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2011年5月22日 (日)

ユーモア賞 直木賞から弾かれつづけたユーモア小説限定の賞。

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 直木賞は、とれなかったとしてもネタになる。とは、よく聞くことです。

 うちのブログでも、直木賞に縁遠かったグループのことを何度か取り上げてきました。冒険小説。とれない。SF。とれない。推理小説。とれない。

 ……で、上記のようなジャンル(あるいは、それを主に書く作家たちのグループ)はまだいいのです。いいと言いますか、傷が浅いと言いますか。とれなかったことを逆に利用して、作家自身がエッセイで毒づいたり、熱い読者たちがそれに呼応して、「直木賞め、なにくそコノヤロ」と声をあげたり。そうやって、語り継がれていってくれるからです。

 直木賞の初期のころにも、じつはそんなグループがありました。

 何人も候補になったのに、けっきょく一人も受賞させてもらえなかった小説ジャンル。およびその集団。ただし彼らはみな一様に紳士だったらしいので、直木賞に対する恨みつらみは、あまり書き残してくれていません。

 なので代わりにワタクシが言います。

 「○○では直木賞はとれない、の元祖。それはユーモア小説だ」と。

【ユーモア賞受賞者一覧】

 直木賞ができたのは昭和10年/1935年です。当時すでにユーモア小説は、かなり注目されていたジャンルでした。

 注目、ちゅう表現は曖昧ですね。ええと、市民権を得ていた、と言い直しましょう。ユーモア小説とか、その仲間のナンセンス小説とかは、時の大衆雑誌にはかならず載るほど欠かせないものでした。大衆雑誌って、要は『オール讀物』をはじめとする読物雑誌や、『サンデー毎日』『週刊朝日』みたいな週刊誌ですね。

 欠かせない、とは言い過ぎでしょ。peleboのいつものクセだし。と思いますか。まあワタクシも口がすぎたかもしれませんが、でも、ほら岡田貞三郎さんの証言を聞いてみてくださいよ。大正から昭和はじめに『講談倶楽部』を一大雑誌に仕立てあげた名編集者、岡田さんの言葉を。

「『講談倶楽部』の編集を、淵田さん(引用者注:淵田忠良)に代わって、わたしがお預かりするようになったのは、ちょうどこのころ(引用者注:昭和初年ごろ)のことでしたが、前古未曽有のこうした盛況のなかにも、しかしまだ、なにか知らん欠けているものがある、と思われてなりませんでした。で、その欠けているものはないかと思い、よく考えてみるとそれは探偵(推理)小説と、それからユーモア小説でありました。」(昭和46年/1971年2月・青蛙房刊 岡田貞三郎・述、真鍋元之・編『大衆文学夜話』より)

 そうなんだよなあ。大衆読物誌がぐんぐん力を伸ばしていくにあたって、ユーモア小説、その果たした役割の大きいこと大きいこと。

 で、直木賞です。この賞は「大衆文芸」を対象にすると宣言しました。そのなかに、やはりユーモア小説が含まれていたことに、ぜひご注目ください。

 馬鹿でもわかるように、主催者がはっきり明言してくれています。ありがたい。

「『大衆文芸』とあるのは題材の時代や性質(現代小説・ユーモア小説等)その他に、何等制限なき意味である。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号)

 わざわざ明言しなくちゃいけなかった、ってことは逆に、ユーモア小説が「直木賞の大衆文芸」に入ることに抵抗感をもつ人がいた、ってことかもしれませんけども。

 読物誌にとっては王道。でも、「大衆文芸」にとってはひょっとして傍流。ユーモア小説の不思議なところです。

 それで戦前の直木賞におけるユーモア小説の歴史、を語りたいんですけど、後にまわすとしまして、まずは今日の本題から行きます。

 直木賞ができた翌年。昭和11年/1936年7月3日の夜。15人の作家たちによって「ユーモア作家倶楽部」なる組織が旗揚げされました。参加したのは、以下の諸氏でした。

 佐々木邦(代表)、辰野九紫(世話人)、伊馬鵜平、乾信一郎、林二九太、徳川夢声、岡成志、中村正常、中野実、益田甫、サトウ・ハチロー、北村小松、南達彦、獅子文六、弘木丘太。

 きっかけは、昭和10年/1935年から刊行の始まったアトリヱ社の『現代ユーモア小説全集』が完成を見たこと。編集担当の市川明徳さんが、この全集に入っていた15人をまとめ上げたのだそうです。

 最初は親睦団体でしかありませんでした。それが「われわれも一つ勝手なことの書ける雑誌をもとうではないかという議が、誰からともなく起り」(辰野九紫の回想)、翌昭和12年/1937年10月に『ユーモアクラブ』を創刊。発行元は春陽堂書店でした。

 発生の過程や、「親睦団体」としての出発、などを見てもわかるとおり、どうも結束感の乏しいきらいがあります。徳川夢声さんなんかは、そりゃあ会合の出席率わるかったみたいですし。「同じジャンルの小説を書いている」ってだけで仲よくなるわけもないですか。文壇内に居場所がないから集まった、みたいな感じがしなくもありません。

 おそらく、そのまま平和な時代が続いていたら、わざわざ自前の文学賞をつくるハナシなども、出てこなかったかもしれませんね。顔ぶれからして、賞に興味のなさそうな人が多そうですし。

 しかし、昭和15年/1940年に入ったころから雲行きが怪しくなっていきます。

「創刊号は十二年十月に出て、爾来われらの代表『佐々木邦編輯』と銘打ってはあるが、

 当初みんなの考へてゐたやうな同人雑誌的の内容とは、若干その趣を異にし、発行元も昨十五年三月から春陽堂文庫出版株式会社といふ別個のものの手に移り、わがユーモア作家倶楽部とは必ずしも表裏一体をなしてはゐない。」(『日本学芸新聞』昭和16年/1941年5月25日号 辰野九紫「ユーモア作家倶楽部 結成から現状まで」より)

 『ユーモアクラブ』編集部と、倶楽部員たちとの対立です。それが表面化したのが、ちょうど昭和15年/1940年だったようです。

 このことは、「ユーモア賞」なる文学賞の設定は果たして誰が言い出したのか、って問題にも関わってきます。

 ユーモア賞の主催は『ユーモアクラブ』誌です。この雑誌にはたしかに「佐々木邦編輯」と書いてあります。創刊当時は、ユーモア作家倶楽部の機関誌だったんでしょう。でも、昭和15年/1940年にはどうだったか。

 同誌の編集を創刊から受け持っていた指方龍二さんが、憤然と言い放っている文章があります。『ユーモアクラブ』は同人誌どころか機関誌ですらないんだぜ、と。

「ユーモア作家倶楽部対『ユーモアクラブ』の関係など、一般には興味のない問題であらうが――この雑誌は私が創刊号から編輯に当り、大衆娯楽雑誌として出発したもので、同人雑誌でも機関雑誌でもない。欠損をすれば春陽堂が困るし、編輯常事者の私が責任を負はなければならない。私はこの雑誌を成功させるために、人知れぬ苦心をしたのである。」(『日本学芸新聞』昭和16年/1941年10月25日号 指方龍二「ユーモア作家と「ユーモアクラブ」」より)

 指方さんは、こうも吠えています。ユーモア作家倶楽部の連中は、「ユーモア小説が少い」「マゲ物を載せるのは怪しからん」「指方の仲間が書きすぎる」などとブーブー文句を言っているが、売れなきゃ困るのは出版社なんだ、ガタガタ騒ぐな、とか何とか。威勢がいいですね。

 でも、それまでは両者うまくいっていたんでしょうに。昭和15年/1940年、いったい何があったんでしょうか。

 発行元が、春陽堂書店から春陽堂文庫出版に変わったんですって? なぜでしょう。不良事業の清算でしょうか。よくわかりません。

 さらにこのころ、政府や軍部が出版界に猛烈に介入してきた、って背景は確実にあるでしょうね。以前、『新青年』の新青年賞のときにもチラッと触れました。博文館もそうだったように春陽堂も、当局への全面的協力を打ち出した企業です。

 そして昭和15年/1940年10月号のことです。『ユーモアクラブ』誌の表紙に、例のスローガンが印刷されはじめました。

緊めよ同胞

心も口も

 だはははは。このころの同誌でいちばん笑えるの、ココなんだよなあ。ユーモアを売りにする雑誌が、それ言っちゃったらおしまいでしょうに。「口を緊めよ」だなんて。

 ちょうどそのころでした。昭和15年/1940年、「ユーモア賞」が制定されます。

          ○

 先ほど直木賞とユーモア小説の関係について、ちょっと触れました。時代を追って確認していきたいと思います。

 第2回(昭和10年/1935年・下半期)。獅子文六さんが早くも直木賞の場で議論にあがりました。以来3回。一度は、直木賞に手が届くかと思われました。

「ユーモア文学に於て一家を為すの至難は日本の文壇はわけてもユーモア作家虐遇の傾向があって来たのだから、直木旗をここの陣士に一度は授けたい。」(『文藝春秋』昭和12年/1937年3月号 吉川英治選評より)

 同時期には、中野実さんも候補者として取り上げられています。

 しかしけっきょく、直木旗は探偵小説のほうに持っていかれてしまいました。

 第6回(昭和12年/1937年・下半期)。あっとびっくり、井伏鱒二さんが推されます。このとき、受賞対象として『オール讀物』に掲載した「ユーモア小説」も含まれました。ただ現在、井伏さんの直木賞作といって、ユーモア小説だと答える人がどれだけいるでしょう。受賞の決め手とされたのは、あくまで『ジョン万次郎漂流記』のほうであり、ユーモア小説は付け足しのように見られてしまったからです。

 「ユーモア小説では直木賞はとれない」、の匂いをワタクシが嗅ぐのは、そういう点にもあります。

 第7回(昭和13年/1938年・上半期)。獅子文六さんの盟友、徳川夢声さんが直木賞で議論されます。ただし、軽くスルーされちゃっています。

 しかし、直木賞がユーモア小説に授けられるチャンスは、それで終わったわけじゃありません。昭和14年/1939年~昭和15年/1940年にかけて、「ユーモア小説第二世代」ともいうべき作家たちがドドッと活躍しはじめたのです。

「ある出版社からユーモア小説全集が刊行された。その集に加わった作家たちがグループを結成した。それが第一期のユーモア作家クラブ(原文ママ)であったのである。

 佐々木先生を会長として、獅子文六、辰野九紫、徳川夢声、サトー・ハチロー、中村正常等々の方々が含まれていた。私などはその頃はまだ卵で、先輩たちの首途を羨望の眼で見ていたのである。

 その内に少しずつ此方側へも陽があたり始め、月々の雑誌に作品が載る回数が増えて来、それならばということになったのだろう、ユーモア作家クラブへ入らないかと勧誘状が来た。私はもちろん喜んで末席に加わらせていただいたが、第二期会員とも言うべきこの時のメムバーは確か十五人で、宇井無愁北町一郎玉川一郎、宮崎博史等の諸君が一緒だった。」(昭和50年/1975年6月・講談社刊『佐々木邦全集 第9巻』「月報9」 鹿島孝二「おでん屋で 佐々木邦先生の想い出(5)」より)

 そもそも「ユーモア賞」の創設には、これら第二期会員の世代を表舞台に引き上げようって意図もあったにちがいありません。たとえば、宇井無愁さんの「きつね馬」や、北町一郎さんの『啓子と狷介』に、第1回ユーモア賞が贈られたわけです。と同時に、彼らのこういった作品は直木賞の候補にも挙げられました。あとちょっと。あとちょっとで直木賞……。

 ユーモア陣営としては期待の作家たち、ではありました。なのに、これでもかこれでもか、と落選の印を捺されつづけました。

 そのうち、昭和17年/1942年、昭和18年/1943年、昭和19年/1944年……。ああ。

「宇井さんは、友だちの会社のPR誌の編集を頼まれて、再び東京の生活をはじめる。原稿依頼で辰野九紫さんを訪ねた際、ユーモア小説を書いていることをお話すると、どしどし書くべきだと激励されてできたのが、はじめに述べた宇井さんの傑作「きつね馬」であった。

 辰野さんが、これを「オール読物」に紹介してくれて、すぐ発表になり、たいへんな評判になったのであった。続いて、「鳩の学校」を書き、次の「お狸さん」と前の「きつね馬」が直木賞の候補になった。

 しかし、すでにそのころ戦争がはじまり、時局的作品が主流を占めていたから、ついに受賞にはいたらなかった。一読者の私として、今残念に思うのは、戦争さえなければ、宇井さんは、ユーモア作家として、立派に大成していたにちがいないということである。」(昭和49年/1974年11月・角川書店/角川文庫 宇井無愁・著『ケチのすすめ』所収 中村武志「宇井無愁さんのこと」より)

 うん。時代のせいにしちゃいけないんでしょうけど。まあ、「明朗と緊張」とかいう衝撃力絶大なギャグを放たれちゃったらなあ。それを超えるユーモアを書くのは至難のわざだったでしょう。

          ○

 ユーモア作家倶楽部もまた、戦争が長引く途中で、あっさりと解散、ってことになりました。昭和17年/1942年5月です。

「今晩の集会は、ユーモア作家の連中が文芸報国会に合流するため発展的解消をするという相談会である。私が解消賛成というと、弘木丘太君がすぐ賛成と叫び、伊馬(引用者注:伊馬鵜平)君が軟かく賛成し、私の前の三越氏(引用者注:宮崎博史のことか?)が、では乾杯というと私たちの周囲だけ皆コップを上げる。(引用者中略)佐々木(引用者注:佐々木邦)氏や岡(引用者注:岡成志)氏は少し浮かない顔をしていたが、一瀉千里片づけてしまった。別に計画してやった訳ではなかったが、結果において引っかき廻した事になった。ああ、これで清々したと乾(引用者注:乾信一郎)君は言った。誰だったか、そんなに解消を喜ばれるような厭なクラブだったんですかと佐々木氏の方に質問した人があった。」(昭和52年/1977年8月・中央公論社/中公文庫 徳川夢声・著『夢声戦争日記(一)昭和十六年・昭和十七年(上)』昭和17年/1942年5月27日の項より)

 ちなみにこのときの全倶楽部員数はわかりませんが、先の『日本学芸新聞』によりますと、昭和16年/1941年5月25日号の段階で24名(故人の海老原鯛人は除く)。創立メンバー15名以外のメンツを挙げると、

 宇井無愁、近江帆三、小此木禮助、鹿島孝二、川原久仁於、北町一郎、玉川一郎、日吉早苗、宮崎博史。

 さらに同年8月14日の会合でプラス5名。

 川島順平、菊田一夫、摂津茂和、穂積純太郎、本庄桂輔

 これらユーモア作家倶楽部の面々。30名弱。戦前戦後を含めて、だれひとり直木賞には選ばれませんでした。

 戦後、あの指方龍二さんは『日本ユーモア』誌をつくって、しばらく編集に奮闘されましたが、出版界に訪れた例の昭和25年/1950年ショックで藻屑と消えました。

「ユーモアと名のつく雑誌は二つとも消えてしまい推理作家や時代もの作家は会をもってるのに、ユーモア畑は会も作らず、ちりぢりばらばら(引用者中略)衰えぬ活躍をしている中野実は別として、宮崎博史その他名前をあげれば居るものの、結局、尾崎一雄の多木太一ものに食われているのが現状である。ということは、『自由学校』の他は、技巧派が振わず、所謂もちあぢユーモア畑は、純文学側の作家修業のおしにひしがれている結果である。」(『東京タイムズ』昭和26年/1951年5月20日 矢留節夫「文壇盛衰記 ユーモア小説の巻(2)」より)

 戦後のユーモア小説といえば、源氏鶏太さんのものが、その系統をつぐものと言って言えないことはありませんが、ユーモア文壇といいますか、核としての求心力はもはや「ユーモア小説」っていう言葉には残っていなかった、と見ましょう。

 しかし、あの昭和10年代の「ユーモア小説」とは何だったんでしょうか。直木賞からは名指しで仲間扱いされ、全集も出て、専門誌も生まれ、まがりなりにも作家たちがその名のもとに集合できた、あの「ユーモア小説」とは。

 その歴史の一端を、直木賞が「授賞」っていうかたちで掬い取っておいてくれなかったのは、残念としか言いようがありません。せっかくのユーモア小説の専門賞「ユーモア賞」も、後世の目に触れないぐらいにかき消されて、わけがわからなくなってしまいました。なので、ワタクシはもう一度唱えます。僭越ですけど。ユーモア小説をしっかりと、文学賞史のなかに残しておくために。

 「○○では直木賞はとれない、その元祖はユーモア小説だ」。

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コメント

直木三十五さんも「大衆文芸作法」にて、大衆文芸を七つに分類するとして、そのうちの一つにユーモア小説を挙げておられますね。ただ、挙げておいて「需要は常にありながら作者が非常に、稀なのである」とか言っちゃってますけど。あと、「「ユーモア小説」は読後に何んにも残らなくてこそいいのである。」って言っているのは、直木さん、良いこと言うなあと思いました。
最近でいえば、奥田英朗『空中ブランコ』のドタバタした感じは「ユーモア小説」でしょうかねえ、しいて挙げるとすればですが。

投稿: あらどん | 2011年5月26日 (木) 01時10分

あらどんさん、

そうでした!せっかくだから直木三十五のユーモア小説観にも触れればよかったですね、
思いがいたりませんでした。
コメントいただき、ありがとうございます。

『空中ブランコ』の直木賞受賞は、もうそりゃ画期的なことだったとワタクシは思っています。
おもしろくて笑える小説に対して、直木賞があまり開放的でないのは、いまもあまり変わってないですから。

投稿: P.L.B. | 2011年5月26日 (木) 02時38分

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