二科展入選 新聞に大きく取り上げられることでは、直木賞・芥川賞を凌駕した。
うちのブログで扱う「直木賞のライバル賞」は、大きく分けて4つあります。
1つは、大衆文芸(やら中間小説やらエンタメ小説やら)の文学賞。賞の運営者がみずから、直木賞のライバルたることを目指すと発言したものもあります。しかし、多くは勝手にワタクシがライバルと見立てたものです。
2つ目は、文学賞じゃないけど非常に直木賞っぽい賞。土門拳賞や文藝春秋漫画賞などは、ここに属します。
3つ目は、直木賞をはじめ文学賞はたくさんあれど、その起源と思われるもの。明治、大正、昭和初期に咲いて、はかなく散った、いくつかの試みのなかから、どんな性質が直木賞へと受け継がれていったかを知りたいと思っています。
そして。4つ目。正真正銘のライバル。直木賞の運営者側が、はっきり名指しでライバル視した賞。
すでに扱ったところでいえば、文藝懇話会賞があります。それとともに、直木賞をつくった張本人が比較対象の俎上に乗せました。大変由緒正しき(?)ライバル。二科展です。
そうです。菊池寛さんの有名な怒号をお聞きください。第1回(昭和10年/1935年・上半期)の直木賞・芥川賞を発表した翌月の「話の屑籠」から。
「芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があったのには、憤慨した。そのくせ、二科の初入選などは、写真付で発表している。幾つもある展覧会の、幾人もある初入選者とたった一人しかない芥川賞、直木賞とどちらが、社会的に云っても、新聞価値があるか。あまりに、没分暁漢(原文ルビ:わからずや)だと思った。そのくせ文芸懇話会賞の場合はちゃんと発表しているのである。
尤も、新聞社のつもりでは広告関係のある雑誌社の催しなどは、お提灯記事になる怖れがあるというので出さないのであろうか。広告関係があると云う場合は、それだけ親善さがあると云うのではないだろうか。或は亦、広告関係のある雑誌社の記事などは、金にならない活字は、一行も使いたくないと云うのであろうか。
○
むろん芥川賞、直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。その事は最初から声明している。しかし、半分は芥川直木と云う相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の擡頭を助けようと云う公正な気持からやっているのである。この半分の気持から云っても、新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいゝと思う。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年10月号「話の屑籠」より)
どうです。このひがみ根性。やっかみ。あるいは、自己中心的な物言い、と断じていいかもしれません。
菊池さんは言いました。「新聞価値」。二科展の初入選と、直木賞・芥川賞の受賞、どちらに報道する価値があるか。……まあ、どっちもどっちという気がしないでもありませんが、しかし確かに二科展に対する当時の新聞報道は、そうとうデカい。「うちの賞のほうが……」とネタむ気持ち、わからんでもありません。
二科展に限ったハナシじゃないんですよね。明治後期から大正、昭和はじめ……20世紀前半において、新聞のなかでの美術展の扱いは、そりゃもう、破格です。
文展(文部省美術展覧会)からの、帝展(帝国美術院展覧会)、日展(日本美術展覧会)への移り変わり。官制の権威のもとに集う連中。それに反抗して始まった二科展。そんな権力闘争めいた動きを見るだけで、ワタクシも昂揚する口です。あなたもですか。
まあ、そういったゴシップネタならば、新聞をにぎわすのも理解できます。そうではなく、毎年開かれる文展、院展(日本美術院展覧会)、二科展、その他の美術展の、審査員が誰になっただの、搬入が始まっただの、入選者が決まったので全氏名を紹介しましょうだの。そんな美術関連の記事に、紙面の多くが割かれていました。
ブログ「Chinchiko Papalog」でも紹介されているように、一日に一万人規模で入場者を集めていた、大人気の美術展。いっぽう、うなぎ登りで部数を増やしていった日本の新聞各紙。「美術展で誰が入選したんだろう」といった興味が、大衆のなかで、ぐんぐん高まっていったと。大正から昭和。そんな時代です。
美術展の話題は、今よりもっと強く新聞紙面の華でした。広津和郎さんは述懐します。
「樗牛賞がついたという事で小出君(引用者注:小出楢重)の名は一遍に人に知られたが、その当時は文展や二科に初入選したというだけで、今よりは新聞などで騒がれ、それが賞がついたとなると、大々的に書き立てられたものであった。そこで小出君のその百姓家の一室には各社の記者諸君が競争で出かけたらしいが、(引用者攻略)」(平成4年/1992年10月・岩波書店/岩波文庫 広津和郎・作、紅野敏郎・編『新編同時代の作家たち』所収「奈良と小出楢重」より ―初出『天平』3号[昭和23年/1948年12月])
ああ。まるで、文学賞受賞者に新聞記者が群がるさまを見ているようだな。
入選したなかでも、とくに初入選した人は、こぞって紹介される傾向にありました。初期のころは、「若くして」とか「才媛が」とか、そういう入選者が取り上げられていました。
では、昭和10年/1935年当時。じっさいに二科展記事はどんなふうになっていたんでしょうか。
新聞は何紙もありましたが、菊池寛さんをイラッとさせたのは、おそらく『東京朝日新聞』でしょう。この新聞だけが、東京の主要紙のなかで唯一、第1回直木賞・芥川賞の決定を報じなかったからです。
そしてこのときの、東京朝日の二科展入選者記事。ふつうに笑えますよ。菊池さんの言うとおり5名の顔写真付きです。入選のうちとくに優秀な人、を取り上げているわけじゃありません。報道の基準は「ほら、こんな意外な人物が入選したんですよ」っていう一点です。
「コックさんお手柄
二科初入選の変種
長谷川勝人君
二科初入選、美術の秋をいろどる色調の中から、葡萄のやうに新鮮な女性の姿や、風変りな努力の人を拾って見る、五点出品して二点初入選してゐる長谷川勝人君(三三)は麻布区龍土町のエフ・シュバリエ氏方のコックさんだ、御主人が外出する暇を盗んでは製作し是迄も五、六回出品してゐたがいつも落選、然し今度は全審査員が絶讃してゐる程の出来栄だ、」(『東京朝日新聞』昭和10年/1935年8月31日より)
紙面でどれだけのスペースが二科展入選に割かれたか。試しに図にしてみました。比較のために直木賞・芥川賞の紹介記事も、同じようにつくりたかったんですが、先述のとおり、このとき東京朝日に発表記事はなし。一年後の第3回(昭和11年/1936年8月11日紙面)と比べてみましょう。
悲しいぜ、直木賞・芥川賞。
二科展だって大正3年/1914年にスタートして、はじめの頃は、文字だけの入選紹介でした。しかし、10年もしないうちに「初入選」にスポットが当てられるようになり、とくに女性入選者の顔写真がデッカデカと載るぐらいに、報道価値を認めてもらうようになっていました。
対して、われらが直木賞のほうは。菊池寛さんが亡くなる昭和23年/1948年までには、ついにそこまでの価値を得るには至りませんでした。
文学賞としての権威はそれなりに付いたんですけどね。直木賞・芥川賞というと、誰でも思いつく要素――「新聞にデカデカと載る」、その地位を獲得したのは、ちっとも菊池寛さんの手柄ではなかったのです。残念。
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