作家賞 全国の同人誌作家がこぞって目指した賞、ではないけれど。直木賞・芥川賞に併走した大いなる試み。
河出書房新社の「文藝賞」。……この賞名って、ずいぶん、ずいぶんだよなあ、と思うことがしばしばあります。
だって、雑誌名を賞の名前につけるのは、いいんですけど。それは誌名が一般名詞とまぎらわしくない、特徴あるやつだけに限ってほしいよなあ。
そんな「文藝賞」とタメを張るくらいの名前をもった賞。「おいおい、その賞名、どうにかできなかったのか」の代表選手。「作家賞」に出てきていただきましょう。
作家賞さん、恥ずかしがらずに。もっとオモテに出てきてください。
【作家賞(同人対象)受賞作・候補作一覧】(昭和31年/1956年~昭和38年/1963年)
【作家賞受賞作・候補作一覧】(昭和39年/1964年~平成2年/1990年)
そうです。作家賞。ごそんじですか。直木賞のガチなライバル賞として堂々取り上げられるにふさわしい存在です。
あ、ごめんなさい。「芥川賞の」と言い換えなくちゃいけないかもしれませんけど。黙って見逃してください。
かつて『作家』っていう名前の雑誌がありました。同人雑誌です。創刊は昭和23年/1948年1月。同人雑誌といえども、最初のころは取次の日本出版配給を通じて、全国の書店で売られていたらしいです。
この雑誌の創刊から同人だったひとりが、小谷剛さん。まもなく、その『作家』に発表した小説で芥川賞を受けます。
昭和24年/1949年、戦後第1回の受賞。ってことで、例によって例のごとく、さほど騒がれもしなかったとの回想文が残っています。まわりの人からは「ゴミカワ賞、おめでとうございます」「チャガワ賞をおもらいになったそうで」などと言われたとか。60年ほどたった今の、周囲の反応と大して変わりません。これはもう、伝統文化の域ですね。
同人誌『作家』は名古屋で産声をあげました。それがどんどん拡張して、同人が増え、東は北海道、西は広島までいくつもの支部ができ、一大有力同人誌に成長していった……っていう過程については、ばっさり端折らせてもらいます。
創刊から9年。通算の号数も100号に達することになって、同誌はひとつの賞を設けました。これが「作家賞」です。
ただしこのときは、あくまで『作家』に載った同人による作品から選ぶ。っていう極めてウチウチの、とくに拡がりのない装いでした。なので被害(?)もそれほどありませんでした。
既存の大型文学賞との違いは、こんなかたちで表現されています。
「最初に断わっておくが、「作家賞」の対象としては、芥川賞及び直木賞候補作家の作品ははじめから詮衡の対象から外した。つまり藤井重夫・曽田文子・岡田徳次郎・原誠・斎木寿夫・八匠衆一の六人の作品は対象外として取り扱ったわけだ。」(『作家』昭和32年/1957年2月号「第一回「作家賞」発表 詮衡経過」より)
「受賞作家」じゃないんですよ。「候補作家」の作品を外す、という。
たかが候補になった程度で、もう別格扱いです。彼らにとって両賞の候補が、いかなる格を表していたか、よくわかる規定です。
しかしその取り決めは、第2回が終わった段階で、早くも瓦解します。180度の方針転換です。「芥川賞・直木賞の候補になった者の作品も、詮衡の対象とする」と。あるいは第4回では、あろうことか選考委員の稲垣足穂を受賞者にしてしまったりして。さんざん、抗議を受ける羽目になっちゃいます。
自由すぎるぞ作家上層部! ……なあんてのも、一同人誌が勝手に内輪でやっていることですから。外の人間に文句をいう資格はありませんね。
と、思っていたら小谷剛。勝負に出ます。昭和39年/1964年。従来の「作家賞」をとりやめて、新しい「作家賞」をつくるんだと宣言しちゃったのです。
「作家賞刷新 賞金十万円
全国の同人雑誌作品に開放
これまで作家賞は「作家」に発表された作品を対象として与えられていましたが、この閉鎖性を打破しひろく全国同人雑誌に拠る作家のために開放し、賞金もまた一万円より十万円に増額することといたしました。
この企ては、作家賞の刷新が新鋭な文学の誕生のためにいささかでも貢献するのではないかという小誌同人の意見が一致したことによるもので、他に理由はありません。」(『作家』昭和39年/1964年2月号より)
いいっすねえ。「一介の同人誌が全国同人誌に対して賞を出すなんて、何と傲慢な!」みたいな声が寄せられることを見越しての、「他に理由はありません」宣言。
編集世話人(石川清・川口雄啓・桑原恭子・横井幸雄)のなかのひとりは、さらに言います。
「同人雑誌としての性格からはみ出す、という声も出るかも知れないが、すべて文学賞というものの究極の目的は、一グループをこえたところ――日本の文学の発掘なのであるし、同人雑誌の賞であれば尚更、埋もれた本モノの書きてや、不遇な秀作を、派バツやグループをこえて激励するものであってほしい。」(同号「だ行四段」より 署名:(ベリ))
おお。「すべての文学賞の究極の目的」を、そんなところに置きますか。どっぷり芥川賞・直木賞基準に染まっているなあ。あのう、文学賞は新人発掘に限ったものじゃないんですよ、功労賞として発達したものもあるんですよ、ごにょごにょ。
それはいいとして。やはり、この試みは画期的だったそうです。藤井重夫さんは証言します。
「こんど全国の同人雑誌に発表された作品を対象にして選ぶことになった新しい「作家賞」について、期待は大きい。非商業性の同人雑誌が、このような試みをした例は、はじめてガリ版の同人雑誌に名をつらねてから三十二、三年になる私の記憶にもまったくないことである。」(同号「第八回作家賞選評」 藤井重夫「該当作なし」より)
なにせ珍しい形態の企画です。おそらく、新生・作家賞が始まる前から、小谷剛さんのもとには、さまざまな観点で心配・反対・反感の声が投げつけられたでしょうねえ。
批判だろうが罵詈だろうが、そんな声でも多いほうがいいに決まっています。文学賞として正しい方向に足を踏み出した証拠だろうな、と思わずにはいられません。何の反響もない文学賞ほど、寂しいものはありませんから。
ちなみに、小谷さんがまず受けた批判が、これ。
「私のはらはきまった。で、同人のおもなところに相談した。全国の同人雑誌に開放ということには文句がなかったが、十万という額には反対する同人もあった。「そんなに出しては生意気だと思われるぞ」「芥川賞や新潮同人雑誌賞と同額じゃないか」「五万くらいがぶんをわきまえた額だろう」というのだ。」(『新潮』昭和39年/1964年4月号 小谷剛「作家賞十万円の弁」より)
ふふふ。芥川賞と賞金が同じだと生意気と見られるんですか? そんな心配が出てくるところなんぞが。もう。文学賞って、ほんと即物的な性格を有しているよなあ。
このように「作家賞」は拡張の一手を打ちました。金額も増額しました。いちばんの転換点は、むろん「仲間うちの馴れ合い」の場から、大きく風呂敷を広げた、っていうところです。
1960年代中盤でした。この時期に、「すでに発表された作品を対象にして、一同人誌が賞を決める」っていう試みが生まれたことが興味ぶかい。ある種、「昭和10年/1935年、すでに発表された作品を対象に一出版社が賞を決めることにした」つうのと同じくらいの事件であったかもしれません(……って、そりゃ言いすぎか)。
○
新生・作家賞が生まれたころ、世の同人誌事情はどうだったんでしょう。
そりゃもう活況だったそうです。
「(引用者注:昭和41年/1966年)四月、ある大新聞の学芸欄に「同人雑誌は花ざかり」という一頁を埋めての特集記事を読んだ。各地方、各年齢層にわたって同人雑誌の刊行は、他の各種類の刊行物に負けないで、未曽有と云っていい程の盛況だという。」(昭和42年/1967年6月・新潮社刊『文藝年鑑1967』所収 林富士馬「同人雑誌の現況・一九六六年」より)
60年代は同人誌がわっさわっさと刊行されていた、と。
うん。その土壌があったからこそ、つづく70年代に、同人誌×文学賞を描いた数々の名作(?)が生まれたんでしょう。
真下五一『芥川賞の亡者たち』(昭和46年/1971年)であり、松本清張『渡された場面』(昭和51年/1976年)であり、筒井康隆『大いなる助走』(昭和52年/1977年~昭和53年/1978年)であり。あるいは、大岡昇平「盗作の証明」(昭和54年/1979年)。
つまり、かように同人誌の作家たちの生態は面白い、ってことでしょうか。
ただし実際は、このころが、直木賞にとって同人誌離れを加速させた時代だったのでした。
たとえば、こんな見かたをする人がいます。……文壇にデビューする道筋は同人誌からが主流だった。しかし、やがて各文芸誌の新人賞がとってかわり、同人誌はすたれていった。と。
あまりに概略をなぞっただけだし、因果関係にも踏み込んでいないし、ワタクシなぞは、とうてい恥ずかしくて受け入れがたい見かたです。
ええ、正しいんでしょう。でしょうけども、直木賞・芥川賞が盛んに同人誌から候補を選び、「同人誌作家が一夜にして文壇へ!」みたいな状況があったのは、昭和40年代~昭和50年代まで。公募の新人賞がにぎわい出したのは、ほんとにそれ以降なのか。その後、すぐさま同人誌は人気がなくなっていったのか。検証が必要です。
いや。ワタクシが最も気になる点は、もうひとつ他にあります。同人誌に参加していた多くの人たちが、芥川賞をとりたがっていたのは事実でしょう。では彼らはほんとに、直木賞も目指していたのかどうだか。
「第五十四回の直木賞には、新橋遊吉「八百長」と千葉治平「虜囚記」とが選ばれたこともまた記すまでもないことだが、前者は「讃岐文学」(高松市)十三号(八月発行)から、後者は「秋田文学」から直接に選ばれたということは、同人雑誌作家にとっては、すがすがしく、心強く思われたことであろう。」(昭和41年/1966年5月・新潮社刊『文藝年鑑1966』所収 駒田信二「同人雑誌の展望・一九六五年」より)
まじかよ。アノ直木賞ですよ。文学とは程遠い。文学に真剣に打ち込む人が、そんなもの、ほんとに憧れたんですか? だとしたら……まあ、直木賞オタクとしては心強いですけど。
それで「作家賞」です。
はじまった当初、芥川賞はもちろんのこと、直木賞の候補としておなじみの作家、作品も、数多くその候補にのぼっていました。
加藤善也、井上武彦、三好文夫、藤井千鶴子、諸星澄子、粂川光樹……。みな、『作家』に属さない同人誌作家ですが、作家賞で議論にのぼり、また直木賞でも候補に挙げられた面々です。
そもそも主催の『作家』っていう同人誌が、「小説新潮地方版だ」などと揶揄された雑誌ですからね。芥川・直木どちらの賞に偏ることもなく、両賞に似た候補を選んでしまっているのは、たしかに無理ありません。
だいたい、浅田晃彦と中上健次の二人を並べて、次席にしちゃっているんですものなあ。
以来、作家賞は20数年の歴史を刻みます。それは徐々に、直木賞とカブるところが減っていく歴史である。……というと、あまりに偏重した史観なんですが、直木賞の目から見ると、たしかにそうなんです。
作家賞(=同人誌作品対象)と直木賞との乖離。これは全国の同人誌に載る作品が、だんだん力をうしなっていった、からではないと思います。直木賞のほうが、同人誌に目を配るのをやめた、っていう側面のほうが大きいです。
なので、森下節さん、そんなに悲観しないでください。
「同人雑誌文学の不振が叫ばれてからすでに十年近くなる。たしかに、柴田翔、高井有一、柏原兵三らのあとは、同人雑誌出身の芥川賞作家は、完全に姿を消したかの感がある。それでも数年前までは、一般の商業文芸誌に立ち交り、わずかながらも同人雑誌に掲載された作品が、芥川賞、直木賞の候補作にノミネイトされていたのだが、現在ではそうした現象さえもまれになった。
同人雑誌の文学は程度が低い。同人雑誌作家は文壇の第二軍的存在でしかない――こうした同人雑誌軽視論が、いまやともすれば当の同人雑誌作家からも、溜(ため)息とともに洩(も)らされている。」(昭和55年/1980年9月刊 森下節・著『新・同人雑誌入門』「第八章 同人雑誌総論」より)
って、30年も前の文章に慰めの言葉をかけても、意味ないんですけども。
まあ、同人誌のみなさんは、直木賞なんて気にしなくていいと思いますよ。文学の流れや新しさに、大した寄与もしない賞なんですから。
作家賞が小谷剛さんの亡くなる平成3年/1991年まで、着実に、定期的に継続したことのほうが、何ぼか尊いことか。
○
イベント事は、どんなものでもそうでしょう。発表結果が、注目されて、イジられて、相手にしてもらえるのなら、苦労のしがいもあるはず。
逆に何の反響も呼ばず、新聞の片隅ですら触れられず、ネットを見てもただ受賞作だけがずらっと紹介されているだけの、そんな賞のために、あなたはどれだけ力を注げますか。報酬もなしに。
これを何年も何十年も続けてきたのですよ、『作家』および『季刊作家』同人の方々は。もう偉いよなあ、と感嘆するしかありません。
先に引用しましたが、森下節さんの『新・同人雑誌入門』は、その9年前に出された『同人雑誌入門』の増補、ふうなつくりの本です。昭和46年/1971年と昭和55年/1980年。まさに直木賞が同人誌を見捨てた時期と重なるころの文献で、たいへん参考になる記述満載です。
全国の同人誌や、そこで書いている作家たちのエピソードが、どんどん繰り出されているんですもん。みな熱かったんだなあ、情熱を燃やしてたんだなあ。いやあ、「直木賞とってはじめて一人前の作家だよね」とか言っているヤツ、どっか行けよ、って感じです。
そのなかでも、ワタクシがつい引きつけられたエピソード。ある同人誌出身の作家に関する箇所を引用してみます。
中川静子さんです。知っている人は知ってるけど、知らない人は絶対知らない(当たり前だ)、直木賞候補の中川さんです。
「たしか中川静子は「徳島作家」(引用者注:の同人)のはずである。以前は一時期私の主宰する「藝文」の同人であった。
その中川静子の「幽囚転々」が「オール読物新人賞」を受賞、その後、直木賞にノミネートされた。(引用者中略)
「幽囚転々」が直木賞候補にのぼって間もなく、私は彼女が上京して、中野あたりのアパートに籠り、執筆生活をはじめたという報せを受けた。
その文面によると、彼女自身はあまり乗り気でなかったのだが、某出版社編集部の強引な執筆依頼を断わりかねて、当分の間は生活の保証もするという条件を呑んでの上京だった。
出版社でもかなりの力を入れ、一人の女流新人作家を育て上げようとしたのだろうが、それだけの需要や期待に応じられるだけの用意が彼女になかった。(引用者中略)
六カ月後、彼女は一篇の作品も書けず、空しく徳島の田舎へ舞い戻っていった。それはまさしく幽囚転々の日々になった。
たとえ才能はあっても、本来的に器用な人と、生まれながらにして不器用な人とがあるように、中川静子の場合、器用に書けるタイプの作家ではなかった。じっくりと腰を据えて、一本の作品を仕上げていくタイプだった。
そうしたマイペースを守り、自分に合った創作態度をとっていさえすれば、中川静子は堅実な女流作家として育っていたかもしれない。」(同書「第一章 同人雑誌作法」より)
毎月何誌も出る中間小説誌をまたにかけて、ぶいぶい職業作家でやっていく作家。直木賞がもし、そういう作家を見出したいと思うのであれば、同人誌から探してくるのは、どう考えても非効率です。
その非効率の極みにあったのが、まさに中川静子さんが候補になった第52回、第53回ごろ、昭和40年/1965年前後の直木賞でした。
ごぞんじのとおり、直木賞は効率を求めていきました。はなから職業作家でやっている人たちのほうへと、重心を傾けていったのです。
いっぽう作家賞は、当然のことながら、同人誌作品にこだわり続けました。
小谷剛さんは死ぬまで『作家』を続けました。作家賞も継続しました。
「『作家』は私にとって、なにものにもかえがたい分身、というより、いまでは、私自身という思いさえしている」とすら書いた小谷さん。平成3年/1991年死去。その後、豊田穣さんの叱咤激励で旧同人たちが『季刊作家』を創刊して、「作家賞」のかたちをそのままに、「小谷剛文学賞」を続けました。
もはや、ここまでくると、直木賞・芥川賞とはまったく別の歴史です。
新聞に載る、テレビに出る、ネットで騒がれる、そんな文学賞だけを見て好き嫌い言ってちゃいけないんだよなあ。と、自戒をこめて。
作家賞のあとを継いだ小谷剛文学賞は、残念ながら平成13年/2001年、幕を閉じてしまいました。
「十年にわたり続けてきた小谷剛文学賞を、今回で終わるにあたっては、様々な思いがよぎるが、やはり選考委員の先生方との別れが一番こたえたと思う。作家賞時代から通算すると三十余年ものおつきあいをさせていただいた豊田穣さん、八木義徳さん、進藤純孝さんとの別れは、文学賞継続の意気込を徐々に希薄にさせていくのに充分だった。
それでも毎日何冊か届く同人雑誌があると、永年の習性か、十一月で締め切った一年分の同人雑誌から予選通過作品を選ぶ作業、選考会の準備と進めているのであった。書きたい人がいる限り同人雑誌は出版されるだろうし、文学賞も後を断たないだろう。」(『季刊作家』38号[平成13年/2001年6月] 小谷比紗子「小谷剛文学賞を終えて」より)
わあ。わかっていらっしゃる。書きたい人がいるかぎり文学賞は絶えない。
きっとこれからも、多くの文学賞が生まれることでしょう。そして消えていくでしょう。
その賞を目指して物を書く人が、どれほど多かろうと少なかろうと。文学賞には一つ一つ、思いがこもっています。「直木賞・芥川賞をもって、文学賞の大半を語った気になる」文学賞観なんて、くそくらえですわね。
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