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2011年2月20日 (日)

文藝春秋漫画賞 注目されて、権威と言われて、凋落して。ほとんど直木賞の歩みを見ているよう。

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 文学賞以外にも、この世にはいろんな賞があります。ほんとは、ワタクシ、それら種々の賞にも興味津々なんですが、余計なものに手を出すと、直木賞の調査研究が全然進みません。自重しています。

 が、しかし。

 めくるめく漫画賞の世界のなかでも、文藝春秋漫画賞だけは別です。何ですかこれは。ほとんど「直木賞」じゃないですか。

 【文藝春秋漫画賞受賞作・候補作一覧】

 まずは、漫画賞全般の歴史について。漫画史研究の方々の文章をお借りします。

「漫画賞は、戦後に生みだされ、文学賞などにくらべるとまだ若い。その漫画賞の最初は、一九五一年に漫画部を新設した二科会が、漫画を絵画芸術にするという目的でもうけた漫画賞だろう。五二年に設定された。」(昭和54年6月、10月・大月書店刊(上)(下)->昭和63年/1988年2月・社会思想社/現代教養文庫 石子順・著『日本漫画史』「漫画の移行 漫画賞の創設と受賞者たち」より)

 その第一回受賞者が、森田成男(のちのペンネーム、もりたなるお)さんだっつうのですから、奇縁も奇縁。……まあ、そんな直木賞との関連性は、おいておきまして。ひき続き引用です。

「文芸春秋漫画賞は、一九五五年度から設けられた。(引用者中略)この漫画賞は、一九六六年以降一三、一四、一六回目をのぞくと、すべて複数の受賞者であることに気づく。対照的な作家が二人ずつ選ばれている。鈴木義司とイラスト畑の和田誠、赤塚不二夫とヒサクニヒコ、手塚治虫と秋竜山という具合に。これは審査員の票がわれたというよりも、それだけ漫画界のジャンルの広がりが深まった結果であるだろう。」(同書より)

 そのほか、当時存在していた漫画賞のいくつかに触れたあと、石子さんは次のように指摘します。ほとんど、文学賞ファンの、文学賞に対するコメントと似通っています。

「小学館、講談社漫画賞は、それぞれ自社の出版物に掲載され、大ヒットした作品に集中する傾向が強くて客観性に乏しいのが気になる。その出版社にたいする貢献度や人気があったかどうかだけにとらわれずに、そのワクをはずして漫画界全般を見わたすべきだろう。」(同書より)

 賞ってやつはねえ。まじめな人にそういう純粋な期待をかけさす悪魔みたいなトコ、ありますよねえ。さほどのことはできないクセに、無駄に期待だけさせてしまう賞。ありますあります。文学賞のなかにも、そんなのが。

 漫画史研究の重鎮(?)、清水勲さんに評してもらいますと、文春漫画賞ってのは、こうです。

「戦前には漫画賞というものがなかったので、文芸春秋漫画賞は日本最初の漫画賞といえる。(引用者中略)この賞は当初、既に大家として名を成した人が順番に受賞するような面もあったが、久里洋二、梅田英俊、井上洋介、牧野圭一、オグラトクー、武田秀雄、二階堂正宏、徳野雅仁などこの賞によって世に知れ渡った人たちも多い。」(平成19年/2007年6月・臨川書店刊 清水勲・著『年表日本漫画史』「第6章 昭和(戦後)期」より)

 ははあ。大家として名を成した人にも、また世に知れ渡る前の人にも、へだたりなく(脈絡なく)授賞させていると。

 さらには、寺光忠男さん。

「最初に創設されたせいもあったが文春漫画賞は小説の芥川、直木賞などのように漫画界ではもっとも価値のある賞になっている。既成の漫画家に対する功労的な意味合いもあるが谷内(引用者注:第1回受賞者の谷内六郎)のように実績のない漫画家たちに与えられることも多かった。」(平成2年/1990年3月・毎日新聞社刊 寺光忠男・著『正伝・昭和漫画―ナンセンスの系譜』「10 「漫画讀本」とナンセンスの復活へ」より)

 かなり親切な見かたではありますが。寺光さんみたいなとらえ方が、少なくとも1970年代までの、つまり約20年間の一般的な「文春漫画賞」像、なのかなと思います。

 ただね。文春漫画賞、コヤツから匂い立つ体臭といいますか、はたまた腐臭といいますか。消せないよなあ。何なんでしょう。直木賞っぽさが、尋常じゃないですよね。

 たとえば。

  • 芸術の世界からは異端とされて下等に見られていたジャンルにおいて、その質的向上をめざして運営された。

  • 新人だけでなく、中堅・ベテランにも功労賞としての賞が授けられた。
  • 正統なジャンル観からいえば、「え? なんでこれが候補作?」と首をかしげられてもおかしくない候補選出の基準。

  • 権威のある賞だ何だ、と言いながらそのことを楯にして、賞を授けることをこばむ選考委員が、出てきてしまった。

  • 世間の興味はとっくのとうに変わっていて、賞の選考結果が時代遅れなものになってしまった。それにもかかわらず、「歴史と伝統」をウリにして続けた。

  • 文春漫画賞=『漫画讀本』の企画。ではありながら、そもそも戦前から『オール讀物』においても、漫画は欠かせないスパイスの一つ。その、いわゆる『オール讀物』路線に沿った、大衆文芸または漫画を、賞という味つけで何か高級な商品のように見せようとした戦略。

 などなど。

 どれをとっても、文春漫画賞の姿です。そして、そのまま直木賞の姿にも重なります。

          ○

 直木賞は創設から75年。もちろん、楽しくも愚かしい変遷が、そこにはあります。スネにいくつも傷を負いながら、どうにかこうにか続いてきました。純粋に小説を愛する人たちの一部からは、「やめろ」「もう要らない」などと罵声を浴び続けながら。

 文春漫画賞、こちらは47年間の歴史。こまかく追っていけば、こちちもまた、同じくらい胸のワクワクする、そして汚濁に満ちた道程だったのだと思います。おそらく、漫画賞に魅せられて、日々研究にいそしんでいる方も多いと推測します。楽しいですよね。賞史の研究って。

 ワタクシは漫画賞史について門外漢です。目についた各種文献から、イイとこだけつまませてもらいます。すみません。以下、文春漫画賞略史です。

●昭和30年/1955年

第1回。あまり商業漫画の世界では知られていなかった谷内六郎さんに授賞が決まる。しかし谷内さん、その直後、自殺未遂を起こし、文春漫画賞苦難の歴史にふさわしい(?)スタート、となってしまう。

「二十七日午後八時ごろ(引用者中略)画家谷内六郎氏(三三)は自宅で左腕の動脈を切り自殺を図った。(引用者中略)

実兄一郎さん談 弟は医者もサジを投げるくらいのゼンソクに悩まされて神経衰弱気味だったところへ今回の文芸春秋賞でますますいらだち“エライものをもらってしまった”といっていた。これで余計肩の荷が重くなり、極度の強迫的な感情におそわれていたらしい。」(『毎日新聞』昭和30年/1955年6月28日「谷内氏自殺図る(文春漫画賞)」より)

●60年代~70年ごろ

ベテラン漫画家と、無名の漫画家を、同じ舞台で選考しつづけた。しきりに「芥川賞的受賞」「直木賞的受賞」といった言葉が、選評に見られるようになる。

河盛好蔵「漫画賞が漫画における芥川賞にあたるのか、それとも直木賞的性格を持つのかということは毎年問題になるのだが、優れた新人に与えられたときが芥川賞的であるとすれば、今年は直木賞もしくは野間賞的というべきである。」(第6回昭和35年/1960年度選評より)

北杜夫「前回と同じく、功労賞的な意味か新人を発掘する態度で選ぶべきかで、この賞のあり方が論ぜられた。漫画もこれだけ盛んになったのだから、芥川賞、直木賞という具合にもっと賞が設けられてよい。」(第15回昭和44年/1969年度選評より)

加藤芳郎「漫画賞が、ある年は“芥川賞的”、ある年は“直木賞的”であったとすれば、今回の東海林氏受賞は、あえていえば“読者賞的”であった。」(第16回昭和45年/1970年度選評より)

●60年代~80年代

自費出版による画集(漫画集)が毎年のように候補にのぼる。とくに工藤恒美は、8冊の自費出版本がいずれも候補にあがり、8冊目で受賞。

飯沢匡「漫画賞の発表が近づくと色々な自費出版の画集が届けられる。」(第9回昭和38年/1963年度選評より)

加藤芳郎「今年も、自費出版の候補作品が何点かあったのだが、それも「手応え」を感じなかった。(引用者中略)

 自費出版は、毎年時機を見て出すのも結構だが、折角だから三、四年作品を、“寝かせ”てみて、その中からの“厳選集”を出したら如何かな。」(第22回昭和51年/1976年度選評より)

●昭和45年/1970年

賞の発表媒体であった『漫画讀本』が9月号をもって休刊。翌年より『オール讀物』誌に移る。

●70年代~80年代

「文春漫画賞は、いわゆる漫画作品だけじゃなく、もっと幅広いものにしてジャーナリズムにアピールしたい」といった信念をもつ飯沢匡が、数々の珍妙な候補作・受賞作を生みだす。福田繁雄、片岡球子、島添昭義、野田亜人……。

 しかし、それに対して杉浦幸雄が、「芸術的すぎて漫画とは遠く離れた候補」に違和感をもつ。

「思えば全く変な話で、漫画賞なのに漫画らしからぬ、笑えない「芸術的」な漫画ばかり入選していたのですからね。

 もし今年もまた「芸術的」漫画が入賞したら、思いきって「文春漫画賞の功罪」てなことをこの欄でぶっぱなそうかと、ひそかに決意していたくらいでした。」(第26回昭和55年/1980年度選評より)

●昭和60年/1985年

第31回。畑中純「まんだら屋の良太」が、受賞の対象から外される。「劇画もしくはストーリー漫画を、文春漫画賞がどう扱うのか」問題の勃発。

加藤芳郎「ファンにとっては“中毒症状”を起こすほど人気の噂が高い、畑中純氏の『まんだら屋の良太』が、今回の選考でどう評価されるか興味のあるところだったが、審査の冒頭で、『この作品を受賞させるか否かで、今後の文春漫画賞の「質」が変わってくる』という意見が、“統一見解”となり、そのことによって選考は、“もめる予想”を裏切ってスラスラと進行した。」(第31回昭和60年/1985年度選評より)

●昭和61年/1986年

第32回。32年目にして初の「該当作品なし」。前年から引き続く「劇画」問題が、選考会の議論となる。

東海林さだお「一口に漫画といっていたものの間口は大きく拡がってきている。先述の、『ストーリー性を帯びた絵画的読物』にも、優れた作品が続々と輩出してきている。こうしたものも組み込んで、文春漫画賞も拡大を目指そうではないか、ということになった。」(第32回昭和61年/1986年度選評より)

 そして、この回の選考経過では、翌年から文春漫画賞が変わると、はっきり明言された。

「尚、弊社では多様化している現代漫画の状況に対応するべく、ジャンル別の授賞方式を検討してまいりましたが、第33回より当漫画賞にカトゥーン部門(ナンセンスもの、一コマ等)、ストーリー部門(長篇、劇画等)の二項目を設置することにいたしました。」(『オール讀物』昭和61年/1986年8月号より)

 しかし、けっきょくこれは実現せず。翌年以降も、部門が分かれることはなかった。

●平成1年/1989年

文春文庫ビジュアル版で『「漫画讀本」傑作選』が刊行される。副題は「劇画よ、さらば! 帰ってきた'60年代の爆笑」。

「劇画ブームの最中の一九七〇年九月号で、その役割を果たしたと休刊してから十八年余――、いま再びコマ・マンガの魅力と効用が再認識されつつあります。」(同書トビラより)

●平成3年/1991年

第37回。いわゆる「吉田戦車ショック」。このときの発表号に選考委員たちの座談会が載り、「果たして一般の漫画界の流れについていけなくなった老漫画家が、選考委員をしている漫画賞は、どこまで信用できるのか」といった問題が、より顕在化してしまう。

加藤(引用者注:加藤芳郎) 今度の文春漫画賞に吉田戦車をぼくらが選んだということに関しては、今まであれを密かに楽しんでいた批評家とかそういう連中が、嫌な顔してるのね。ということは、ぼくは分かるんだ。ぼくらは芝居っていうとマリオンに行ったり、帝劇に行ったり、博品館に行ったり、紀伊國屋に行ったりしてんだよ。ところがあれはテントの芝居なんですよ。(引用者中略)そこへおれたち帝劇派がたまたまテントに行って、おもしれえなんて言ったもんだから、「こっちが先だッ」というのがあるんだね、あれは(笑)。」

(引用者中略)

山藤(引用者注:山藤章二) 吉田戦車入れたことで、わが選考委員会のメンバー構成もこのまま少し長生きするんじゃないか、延命を図ったんじゃないか、と世の中は見てるんじゃないか。」(『オール讀物』平成3年/1991年7月号「文藝春秋漫画賞 選考委員大いに語る」より)

●90年代~00年代

「不条理もの」と「ストーリー漫画」を、賞から除外することに終始する。

加藤芳郎「近ごろ巷で持てはやされている漫画の中には、「不条理」というよりも、同年代でサークルを作って「これが麻薬だ、これが毒ガスギャグだ」と、ヒソヒソ、ゴソゴソやり合ってる第七サティアン的なのが多いと思うのだ。(引用者中略)漫師がウンコや精液といった人前はばかるネタの漫画で笑わせようとする、一群の信者読者は マ・マ・マンガ――と唱えながらその作品の前にひれ伏すのである。とても正気の沙汰とは思えない。」(第41回 平成7年/1995年度選評より)

加藤芳郎「漫画賞予備候補(主催者側の二、三十代の若手社員が選ぶらしい)の推薦した百冊ほどの作品の九〇%がこの「絵物語」なのである。

 いま一般の若い人々の人気は、こういった作品にあることは否定するものではないのだが、「文春漫画賞」歴代の受賞者の作品、顔ぶれを再確認してもらいたいのは、こういった「絵物語」の系列は対象にされていないということだ。」(第42回 平成8年/1996年度選評より)

 ……何か加藤芳郎さんの選評ばっかり引用していますね。すみません。

●平成14年/2002年2月

唐突に、今年以降の授賞をおこなわないことが決定される。

「結局三回審査させてもらったんだけど、なんてゆうか、審査そのものはマンネリ感が漂うっていうのかな(よくいえばなごやか?)。それと老朽化がはげしいっていうんですかね。諸先輩との感覚のズレはいかんともしがたい。じつに居心地悪かった(もちろん尊敬はしてましたよ、なにしろきら星だった方々ですから)。ただ、このままでは、今一番面白い作品が受賞することはまずない。そう、無力感ってやつにおそわれちゃったのね。(引用者中略)

たら、たらね「漫画賞は前回をもって終わることになりました」でしょ。次回をもってじゃないの。次回はこないの。ボクとしては「オウマイガッド! なんかしてけつかるねん!」だったわけ。」(平成14年/2002年12月・文藝春秋刊『文藝春秋漫画賞の47年』所収 高橋春男「文春漫画残念賞」より)

 ほんとに、オオ・マイ・ゴッド! ですよ。終了の理由も、また、ふるっています。

「大人漫画の唯一の登竜門として知られる「文芸春秋漫画賞」について、主催の文芸春秋は二十六日、今年の選考を行わず、昨年五月発表の第四十七回で終了すると発表した。(引用者中略)

終了の理由について同社では、「七、八年前からコミックの世界自体が大きく変わり、賞の目的が現状と合わなくなった。歴史的使命を終えたと判断した」と話している。」(『読売新聞』平成14年/2002年2月27日「候補作少なく…「文春漫画賞」廃止」より)

 ま、まさか。第40回(平成6年/1994年度)ごろまでは、賞の目的とコミック界の状況がぴったりマッチしていた、なんて澄まし顔で言うつもりじゃないでしょうね?

          ○

 ああ。賞ゴトの大好きな文藝春秋らしくない弱音を吐いちゃってからに。

 賞を継続することと、市場の動向とは、さしたる関係がないことぐらい、直木賞を何十年もやってきた文藝春秋なら、当然わかっているものと思っていました。残念です。

 一度「権威ある」とかいう称号を得ちゃったものだから、それに酔っちゃって、逆に身動きがとりづらくなっちゃったのかもしれませんね。

 いいじゃないの。漫画界のなかでのマイナーな賞でも。それはそれで、続けていくうちに、新たなる歴史的役割をつくっていけたかもしれないのに。……と思うんですけど、まあ、文学賞オタクの感想なので、適宜無視してください。

 しかし、文春漫画賞のことを考えるだに、直木賞ってのは、そうとう微妙なバランスの上で、継続しているんだなあ、と思わずにはいられませんよ。ええ。「歴史的役割」なんちゅう、便利な概念を持ち出したら、直木賞とか、もうとっくのとう、です。

 「権威ある」といった称号が、ついに剥がされる時だって、当然くるでしょう。だいじょうぶかな、直木賞。だれも君の選考結果などに信を置いてないんだから。「権威ある」と言われなくなったとしても、どうぞ、続けてください。

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コメント

こんな賞があったんですね。
わたしはだれになんといわれようと『ONE PIECE』が大好きです。
いま飼っている犬にも、ロビンちゃんと名づけようとしたぐらいでした。

投稿: ROCKY | 2011年2月28日 (月) 16時37分

文春漫画賞が、もし、今もつづけられていたとしたら……。

まず、『ONE PIECE』を受賞作に選ぶことはないだろうなあ、
と思えるくらい、かなり偏ったジャンルしか対象にしない漫画賞だったみたいです。

そんな了見のせまさが、おのれの首を絞めてしまったようでして。
直木賞ファンとしては、直木賞が同じ道を歩まなきゃいいなあ、と願うばかりです。

投稿: P.L.B. | 2011年3月 1日 (火) 00時33分

いしかわじゅんは、「漫画の時間」で文春漫画賞の加藤芳郎をはっきりと老害扱いしておりましたね。1992年に受賞したベテランの江口寿史を「久しぶりの大型新人」と評したことは語りぐさです。

投稿: みちん | 2011年4月 2日 (土) 02時11分

みちんさん、

「大いなる助走」へのコメントともども
https://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/2_6916.html#comment-62133703
情報を入れていただき、ありがとうございます。

挙げていただいたようなエピソードは、ほんと、
文学賞(や他の分野の賞)を楽しむうえでの、大事な要素ですよねえ。

今後ともぜひ、いろいろ教えてください。

投稿: P.L.B. | 2011年4月 6日 (水) 01時15分

マンガの賞ってこんなに古くからあったのか…。
直木賞みたいな…というところ、適切表現だと
思う。(直木賞って少なくとも70年代後半以降は
ヘンな作品が多すぎる。同じ作家のものでも、すこ
ぶる駄作が受賞しているというか…。取れば流行作家、
売れっ子の仲間入りなんでしょうが)
(そういや、講談社等メジャーな出版社から作品が
たくさん出ていた作家が、直木賞作家の7割は世間
に名前が知られてないって言っていたのを思い出し)
文春ってマンガの文庫がかなり出てませんでしたか?
少なくとも00年頃迄。文春以外の雑誌で掲載された
古いマンガ作品が入っていました。読み切りの。
山岸涼子(字が変換できず)とか、かつての人気少女
漫画家の。今もあるのかね?このブンコ。

投稿: Terry | 2012年5月 5日 (土) 20時24分

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