大谷に迫ったりしたのです。そのときです。当時、女流文学者会の会長をしていた円地文子が、その私の顔を見ないようにして、「では、今回は芝木好子さんに決定と言うことにします。」と言いました。その一言で、芝木に決って了った瞬間、私は自分の意見が入れられなかった、と言うよりも、この決定が、文学的なことに関係のない、或るほかのことのためになされた、とそう思いました。」(昭和53年/1978年6月・中央公論社刊 宇野千代・著『宇野千代全集 第十二巻』所収「私の文学的回想記」より ―初出『東京新聞』夕刊 昭和47年/1972年1月22日「女流文学賞のもめ事」)
「文学的なことに関係のない」ことで文学賞が決まるなど、文学賞の基本のキです。宇野さんも「どんな賞の銓衡にもありがち」とおっしゃっています。当然のことです。しかし、このときの宇野さんは譲りませんでした。
で、これを機に女流文学者会による女流文学者賞は、歴史の幕を閉じることになります。
「この時、非常にもめた。いわゆる中央沿線派(佐多稲子、壺井栄等)は芝木好子の「湯葉」を推し、宇野千代、平林たい子、円地文子は、倉橋由美子の「パルタイ」を強力に推した。最後に会長である円地文子の裁断で二作に受賞と決ったのだが、その決定に不満を持った宇野千代が脱会すると言い出した。三宅艶子もこれに同調しようとした。その会場にたまたま『婦人公論』編集長の三枝佐枝子が居合せていて、その険悪な空気を見て、せっかくの女流文学者会が分裂しないためには、中央公論社が、女流文学者賞を引受けて、より公な、権威あるものにした方がいいと考え、嶋中鵬二社長に進言した。それが実現したわけである。」(前掲『物語女流文壇史』より)
選考会があったのは、昭和36年/1961年2月10日。その1か月後の3月8日には中央公論社が「女流文学賞」の設定を正式に発表する、というなかなかのスピード解決(?)でした。
しかし、ホッとしたのも束の間。このころにはすでに、女流文学賞が創設時から抱えている、アノ問題が、またぞろ顕在化してきたわけです。
要するに「わざわざ女流に限定して文学を評価する意味、あるの?」問題です。
○
中央公論社の「女流文学賞」が出発して1年後、由起しげ子さんがこんなことをつぶやきました。
「現在、女流文学者賞というものは婦人公論がかねてそういう賞を出していたのと一つになつたので、もう賞金調達の心配もないし、受賞作品も新聞に大きな広告が載るようになつた。これはしかし、他の文学賞と異り、作者が女性だという条件がついているところに私はいささか奇妙なものを感じるのだが、どうなのだろう。
(引用者中略)
男女別のない方の賞もいろんな方がもらつていられるのだから、その上にまた女性専用のものを設けるのは、或る意味では欲が深いし、また或意味ではすこし古めかしいのではないかと思うがどうであろうか。」(『群像』昭和37年/1962年8月号 由起しげ子「女流文学者というもの」より)
この発言を受けて、福田清人さんも反応しました。
「由起氏の説で若干面白いのは、女流作家という区別、特殊扱いをよした方が現代的だというのである。まことにその説の如く文学に男性も女性も純理論、文学の本質からみればありようがない。
そしてそういう説を唱える人が、今日あらわれたところ、明治・大正・昭和三代のあいだ日かげにあった女流の手による近代文学も、たいへん進展してきたと見られる発言として見ていいのかも知れない。私がこの課題で、一つの参考としてとらえたいのは、こうした発言をする女流作家が、すでに今日あるようになったという一点である。」(『国文学 解釈と鑑賞』昭和37年/1962年9月号「特集 現代女流作家の秘密」 福田清人「女流作家と近代日本文学」より)
それから40年弱も、えんえんと「女流文学」の看板を上げつづけ、21世紀に入ってようやくそんな賞をやめた、と知ったら、由起しげ子さんは苦笑いするでしょうか。ずいぶん遅いことねえと。
ええ、ええ。文学賞っつうのは、文学の評価とは別モノなんですよ。ごぞんじのとおり。そこが文学賞のエラいところです。
先に宇野千代さんも指摘していましたね。文学賞が「文学的なこととは関係ないこと」で決まる側面を。まさに女流作家でそれを体現した人がいます。紹介せねばなりますまい。
円地文子さんです。
円地文子と文学賞。このネタさえあれば、おそらく抱腹絶倒、聞くもナミダ語るもナミダの本が一冊できあがるはずだ。つうぐらいの方です。
瀬戸内寂聴さんも持ちネタの一つにしています。
「「賞はね、心の底から欲しがらないと来ませんよ。選者の私の作品が候補になった時、あたしはトイレに行くのをがまんして、自分の作品に賞が決るまで、ぜったい席を立たなかった。トイレなんかに行ってる間に賞は他の作品につくものです」
と確信をもって言われる。その頃、全く賞に恵まれない私の根性を叩きのめして鍛えてくれるためである。
私は円地さんのそんなことごとくが好きだった。」(平成21年/2009年5月・日本経済新聞出版社刊 瀬戸内寂聴・著『奇縁まんだら 続』「円地文子」より)
チャンスがあれば、文学賞に執着する円地おばあちゃん。ご自分でも言っております。「悪びれず」と。
「女流文学賞を頂いて、大変うれしく思って居ります。私は選考委員で同時に候補作品の作家でもある二重の立場を前にも二度経験して居りますので、悪びれずにありがたく今度の賞を頂くことができました。」(『婦人公論』昭和41年/1966年5月号「第五回『女流文学賞』決定発表」 円地文子「受賞の言葉」より)
このときの選評では、丹羽文雄さんが、谷崎潤一郎賞での円地委員の態度に触れて、
「第一回の谷崎潤一郎賞(引用者注:昭和40年/1965年)に円地さんは大分自信をもっていたようであるが、あのときは、いろいろと事情もあり、無理に下りてもらった。その埋め合わせができた。」(同号 丹羽文雄「女流文学賞にふさわしい『なまみこ物語』」より)
などと、ホッとされています。
谷崎賞のことに脱線しだすと長くなりそうなので、やめときますが、「谷崎潤一郎賞の全て」によれば、第5回(昭和44年/1969年)にいたって円地さん念願の受賞(であり授賞)。
当然、よそからは笑われています。たとえば立原正秋さんとか。
「伝えきくところによると、野間文藝賞に〈レイテ戦記〉が有力候補だったのに、大岡(引用者注:大岡昇平)氏は、自分がこの賞の選考委員である一事をもって候補をことわったという。当然のことである。自分の作品を自分が選んで賞をあたえる、こんな恥知らずなことが、大岡氏に出来るはずがない。ところが野間賞の選考委員達はまわりもちで自分達に賞をあたえている。いや、これはほかの文学賞も同じことで、先年は、ある文学賞のある女流選考委員が、自分の作品に賞をあたえた事実があった。そのとき別の委員が、選考委員の作品は授賞の対象からはずすべきである、と発言したところ、その女流委員は腹をたてて席をけって起ったという。こうなると、恥知らずとか醜いとかいうより滑稽である。」(昭和59年/1984年8月・角川書店刊 立原正秋・著『立原正秋全集 第二十四巻』所収「男性的人生論」「文化とは何か」より ―初出『潮』昭和47年/1972年3月号)
この辺の立原さんの記述は、誰がいつ何をしたのか、どこまで正確に書いているのか判然としないところがあります。ただまあ、立原さんにしたら、円地さんみたいな選考会への関わり方は、嘲笑の対象でしかなかったでしょう。
その後、女流文学賞は確実に年輪を重ねていきました。曽野綾子さんが断固受賞を拒否して、それに大岡昇平さんが拍手を送ったり、森茉莉さんが「女流文学賞は、あまり貰いたくない」と毒づいたり、林真理子さんが三度の候補いずれも落とされて傷ついたり……。
しかし常に、「とにかく女流に限る」という相当きつい足かせがハメられていました。なにしろ「女流作家の手になるもの」が絶対そして唯一の条件みたいなもんですから、対象にする作品も純文学だけではもたなくなったか、いっしょの土俵でエンターテインメントやノンフィクションやエッセイをも混ぜこぜにする、という無理を重ねていきます。
「受賞作にはいわゆる純文学寄りの作品もあれば、エンターテインメント系の作品もあり、候補作品が幅広いジャンルから選ばれていたこともわかります。ただし、昭和62年(1987)の第26回までは受賞作はすべて小説に限られていました。
その慣例が破られたのは、昭和63年(1988)、塩野七生『わが友マキアヴェッリ』が文学性の高いノンフィクションとして評価され、受賞したときでした。この頃から女流文学賞のカバーする領域はより広くなり、3年後には須賀敦子『ミラノ 霧の風景』がエッセイ集として初めて受賞することになりました。」(『婦人公論』平成18年/2006年4月7日号「女流文学賞と婦人公論」より)
以上は、受賞作でしか歴史を追っていない、かなり偏った賞史です。そりゃ『婦人公論』自身が語っているんですもんね、無理ないですか。
そして、とうとう平成12年/2000年、女流文学賞はこの世から消えてなくなります。
○
そもそも、中央公論社の経営が倒れる(平成10年/1998年)、そんな時代ですもの。悠長に文学賞なんか続けている場合じゃない、ってことでしょうか。
「宮尾登美子、高樹のぶ子、山田詠美ら錚錚(そうそう)たる作家が受賞してきた中央公論新社の「女流文学賞」は性別の枠を撤廃した。
昭和三十七年創設の女性文学賞だったが、三年前、女性を描く作品であれば作者の性別は問わないとして、「婦人公論文芸賞」に移行。同社は登竜門的な「女流新人賞」も主催していたが、いまは休眠状態としている。
河野通和・同社雑誌編集局長は「女流文学賞を創設したころとは違って、もやは女性抜きで文壇が考えられない時代になってきた。“女流”という言葉も時代がかっており、発展的に賞の形を変えた」と説明する。」(『産経新聞』平成16年/2004年5月24日「岐路に立つ女性文学賞 独自の感性…「意義ある」」より 署名:文化部・坂本英彰)
よくぞ、そこで賞をまるまるつぶさなかったよなあ。『婦人公論』の文学賞愛に、ほとほと頭が下がります。婦人公論文芸賞へと、「発展的に形を変え」たと。対象は「女性あるいは女性に関する問題を中心に据えた作品とその作家」となりました。
ただ、この段階で、女流文学賞みたいなもの、続けてくれればよかったのに、と思っていた人もいます。田辺聖子さんとか、山田詠美さんとかです。
「上野(引用者注:上野千鶴子) そうそう、私ね、今回、この『ゆめはるか吉屋信子』についてもお話をしたいと思ってきました。(引用者中略)私も、出された年度に、なにかの賞の対象になるかなと思って見てましたら、ウンともスンとも動きがなかった。なんで、こんなことになったんやろかと考えました。
結局、男は自分に関係あるものにしか興味がないんですねっていうことが分かります。女が興味を持ちそうなものは、自分たちの目に入らない。そういう感じがします。
田辺(引用者注:田辺聖子) そう。だから、たとえば恋愛小説分からないから、恋愛小説のいいのを取り逃がすんですよ。取り逃さないために、女流文学賞はあっていいんですよ。そうして、力のある子を上に引き上げてあげないといけません。男女一緒の賞にして男の目で選んだら、落ちこぼれるものは必ずあるんです。すごくいいものを持っている女流がね、どうしてもこぼれるのね。」(『論座』平成13年/2001年1月号「上野千鶴子が田辺聖子に聞く 「介護文学」の生まれる日」より)
そう言われると、女流文学賞、いずれ復活させたほうがいいかもなあ、と思わされたり。
「――女流文学賞は今、婦人公論文芸賞と名を変え、女性作家以外も対象になりましたね。
山田(引用者注:山田詠美) 私がいただいた時は中央公論社が好調の時だったから、副賞なんかも大変豪華で、私は恩恵に与ったという感じがする。だから言うんじゃないですが、女流文学賞はやめるべきではなかったと思います。女流作家に与えるのは男女差別じゃなくて、単なる賞としてのカテゴライズでしょう。もちろん、それを拒否するのも、その女性作家のあり方です。両方ありの方が自由な気がする。」(『文學界』平成15年/2003年7月号 山田詠美「新選考委員ロング・インタビュー 楽しい芥川賞?」より)
そうそう。文学賞は、ちょっと苦しくても、わかりやすい縛りがあったほうが楽しいですよ。何でいまどき「女流」なんだ、って。これは文学に関するハナシではない、文学賞というそれはそれは豊かで別枠の事業なんだ、と胸はって続けていればよかったのに。
なにせ、新生・婦人公論文芸賞。冴えないこと甚だしい苦しみの5年間を過ごし、静かに終了。
ついに歩みを止めるか。と思いきや中央公論新社、やってくれました。一世一代のボケをかまします。
「中央公論新社 中央公論文芸賞を創設
中央公論新社は6日、中堅以上の作家のエンターテインメント作品を対象とした「中央公論文芸賞」を創設すると発表した。女性をテーマにした作品対象の「婦人公論文芸賞」は「中央公論文芸賞」に吸収・継承される。これまで「婦人公論文芸賞」の選考委員を務めていた渡辺淳一、林真理子、鹿島茂の各氏がそのまま「中央公論文芸賞」の選考委員となる。(引用者中略)
同社は1962年から続いた「女流文学賞」を01年から「婦人公論文芸賞」と名称を改めていたが、桐野夏生さんが受賞した前回限りで女性をテーマにした作品を顕彰するという歴史的役割を終えることになる。」(『毎日新聞』平成18年/2006年4月7日より)
選考委員の顔ぶれはそのまま。発表誌も『婦人公論』のまま。で、模様替えした賞が「中堅以上の作家のエンターテインメント作品を対象」? ぶははは、何だそりゃ。……って、全国ン万人の文学賞ファンがいっせいにツッコミを入れたのもうなずけます。
ああ。思い返せば一葉賞のころは「芥川賞より今少し無名」といった部分に目を向けていたんですよ。以来、世に揉まれ、喜びと恨みが交錯しながら60余年を経てみたら、中央公論文芸賞は、「直木賞をとった作家の次ステップ」に変貌していたと。
まさかなあ。「女流文学賞」系がまるっと全部、直木賞側の領域に組み込まれるとはなあ。バカっぽくて楽しいぞ、文学賞。まったく長生きはするもんです。
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コメント
受賞作,候補作のリンクがおかしいです.
投稿: KI | 2011年5月15日 (日) 23時57分
KIさん、
リンクミスの件、ご指摘ありがとうございます。
前の週の「新田次郎文学賞」のものをコピペして、そのままにしてしまっておりました……。
リンク貼り直しました。ありがとうございます。
投稿: P.L.B. | 2011年5月16日 (月) 01時43分