坪田譲治文学賞 「大人向け小説」でもなく、「児童文学」でもなく。曖昧な路線を行くことを運命づけられた賞。
無意識のうちに、紋切り型の表現を使ってしまっていること、よくあります。そんな自分の文章をあとで読むと、こっ恥ずかしいし、反省もします。だけどすぐ忘れて、また紋切り型、使っちゃうんですよね。
このブログでは、さんざんっぱら、「○○文学賞はユニークだ」みたいな表現をしてきました。でも逆に、(おのれに)問いたい。ユニークでない文学賞なんて、存在するのかいな、と。
そして坪田譲治文学賞。これもまた、直木賞や芥川賞、その他多くの文学賞と同じくらいに、ユニークです。
昭和47年/1972年、石川県金沢市が、五木寛之さんの力を借りて、「泉鏡花文学賞」を創設しました。それから12年。「全国的に発売された創作物を対象に、地方自治体が賞を贈る」第二の試みが、岡山市でスタートします。
昭和59年/1984年。坪田譲治さんが亡くなって、2年ほど経った頃でした。
「同市(引用者注:岡山市)では現在、市民を対象に毎年「市民の童話」を募集しているが、坪田さん死亡を契機に一般でも顕彰の動きが盛り上がったころから松本(引用者注:当時の市長・松本一)市政の重要施策の一つである文化振興の一環として児童文学賞の制定に踏み切る。
同市教委の構想によると、授賞作品は毎年度全国で発刊された単行本、雑誌、同人誌などに掲載された童話、少年少女小説から選ぶ。」(『中國新聞』昭和59年/1984年3月3日「岡山市、児童文学賞を制定へ」より)
ふむふむ。岡山市は、坪田譲治を生んだ街だと。なるほど。昭和46年/1971年からは、市民から創作童話を募集して、毎年、優秀作を表彰する「市民の童話」事業を根づかせてきたと。立派じゃん。「童話の街・岡山」をもっと外部にアピールしていこうと、「坪田譲治児童文学賞(仮称)」をつくるんですって。いいぞ、やれやれ。
……といったところまでは、ストレートな歩みです。ひっかかるところがありません。
しかし、ふたを開けてみれば。ハナシは違ったほうに向かっていました。
賞名「坪田譲治文学賞」。……児童、の文字が抜けています。
世には、「童話」だの「児童文学」だの「ヤングアダルト向け」だの「少年少女を描いた成人小説」だの、いろいろある。でも、そんなジャンル分けは、とりあえずやめとこうぜ。っていう、ほとんど暴挙にも近い、勇気あふれる思いが、そこにはありました。
子ども向けにも、大人向けにも、どちらにもなりうる作品を評価しようと。一つの英断です。このことで、坪田賞は、他にはない独自の魅力をもつことに成功してきました。反面、つねに爆弾を抱えているとも言えます。
最初の最初、与田準一さんは言いました。
「「私は小説も書けば童話も書きます。これを二足のワラジをはいていると思う人があるかも知れませんが、私はそう考えておりません。童話も小説も文学であるという考え方です。文学は一つであるという思い方です。おとなの文学も子どもの文学も、みんなことばの芸術であるという解釈です。」
これは坪田さんの文章からの抜き写しですが、じつに分かり易い一家言です。しかし、譲治文学独特の性格が明かされてもいます。(引用者中略)
さて、この平凡なようで非凡な業績を記念する坪田譲治文学賞から、どんな作品が生まれるでしょうか。」(昭和61年/1986年2月・岡山市文学賞運営委員会刊『第1回坪田譲治文学賞』所収 与田準一「坪田譲治文学賞について」より)
童話や児童文学を対象にする賞は、すでにたくさんありました。しかし、「子供も読める大人向け文学」となりますと、それらと似ているようで、まあ全然ちがいます。ちがいすぎます。
平凡なようで非凡。まさに。この賞がスタートの段階から、苦闘、混乱、難渋の歴史を刻むであろうことは、容易に想像できていたでしょう。
選考委員のみなさんも、ずいぶん悩んできました。そのさまを、ざーっと選評から引用して、ご紹介しておきます。長くなりますが、坪田賞の苦しみに共感しつつ、味わいながらお読みください。
■長崎源之助「坪田先生の『風の中の子供』も『子供の四季』も新聞小説でした。つまり大人向けに書かれたものです。しかし、当時中学生だった私はそれを読んで感動しました。子どもを主人公にしてもいい文学が書けるのだということを知りました。(引用者中略)
今回の候補作品の中に、そういう小説があればよかったのです。或いは大人の心をもゆさぶるような童話があればよかったのですが、残念ながらそのどちらもありませんでした。だから選考にとても悩まされました。」(『第1回坪田譲治文学賞』〈以下、回数のみ記述する〉 選評より)
■三浦哲郎「今回も、六冊の候補作品を前にして私は途方に暮れました。この六冊が、上はいわゆるいぶし銀の純文学から、下は小学生向けの児童文学まで、まことに幅広い分野から選ばれていたからです。このなかから最もすぐれた作品を一つだけ選ぶというのは、至難の業です。」(『第3回』選評「感想」より)
■五木寛之「毎度のことだが、今回も候補作品の幅がきわめて広く、はたして選考の基準をどこにおくべきかに戸惑う感じがあった。」(『第7回』選評「“節度ある名文に脱帽”」より)
■竹西寛子「坪田譲治文学賞は「大人も子供も共有できる世界を描いたすぐれた作品」への賞で、それも「文学作品」とはっきり規定されているから、関門は非常に高いと思う。(一読者としてもそう思う。大人の文学が総じて難しい状況にある時だけに、坪田賞の選考も正直言って私には易しくない。)」(『第13回』選評「少年少女の未来」より)
■高井有一「この小説(引用者注:候補作の辻征夫『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』)が子供たちには理解できない事を理由に、坪田賞の対象として疑問を呈する意見があった。だが私は、規定を広く解釈し、子供の姿が印象深く定着された作品なら、坪田賞にふさはしいだらうと考へてゐる。」(『第15回』選評「選評」より)
■砂田弘「坪田譲治文学賞は、その性格上、毎回最終候補には、ジャンルの異なる作品が並ぶ。小説や児童文学のほか、エッセイが加わることもある。「大人も子供も共有できる世界を描いたすぐれた作品」という選考基準はあるのだが、いささか抽象的で、その最終的な判断は、選考委員がそれぞれ責任を担って行なうことになる。」(『第22回』選評「「さわやかな童心」に拍手」より)
■川村湊「坪田譲治賞については、これまでに受賞作を恵贈していただいたり、購読したりして、「大人も子どもも共有できる世界」を描いた、前一年間でもっとも優秀な作品に贈られるという趣旨は承知していたつもりである。だが、実際に、本番の選考会に出ると、候補作いずれもが優秀であり、面白く、かつ真面目な文学精神に溢れた作品ばかりで、甲乙をつけるのが本当に難しかった。」(『第26回』選評「ボーイズ(アンド・ガールズ)・ビー・アンビシャス!」より)
今年で26年目。さすがにだいたい、その授賞傾向も定まってきたか、と思わせるところもあります。ただ今も、対象読者層のまちまちな作品群が、ずらっと候補として並ぶんですよね。それらを前にして、おいおい、何を基準に判定すりゃいいんだ、と選考委員(予備委員の人たちも含めて)が悩む姿は、きっと変わらんのでしょう。
そして迷ったときには、どうするか。坪田譲治の作品に立ち返ってみる。そして、譲治さんの偉大さをあらためて再確認する。……っていう繰り返しが行われる寸法です。
いいですね。羨ましいですね。坪田賞。直木三十五賞では、とうてい見受けられない光景です。直木三十五のことなど馬鹿にしている(いや、無関心な)人が、選考委員をやっているような賞ですから。
地方の文学賞って、その多くは、賞名や地元作家のことを心底愛する人たちのイベントです。そこが、ワタクシは好きです。
○
坪田賞の委員のなかで、いま最も長く務めているのは、五木寛之さんです。「地方文学賞にこの人アリ」でおなじみの方です。
五木さんには、『僕が出会った作家と作品―五木寛之選評集』(平成22年/2010年9月・東京書籍刊)なる本があります。坪田賞のときの選評も、昨年の第25回分まで、こちらに収められています。
同じく委員を務める泉鏡花文学賞でもそうなんですけど、五木さんって、地方文学賞が長く続けるうちに発生してくる問題点、みたいなものを、節目節目で忠告してくれるんですよね。文学賞史っていう観点で、賞をながめるときにも、非常に参考になります。ありがたいことです。
たとえば坪田賞10年目の時。平成7年/1995年、地方の文学賞は坪田賞だけに限らず、さまざまな問題を抱えはじめていたそうです。
「このところ文学賞、ことに地方から贈られる文学賞の不振が話題になることが多い。泉鏡花賞のように二十数年ぶりに受賞作が出なかった賞もあるし、年1回だった催しが隔年に変ったものもある。そんななかで、今回、森詠さんというキャリアも実力もある書き盛りの受賞者を得たことは、坪田賞にとって、正直、うれしい事だった。故・坪田譲治氏の遺徳と言うべきか。」(『第10回』選評「賞を出す側の幸運」より)
そういえば、このころ『産経新聞』斜断機が、「地方の文学賞の多くは、自己満足に過ぎない」とか何とか、揶揄していましたなあ。
第18回。平成15年/2003年。制定されたときにあった同賞の目新しさがだんだん薄れかけてきそうなときに、五木さん、ここらで一発どでかい花火を、と思ったのでしょうか。ひとり、筒井康隆さんの候補作を推します(作品名は不明)。
「そもそも坪田賞が制定されたとき、そこにはどのような意図が託されていたのだろうか。(引用者中略)単なる街おこしの催事として立案したとは考えられない。そこには、それまでの地方文学賞の枠を打ち破る新しい抱負があったはずだ。
私の推測では、坪田賞にはたぶん、二つの考えかたがそっと埋めこまれていたのではないかと思う。
ひとつは従来の児童文学のジャンルを超えて、文芸一般の視点から坪田賞を選んでいこうという視点である。(引用者中略)
もうひとつ、新しい児童文芸の復興、というのも坪田賞の創設時の野心だったはずである。
文芸一般の列に加わろうというフランビタールと、一箇の独立した王国を築きたいというエランビタールは、ともに坪田賞が運命的にはらんだ野心であったと思われる。
その二つの中心をもつ楕円のような不規則な動きのなかにこそ、坪田賞の存在理由はあるのではないか、と私は思う。」(『第18回』選評「あらためて坪田賞の意味を」より)
いいですねえ。文学賞の意味づけを真剣に考えている姿勢。「単なるお祭り」に終わらせまい、とする気持ち。
……そもそも文学賞なんて、俗事だ何だと馬鹿にされるのが基本形でしょ。作家や編集者、出版社が内輪で盛り上がるだけの、お祭りにすぎない、とか。でも、そうでもないぞ、と思う人たちが、立場立場で文学賞にいろいろ意味を持たせていこうとする、そこが文学賞のほんとうの面白さ、かもしれません。
第18回を「坪田賞の曲がり角」とした五木寛之さん。さらに5年後、もう一度、警告を発します。毎年、決まりきった仕事として粛々とやっていればいいってもんじゃないんだよ、と。
「それらの(引用者注:九州芸術祭文学賞や泉鏡花文学賞などの)文学賞にくらべると、坪田譲治文学賞は、受賞作家のその後の活躍ぶりは目立つものの、賞自体の意義はともかくとして、地方が発信する文学賞として、どこかひとつ物足りない感じがするのはなぜだろうか。
文学賞というものは、長く続ければよいというものではない。まして地方自治体の行事のひとつとして慣習的に行うものでもない。賞の運営にかかわる関係者はもとより、市民やジャーナリズムの熱い期待に支えられてこそ続ける意味があるのだ。」(『第24回』選評「文学賞の意味」より)
翌年(つまり去年)にも引き続き、五木さんは厳しく言い放ちます。「この賞の歩みも、さまざまに揺れながら今日まできたように思う。坪田賞とは何か、を、あらためて根底から考え直すべき時がきたのではあるまいか」と。
坪田賞がいま、行き詰まりに来ているのか。それとも、成功街道を驀進しているのか。ワタクシにはいまいち、つかみ切れません。
まあ、文学賞の成功とは何なのか。権威をもつこと、話題になること、受賞作が売れること、などなどの他にも、きっと違う次元の成功もあることでしょう。
第23回の受賞者、椰月美智子さんは言いました。賞といえば直木賞・芥川賞ぐらいしか知らなかった自分も、小説を書く前から、坪田譲治文学賞だけは知っていて、受賞作を買っていた、と。なかなかの仰天な告白です。
椰月さんのような読者がいる、そういう意味では坪田賞、成功していると言っていいかもしれません。
○
坪田賞と直木賞。あまりにも、対象となる作品が違うからなあ。「文学賞としてライバル」とか何とか、そんな視点で語ることも憚られるよなあ。なので、そのテーマで発言するのは断念しました。
……とか言ったら、坪田譲治さんに笑われちゃいそうです。「大人の文学だ、子供の文学だ、とそんなケツの穴の小さい視点でどうするんだ」と。
いかんですよね。直木賞オタクのくせに、作品ジャンルに敷居を設けては。ですので、あと少しだけ。
坪田譲治文学賞は、見てきたように、坪田譲治さん自身の作品世界と、絶対に切り離せない運命を背負っています。
そして坪田作品といえば、アレです。純文学系統でありながら、純文学の本流とは違った場所で、評価を受け、表彰された過去をもっています。
以前、ご紹介しました。直木賞のいちばん最初の、直接的ライバル、「新潮社文藝賞第二部」。これは大衆文芸の賞です。その第2回(昭和14年/1939年)の受賞者が、坪田譲治さんです。
坪田さんは、第1回芥川賞のときに、下馬評では受賞最有力、などと書かれたこともあったくらいですから、当時は一応、純文壇の一員と見られていました。第2回新潮社文藝賞のときも、はじめは第一部(文藝賞)といって、純文学作品を対象とした部門の候補に挙げられていたんですね。
ところが、審査を進めるうちに、どうも大衆文芸畑のものにイイ作品が乏しい。だったら、思い切って、坪田の『子供の四季』を第二部(大衆文芸)の受賞作にしたらどうだろう。ああ、それはいい、それはいい。……てな具合に、「純文学の力を借りて、大衆文芸の格をあげようぜ」運動の一環として、受賞が決められたのでした。
いわゆる「井伏鱒二的授賞」とでも言いますか。
「「子供の四季」を大衆文学として推す事には、或は若干の異議があるかも知れ無い。しかし、大衆文学もいつまでも今あるようなものでは困るだろう。当来の大衆文学への要望をも籠めて敢て此の作を推薦した気持は諒として貰えるだろうと思う。共に、これからという人が、いたずらに大向受にのみ浮身をやつしているような態度に、大衆文学の名に於ても決して許さる可きものでは無いのである。」(『新潮』昭和14年/1939年4月号 「第二部(大衆文芸賞)について」加藤武雄の選評より)
加藤武雄さんはさらに、『子供の四季』は、坪田文学の最高峰・集大成だと褒めちぎっています。ええ、それはそれでいいでしょう。でも、ならば、なぜ第一部ではなく、第二部として評価するのか。純文学と断言すると背中がかゆくなるような、いわゆる大衆性が、坪田文学にはあるってことじゃないのか。そう、ツッコみたくもなります。
長谷川伸さんも言います。
「登録的な存在が俗にいう純文芸でも大衆文芸でも、作品が大衆文芸なら、それは明らかな大衆文芸なのである。坪田君の『子供の四季』が新潮社の第一部に入選せず、他の何何賞にも入選せざる場合だから、私は喜んで私の受持たされた範囲で、推挙することをしなかったが、是認することをした。」(同号 長谷川伸の選評より)
おそらく坪田さんの「善太と三平」三部作は、児童文学と見られたり、あるいは(純)文芸と見られたり、そこら辺が一般的な解釈のされかただと思います。よりによって、ですよ、「大衆文芸」の枠で表彰しちゃおう、なんていうのは、かなり冒険的な決定だったんでしょう。冒険的、つまり言い換えれば、マト外れギリギリ。
いひひひひ。やるな、新潮社文藝賞第二部。ほんとうは、そういう「マト外れ」めいた、ジャンル無視の授賞は、直木賞の十八番なのにな。一本、とられちゃいました。
そうなんです。いわば大衆文芸と銘打たれた文学賞は、新潮賞二部でも直木賞でも、「既成ジャンル分けの無視」をやってきた、っていう歴史があります。ユニークな文学賞です。その意味で、坪田譲治文学賞もまた、同じようにユニークだ、とワタクシは思います。
坪田賞には、「大人も子どもも共有できる」作品っていうシバリがあるだけです。童話・児童文学・小説などを、かなり意識的に横断させています。もっと言えば、新人もベテランも、候補の段階では横一線です。
なので、流行作家、有名作家にだって、坪田賞の受賞資格はあります。しかし、いまのところ、少なくとも直木賞・芥川賞を受賞したあとで、この賞を与えられた例はありません。
突然、小説界の大家みたいな人が、坪田賞を受賞したりして。世間から、「ぎゃははは、何やってんだ岡山市。脈絡のない文学賞、やってるんだなあ」と指をさされて笑われる。そんなふうな光景が、いつか坪田賞におとずれると素晴らしいな、と思います。
多くの人は、ワタクシも含めて、何でもかんでも分類しないと(分類されていないと)気のすまないものですもんね。だけど、じつは、そんな人間こそ笑われる側かもしれない。坪田文学の奥深さであり、坪田譲治文学賞の幅広さ。おお。素晴らしい図式だ。
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