オール讀物新人賞 直木賞に直結した予備選考機関としてのお役目、お疲れさまでした。
文學界新人賞という公募賞があります。昭和30年/1955年に始められました。俗に「芥川賞の予備審査」、あるいは「芥川賞の仮免許試験」などと言われたりします。
これがまた、非常によくできたシステムなんですよねえ。
まず世の無名作家軍から小説を寄せてもらう。文學界新人賞で一度ふるいにかける。残ったものを、芥川賞の審査にまわす。二つの賞はほとんど同じ連中が運営しているのに、表立っては、つながりがあるとは公言しない。うーん、よくできています。
文學界新人賞→芥川賞のラインがいかに素晴らしいか。50数年、一貫してその仕組みを変えずに通用しています。いまでも健在です。自民党が政権から滑り落ちても、なお崩れないシステム。えらいもんです。
もちろん直木賞にも、かつては同様の専門予備校がありました。しかし、こちらのラインはこらえ性がなく、もろくも時代の波を受けて壊されてしまいました。
ごぞんじ、オール讀物新人賞→直木賞ラインです。
ええと、ごぞんじじゃない方のために、少し解説します。
昭和27年/1952年、『オール讀物』が公募賞を設けました。「オール新人杯」って名称です。
往年の江戸川乱歩賞と同じく、賞金はありません。原稿料は出ます。そのほか、記念品がもらえます。いや、何よりの特典は、これです。
「当選者名を本社保存のオール新人杯に記名する」!
だはははは。何サマのつもりだオール讀物。
極東のチッポケな一大衆誌が、「杯」って何なんですか。杯に当選者の氏名を残して、それを本社に保存しておく、それが当選者の何よりの誇りになる。ね。誇りだよね、と主催者側が胸を張っちゃうという。
すげえなあ。考えること違うなあ。こういう仰々しいことを恥かしげもなくやらないと、一流の小説誌にはなれないのだなあ。
何やねん新人杯って。腹の足しにもなりゃしない。そんなもんより金をくれよ金を。……と、まともな頭をもった冷静な世論の声に押されたか、第17回(昭和35年/1960年・下期)から「オール讀物新人賞」と、ふつうの名前になりました。
そして、この頃からオール新人賞は、明瞭な方向転換をします。別の言い方をすると、自分のからだから発散される魅力など、大したものじゃないと自覚します。
『オール讀物』誌に載せられる、毎回の募集要項広告を見るとわかります。そこにキャッチコピーがつくようになるのです。次のような。
「直木賞への最短コース」(昭和30年台半ば~昭和40年台半ば:1960年台)
最短コースですぜ旦那。ほとんど、予備校の呼び込み広告ですな、これは。
「直木賞への登龍門!」(昭和40年台半ば:1970年台前半)
直木賞が大衆作家の登龍門、と言われているところに、さらに登龍門、ですか。朝飯前の朝飯、みたいな。
「オール新人賞は直木賞へのスプリングボードです」(昭和50年台:1980年台)
どうです、このヒネりのない直球なキャッチコピー。ここまでやらないと、あの激烈な中間誌戦争は勝ち残れないのです。おそらく。
どのコピーも、正しい。オール讀物新人賞は、直木賞の第一次予選です。正解。
国会議員に関する法律を、国会議員が決めている程度に、正解。
それでついに、「直木賞」の枠から外れるときがきます。年号が平成に変わるころには、コピーは次のように変わりました。
「あなたも小説を書いてみませんか?」
フツー。
昭和の時代を駆け抜けるうちに、直木賞が異常に大きくなりすぎた、ってことなんでしょう。大きくなる、というか、功労賞化しすぎた、と言ったほうがいいかもしれません。
公募賞に応募してくるような無名作家も、すぐ手を伸ばせば届くはずだった直木賞。オール讀物新人賞(新人杯)の受賞者はもちろんのこと、候補どまりの人でも、それと前後して直木賞の候補になった人がたくさんいました。
永井路子、新田次郎、邱永漢、伊藤桂一、福本和也、左舘秀之助、武田八洲満、夏目千代、古川薫、中田浩作、西村寿行、康伸吉、志茂田景樹……。
「最短コース」というのは、オーバーでも何でもありません。いまでは、「オール新人賞の選考委員を務めることが、直木賞選考委員への最短コース」でしかありませんけど。
直木賞の黄金期、黄金期といって語弊があるなら「有力新人紹介機能」が力づよく発揮されていた時期、それを支える下部機構として、オール讀物新人賞は、かなり正常に稼動していました。
そう。遠い遠い昔のおハナシです。
○
遠い昔のハナシなんですけど、当時、生まれてもいなかったワタクシらでも楽しめます。文学賞ってフトコロが深いですなあ。
とくに、公募の新人賞には、非公募の文学賞にはない強烈な特徴があります。一次二次と予選を通過した作家名・作品名が文献に残ってしまう、っていう特徴です。
古文書に取り憑かれる人間の気持ちがわかりますよね。後世に生まれてきた者に与えられたご褒美です。「へえ、こんな人もオール讀物新人賞に応募していたのか」と、あとになってわかる喜び。
たとえば、先に挙げた最終候補者のほかにも、のちに直木賞をにぎわす大衆文学に命を賭けた(?)面々がたくさんいました。
岡本好古。加藤葵。杜山悠。小林実。谷崎照久。木戸織男。……と言っても、直木賞オタクじゃないとわからないですね。
伝わる例を挙げます。こんなビッグネームもオール新人賞に応募していました。そして落選していました。黒岩重吾。平岩弓枝。杉本苑子。有馬頼義。直木賞をとる前は、みんな必死だったんですね。
同姓同名の別人だったらごめんなさい。
直木賞ですら、「あげぞこないが多い」だの、「あんな実力作家を落とすなんて直木賞も大したことない」だの、バシバシ攻撃されているんですもの。オール新人賞が、それ以上に目んたま節穴であって、何の不思議がありましょう。
いま、公募賞にせっせと挑戦している人たちも、あきらめずに続ければ、いつか光が当てられるときがくるかも。
あ、それと逆に、オール新人賞とっても、直木賞候補になっても、活躍できなかった人っていうのもたくさんいます。賞は賞、書きつづけることとは別の価値です。パッと光って、あとは音無しの花火型人生もいいですけど、ほんとうに継続するのは難しい。
石井博さんの道行きをながめると、心からそう思います。
え? 石井博なんて知らない、ですと? オール新人賞史上に残る大金字塔を打ちたてた方です。
最終候補に残ること9回。候補記録第2位の岩山六太さん(6回)を大きく引き離して、いまなお燦然と輝く大記録の持ち主です。ちなみに、直木賞候補者でもあります。
「私はテレビ放送用の影絵の脚本を書いていました。この頃私はまだ小説には無関心でした。誰が芥川賞や直木賞を受賞したかも興味がありませんでしたし、それは私の考えも及ばない別の世界の出来事でした。でも山本さん(引用者注:山本周五郎)の小説を読んでから、大衆小説というよりは中間小説を少し読むようになりました。すると、山本さんの小説が誰の小説よりも質の高いのに驚きました。『季節のない街』の一章を、もし私が書けたら間違いなく直木賞を受賞するに違いないと思いました。私は戯曲の材料にノートしていたものを小説に書き、「オール読物」に応募しました。昭和三十九年の事です。初めて書いた小説が最終予選まで行きました。」(『噂』昭和48年/1973年3月号 石井博「穴ぼこの闇の中から」より)
恐ろしいなあ石井さん。直木賞や芥川賞に何の興味もなかったあなたが、なぜに「間違いなく直木賞を受賞するに違いない」などというフレーズに到達してしまったのか。直木賞は、あなたの何だったのか。
ようやくつかんだ直木賞へのチャンスで、ケチョンケチョンにけなされて、
「候補にあげられたのが、おかしいくらいで、落ちるのは、はじめから判然としていた。」(『オール讀物』昭和47年/1972年4月号 選評より)
などと柴田錬三郎さんに切って捨てられる始末。でも、しょせん直木賞は直木賞。あきらめずに、少なくとも9度もオール新人賞に挑戦しつづけることのできたあなたは、その後、どこへ行ってしまったのでしょう。
ああ。あなたの「老人と猫」をオール新人賞に選んだとき、選者の立原正秋さんがきっぱりと送った言葉が、何だか胸に沁みます。
「応募する以上は、中間小説を安易に考えずに、筋金入りの作品を提出してくださるよう望みます。当選すればいいんだ、といった心構えは困ります。職業作家としてやって行ける人、私はそんな作品をとります。芥川賞や直木賞をもらっても、それっきり消えて行く人もあります。もちろんこれは選考委員にも責任はありますが、一発主義はどうもよくありません。いま文壇には元作家という作家がかなりおります。書けなくなったら潔く転業すべきです。こうしたことを念頭において応募してください。」(『オール讀物』昭和46年/1971年12月号 立原正秋「骨格のある作品」より)
石井博さん、職業作家にはなれませんでしたか。オール新人賞のタイトルホルダーとはいえ(だからこそ?)、それでメシを食うとなると次元が違かったんでしょうか。……その後、どうされたのか、気になる作家のひとりです。
○
せっかく90回分の伝統ある歴史に触れるのですから、最後に、ざっとその歴史を概観できる視点を持ってきたいと思います。
応募者数の推移です。
出版業界には、こんな都市伝説めいた言い伝えがあります。
「不況になると作家志望者が増える。団塊の世代も小説を書き始め、公募新人賞は応募者数が右肩上がりだという。」(平成21年/2009年12月・毎日新聞社刊『毎日エコノミスト別冊「キーワード予測2010」』「分野別2010予定カレンダー 文学」より 執筆担当:内藤麻里子)
ほんとかいな。「不況になると作家志望者が増える」。いかにもありそうなハナシだけに、よけい胡散くさいんですけど、ワタクシも正否は知りません。
オール新人賞は、その歴史60年弱。第1回の応募数は684篇。3か月後には早くも第2回開催、さらに6か月後に第3回、すでにそのとき応募数1,000篇の壁を突破しました。
60年も続けていれば、景気だの経済だの、そんな外的要因以外にも、さまざまな要素がからんできちゃいます。
第65回(昭和60年/1985年)のときは、それまで年二回だったのが年一回に変更。そこで応募数も、873篇から1,672篇に倍増。
第88回(平成20年/2008年)のときは、オール讀物推理小説新人賞と統合。応募数は、2,109篇から2,372篇と、200篇あまり増。
だいたい、「不況」っつうのが何を指すのか、その定義をはっきりさせないと、何にも言えませんよね。いや、作家志望者が増えたからといって、オール新人賞の応募数が上がるといえるのか、その解明をクリアしないかぎり、関係性をどうこう言うことはできないでしょう。
いつか考察してみたいテーマではあります。
あ、それにオール新人賞は、他の公募賞とはまた別の(別と思われる)事情もありますし。要は、当エントリーの最初にも言いましたが、オール新人賞といえば直木賞、オール新人賞の出身者が直木賞をとったりすると、俄然、応募数が増えるって傾向がありました。
●南條範夫(第35回直木賞 昭和31年/1956年上半期)…1,126篇→1,255篇へ
●寺内大吉(第44回直木賞 昭和35年/1960年下半期)…829篇→847篇→891篇へ
●藤沢周平(第69回直木賞 昭和48年/1973年上半期)…488篇→689篇へ
ただ、その後は、「最短コース」や「登龍門」や「スプリングボード」なんて売り文句が効かなくなったか、あるいはオール新人賞とっても直木賞にはほど遠い実態になってしまったからか、胡桃沢耕史さんがとっても、難波利三さんがとっても、応募数増には結びつきませんでした。
いま、オール新人賞が、直木賞との結びつきを前面に押し出して、募集広告を出したら。どのくらい応募数の増減に影響を与えるのか、ちょっと見てみたい気もします。
「オール新人賞は、直木賞と同じスタッフが運営しています」
「オール新人賞をとると、直木賞の予備選考時、有利になります」
……うーん。いまの小説志望者たちに、どれほど直木賞が魅力ある存在として映っているか、が勝負ですな。
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