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2011年2月の4件の記事

2011年2月27日 (日)

坪田譲治文学賞 「大人向け小説」でもなく、「児童文学」でもなく。曖昧な路線を行くことを運命づけられた賞。

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 無意識のうちに、紋切り型の表現を使ってしまっていること、よくあります。そんな自分の文章をあとで読むと、こっ恥ずかしいし、反省もします。だけどすぐ忘れて、また紋切り型、使っちゃうんですよね。

 このブログでは、さんざんっぱら、「○○文学賞はユニークだ」みたいな表現をしてきました。でも逆に、(おのれに)問いたい。ユニークでない文学賞なんて、存在するのかいな、と。

 そして坪田譲治文学賞。これもまた、直木賞や芥川賞、その他多くの文学賞と同じくらいに、ユニークです。

 【坪田譲治文学賞受賞作・候補作一覧】

 昭和47年/1972年、石川県金沢市が、五木寛之さんの力を借りて、「泉鏡花文学賞」を創設しました。それから12年。「全国的に発売された創作物を対象に、地方自治体が賞を贈る」第二の試みが、岡山市でスタートします。

 昭和59年/1984年。坪田譲治さんが亡くなって、2年ほど経った頃でした。

「同市(引用者注:岡山市)では現在、市民を対象に毎年「市民の童話」を募集しているが、坪田さん死亡を契機に一般でも顕彰の動きが盛り上がったころから松本(引用者注:当時の市長・松本一)市政の重要施策の一つである文化振興の一環として児童文学賞の制定に踏み切る。

 同市教委の構想によると、授賞作品は毎年度全国で発刊された単行本、雑誌、同人誌などに掲載された童話、少年少女小説から選ぶ。」(『中國新聞』昭和59年/1984年3月3日「岡山市、児童文学賞を制定へ」より)

 ふむふむ。岡山市は、坪田譲治を生んだ街だと。なるほど。昭和46年/1971年からは、市民から創作童話を募集して、毎年、優秀作を表彰する「市民の童話」事業を根づかせてきたと。立派じゃん。「童話の街・岡山」をもっと外部にアピールしていこうと、「坪田譲治児童文学賞(仮称)」をつくるんですって。いいぞ、やれやれ。

 ……といったところまでは、ストレートな歩みです。ひっかかるところがありません。

 しかし、ふたを開けてみれば。ハナシは違ったほうに向かっていました。

 賞名「坪田譲治文学賞」。……児童、の文字が抜けています。

 世には、「童話」だの「児童文学」だの「ヤングアダルト向け」だの「少年少女を描いた成人小説」だの、いろいろある。でも、そんなジャンル分けは、とりあえずやめとこうぜ。っていう、ほとんど暴挙にも近い、勇気あふれる思いが、そこにはありました。

 子ども向けにも、大人向けにも、どちらにもなりうる作品を評価しようと。一つの英断です。このことで、坪田賞は、他にはない独自の魅力をもつことに成功してきました。反面、つねに爆弾を抱えているとも言えます。

 最初の最初、与田準一さんは言いました。

「「私は小説も書けば童話も書きます。これを二足のワラジをはいていると思う人があるかも知れませんが、私はそう考えておりません。童話も小説も文学であるという考え方です。文学は一つであるという思い方です。おとなの文学も子どもの文学も、みんなことばの芸術であるという解釈です。」

 これは坪田さんの文章からの抜き写しですが、じつに分かり易い一家言です。しかし、譲治文学独特の性格が明かされてもいます。(引用者中略)

 さて、この平凡なようで非凡な業績を記念する坪田譲治文学賞から、どんな作品が生まれるでしょうか。」(昭和61年/1986年2月・岡山市文学賞運営委員会刊『第1回坪田譲治文学賞』所収 与田準一「坪田譲治文学賞について」より)

 童話や児童文学を対象にする賞は、すでにたくさんありました。しかし、「子供も読める大人向け文学」となりますと、それらと似ているようで、まあ全然ちがいます。ちがいすぎます。

 平凡なようで非凡。まさに。この賞がスタートの段階から、苦闘、混乱、難渋の歴史を刻むであろうことは、容易に想像できていたでしょう。

 選考委員のみなさんも、ずいぶん悩んできました。そのさまを、ざーっと選評から引用して、ご紹介しておきます。長くなりますが、坪田賞の苦しみに共感しつつ、味わいながらお読みください。

■長崎源之助「坪田先生の『風の中の子供』も『子供の四季』も新聞小説でした。つまり大人向けに書かれたものです。しかし、当時中学生だった私はそれを読んで感動しました。子どもを主人公にしてもいい文学が書けるのだということを知りました。(引用者中略)

 今回の候補作品の中に、そういう小説があればよかったのです。或いは大人の心をもゆさぶるような童話があればよかったのですが、残念ながらそのどちらもありませんでした。だから選考にとても悩まされました。」(『第1回坪田譲治文学賞』〈以下、回数のみ記述する〉 選評より)

三浦哲郎「今回も、六冊の候補作品を前にして私は途方に暮れました。この六冊が、上はいわゆるいぶし銀の純文学から、下は小学生向けの児童文学まで、まことに幅広い分野から選ばれていたからです。このなかから最もすぐれた作品を一つだけ選ぶというのは、至難の業です。」(『第3回』選評「感想」より)

五木寛之「毎度のことだが、今回も候補作品の幅がきわめて広く、はたして選考の基準をどこにおくべきかに戸惑う感じがあった。」(『第7回』選評「“節度ある名文に脱帽”」より)

■竹西寛子「坪田譲治文学賞は「大人も子供も共有できる世界を描いたすぐれた作品」への賞で、それも「文学作品」とはっきり規定されているから、関門は非常に高いと思う。(一読者としてもそう思う。大人の文学が総じて難しい状況にある時だけに、坪田賞の選考も正直言って私には易しくない。)」(『第13回』選評「少年少女の未来」より)

高井有一「この小説(引用者注:候補作の辻征夫『ぼくたちの(俎板のような)拳銃』)が子供たちには理解できない事を理由に、坪田賞の対象として疑問を呈する意見があった。だが私は、規定を広く解釈し、子供の姿が印象深く定着された作品なら、坪田賞にふさはしいだらうと考へてゐる。」(『第15回』選評「選評」より)

■砂田弘「坪田譲治文学賞は、その性格上、毎回最終候補には、ジャンルの異なる作品が並ぶ。小説や児童文学のほか、エッセイが加わることもある。「大人も子供も共有できる世界を描いたすぐれた作品」という選考基準はあるのだが、いささか抽象的で、その最終的な判断は、選考委員がそれぞれ責任を担って行なうことになる。」(『第22回』選評「「さわやかな童心」に拍手」より)

■川村湊「坪田譲治賞については、これまでに受賞作を恵贈していただいたり、購読したりして、「大人も子どもも共有できる世界」を描いた、前一年間でもっとも優秀な作品に贈られるという趣旨は承知していたつもりである。だが、実際に、本番の選考会に出ると、候補作いずれもが優秀であり、面白く、かつ真面目な文学精神に溢れた作品ばかりで、甲乙をつけるのが本当に難しかった。」(『第26回』選評「ボーイズ(アンド・ガールズ)・ビー・アンビシャス!」より)

 今年で26年目。さすがにだいたい、その授賞傾向も定まってきたか、と思わせるところもあります。ただ今も、対象読者層のまちまちな作品群が、ずらっと候補として並ぶんですよね。それらを前にして、おいおい、何を基準に判定すりゃいいんだ、と選考委員(予備委員の人たちも含めて)が悩む姿は、きっと変わらんのでしょう。

 そして迷ったときには、どうするか。坪田譲治の作品に立ち返ってみる。そして、譲治さんの偉大さをあらためて再確認する。……っていう繰り返しが行われる寸法です。

 いいですね。羨ましいですね。坪田賞。直木三十五賞では、とうてい見受けられない光景です。直木三十五のことなど馬鹿にしている(いや、無関心な)人が、選考委員をやっているような賞ですから。

 地方の文学賞って、その多くは、賞名や地元作家のことを心底愛する人たちのイベントです。そこが、ワタクシは好きです。

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2011年2月20日 (日)

文藝春秋漫画賞 注目されて、権威と言われて、凋落して。ほとんど直木賞の歩みを見ているよう。

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 文学賞以外にも、この世にはいろんな賞があります。ほんとは、ワタクシ、それら種々の賞にも興味津々なんですが、余計なものに手を出すと、直木賞の調査研究が全然進みません。自重しています。

 が、しかし。

 めくるめく漫画賞の世界のなかでも、文藝春秋漫画賞だけは別です。何ですかこれは。ほとんど「直木賞」じゃないですか。

 【文藝春秋漫画賞受賞作・候補作一覧】

 まずは、漫画賞全般の歴史について。漫画史研究の方々の文章をお借りします。

「漫画賞は、戦後に生みだされ、文学賞などにくらべるとまだ若い。その漫画賞の最初は、一九五一年に漫画部を新設した二科会が、漫画を絵画芸術にするという目的でもうけた漫画賞だろう。五二年に設定された。」(昭和54年6月、10月・大月書店刊(上)(下)->昭和63年/1988年2月・社会思想社/現代教養文庫 石子順・著『日本漫画史』「漫画の移行 漫画賞の創設と受賞者たち」より)

 その第一回受賞者が、森田成男(のちのペンネーム、もりたなるお)さんだっつうのですから、奇縁も奇縁。……まあ、そんな直木賞との関連性は、おいておきまして。ひき続き引用です。

「文芸春秋漫画賞は、一九五五年度から設けられた。(引用者中略)この漫画賞は、一九六六年以降一三、一四、一六回目をのぞくと、すべて複数の受賞者であることに気づく。対照的な作家が二人ずつ選ばれている。鈴木義司とイラスト畑の和田誠、赤塚不二夫とヒサクニヒコ、手塚治虫と秋竜山という具合に。これは審査員の票がわれたというよりも、それだけ漫画界のジャンルの広がりが深まった結果であるだろう。」(同書より)

 そのほか、当時存在していた漫画賞のいくつかに触れたあと、石子さんは次のように指摘します。ほとんど、文学賞ファンの、文学賞に対するコメントと似通っています。

「小学館、講談社漫画賞は、それぞれ自社の出版物に掲載され、大ヒットした作品に集中する傾向が強くて客観性に乏しいのが気になる。その出版社にたいする貢献度や人気があったかどうかだけにとらわれずに、そのワクをはずして漫画界全般を見わたすべきだろう。」(同書より)

 賞ってやつはねえ。まじめな人にそういう純粋な期待をかけさす悪魔みたいなトコ、ありますよねえ。さほどのことはできないクセに、無駄に期待だけさせてしまう賞。ありますあります。文学賞のなかにも、そんなのが。

 漫画史研究の重鎮(?)、清水勲さんに評してもらいますと、文春漫画賞ってのは、こうです。

「戦前には漫画賞というものがなかったので、文芸春秋漫画賞は日本最初の漫画賞といえる。(引用者中略)この賞は当初、既に大家として名を成した人が順番に受賞するような面もあったが、久里洋二、梅田英俊、井上洋介、牧野圭一、オグラトクー、武田秀雄、二階堂正宏、徳野雅仁などこの賞によって世に知れ渡った人たちも多い。」(平成19年/2007年6月・臨川書店刊 清水勲・著『年表日本漫画史』「第6章 昭和(戦後)期」より)

 ははあ。大家として名を成した人にも、また世に知れ渡る前の人にも、へだたりなく(脈絡なく)授賞させていると。

 さらには、寺光忠男さん。

「最初に創設されたせいもあったが文春漫画賞は小説の芥川、直木賞などのように漫画界ではもっとも価値のある賞になっている。既成の漫画家に対する功労的な意味合いもあるが谷内(引用者注:第1回受賞者の谷内六郎)のように実績のない漫画家たちに与えられることも多かった。」(平成2年/1990年3月・毎日新聞社刊 寺光忠男・著『正伝・昭和漫画―ナンセンスの系譜』「10 「漫画讀本」とナンセンスの復活へ」より)

 かなり親切な見かたではありますが。寺光さんみたいなとらえ方が、少なくとも1970年代までの、つまり約20年間の一般的な「文春漫画賞」像、なのかなと思います。

 ただね。文春漫画賞、コヤツから匂い立つ体臭といいますか、はたまた腐臭といいますか。消せないよなあ。何なんでしょう。直木賞っぽさが、尋常じゃないですよね。

 たとえば。

  • 芸術の世界からは異端とされて下等に見られていたジャンルにおいて、その質的向上をめざして運営された。

  • 新人だけでなく、中堅・ベテランにも功労賞としての賞が授けられた。
  • 正統なジャンル観からいえば、「え? なんでこれが候補作?」と首をかしげられてもおかしくない候補選出の基準。

  • 権威のある賞だ何だ、と言いながらそのことを楯にして、賞を授けることをこばむ選考委員が、出てきてしまった。

  • 世間の興味はとっくのとうに変わっていて、賞の選考結果が時代遅れなものになってしまった。それにもかかわらず、「歴史と伝統」をウリにして続けた。

  • 文春漫画賞=『漫画讀本』の企画。ではありながら、そもそも戦前から『オール讀物』においても、漫画は欠かせないスパイスの一つ。その、いわゆる『オール讀物』路線に沿った、大衆文芸または漫画を、賞という味つけで何か高級な商品のように見せようとした戦略。

 などなど。

 どれをとっても、文春漫画賞の姿です。そして、そのまま直木賞の姿にも重なります。

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2011年2月13日 (日)

千葉亀雄賞 人は死んでも功績は死なず。直木三十五と同じくらい、いやそれ以上の功労者、千葉亀雄よ永遠なれ。

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 中野重治さんは言っていました。まじめに文学をめざしている人間は、大衆文芸の道なんかにゃ進まないそうです。

ほほう。そうですか。

 そうさ、純文壇の人たちには、大衆文芸なんて何の興味も関心もわかないでしょうよ。ええ、でも、あなたたちと同様に、「大衆文芸を書いて世に出たい!」と強く願う人は、けっこういたのですよ。その受け皿となる雑誌や懸賞が、戦前にも、確実に存在していました。

 最も注目され、また実績をあげていたのが、大阪毎日新聞社の『サンデー毎日』誌です。

 ……となれば、当然ここでは、同誌の名物企画「大衆文芸募集」にスポットを当てなきゃいけません。でも、すみません。今日は少し脇道に逸れます。千葉亀雄賞です。

 【千葉亀雄賞受賞作一覧】

 賞の名に冠された千葉亀雄さん。うちのブログでも、今まで何度も登場してもらいました。もちろんです。なにせ、この人がいてくれなかったら、昭和初期の大衆文芸の様相も、ずいぶん違ったものになっていたでしょう。ひょっとすると、直木賞も生まれていなかったかもしれません。

「大衆文芸が誕生したころ、その文学的使命や社会的意義について、作家自身すら、自覚するところはきわめて薄弱だったのではないかと、思われる。この時、いち早く、ここに新ジャンルの成立を予感した批評家は千葉亀雄氏ただひとりではなかったか。――こうした意味のことを、木村毅も述べている。」(昭和32年/1957年1月・毎日新聞社刊 辻平一・著『文芸記者三十年』所収「千葉亀雄と大衆文芸」より)

 千葉さんは文芸記者であり、文芸評論家でした。親交の厚かった人は、たくさんいるんでしょうが、菊池寛さんもそのひとりです。菊池さんといえば、友・直木三十五が死んだときには、あまりのショックに思わず「直木賞」をつくってしまった人です。千葉亀雄さんの死に当たっては、こんなことを言っています。

「菊池寛は、千葉さんは、むしろ書淫というべき人だったといって、

「直木(三十五)が過激な創作から脳膜炎を起したとすれば、千葉は過激な読書から脳膜炎を起したのかもしれず、直木が討死とすれば、千葉さんも文人らしい悲壮な討死である」

 と、いたんでいる。」(同書より)

 昔むかしの大正15年/1926年。週刊誌『サンデー毎日』が、「大衆文芸募集」と称する懸賞募集を始めました。これが大当たりしまして、以来同誌の看板企画になります。3年目ごろから千葉亀雄さんが一人で、その応募作すべてに目を通して、入選作を決める任に就きます。編集部にいた辻平一さんに言わせると、ほんとうにほぼ一人で、3000~4000篇の応募作から選んでいたそうです。

 7~8年。千葉さんは「大衆文芸」の選者をやり続けました。恐ろしい男です。しかしついに、昭和10年/1935年10月4日斃れます。58歳でした。

 昭和10年/1935年。直木賞という大衆文芸の文学賞が、あっとびっくり、堂々と、純文学の賞と肩をならべて文壇に登場した、ほんのすぐあとでした。

 直木死して直木三十五賞ができたごとく、千葉さんが死んだあとには、千葉亀雄賞ができました。昭和11年/1936年はじめのことです。

「『サンデー毎日』でも、千葉亀雄顕彰の意味から、「千葉賞」を制定して、長編小説募集をこれまでの大衆文芸募集と別個に行なうことになった。

 昭和11年1月5日号に、左のような規定による募集社告がでた。

 創刊十五年の新春を迎えるに当たっての懸賞募集、二十回を重ねんとする恒例「新作大衆文芸」募集を通じ、本誌が大衆文壇に送り出し、また現在送り出しつつある新人作家群の清新溌剌たる筆陣に想到するとき、何人もそれらの上を覆い尽す“大衆文学のゴッド・ファーザー”故千葉亀雄氏の、大いなる投影を忘却することはできない。(引用者後略)(昭和48年/1973年2月・毎日新聞社刊 野村尚吾・著『週刊誌五十年』「編集部の独立」より)

 ああ、まったくだ。

 忘却できない、っていうか、忘却しちゃいけませんよ。この世に直木賞が続くかぎり……もとい、この世に大衆文芸とかエンターテインメント小説とかが続くかぎり、千葉亀雄の名前を忘れちゃったらバチが当たります。

 ほんとは『サンデー毎日』か毎日新聞社が頑張って、いまも「千葉亀雄賞」を残しておいてくれたら、言うことなしだったんですけど。でもまあ、ほら、直木三十五の名前が霞んでも、直木賞を受賞した人たちが活躍してくれることで、直木の名前が日本人の(一部の)脳内に刻まれています。千葉賞もまた、受賞者に恵まれた(?)おかげで、いまでもたまーに目にすることができます。

 井上靖さん。『サンデー毎日』だけじゃなく、直木賞の第1回原稿募集にも作品を投じていたりして、コヤツ、ほんとは大衆文芸に興味があったんじゃないのか? といった匂いを漂わせている井上靖さんです。

「前に「初恋物語」「三原山晴天」の二作が千葉先生の選で誌上に掲載して戴いたことがありますので、一月、今度の募集の発表を見ました時からぜひ、千葉賞は自分がとりたいと思ひました。(引用者中略)兎に角「流転」が自分の願ひどほり入選したといふことは、何だか夢のようです。」(『サンデー毎日』昭和11年/1936年8月2日号「本誌募集・千葉賞制定“長篇大衆文藝”入選者発表」より)

 この第1回では、時代物二席に「田中平六」こと、沙羅双樹も入っています。選外佳作には、大林清木村荘十の名もあるし。選考委員は、菊池寛吉川英治大佛次郎。第2回には大佛さんの代わりに白井喬二久米正雄が加わって。……

 って、この顔ぶれ。戦前の大衆文壇、のなかでもとくに直木賞方面の香りがぷんぷんとする、公募文学賞なのでした。

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2011年2月 6日 (日)

文藝選奨(文部省文藝委員会・選) 100年前の文学賞、グダグダでした。そりゃそうです。だって文学賞だもの。

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 直木賞の源流をたどる旅。先日は、明治末期の「『早稲田文学』推讃之辞」を取り上げました。

 しかし、「推讃之辞」はまだ多くの点で、文学賞としての態をなしていませんでした。だれがどのように選んでいたかがわかりませんし。体裁はほとんど、文芸評論の延長線上にすぎません。

 「既成作家を対象にした、非公募の文学賞」。その最初期に現われた企画、といったら、やはり「推讃之辞」よりも「文藝選奨」のほうに注目するのが適切なんでしょう。

 文藝選奨とは……。「推讃之辞」のスタートから遅れること4年。明治45年/1912年の春に、たった一回だけ行われた企画です。

 【文藝選奨(文部省文藝委員会・選)受賞作・候補作一覧】

 明治44年/1911年5月。国家の組織である文部省の下に、民間人を集めて文藝委員会なる組織がつくられました。メンバーは17人。いずれも、文壇界隈で名をなしていた面々です。

 彼らのお役目のひとつは、すぐれた作品・作家を選んで、顕彰し表彰すること。彼らの選んだ作家には、文部大臣から賞金が贈られることになっていました。要は税金をつかって、国が作家に賞をあげる、ってことですな。

 さあ、この舞台設定だけですでに、いろんな興味がわきませんか。

 なにせ、日本人にとってほぼ初めての経験です。発表済みの文藝作品を俎上にのせて、委員どうしが議論のすえに、賞を決める。いったいそこで、どんなことが起こったのでしょうか……。

 くわしいことは、和田利夫さんの『明治文芸院始末記』(平成1年/1989年12月・筑摩書房刊)が、細かくネチっこく紹介してくれています。

 この本がまた、ドギモを抜く面白さなんですよね。著者・和田さんの、賞ゴトに対する不信感・不快感っていうフィルターがかかっていて、そこもまた読ませどころ。いや何より、充実した資料探索ぶり、めくるめく文壇ゴシップの積み重ねが、読む者を圧倒します。

 テーマは、国家による文藝(文士)保護。保護というのはつまり統制、に通じていますから、保護保護いっといて、国が気に入るような、薄っぺらな作品ばかりが手厚く優遇されることになり、逆に文藝の発展を阻害するんじゃないか、みたいな議論ですね。そのなかで、一人ひとりの文士が、どんな態度でどんな発言をし、事態がどう転んでいったのか……興味の尽きないハナシが濃厚に収められています。

 ワタクシが『明治文芸院始末記』に付け加えることなど、何もありません。この本を参考に、文学賞オタクとして、気になる点を二つほどピックアップして、先を続けます。

 ●優れた文学作品に賞金を授与する、って発想はどこから生じてきたのか。

 ●「文学賞」なる見慣れない劇を目のあたりにして、明治の人たち(ジャーナリズム)はどんな反応を示したのか。

 以上二点です。

 文藝委員会が組織されるより前、明治42年/1909年1月。文部大臣の小松原英太郎さんが、文士たちを食事会に招いて意見交換をはかったことがありました。そのとき、招待された一人が、文学賞のことを口にしています。これが、のちの文藝選奨への伏線となったのだそうです。

「席上、文芸院設立に積極的賛成の意を表したのに上田万年と上田敏の東西両帝大の上田がいた。万年の意見は、文芸の審査は第二義的なものとし、文芸奨励のためには文壇の功労者を文芸院に入れると共に、海外に漫遊させて文士の地位を高めたい、その為にも文芸院は必要である、というところにあった。敏の方は、英米の文芸に見るべきものがないのはアカデミーがないからで、独・仏・伊などでは何らかの保護を政府が与えている、日本もアカデミーを設立して文芸の保護を計られたい、と発言している。すると森鴎外が、ドイツのシルレル賞与金の話を持ち出した。」(『明治文芸院始末記』「一四、文芸院の設立は是か非か」より)

 出ました。森鴎外さんです。

 日本の文学の世界に、文学賞なんちゅう化けモンをもってこようとした最重要人物のひとりです。

「文相の文士招待会に関する鴎外の談話摘要は、情報源が限られていることから、いずれも大同小異で、いちいち紹介するのも煩わしいくらいだが、一月二十日の『中央新聞』に載った記事には発売禁止についての発言もあるので、参考までに全文を掲げてみる。

森鴎外氏 独逸にはシルラー・プライスと称するものがあつて文芸を奨励して居る、これは一定の委員が設けられてあつて一年に一遍づゝ佳き作物を挙げて夫れに各一千馬党の賞与金を与へて之を表彰して居る、日本にてもこれを実行したならどうであろう これは実行が容易であらうと思ふ……之れに対しては当局者の答弁があつた、夫れなら日本は容易に出来る 来年からでも出来やうと思ふ……(引用者後略)(同書より)

 何といっても、鴎外さんですからね、ドイツの文学事情……と言いますか文壇事情に精通していた人です。その彼が、文学賞のない味気ない(?)日本の風土のなかに、突然繰り出した、欧州の文化。プライス。賞金。いわゆる賞。

 うん。それはいいんだけどさ。シルレル(シルラー)・プライスって何なの?

 当時の習慣を守るのなら、「シルレル・プライス」または「シルレル賞金」。そんな言葉を使って、ワタクシも気取ってみたいものです。でも、いまの我々にはわかりづらい。以後「シラー賞」と訳します。

 【シラー賞受賞作一覧】

 Schillerpreis(シラー賞)。こいつです。どうやら、こいつめが、直木賞をはじめとする日本の近代文学賞の、源流のひとつらしいのです。

 そしてまた奇遇なことに……、いや、必然なんでしょう。シラー賞とは何であったか。鴎外さんはそれを真似て日本に文藝選奨をつくりましたが、文藝選奨がたどることになる顛末を、はなから予感させるシロモノでした。

 いや、文藝選奨だけじゃありません。のちに日本でもたくさんの文学賞がつくられます。その多くが、文学賞ゆえに遭遇せざるを得なかった、愚かしくも楽しい事態……たとえば、賞運営の混乱とか、文壇内の争いとか、そういったゴシップ性を帯びていて、まさに文学賞の模範としてふさわしい行事、それがシラー賞なのでした。

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