国民文芸賞 注目を浴びた賞。権威ある賞。でもその終焉は誰も(?)知らない。
ひそかに確信していることがあります。明治、大正、昭和はじめ、それらの時期には、文学賞に関するお宝エピソードがどっさり眠っているはずだと。
それを掘り起こせば、直木賞につながる何かが見つかるかもしれません。逆に外れクジばっかりかもしれません。現状、どっちだかわかりません。わからないので、調べてみたくなるわけです。
明治末期、『早稲田文学』誌が「推讃之辞」を始めました。文部省が主体となって森鴎外さんたちが文藝選奨に取り組みました。いずれも、次の時代に「文学賞」のかたちを受け渡すことなく、泡のように消えていきました。
そんななかで、大正8年/1919年、まったく手さぐりのまま、一つの賞が大海原にぽつーんと船出します。国民文芸会なる団体が設けた国民文芸賞ってやつです。
こやつ、なかなかのものです。文学賞が日本に根づいていくなかで、かなり重要な役割を果たしてくれました。
いくつかその特徴を挙げさせてください。
その1。「文芸賞」とはいえ、対象が演劇界隈オンリーなところ。
そうそう。先の『早稲田文学』推讃之辞でも、演劇は一つの部門をなしていましたもんね。明治から大正当時の、文芸界のありよう、あるいは「文芸」っていう用語の使用範囲の広さが垣間見えたりします。
今の基準でいえば、これは文学賞ではなく演劇賞と呼ぶべきでしょう。この賞を紹介するときに、「文学賞」と区分けする人はあまりいません。
「“国民文芸会”は当時(引用者注:昭和6年/1931年)の財界人、芸術家が一体となった優秀芸術家推奨の権威ある団体で、その賞は当時唯一の“芸術賞”だった。」(平成18年/2006年3月・演劇出版社刊 西形節子・著『近代日本舞踊史』「第五章 新舞踊運動の開花」より)
芸術に対する賞。具体的にどんな人たちを対象にしていたのか。もう少し詳しく知りたいぞ。……そんな方には、曽田秀彦さんの著書がおすすめです。大正期の演劇運動研究に一生を捧げた方の本です。
「「国民文芸会」の事業目標は、(1)劇作家、俳優、演出家の養成。(2)芸術的にすぐれた推薦脚本の上演。(3)「社会教育」のための演芸の上場。以上の三点であった。(1)としては、毎年、劇作家、俳優、演出家を奨励するための賞金を設ける。(2)は、演出家をつけて、新脚本を興行師に提供して上演させる。(3)は、もっぱら「国民の精神」の改革をめざすものであって、床次内相の口から浪花節の改良が言われ、新聞で嘲笑されるようなこともあった。」(平成7年/1995年12月・象山社刊 曽田秀彦・著『民衆劇場 もう一つの大正デモクラシー』「芸術運動と民衆政策―国民文芸会の設立をめぐって」より 太字・下線は引用者によるもの)
さあ出ました。ここに「床次」なる大臣の名が登場しましたね。特徴その2につながります。
その2。最初は、「国家と密接にかかわる贈賞」だった(と思われていた)ところ。
文藝選奨から文藝懇話会賞、芸術選奨にいたるまで、当ブログでは国家による文学賞をいくつも取り上げてきました。じっさい国民文芸賞もその仲間だったんだぜ、と見る人もいます。こんな感じに。
「大笹(引用者注:大笹吉雄) (引用者中略)大正版「演劇改良会」ができた。背後にあるのは、大正八(一九一九)年に原敬内閣がつくった「国民文芸会」です。その国民文芸会が、演劇の改善に乗り出した。民衆の動きを政府側は注目している。ロシア革命、米騒動では、民衆が政治を先導した。「国民文芸会」の発想は、日本国内でその波及をいかにとどめるかというものです。そして、演劇改良で民衆を抱き込もうとした。(引用者中略)
今村(引用者注:今村忠純) 「国民文芸会」は会員制で、(引用者中略)相談役は、当時の内相床次竹二郎。つまり、内務省の演劇社会政策の一環としてスタートしています。官政財界一体となって、演劇文化を奨励していこうという趣旨です。(引用者中略)
「国民文芸賞」には、話題性がありました。(引用者中略)この賞は、今の芸術選奨にあたるのではないでしょうか。会員組織でオープンに行われていたことに特徴があります。ただ、この会のひもつきに対する警戒の声もあった。
大笹 大きな目で見れば、この「国民文芸会」は、関東大震災でポシャってしまうわけです。」(平成15年/2003年10月・集英社刊 井上ひさし・小森陽一・編著『座談会昭和文学史 第二巻』所収「第7章 演劇と戯曲 戦前編」より)
すごいでしょ。大笹さんの問答無用の断言。「関東大震災でポシャってしまった」。要は、この会の推奨・授賞なんて、とるに足らん俗事だったととらえているわけですね。震災後も10年間弱は続いたんですけど。そんなもの見るに値しない、と。
悲しいなあ、賞ってやつは。馬鹿にされること果てしなし。
それでも「国民文芸会」のほうは、立派に研究対象になるらしいです。なぜなら国家とのパイプをもった社会的な組織だったから。賞なんて付けたし。オマケ。いやあ、立派な先生方がそのようにおっしゃるのもわかります。
しかも悲しいかな、先生方ばかりじゃないのです。かつて文学賞が注目を浴びない浴びないと怒ってくれた我らが味方、菊池寛さんまでもが、似たような見方をしてしまっているんです。
「日本の法律に、著作権を擁護する明文がないために、我々の著作権がしばしば侵害せられる。この弊を防ぐためには、著作出版に関する完全なる法律が制定せらるゝやうに、努力するのが根本の問題である。国民文藝会などは、僭越にも、劇壇の私設賞勲局を以て任ずるよりも、こんな問題にこそ尽力して然るべしであらう。」(大正15年/1926年6月・改造社刊 菊池寛・著『文芸当座帳』所収「著作権の確立」より)
賞なんかでウツツを抜かしてないで、もっとヤルことヤレよ、コノヤロ。とおっしゃっています。
しかし逆に考えると、こういう発言が出るってことはアレです。当時の国民文芸賞って、多少なりとも存在感があったんだろうな、と推察できませんか。
特徴その3。文壇(劇壇)内だけの内輪の催し、といった枠をやすやす打ち破っているところ。
この賞、けっこう注目されていました。大正8年/1919年度の第1回目の推奨からほぼ毎年、新聞がある程度のスペースを割いて報じてくれていたんですね。10数年間、途切れることなく。
美術展の入選者ほどではないですけど。ただ少なくとも、昭和10年/1935年ごろの直木賞・芥川賞に割り当てられた量よりは、格段に大きい扱いでした。
大正期にしてすでに文学賞は、このくらいの潜在的な報道価値は持っていたのだな。そう思うと心強くなりますよね。……ってワタクシだけですか、そうですか。
大正から昭和初期。まだ直木賞ができる前です。新聞が、ノーベル賞やゴンクール賞など、外国の文学賞を取り上げることはあっても、国産の賞で記事にしてもらえるのは、「懸賞」=公募型の賞ぐらいなものでした。そのなかでひとり気を吐く国民文芸賞の図。
新聞の人たちは、なぜこの賞に食いついてくれたのでしょう。
ひとつには、出発点が政界・財界を巻き込んだものだった、つうことがあったんでしょう。あるいは、芸能(あるいは芸能界)のもつ大衆アピール力も見逃せません。「みんな演劇やら役者やらが大好きだよね」っていう。
そして最重要項目。単に推奨して拍手して終わり、の行事じゃなかったこと。賞金ないし賞品があったことです。
なにせ目に見えないものはわかりづらいですから。具体的なお金や物がそこに介在していたことが、結果、新聞屋にとってはわかりやすかったんじゃないでしょうか。
明治の文藝選奨や、昭和の文藝懇話会賞の場合、それはお金でした。国民文芸賞に賞金があったかどうかは不明です。ただ、賞品があったことは確実です。なぜなら新聞がしっかりと報じてくれているからです。
「国民文芸会表彰者
菊五郎と決定
廿三日記念時計贈与」(『読売新聞』大正13年/1924年1月14日の見出しより)
記事本文でも「記念金時計を贈与する」と、形の見えるものを記事に落とし込んでいます。
そう。みんなに知ってもらうためには、何か目に見えるものが大切だよなあ。
直木賞と芥川賞だって、最初は「一年で二千円!」の賞金額で勝負しました。しかし、これでは効き目がなかったらしく、結局戦後になって、若い男のルックスや、芸能界(映画界)の力を借りることでようやく、新聞で大きく扱ってもらえるようになったわけですもの。
○
さて国民文芸賞が、歴史的にみて、のちの直木賞・芥川賞に直接影響を与えたのかどうか。……と言いますと、大してつながりはなさそうです。
大正期に最も名の知られた文芸賞。ゆえに直木賞らの数世代上の先輩格。そのくらいの見方が妥当なんでしょう。
ほら、吉井勇さんもそう言っています。
「国民文芸会というのは、当時外務省の情報部長をしていた小村欣一が主唱者となって、演劇革新ということを目的に(引用者中略)設立されたもので、毎月初日に各劇場を見て歩いたうえ、優秀なる演技を示した俳優に賞を与えるといったひとつの推奨団体のようなものであった。考えてみると、現在行なわれている芥川賞、直木賞、菊池賞、そのほか各新聞でやっている何々賞といったものの嚆矢をなすものと言ってもいいかも知れない。」(昭和58年/1983年10月・日本経済新聞社刊『私の履歴書 文化人1』所収「吉井勇」より)
嚆矢、はさすがに言いすぎだと思いますが、まあ少なくとも形態は似ています。
すでに公に発表されたもののなかから、優秀な作品(優秀な人)を選び出して、賞金賞品を渡して褒めたたえる企画。
そんな賞など不要だ、って血相を変えて吠え立てる人もいます。今もいますし、当時もいました。でも、日本にも賞がたくさん必要だと考えた人たちもいました。ここ重要。なにせ先行してヨーロッパで似たような行事が行われていましたからね。
「ヨーロッパにはゴンクール賞とかシルレル賞とかその他この種の賞が沢山ある。仕事もまたなかなか大がゝりである。が、日本ではわづかに美術界に二三この種の賞があるだけで、其他の美術界にまだ一つも行れてゐない様である。
これだけ美術が社会化してきたのに、この種の仕事が起らないと云ふのは、まことに遺憾な事と私どもは考へてゐる。殊に芸術の内でも、最も社会的な演劇界に、まだ国民文藝会の仕事をのぞいて、一つもかう云ふ仕事がないと云ふのは、私どもが、演劇の事業に携はつてゐるだけ、残念で耐まらないのである。」(『読売新聞』大正14年/1925年5月20日 長田秀雄「築地小劇場推奨(上)」より)
芸術賞とはすなわち社会的事業だと言っています。ええ、権威や名誉、こういったものは確かに社会なくしては発生しないですもんね。人から賞をもらって有頂天になる。落選させられて不機嫌になる。賞をめぐって対立、ドタバタが起こる。これぞ文明国。
ってことで、賞には社会的な要素が多分に備わっています。たとえば、劇評で褒められるとか、個人的に励ましの声をかけてもらうとか、そういったこと以上に。
受賞者だけじゃなく、その取り巻きまで含めて嬉しがる、なんて現象があるのもそのひとつです。賞が贈られることは、その業界に携わっている人たちにとって、俄然やる気も湧くでしょう。明日の活力になります。
「その翌年(引用者注:昭和6年/1931年)、静枝師は“新舞踊の先覚者”として、昭和五年度の国民文芸賞を受賞しました。「国民文芸賞」というのは、当時の財界人、芸術家の有志が一体となり、一年に一度、優秀な芸術家を推奨しようというのでつくった権威ある団体「国民文芸会」が出すもので、当時唯一の芸術賞でした。(引用者中略)
現在のように芸能人が叙勲されたり、あれこれの賞を受けることのなかった時代でしたから、歌舞伎畑の名優や日本舞踊の家元たちに伍して、この当時唯一の芸術賞を、しかも女性としてはじめて静枝師が受賞したことは関係者一同を一方ならず喜ばせました。」(昭和58年/1983年7月・早川書房刊 岡田嘉子・著『心に残る人びと』所収「藤蔭静枝師」より)
国民文藝賞では、いろいろな人が推奨されました。また候補として議論にのぼりました。そのなかの一人に、我らがボスが含まれているのも、きっと何かの縁です。ボス、菊池寛。
さっきは「私設賞勲局をもって任じている場合じゃないだろ」みたいに毒づいていましたが、菊池さんもまた、大正期に賞の候補になったり、あるいは賞がもたらした結果に喜んだりした一人だったんですね。
以下、三宅周太郎さんの、市川猿之助に関する回想です。
「(引用者注:猿之助の)一生の記念塔は大正九年十月末の新富座で、改めて彼が主宰する「春秋座」を結成、菊池寛作「父帰る」の兄の役の演技なのはいうまでもない。(引用者中略)
よき時代のせいか、識者は認めてくれて、この年初めて成立した演劇向上を目ざす「国民文芸会」で、最初の推せんを受けて金時計をかく得した。これは現在の朝日新聞の「朝日賞」、毎日新聞の「芸術賞」に匹敵する名誉であった。菊池氏も猿之助もこれをチャンスに、一躍劇壇の流行児になったのは周知のようである。特に菊池氏はよろこばれて、そののち私に好意を持って頂き、なにかとよくしてもらったのは、今もなお感謝にたえない思いがする。」(『中央公論』昭和38年/1963年8月号 三宅周太郎「猿翁追憶」より)
「この年初めて成立した」「最初の推せんを受けて」と書いてあるのが惜しいなあ。これがなけりゃ、三宅さんの記憶力をもっと信用できるのに。
あと、上の文章だと菊池さんが、国民文芸賞を得たあとに喜んだのか、猿之助の公演が好評だったことに喜んだのかが曖昧です。国民文芸賞が、のちに菊池寛さんが直木賞・芥川賞をつくるときの発想に何か影響したとは、現段階ではとうてい思えません。
それでもヨーロッパの話を風のうわさで聞くしかなかった芸術賞が、身近なところで行なわれていた、っていうのは何らかの意味があったと思いたいところです。
○
国民文芸賞は大正9年/1920年1月に、最初の推奨を行いました。毎年、新聞にも取り上げられ、劇壇の権威ある賞、と感じていた人もいました。ってことはご紹介したとおりです。
ところが、これがいつまで続いたのか。その問題になりますと、とたんにゴニョゴニョしてきます。
「〈国民文藝会〉の組織の解散、また〈推奨会〉の推奨による〈国民文藝賞〉の終るのはいつのことなのか、詳かにし得ないのだが、昭和三年四月発行の《会報》(第十七号)にも二名の新入会員が確認できる(「通知」)。《会報》第十七号発行以降にも、《国民文藝会》の組織存続がはかられていたことはまちがいない。」(平成3年/1991年2月・五月書房刊『昭和期文学・思想文献資料集成第9輯 国民文藝会会報』所収 今村忠純「解説」より)
んもう、つまびらかにしてくれよ。と胸にモヤモヤが残るわけです。
確認できるかぎり、国民文芸賞は昭和8年/1933年になって、市川壽美蔵と吉住小十郎への推奨を行っています。最初の年から数えて14年目です。
この年の4月には、新聞記事のなかに「国民文芸会理事長崎英造氏」って表現を見ることもできます。『天晴ウォング』の件で長田秀雄さんと早川雪洲さんがケンカして、その仲裁役として、この肩書きをもった長崎さんらが登場したそうです。
で、この昭和8年/1933年(昭和7年/1932年度)の授賞をもって国民文芸賞は終了した。と、きっぱり証言してくれている人がいる、と聞いたらあなた。耳を傾けないわけにはいきますまい。本日二度目のご入場です。三宅周太郎さん。今度は、事実関係、だいじょうぶですよね?
「国民文藝賞(これを問題にするのは大人気ない。それは分つてゐる。)の最後の昭和八年度分は、劇壇から見て友田(引用者注:友田恭助)が、右の日本最初の創作劇上演樹立の功によつて与へられるべきが正当だつた。それが壽美蔵の平凡な役に持つて行かれた。これは下らぬ国民文藝賞、一金時計に執した話でない。劇壇の正義のために凡そ憤慨に堪へぬ事実である。私は今でもこれを思ふと腹が立つ。」(昭和10年/1935年5月・中央公論社刊 三宅周太郎『演劇巡礼』所収「最近演劇界とその人」より ―文末に(昭和10年3月)の記載あり 太字・下線は引用者によるもの)
さすがに数十年前の回顧談じゃないですからねえ。ほんの一、二年前のことを語っているんですものねえ。「最後の昭和八年度分」に間違いはない、と思いたい。
じゃあ、会の組織はいつまで続いたのか。
会員組織を運営していくには、やはりそれなりの人材が必要です。創設からの中心メンバー、官僚の小村欣一さんは早々に昭和5年/1930年にこの世からご退場済み。財界の長崎英造さんは、昭和9年/1934年1月から帝人事件の渦中となってしまって、芝居どころじゃなくなったでしょう。劇界のよき顔役、頼れるはずの福地信世さんまでもが、昭和9年/1934年5月に急逝。
どうやら、このあたりが国民文芸会がわれわれの前から姿を消した時期のようなんですが。
ほんともう、つまびらかにし得ません……。昭和前期の演劇界を研究している方の、さらなる掘り起こしを期待します。
あれだけ新聞とも相性がよく、劇壇の人たちから喜ばれていた賞。キレイごとだけじゃなく、14年の歴史のなかには、ヒト悶着もフタ悶着もあったらしくて、その面からも「文学賞」ならぬ「芸術賞」としてまっとうな歩みを見せてくれました。ひょっとして、その終焉がモヤモヤしているのも、誰も真剣にその事業に注目しない、って点で正統派「芸術賞」と呼べるのかもしれません。
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