日本エッセイスト・クラブ賞 スタートの志は直木賞と似通っていたのに。やる人たちによって、こうも違ってくるとは。
「直木賞のライバル」シリーズ、始めたときからうすうす気づいてはいたんです。きっと、直木賞に何の関係もない賞まで取り上げることになるんだろうな、と。
日本エッセイスト・クラブ賞っていうのがあります。昭和27年/1952年創設。以来50数年、資金難をモノともせず一度も途切れることなく続いているエラい賞です。
清くて爽やかな日本エッセイスト・クラブ賞(以下、エッセイスト賞と略す)には悪いのですが、直木賞と比較させてください。直木賞が、汚くて濁っていると悪役よばわりされてきた経緯と、重ね合わせたいものですから。
昭和26年/1951年6月9日に日本エッセイスト・クラブが設立されました。中心メンバーは、新聞、雑誌、出版まわりでブイブイ活躍していた人たちでした。
翌年には早くも、自前の賞をつくることを決定しています。わずか1年後です。人が集まるところ、かならず(?)賞あり、の法則はここでも健在ですね。
とりあえず賞制定の文章を見てみましょう。ジャーナリスト集団らしく、出だしから固いですよ。心して拝読しましょう。
「複雑なる世界情勢の中に、ともかくも独立の歩を踏み出したわが国は、政治、経済、思想その他各般に亘り、多くの問題に直面しつつあり、向後において、さらにこれら諸問題の深刻化が予想されるのであります。公正な世論の喚起という面において、本クラブに負荷せられた使命の愈々重加するを痛感するのでありますが、同時にまた、新鋭ある評論家・エッセイストが一人でも多く出現、自己の正しい自覚において新鮮なる活躍を展開されるよう切望して止まぬものであります。
依って本クラブは、新人エッセイストを待望、これを激励する意をもって、このたび日本エッセイスト・クラブ賞を制定することに致しました。
右賞は文芸作品等創作を除く一切の評論、随筆(一定期間内に発表されたもの)等の中より各関係方面の推薦を受け、本クラブに設けられた詮考委員により慎重に詮考の結果、最優秀と認められたもの一篇にたいし記念品および賞金を授与するものであります。
昭和二十七年十月」(『日本エッセイスト・クラブ会報』2号[昭和27年/1952年12月] 「日本エッセイスト・クラブ賞制定について」より)
高邁な宣言すぎて、何だかよくわからないことになっていますが、要は新人のエッセイストを発掘したいぜ、という。
さあ、すでにここでエッセイスト賞は、二つばかり直木賞と似たものを携えて出発したんだな、とわかりますね。
「新人を見出す」こと。「ジャンル規定の難しい広範囲のものを対象に選考していく」こと、の二点です。
そう。この二つは直木賞との類似点ではありますが、そのままエッセイスト賞の二大看板なのだ、と言っちゃっていいかもしれません。
第1回の発表を終えた阿部真之助さんの述懐から引きます。
「この賞は将来も永く持続して行きたい。しかしこれは相当に骨の折れる仕事である。授賞の対象となるエッセイは、その範疇がひろく、かつ甚だ莫としている。さらに仕事の性質上、文芸のように、いわゆる新人がエッセイを書いて忽然と現われるということも尠なかった。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』4号[昭和28年/1953年8月] 阿部真之助「エッセイと新人」より)
賞の二つの特性に触れています。
それから50年以上たちました。いまもなお、いや、より鮮明にエッセイスト賞は「新人」と「幅広く」の線を強めていっているんです。
「クラブ賞は随筆、評論、ノンフィクション、伝記、研究、旅行記など、エッセイを広い範囲でとらえ、特に新鮮で感銘を覚える新人の発掘に努めております。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』62号I[平成22年/2010年8月] 「クラブ賞作品推薦について」より)
直木賞もはじめは、そんな性質でした。ところが徐々に「新人」から「中堅」へと、「幅広く」から「大手出版社の単行本だけ」へと間口をせばめていきました。ずいぶんな違いです。
偶然そうなっただけじゃん、とか思いますか? いやいや、ある意味必然だと思うのですよ。
つまり、いかに経済論理に支配されているかいないか。その違いがエッセイスト賞と直木賞の、その後の道筋を分けていったのではないか、と。
エッセイスト賞の第三の看板(?)といえば、これはもう文句なく「資金源に乏しい」、ってことです。出発の段階から、そうでした。
ワタクシが言うまでもありません。当時のクラブ幹部、三宅晴輝さんがキッパリと明言してくれています。直木賞や芥川賞みたいな賞は、お金がかかると。
「新人のエッセイストを見出して世に送りたいと以然から考えていたが、芥川賞や直木賞のようなものを企てるとなると金が要る。(引用者中略)
エッセイというと非常に範囲が広い。政治、経済、外交、文芸の評論から、渋沢秀雄君のような随筆まで含む。従って、選をするとなると相当困難ではないかと今から心配しているが、予選委員を作り、更に正選者を決め、幹事も作ってあるからチャンとしたことがやれるだろうと思っている。」(『読売新聞』昭和28年/1953年3月2日 三宅晴輝「エッセイスト・クラブ賞」より)
なにせ営利企業のやる賞とは違います。エッセイスト・クラブは主に会費で成り立っている非営利の団体ですから。資金の問題はなかなか苦労のタネです。常に。
「この会がえらい貧乏で困っておったことは、いまお話しのとおりで、無一文だったんです。おるところがなくて転々としていて、浮浪クラブといったようなものだったわけです。(引用者中略)
それから、クラブ賞のほうもそうなんです。なかなか金がうまく集まらない。それを、亡くなりました事務局長をしていた篠原亀三郎さんと、小椋君(引用者注:阿部真之助の秘書役だった小椋和子)があちらこちらに手配してくれ、クラブ賞を今日まで絶やさずに毎年出してこられたわけです。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』23号[昭和46年/1971年]「エッセイストクラブの二十年」 御手洗辰雄「今はなき馬場さん、阿部さん、山浦さん」より)
賞運営にかかる資金の問題は、まずひとつ、「どこまで特定の出版社に偏らないでいられるか」に大きく関係してきます。ワタクシたちは、公平・公正をうたったはずの直木賞が、あえなくその軌道から外れていった歴史を知っています。出版社が運営する賞の限界であり、宿命だったわけです。しかたありません。
エッセイスト賞はどうでしょうか。いくら何でも霞を食っては生きていけません。新聞社、出版社、放送局らに頭を下げ、毎年、寄付金というかたちの支援を受けることで賞金や運営費をまかなってきているようです。
ただ、「一社におんぶにだっこ」の形態とは違って、支援っていうかたちは、ともかく不安定です。昭和40年代の好景気時代には、支援企業がずらりと20社を超えていたんですが、現在、同賞の支援企業は小学館、新潮社、日本放送協会、日本放送出版協会の4社のみ。ずいぶん減っちゃいました。
カツカツでやっていく感じ。商業主義と一線を画す方向性。賞としては弱点にもなりえます。しかしどうやら、それがエッセイスト賞にとってはプライドを保つ原動力になってきたらしいのですから、面白いことです。
「エッセイスト賞を受けられる方々も年によりましては、性質や種類がちがいます。偶然のこととはおもいます。今年はお三人とも、特にはじめのお二人のお話には感動いたしました。ことに第二番目の、山形県からみえたお方(引用者注:錦三郎)のお話は、方言がすこし入っております上に、素朴そのもの、またそのお性質や御生活が出ておりまして、そのまごころがきく人々をうってまいります。そして私は、こういう人こそ本当にエッセイスト賞が、発見してよかったと感心いたしました。(引用者中略)
地方におられて誠実な生活をしていらっしゃる、そういう方々をひろい出す「エッセイスト・クラブ」というのは、軽佻な商業主義のやり方とちがっております。そういう意味で独特な存在で嬉しく思っております。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』 板垣直子「二つの大きな筋…追悼と授賞と」より 太字・下線は引用者によるもの)
よっ。さすがエッセイスト賞だ、文学賞界の良心!
「清貧を誇りとする伝統は今も変ることはない。これは終生『粗衣粗食』を旨とされた初代理事長阿部眞之介(引用ママ)氏の遺訓でもあるが、貧乏世帯をやりくりしなければならない事務局長の苦労がほの見える。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』44号[平成4年/1992年]「特集 クラブ四十二年の歩み」より 署名:事務局長浅田孝彦)
清貧かあ。清貧を誇りとする心持ちがあるがゆえ、初志を貫徹できているのかな。……っていうのは、短絡的な見方にすぎますが、貧乏で大変でもその姿勢のままやっていってほしいですよ。
やっぱ、直木賞オタクといえども、商業主義にずっぽり染まって初志をねじ曲げてまで続けている文学賞ばっかり見ていると、気分が晴れませんもん。
○
商業主義と一線を画す賞。とは言ってみたものの、なにせ新人エッセイストを発掘するに、よりによって「賞」を企画するような人たちではあります。
この会をつくったメンバーの多くは、ジャーナリストでした。賞。それは空疎なもの。でもやりようによっては大衆にアピールする力を持つ。きっと、そのことがわかっていたんでしょう。
阿部真之助さんとか。死ぬまでエッセイスト賞を気にかけていたそうです。また、賞は続けなければならない、と理解していたのですから、大したタマです。
それと大宅壮一さん。
「「文学者の団体は沢山あるが、我々のような学者でも作家でもない者達の団体はない」というので「評論家協会、随筆家クラブ等の名前も出たが、故辰野隆氏の提案でエッセイスト・クラブという名前にきまった。
翌年から始ったクラブ賞は僕が言い出した事で、小説等にはいろいろの賞があるがエッセイには一つもない。資金も新聞、出版社に手分けして話合い、援助して貰えば出来るのではないかと云う事で、唯一つのクラブの事業としてやり始めたが、(引用者後略)」(『日本エッセイスト・クラブ会報』18号[昭和41年/1966年9月] 「クラブに想うこと」より 太字・下線は引用者によるもの)
おお。あなたが発案したのですか。らしいといえば、らしいや。
だいたい、クラブといって仲良したちが集まってダラダラ駄弁っていればイイものを、それでは飽き足らず、「賞をつくっちゃえ」って発想がもう。素晴らしすぎます。
たかが親睦団体、されど親睦団体。そうだ、エッセイスト賞には第四の看板がありました(って、まだ看板あるのかよ)。
クラブ員たちの「親睦」が長じて、「親愛」の領域まで高まっているところです。
これって、強力な資金源オーナーをもたないところや、商業主義から離れているところにも、影響を受けているのかもしれません。ともかく、クラブやエッセイスト賞に対する愛おしさを抱えたクラブ員が、うじゃうじゃいるように見えるのです。
たとえば、あくまで一例。最近のエッセイスト賞の「審査報告」から抜き出してみますと。
「審査委員は昨年度の十五人から五人が退き、新たに二人が加わって十二人で構成しました。このメンバーで二日間にわたる事前審査を経て、四月八日から六月十日まで五回の委員会を開き、忌憚のない意見を述べあいました。
本賞は創設以来、事前の審査から最終段階まで、審査すべてを選考委員だけが担当します。粗選りをたとえば編集者などに任せるといったやり方は採りません。数多くの文化的な賞とは異なる、責任を明確にした優れた点だと思っております。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』61号I[平成21年/2009年8月] 栗田亘「優れた作品に出会えた幸せ」より)
どうですか。「賞のために5回+2回も会合? ひま人だなあ」とか言わないでくださいよ。審査は一から十まで審査員だけがやる。この異常なほどの、文学賞にかける情熱たるや。
直木賞だってはじめ、戦前のころは、そんなかたちでスタートしました。選考委員たちがみずから候補作を選び、最後の受賞作を決めるところまでやる。2~3回は会合を重ねるのが常でした。あのころは、多少の情熱はあったんでしょう。小島政二郎さんなどは、そんな情熱家のひとりでした。自説に拘泥する欠点はあったとしても。
でも今じゃ直木賞は、そんなことはやっていません。やらないことが当たり前だとすら思っています。何十年も守りぬける賞もあれば、ひょいひょいとその場その場で、利の多いほうに転がっていく賞もある。ええ。文学賞もさまざまです。
○
エッセイスト賞は今年で59回目を迎えます。ワタクシには、その歴史をたどる任は重すぎるので端折ります。
きっと、その間いろいろな事件が勃発したことでしょう。文学賞ですから。イヤな思いをした人も何人かいたにちがいありません。森茉莉さんが、石井好子さんに話しかけて無視されたとか。
まあ、そんなエピソードはいいとして、やはり文学ネタとしては、第34回(昭和61年/1986年)に注目せざるを得ません。デコちゃん正ちゃん、奇跡の同席、の件です。
第34回エッセイスト賞、受賞者3人のなかに、『花の別れ』の豊田正子さんがいました。その10回前、第24回(昭和51年/1976年)に受賞していた高峰秀子さんもまた、この年の贈呈式に顔を出していました。
ああ、戦前の天才少女、豊田正子嬢。その後、いろいろ大変だったんだなと推察させるスピーチを披露しています。
「私、個人的なことで非常に裏切られたことがございまして、もう人間を信用するのがいやになったことがあるんです。(引用者中略)
私の暮しを申しあげますと、六〇歳からもらいはじめた年金と週に三回アルバイトにいっています。それが私の生活の根本です。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』38号[昭和61年/1986年8月] 豊田正子「再生の師・田村秋子」より)
片や、女優としてエッセイストとして、第一線で活躍中だった高峰秀子さん。「にじむお人柄」と題するスピーチで、正子さんの受賞を祝いました。
「豊田さんとはまあ気持ちが悪くなるくらい前から知合いでして、豊田さんがお書きになった綴り方教室の正子、マー公の役をやらせていただいてからの知合いでございます。もう五十年経ってしまって、(引用者後略)」(同号 高峰秀子「にじむお人柄」より)
だいたい、この二人が同じ賞を受ける、なんちゅうトンデモない事態を引き起こしたのも、エッセイスト賞の「何でもアリ」精神のおかげだったと言えるんだよなあ。何でもアリ、万歳。
デコちゃんと正ちゃんはともに、昨年暮れ、仲よく(?)この世を去ってしまいました。奇縁なつながりを残したまま……。
ええと、最後にちらっとエッセイスト賞の略史に触れておきたいと思います。略史というか、略「賞金史」です。
これまで清貧だの貧乏だの、さんざん言いたい放題言ってきましたが、じつは今のところ、エッセイスト賞の賞金は、直木賞や芥川賞と同額です。
創設当初、この賞の賞金は5万円で、当時の直木賞・芥川賞と同額だったところからスタートしています。その後、第15回(昭和42年/1967年)に10万円に増額。第27回(昭和54年/1979年)から20万円、第36回(昭和63年/1988年)から30万円、と上がってはきたのですが、常に直木賞・芥川賞にくらべると少額でした。
それが第56回(平成20年/2008年)から100万円に。受賞作3作が通例だったものを2作に減らしてまで、この額に上げました。
「今日の第五十六回日本エッセイスト・クラブ賞の贈呈でこれまでと違うのは、受賞者が二名に、賞金が各百万円になったことです。賞金が百万円になったことで、書店の扱いも少し変ってきたようです。これまで本棚にしか置いてなかった受賞作でしたが、今回は平積みにしているところが目立ちます。有難いことです。」(『日本エッセイスト・クラブ会報』60号I[平成20年/2008年8月] 村尾清一「総会の挨拶と報告 緑色のアタマの人」より)
賞金の多寡なぞでほんとに書店の扱いが変わるのかいな、って疑問はさておきまして。
次の年も村尾清一さんは「賞金が芥川・直木賞と同じ百万円になって二度目を迎えました」とあいさつされていて、賞金の有無ではなく、その金額も賞にとっては重要なのだ、って雰囲気を(たぶん冗談まじりでしょうが)出されています。
清貧でありながら、それでも「文学賞」という、ただそこに存在するだけで胡散くさく汚らしい匂いを発するものを運営していく苦労。ほとんど文学賞運営の鑑ですね。やっぱり直木賞なぞが比較の対象になるのもおこがましいハナシでした。失礼をば。退散します。
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