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2011年4月の4件の記事

2011年4月24日 (日)

国民文芸賞 注目を浴びた賞。権威ある賞。でもその終焉は誰も(?)知らない。

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 ひそかに確信していることがあります。明治、大正、昭和はじめ、それらの時期には、文学賞に関するお宝エピソードがどっさり眠っているはずだと。

 それを掘り起こせば、直木賞につながる何かが見つかるかもしれません。逆に外れクジばっかりかもしれません。現状、どっちだかわかりません。わからないので、調べてみたくなるわけです。

 明治末期、『早稲田文学』誌が「推讃之辞」を始めました。文部省が主体となって森鴎外さんたちが文藝選奨に取り組みました。いずれも、次の時代に「文学賞」のかたちを受け渡すことなく、泡のように消えていきました。

 そんななかで、大正8年/1919年、まったく手さぐりのまま、一つの賞が大海原にぽつーんと船出します。国民文芸会なる団体が設けた国民文芸賞ってやつです。

【国民文芸賞受賞者・候補者一覧】

 こやつ、なかなかのものです。文学賞が日本に根づいていくなかで、かなり重要な役割を果たしてくれました。

 いくつかその特徴を挙げさせてください。

 その1。「文芸賞」とはいえ、対象が演劇界隈オンリーなところ。

 そうそう。先の『早稲田文学』推讃之辞でも、演劇は一つの部門をなしていましたもんね。明治から大正当時の、文芸界のありよう、あるいは「文芸」っていう用語の使用範囲の広さが垣間見えたりします。

 今の基準でいえば、これは文学賞ではなく演劇賞と呼ぶべきでしょう。この賞を紹介するときに、「文学賞」と区分けする人はあまりいません。

「“国民文芸会”は当時(引用者注:昭和6年/1931年)の財界人、芸術家が一体となった優秀芸術家推奨の権威ある団体で、その賞は当時唯一の“芸術賞”だった。」(平成18年/2006年3月・演劇出版社刊 西形節子・著『近代日本舞踊史』「第五章 新舞踊運動の開花」より)

 芸術に対する賞。具体的にどんな人たちを対象にしていたのか。もう少し詳しく知りたいぞ。……そんな方には、曽田秀彦さんの著書がおすすめです。大正期の演劇運動研究に一生を捧げた方の本です。

「「国民文芸会」の事業目標は、(1)劇作家、俳優、演出家の養成。(2)芸術的にすぐれた推薦脚本の上演。(3)「社会教育」のための演芸の上場。以上の三点であった。(1)としては、毎年、劇作家、俳優、演出家を奨励するための賞金を設ける。(2)は、演出家をつけて、新脚本を興行師に提供して上演させる。(3)は、もっぱら「国民の精神」の改革をめざすものであって、床次内相の口から浪花節の改良が言われ、新聞で嘲笑されるようなこともあった。」(平成7年/1995年12月・象山社刊 曽田秀彦・著『民衆劇場 もう一つの大正デモクラシー』「芸術運動と民衆政策―国民文芸会の設立をめぐって」より 太字・下線は引用者によるもの)

 さあ出ました。ここに「床次」なる大臣の名が登場しましたね。特徴その2につながります。

 その2。最初は、「国家と密接にかかわる贈賞」だった(と思われていた)ところ。

 文藝選奨から文藝懇話会賞芸術選奨にいたるまで、当ブログでは国家による文学賞をいくつも取り上げてきました。じっさい国民文芸賞もその仲間だったんだぜ、と見る人もいます。こんな感じに。

大笹(引用者注:大笹吉雄) (引用者中略)大正版「演劇改良会」ができた。背後にあるのは、大正八(一九一九)年に原敬内閣がつくった「国民文芸会」です。その国民文芸会が、演劇の改善に乗り出した。民衆の動きを政府側は注目している。ロシア革命、米騒動では、民衆が政治を先導した。「国民文芸会」の発想は、日本国内でその波及をいかにとどめるかというものです。そして、演劇改良で民衆を抱き込もうとした。(引用者中略)

今村(引用者注:今村忠純) 「国民文芸会」は会員制で、(引用者中略)相談役は、当時の内相床次竹二郎。つまり、内務省の演劇社会政策の一環としてスタートしています。官政財界一体となって、演劇文化を奨励していこうという趣旨です。(引用者中略)

 「国民文芸賞」には、話題性がありました。(引用者中略)この賞は、今の芸術選奨にあたるのではないでしょうか。会員組織でオープンに行われていたことに特徴があります。ただ、この会のひもつきに対する警戒の声もあった。

大笹 大きな目で見れば、この「国民文芸会」は、関東大震災でポシャってしまうわけです。」(平成15年/2003年10月・集英社刊 井上ひさし・小森陽一・編著『座談会昭和文学史 第二巻』所収「第7章 演劇と戯曲 戦前編」より)

 すごいでしょ。大笹さんの問答無用の断言。「関東大震災でポシャってしまった」。要は、この会の推奨・授賞なんて、とるに足らん俗事だったととらえているわけですね。震災後も10年間弱は続いたんですけど。そんなもの見るに値しない、と。

 悲しいなあ、賞ってやつは。馬鹿にされること果てしなし。

 それでも「国民文芸会」のほうは、立派に研究対象になるらしいです。なぜなら国家とのパイプをもった社会的な組織だったから。賞なんて付けたし。オマケ。いやあ、立派な先生方がそのようにおっしゃるのもわかります。

 しかも悲しいかな、先生方ばかりじゃないのです。かつて文学賞が注目を浴びない浴びないと怒ってくれた我らが味方、菊池寛さんまでもが、似たような見方をしてしまっているんです。

「日本の法律に、著作権を擁護する明文がないために、我々の著作権がしばしば侵害せられる。この弊を防ぐためには、著作出版に関する完全なる法律が制定せらるゝやうに、努力するのが根本の問題である。国民文藝会などは、僭越にも、劇壇の私設賞勲局を以て任ずるよりも、こんな問題にこそ尽力して然るべしであらう。」(大正15年/1926年6月・改造社刊 菊池寛・著『文芸当座帳』所収「著作権の確立」より)

 賞なんかでウツツを抜かしてないで、もっとヤルことヤレよ、コノヤロ。とおっしゃっています。

 しかし逆に考えると、こういう発言が出るってことはアレです。当時の国民文芸賞って、多少なりとも存在感があったんだろうな、と推察できませんか。

 特徴その3。文壇(劇壇)内だけの内輪の催し、といった枠をやすやす打ち破っているところ。

 この賞、けっこう注目されていました。大正8年/1919年度の第1回目の推奨からほぼ毎年、新聞がある程度のスペースを割いて報じてくれていたんですね。10数年間、途切れることなく。

 美術展の入選者ほどではないですけど。ただ少なくとも、昭和10年/1935年ごろの直木賞・芥川賞に割り当てられた量よりは、格段に大きい扱いでした。

 大正期にしてすでに文学賞は、このくらいの潜在的な報道価値は持っていたのだな。そう思うと心強くなりますよね。……ってワタクシだけですか、そうですか。

 大正から昭和初期。まだ直木賞ができる前です。新聞が、ノーベル賞やゴンクール賞など、外国の文学賞を取り上げることはあっても、国産の賞で記事にしてもらえるのは、「懸賞」=公募型の賞ぐらいなものでした。そのなかでひとり気を吐く国民文芸賞の図。

 新聞の人たちは、なぜこの賞に食いついてくれたのでしょう。

 ひとつには、出発点が政界・財界を巻き込んだものだった、つうことがあったんでしょう。あるいは、芸能(あるいは芸能界)のもつ大衆アピール力も見逃せません。「みんな演劇やら役者やらが大好きだよね」っていう。

 そして最重要項目。単に推奨して拍手して終わり、の行事じゃなかったこと。賞金ないし賞品があったことです。

 なにせ目に見えないものはわかりづらいですから。具体的なお金や物がそこに介在していたことが、結果、新聞屋にとってはわかりやすかったんじゃないでしょうか。

 明治の文藝選奨や、昭和の文藝懇話会賞の場合、それはお金でした。国民文芸賞に賞金があったかどうかは不明です。ただ、賞品があったことは確実です。なぜなら新聞がしっかりと報じてくれているからです。

国民文芸会表彰者

菊五郎と決定

廿三日記念時計贈与(『読売新聞』大正13年/1924年1月14日の見出しより)

 記事本文でも「記念金時計を贈与する」と、形の見えるものを記事に落とし込んでいます。

 そう。みんなに知ってもらうためには、何か目に見えるものが大切だよなあ。

 直木賞と芥川賞だって、最初は「一年で二千円!」の賞金額で勝負しました。しかし、これでは効き目がなかったらしく、結局戦後になって、若い男のルックスや、芸能界(映画界)の力を借りることでようやく、新聞で大きく扱ってもらえるようになったわけですもの。

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2011年4月17日 (日)

作家賞 全国の同人誌作家がこぞって目指した賞、ではないけれど。直木賞・芥川賞に併走した大いなる試み。

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 河出書房新社の「文藝賞」。……この賞名って、ずいぶん、ずいぶんだよなあ、と思うことがしばしばあります。

 だって、雑誌名を賞の名前につけるのは、いいんですけど。それは誌名が一般名詞とまぎらわしくない、特徴あるやつだけに限ってほしいよなあ。

 そんな「文藝賞」とタメを張るくらいの名前をもった賞。「おいおい、その賞名、どうにかできなかったのか」の代表選手。「作家賞」に出てきていただきましょう。

 作家賞さん、恥ずかしがらずに。もっとオモテに出てきてください。

【作家賞(同人対象)受賞作・候補作一覧】(昭和31年/1956年~昭和38年/1963年)

【作家賞受賞作・候補作一覧】(昭和39年/1964年~平成2年/1990年)

 そうです。作家賞。ごそんじですか。直木賞のガチなライバル賞として堂々取り上げられるにふさわしい存在です。

 あ、ごめんなさい。「芥川賞の」と言い換えなくちゃいけないかもしれませんけど。黙って見逃してください。

 かつて『作家』っていう名前の雑誌がありました。同人雑誌です。創刊は昭和23年/1948年1月。同人雑誌といえども、最初のころは取次の日本出版配給を通じて、全国の書店で売られていたらしいです。

 この雑誌の創刊から同人だったひとりが、小谷剛さん。まもなく、その『作家』に発表した小説で芥川賞を受けます。

 昭和24年/1949年、戦後第1回の受賞。ってことで、例によって例のごとく、さほど騒がれもしなかったとの回想文が残っています。まわりの人からは「ゴミカワ賞、おめでとうございます」「チャガワ賞をおもらいになったそうで」などと言われたとか。60年ほどたった今の、周囲の反応と大して変わりません。これはもう、伝統文化の域ですね。

 同人誌『作家』は名古屋で産声をあげました。それがどんどん拡張して、同人が増え、東は北海道、西は広島までいくつもの支部ができ、一大有力同人誌に成長していった……っていう過程については、ばっさり端折らせてもらいます。

 創刊から9年。通算の号数も100号に達することになって、同誌はひとつの賞を設けました。これが「作家賞」です。

 ただしこのときは、あくまで『作家』に載った同人による作品から選ぶ。っていう極めてウチウチの、とくに拡がりのない装いでした。なので被害(?)もそれほどありませんでした。

 既存の大型文学賞との違いは、こんなかたちで表現されています。

「最初に断わっておくが、「作家賞」の対象としては、芥川賞及び直木賞候補作家の作品ははじめから詮衡の対象から外した。つまり藤井重夫曽田文子岡田徳次郎原誠斎木寿夫八匠衆一の六人の作品は対象外として取り扱ったわけだ。」(『作家』昭和32年/1957年2月号「第一回「作家賞」発表 詮衡経過」より)

 「受賞作家」じゃないんですよ。「候補作家」の作品を外す、という。

 たかが候補になった程度で、もう別格扱いです。彼らにとって両賞の候補が、いかなる格を表していたか、よくわかる規定です。

 しかしその取り決めは、第2回が終わった段階で、早くも瓦解します。180度の方針転換です。「芥川賞・直木賞の候補になった者の作品も、詮衡の対象とする」と。あるいは第4回では、あろうことか選考委員の稲垣足穂を受賞者にしてしまったりして。さんざん、抗議を受ける羽目になっちゃいます。

 自由すぎるぞ作家上層部! ……なあんてのも、一同人誌が勝手に内輪でやっていることですから。外の人間に文句をいう資格はありませんね。

 と、思っていたら小谷剛。勝負に出ます。昭和39年/1964年。従来の「作家賞」をとりやめて、新しい「作家賞」をつくるんだと宣言しちゃったのです。

作家賞刷新 賞金十万円

 全国の同人雑誌作品に開放

 これまで作家賞は「作家」に発表された作品を対象として与えられていましたが、この閉鎖性を打破しひろく全国同人雑誌に拠る作家のために開放し、賞金もまた一万円より十万円に増額することといたしました。

 この企ては、作家賞の刷新が新鋭な文学の誕生のためにいささかでも貢献するのではないかという小誌同人の意見が一致したことによるもので、他に理由はありません。」(『作家』昭和39年/1964年2月号より)

 いいっすねえ。「一介の同人誌が全国同人誌に対して賞を出すなんて、何と傲慢な!」みたいな声が寄せられることを見越しての、「他に理由はありません」宣言。

 編集世話人(石川清・川口雄啓・桑原恭子・横井幸雄)のなかのひとりは、さらに言います。

「同人雑誌としての性格からはみ出す、という声も出るかも知れないが、すべて文学賞というものの究極の目的は、一グループをこえたところ――日本の文学の発掘なのであるし、同人雑誌の賞であれば尚更、埋もれた本モノの書きてや、不遇な秀作を、派バツやグループをこえて激励するものであってほしい。」(同号「だ行四段」より 署名:(ベリ))

 おお。「すべての文学賞の究極の目的」を、そんなところに置きますか。どっぷり芥川賞・直木賞基準に染まっているなあ。あのう、文学賞は新人発掘に限ったものじゃないんですよ、功労賞として発達したものもあるんですよ、ごにょごにょ。

 それはいいとして。やはり、この試みは画期的だったそうです。藤井重夫さんは証言します。

「こんど全国の同人雑誌に発表された作品を対象にして選ぶことになった新しい「作家賞」について、期待は大きい。非商業性の同人雑誌が、このような試みをした例は、はじめてガリ版の同人雑誌に名をつらねてから三十二、三年になる私の記憶にもまったくないことである。」(同号「第八回作家賞選評」 藤井重夫「該当作なし」より)

 なにせ珍しい形態の企画です。おそらく、新生・作家賞が始まる前から、小谷剛さんのもとには、さまざまな観点で心配・反対・反感の声が投げつけられたでしょうねえ。

 批判だろうが罵詈だろうが、そんな声でも多いほうがいいに決まっています。文学賞として正しい方向に足を踏み出した証拠だろうな、と思わずにはいられません。何の反響もない文学賞ほど、寂しいものはありませんから。

 ちなみに、小谷さんがまず受けた批判が、これ。

「私のはらはきまった。で、同人のおもなところに相談した。全国の同人雑誌に開放ということには文句がなかったが、十万という額には反対する同人もあった。「そんなに出しては生意気だと思われるぞ」「芥川賞や新潮同人雑誌賞と同額じゃないか」「五万くらいがぶんをわきまえた額だろう」というのだ。」(『新潮』昭和39年/1964年4月号 小谷剛「作家賞十万円の弁」より)

 ふふふ。芥川賞と賞金が同じだと生意気と見られるんですか? そんな心配が出てくるところなんぞが。もう。文学賞って、ほんと即物的な性格を有しているよなあ。

 このように「作家賞」は拡張の一手を打ちました。金額も増額しました。いちばんの転換点は、むろん「仲間うちの馴れ合い」の場から、大きく風呂敷を広げた、っていうところです。

 1960年代中盤でした。この時期に、「すでに発表された作品を対象にして、一同人誌が賞を決める」っていう試みが生まれたことが興味ぶかい。ある種、「昭和10年/1935年、すでに発表された作品を対象に一出版社が賞を決めることにした」つうのと同じくらいの事件であったかもしれません(……って、そりゃ言いすぎか)。

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2011年4月10日 (日)

サンデー毎日大衆文芸 権威であり登龍門であり、作家を志す者のあこがれ。直木賞の先行型。

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 直木賞は大衆文芸の賞です。

 と、さっくり言っちゃえば、ああそうなの、で素通りしてしまいそうな一文です。でも、じっくり見つめてみましょう。じつは、この一文のなかには、さまざまな道のりや、信念や、混乱が無限に広がっているらしいんですよね。

 時代を巻き戻します。直木賞ができたのは昭和10年/1935年。そのきっかけになった直木三十五の死が、昭和9年/1934年。そこから、ほんの8年だけさかのぼります。

 大正15年/1926年。

 前年から白井喬二さんを中心に一つの同人誌が計画されていました。その『大衆文藝』創刊号が発刊されたのが、この年の1月1日付。大衆文芸にとって記念すべき年、とも言われます(って、結構、記念すべき年はいっぱいあるんですけど)。

 『大衆文藝』誌は新聞広告などもチラチラ出します。ついに大衆文芸陣営による文壇なぐり込みが始まったわけです。

 ほどなくして3月。白井さんのおかげで売れ行きを立て直してもらった『サンデー毎日』誌が、ひとつの懸賞募集記事を載せました。

 懸賞そのものは、当時から新聞雑誌の定番企画でしたから、別段、目新しくもありません。そこに「大衆文芸」の名を用いたこと。これが『サンデー毎日』の偉いところでした。

【サンデー毎日大衆文芸入選作一覧】

 大正15年/1926年3月7日号の表紙に、やや大きめに「千五百円懸賞 大衆文藝募集規定」の文字が躍ります。

 ところで大衆文芸って何ですの? そんな読者からの声なき声に、『サンデー毎日』はその募集記事で、単純明快に、こう解説してくれました。

「左の規定に依て『大衆文藝』創作の募集をします、翻訳を除く外新講談、探偵小説、通俗小説等構想は随意ですがサンデー毎日に掲ぐるものとして、興味本位のものを望みます」(「懸賞「大衆文藝」作品募集」より)

 新講談ってごぞんじですか? まあ何でもいいけどとにかく読者が食いつくようなもの送れ、ってことでしょうか。

 何でもいい。……ここが「大衆文芸」にとっての、始動直後にして重要な岐路だった。……と見えるのは、あとから歴史を追う者の勝手な見立てなんでしょう。まあ続けさせてください。

 じっさい「大衆文芸」という言葉には、大きく分けて二つの軸があります。

 ひとつは文学運動を指す姿です。

「大衆文芸が通俗文学とその本質を異にしている最も顕著なる特徴の一つを、我々は大衆文芸の積極的なる理論のうちに見出すことができる。言い換えると大衆文芸が明確なる文学運動として発足しているところにこそ、すなわち文学上における新しい主張と若々しい情熱とをもって、長い文学の歴史の上にその未だ現われなかったところのものを提唱し、樹立し、完成しようと意図したところにこそ、大衆文芸の真に大衆文芸たるの面目がみられるのである。」(昭和48年/1973年7月・桃源社刊 中谷博・著『大衆文学』所収「理論家としての白井喬二氏」より ―初出『大衆文藝』昭和16年/1941年1月号)

 通俗小説、読物文芸、新講談、そういった類の言葉と、大衆文芸とは何が違うのか。明確なる文学運動としてスタートした点なんだそうです。

 たしかに白井喬二さんは、大正13年/1924年ごろから意識的に「大衆」という言葉を、随筆などで使用し始めていたらしい。その結晶が大正15年/1926年の『大衆文藝』誌創刊につながるのだと。

 しかし、仮に白井さんが、大衆文芸の確立者であって、初期にあらわれた随一の理論家だったとしてもですよ。「おれたち、大衆文芸やるぜ」と宣言して、ババーッと広がるのであれば、苦労はありません。いくら大正デモクラシーだの、民衆たちの意識が高まっていただの、そんな時代背景があったとしても、です。

 白井さんの言うことに、ほんとうに「大衆」が耳を傾けたのか。それは疑問でしょう。

 さあ、そこで第二の「大衆文芸」のお出ましです。第二といいますか、こっちのほうが時代としては先だったみたいですけど。

 マスコミ用語としての「大衆文芸」ですね。

 別名、レッテルとも言います。商売のための分類、でもあります。あれですか、「Jブンガク」みたいなものですか。とりあえず新奇な言葉を名づけちゃえ、そしたらバカな大衆どもが目を向けてくれるだろ、みたいな感じです。

 そもそも「大衆文芸」なる言葉の発生源には、長く長く、それこそ直木賞ができる前から長ーく伝えられてきた伝説があります。『講談雑誌』の編集者、生田蝶介さんが広告文を書くときに、はじめて「大衆文芸」を使ったのだと。ね。宣伝の観点から発生した(と言われている)のが、すごく興味ぶかい。

 白井さんも思い出しています。

「ぼくは新しい文学を唱えるにあたって、従来の国民、人民、民衆という呼び方は上から見下ろす語気を感ずるので、彼我平坦に立つ言葉として「大衆」をえらんだ。「大衆文芸」と四字にまとめたのは恐らくマスコミであろう。」(昭和58年/1983年4月・六興出版刊 白井喬二・著『さらば富士に立つ影 白井喬二自伝』「二十一日会と『大衆文藝』」より)

 ええと、マスコミ語としての「大衆文芸」。この場合は、大衆文芸がどんな作品を指すのか、どんな文芸ジャンルとして発展していけばいいのか、などはとくに関係ありません。くくることが第一の目的ですから。

「そのときの生田はこの〈大衆文芸〉という語を明確な問題意識で用いたわけではなかった。それ以前には〈民衆文芸〉という言いかたもあった。生田はその辺から漠然と、雑誌の目次コピー用に民衆を大衆と一字だけ取り替えて、〈大衆文芸〉なる語を発案した。」(平成17年/2005年11月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『時代小説盛衰記』「第四章」より)

 大村さんもバッサリ書くなあ。ほんとに明確な問題意識なかったのかいな。

 ただ、たとえば次のような新聞記事とかを読むと、ああ、ジャーナリズムの人にとっちゃ問題意識もクソもなかったんだろうな、という感じは伝わってきます。

「「大衆」は時代の合ひ言葉だ。今や大衆は、奪はれてゐたすべての権利、圧へつけられてゐたすべての欲求を奪還し、充足し始めた。文学もその例にもれるはずはない。」(『東京朝日新聞』昭和4年/1929年6月27日「文芸盛衰記 新興文学の巻(十五)新興大衆作家の群」より)

 大衆が読むもの、これすべて大衆文芸。乱暴です。大ざっぱです。「大衆」の響きだけをお借りして、何かが語られた気になってしまいます。

 何でもかんでも「大衆文芸」と呼ばれはじめました。それを提唱者の白井喬二さんらは黙して受け入れてしまいました。そこから大衆文芸の衰亡は始まった、と中谷博さんは言っています。

 そう。昭和になって何年かするうちには、「大衆文芸」って何を指すのか、早くもわからなくなってしまっていたのでした。

 その原因の一端を担っていたのは、確実に『サンデー毎日』でした。なにしろマスコミの一つです。機敏に「大衆文芸」の語に飛びつく先見性を持っています。「大衆文芸? 何でもいいじゃん」と言い放つぐらいの、無節操さも合わせ持っていました。

 こうして大衆文芸は、昭和10年/1935年に突入していきます。

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2011年4月 3日 (日)

日本冒険小説協会大賞 賞を形容する言葉はいろいろあれど、「熱くて清い」文学賞といえば、これ。

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 祝、西村健さん日本冒険小説協会大賞受賞! 先日の同協会全国大会で受賞が発表されたそうです。めでたいめでたい。

 で、ワタクシは日本冒険小説協会の会員ではありません。野次馬です。遠巻きでみているだけです。意見も苦情もありません。バンバンやってください。

 にしても気になります。日本冒険小説協会大賞とは何でしょうか。ちょうどここに、12年前、その西村さんが同賞を説明してくれている文章があります。

「全国の会員(“公称”五百有余名)から寄せられた投票により、「昨年出版された本の中でこれが一番面白かった」一冊を決定する。内藤陳会長と言えど、その集計結果に異を差し挟むことは許されない厳正さだ。どんな基準で指名されたか定かではない選評者達が、様々な思惑と圧力の中で選出するどこかの作品賞とは全く違う。自らのお金で本を買う読者達の純粋な思いが結集する、最も気高い賞だと我ら会員は自負している。」(『ミステリマガジン』平成11年/1999年7月号 西村健「日本冒険小説協会全国大会レポート」より)

【日本冒険小説協会大賞受賞作一覧】

 だはは。うちのブログとしては、面目ない、としか言いようがありませんな。「どんな基準で指名されたか定かではない選評者達が、様々な思惑と圧力の中で選出するどこかの作品賞」のことばかり注視しちゃって。ほんと恥ずかしい。

 本来、日本冒険小説協会大賞(長いので「冒険小説大賞」と略す)のことは、協会員の方が歴史・展開・問題点・すったもんだをまとめていただければいいわけです(もうすでに、あるのかな?)。ワタクシがご紹介する同賞の歴史は、内藤陳さんの『読まずに死ねるか!』全5巻に書かれていることをなぞっただけのものです。ご容赦ください。

 同賞は、次のようなことが発端だったそうです。

 1. 内藤陳さんの呼びかけで協会ができた。2. 陳さんが新宿に酒場をオープンして協会員たちがたむろった。ってところから、

「ま、ちいと身体はすりへるが、『深夜+1』はオープンして正解だったみたい。どこからこんなに集まるのか! と思えるぐらいに心優しきAF(引用者注:アドベンチャー・フィクション)好きが、ハードボイルド狂が押しかけてくる。(引用者中略)とくにうれしいのが、我らが日本冒険小説作家軍の意気込みのすごさ。今年から国内・海外各1作の『日本冒険小説協会大賞』を決定し、黄金のネームを入れた最高のモデルガン=ガヴァメントをAFの会が送るのだ。――というわけで、日本軍の大賞はオレがとる、いやオレだと、大変な騒ぎ。」(昭和58年/1983年5月・集英社刊 内藤陳・著『読まずに死ねるか!』「航空小説2題。空を飛ぶのって楽しいだろうナ」より)

 SFファンの集まりである「日本SF大会」は、ファンの手による賞を始めるまでに約10年かかりました(星雲賞のエントリーを参照のこと)。しかしここでは、結成したその年から早くも、投票で賞を決めようぜ、と決定してしまっています。

 しかも、この冒険小説大賞、昭和58年/1983年から毎年春に協会が行う全国大会では、堂々のメインイベントなのだそうです。小説を愛する人たちが、仲間たちとともに作品・作家に感謝を捧げることで、心を躍らせ大いに盛り上がる。美しいじゃないですか。文学賞。

 考えてみますと、文学賞に対する褒め言葉、って何種類もあります。

 たとえば「信頼できる」。シブいですね。小説を読んでいるからって、誰でもかれでも、正しい判断が下せるわけじゃないぞ。この賞は、道を究めた者のみに許された領域に達してる!……みたいな感じで、高貴ですね。

 あるいは、「売れる」。即物的なにおいがします。バカっぽいです。でも、これで文学賞の良し悪しをはかる人種もけっこういますから、案外あなどれない「讃辞」です。

 それらと同じような褒め言葉として、「美しい」文学賞、「清廉な」文学賞、って表現もまたアリでしょう。

 熱くてかつ清い。なにせ「冒険小説の」協会ですから。この団体にしてこの賞あり。ハマり具合、ぴったりです。

「日本には、本について、いろいろなナントカ賞がすでに多い。そのほとんどは、選考委員(つまりプロ(原文ルビ:ベテラン)の作家や評論家です)があれやこれやとリクツをつけて、ふり落したり当選させたりするものだ。ところが、ウチの場合、まず、読者の反響(原文ルビ:コウフン)がダイレクトに、作家に伝わるのだから、これはこたえられない感激だろうと思うノダ。

(引用者中略)

名誉と誇りなら大手出版社の○×賞にも負けやしない。」(昭和62年/1987年8月・集英社刊 内藤陳・著『読まずに死ねるか!PART3』「冒険小説協会風雲録」より)

 ついでに、もうひとつだけ、文学賞の褒め言葉を挙げさせてください。「権威ある」。よく聞きますね。意訳すると、「文学賞界の悪者、ガン、嫌われ者」という意味です。この言葉の付いた賞を見ると、多くの人が興奮します。「権威」なる言葉に反応して、それーっ、やっつけろーと飛びかかっていきます。澄んだ目と心で、賞の実態を見ようとする行為を阻みます。おそろしい言葉です。

 それは置いときまして。

 冒険小説大賞ができたのは、昭和58年/1983年でした。ちょうどそのころは、北上次郎さん言う「黄金の80年代」。日本において冒険小説の流れが一気に怒濤と化した、と見立てられている時代です。

「昭和五十年代の冒険小説ムーブメントは、まず昭和五十二年谷恒生『喜望峰』『マラッカ海峡』で幕を開ける。(引用者中略)そういう作品がこの年に生まれたことの背景にはその前年、生島治郎『夢なきものの掟』、三浦浩『さらば静かなる時』、伴野朗『五十万年の死角』、小林久三『灼熱の遮断線』、山田正紀『謀殺のチェス・ゲーム』、田中光二『失なわれたものの伝説』という活劇寄りのサスペンス・ミステリーやアクション小説が数多く書かれていたことが伏線としてある。昭和五十一年に突如してこれらの活劇小説がいっせいに書かれた事実は記憶されていい。」(平成5年/1993年12月・早川書房刊 北上次郎・著『冒険小説論』「八〇年代のオデッセイア」より)

 北上さんは「ブーム」とは言わず「ムーブメント」と表現しています。

 そうでしょう。昭和50年/1975年に入ったあたりから、冒険小説と名のつく活劇、ハードボイルドと名のつく物語が、読者に受け入れられて、発展し成長し……という過程は、とうてい「一過性のブーム」と切り取ってはいけない気はします。

 時に『本の雑誌』の創刊が昭和51年/1976年。「冒険小説」(だけじゃないけど)の楽しさを伝えつづけ始めます。片や、内藤陳さんが『月刊PLAYBOY』で連載を始めたのが昭和53年/1978年。

 昭和50年代初頭。冒険小説の開花まぢか。

 と一般的には思いますよね。でも、世の中にはいろんな人がいます。「直木賞(の受賞作)こそ、日本の大衆小説界を映している鏡」と頑なに信じる人がいたとしたら。きっと彼らにとっての昭和50年代はコレです。笑わないでください。

 ……昭和50年代、日本の大衆小説は低迷していた。……

 ぷっ。すみません、ワタクシが先に笑ってしまいました。失礼。

 直木賞では、昭和50年/1975年~昭和54年/1979年の5年間、全10回あったうち何と半分も、受賞作なし、だったんです。ど、どういうことですか。

 ええと、そこに見えてくるのはつまり、「冒険小説では直木賞がとりづらい」歴史があったということです。

 よく言われます。「推理小説・ミステリーでは直木賞がとれない」(いつの時代だ?)。「SFでは直木賞がとれない」(継続中)。冒険小説もまた、そのお仲間でした。

 直木賞ファンにとっては、大変心の痛む歴史です。昭和50年代。冒険小説の素晴らしさに気づいて、わっさわっさと盛り上がりだした人があんなに多くいたのに。なにほども手を出せなかっただらしのない直木賞を見るのは、ほんとうに、せつない。

 でも現実です。

続きを読む "日本冒険小説協会大賞 賞を形容する言葉はいろいろあれど、「熱くて清い」文学賞といえば、これ。"

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