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2011年1月の6件の記事

2011年1月30日 (日)

大藪春彦賞 文壇アウトローの名前をあえて冠した、文学賞に縁遠い出版社の賞。

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 大藪春彦さんを表現するのに、ぴったりくる言葉といえば、「孤高」です。純文壇からも、大衆文壇からも、推理文壇からでさえ、ひとり離れ立つ存在感。

 その孤高さをあわらすのに、しばしば文学賞が引き合いに出されるのは、なぜなんでしょう。いろんな方が言っています。大藪春彦はただのひとつも文学賞を与えられなかった、それがすごいんだ、みたいな具合に。

花村(引用者注:花村萬月) (引用者注:処女作の「野獣死すべし」のときに)文体ができてるんだ。怖えよなァ。

(引用者注:馳星周 二十四、五でしょ。

花村 もうやることねえよな。しかも受け入れられなかったでしょう、文学賞とかには。

 いわゆる文壇にね。

花村 本物の条件だよ。ニセモノがここでちまちまと対談なぞして、ご飯食べてますけど(笑)。カッコいいよね。

 カッコいい。おれらみたいに弱い人間にはできない(笑)。だけど大藪さんなんかになると、もう賞なんかいらないですよ。」(平成11年/1999年2月・徳間書店刊『蘇える野獣 大藪春彦の世界』所収 花村萬月・馳星周「本物の条件」より)

 そんなカッチョいい作家、大藪春彦。よりによって彼の名前を、あえて「カッコ悪さの代名詞」である文学賞に付けてしまった、チャレンジ精神あふれる賞。大藪春彦賞です。

【大藪春彦賞受賞作・候補作一覧】

 平成8年/1996年2月、大藪春彦さん61歳で逝去。公私にわたっての友であり、仕事の相棒であった徳間康快さん(当時の徳間書店社長)が、翌平成9年/1997年9月、大藪春彦賞を創設しました。

 主催はあくまで「大藪春彦賞選考委員会」。徳間書店は、後援ってかたちで賞の運営に関わっています。

 直木賞に限ったハナシではなく、山周賞も吉川新人賞も山風賞も、それぞれ特定の出版社の編集者が候補作を決めています。こういう文学賞は、もちろん、その出版社との関係性ぬきには語れません。大藪賞しかり、です。

 大藪賞は13年の歴史を築いてきました。この賞を見るのに、すでにさまざまな切り口が生まれていることと思います。そのひとつに確実に挙げられるのが、「大藪賞における徳間書店刊行候補作の位置づけ」でしょう。

 第4回(平成13年/2001年度)の選評で、大沢在昌さんは書きました。

「「赤・黒」の著者である石田氏(引用者注:石田衣良に、私は強い期待を抱いている。時代をとりこみつつ、基本形を決して外さないという意味では、近年出色の正統ハードボイルド作家だろう。(引用者中略)

 快作ではあるが、この作品が候補になったことは、石田氏にとって不運だったかもしれない。」(『問題小説』平成14年/2002年3月号より)

 さらに翌年。ふたたびの大沢さんです。

「『溝鼠』

 作者の作風をここであげつらうことはしない。ただ本作には、以前候補となった作品とのちがいが感じられなかった。その意味では、候補となったことじたいが、作者にとっては不運であったと思う。」(『問題小説』平成15年/2003年3月号より)

 いうまでもなく、石田衣良『赤・黒』も、新堂冬樹『溝鼠』も、徳間書店から出た本です。

 作者を論ずるより何より、徳間から出たばっかりに、箸にも棒にもかからない小説が候補作に選ばれてしまって不運なことだ……といった思いを、つい大沢さんの選評から読み取ってしまうのは、ワタクシの意地が悪いゆえでしょうか。

 「作者には力量があるのに、候補作が悪かった」っていう表現。第10回(平成19年/2007年度)の、香納諒一『孤独なき地』に対しても、浴びせられました。第12回(平成21年/2009年度)の、誉田哲也『ハング』もまた、そうでした。

 熱く、どやしつけるような叱咤(酷評)とともに。

「『ハング』が候補になったのも、版元が主催する出版社の作品という不運なのだろうと思いたい。(引用者中略)たとえ手慰みの作品で、候補に挙げられたこと自体が不本意でも、細部に手を抜かずに書いたものであるなら、もっと評価は得られたはずだ。残念でならない。」(『問題小説』平成22年/2010年3月号 真保裕一選評より)

「『ハング』は選考委員という立場にいなければ途中で読むのをやめていただろう。(引用者中略)各方面で高評価を得ている新鋭の作品だということで期待していたのだが、その期待はあっさりと裏切られた。作者にも文句を言いたいが、この作品を担当した編集者は糾弾したい。あなたは小説家と一緒に戦う覚悟があるのか? あるのならば、なぜこんな作品をゆるしたのか?」(同号 馳星周選評より)

 その他、インターネット上には、黒崎視音さんの『交戦規則ROE』が、大藪賞の候補になる前の、あれやこれやのハナシが、まだ少し残っています。これもまた興味ぶかい限りです。

 おいおい、徳間書店は、自分のところからたくさん受賞作を出さないようにと、自社のものを候補作にするに当たって、選考委員たちにコテンパンに言われるようなものを、わざと選んでいるんじゃないか? そう思わせるほどの展開です。他の文学賞では、なかなかお目にかかれません。

 そして今年。第13回(平成22年/2010年度)。徳間書店、輝ける記録をまたひとつ更新しました。

 自社の本を候補に残した全12回のうち、受賞は、第1回(平成10年/1998年度)の馳星周『漂流街』一回ぽっきりですから、これで連続落選記録を11回、に延ばしたわけです。第7回(平成16年/2004年度)からは、毎年毎年で、切れ目なし。7年連続です。道尾秀介直木賞連続5回候補、もびっくりの大記録と言えましょう。

 そして、こういうワザを見ていると、妙なすがすがしさを感じてしまいます。文学賞とは縁のない大藪春彦の名を、わざわざ賞名に立てた徳間康快さんの思いが、文学賞とは縁遠い徳間書店の姿として、正しく継承されているのだな! とさえ思われてくるのですから、不思議なものです。

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2011年1月23日 (日)

戦記文学賞 戦争末期の末期、の余裕のない時期に、なぜか文学賞をやってる会社。それが文藝春秋社。

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 直木賞の主催団体は、日本文学振興会っていいます。公益財団法人です。昭和13年/1938年に菊池寛さん・佐佐木茂索さんがつくりました。

 要は、文藝春秋のダミー団体ですね。主たる活動は、ほぼ文学賞を運営することだけ、です。

 この団体が行なっている賞としては、以前、大宅壮一ノンフィクション賞(昭和44年/1969年創設)を取り上げたことがあります。

 振興会の公式ホームページをご覧ください。直木賞、芥川賞の他に、菊池寛賞、大宅賞、松本清張賞。……いまだ注目を浴び続けるものあり、気息奄々のものあり、って感じで並んでいます。

 今日の主役は、この会がつくったもう一つの文学賞のことです。公式ホームページには載っていません。

 ああ。今じゃ、ほんとうに誰も知らない闇に葬り去られてしまいました。昭和19年/1944年創設の、「戦記文学賞」です。

【戦記文学賞受賞一覧】

 直木賞・芥川賞の親は佐佐木茂索さん。大宅賞の親は池島信平さん。……だとするなら、戦記文学賞の親は、斎藤龍太郎(船田龍太郎)さんです。おそらく。

 おそらく、などと腰の引けた表現ですみません。

 昭和19年/1944年~昭和20年/1945年8月までは、記録という記録が少ない上に、「一億玉砕」教のことなど綺麗さっぱり忘れたい、みたいな事情もからんでいるらしくて。当時のこと……とくに、このころの文学賞について語ってくれる文献が、まあ少ないのです。

 たとえば永井龍男さん。当時、文藝春秋社の上層部のひとりでした。真剣に思い出す気持ちがあるのかどうか、よくわかりません。

「昭和十九年度に入ってからの(引用者注:文藝春秋社の)業績は、ほとんど無に等しい状態であった。

 言論の統制は、すでに沈黙すら許さぬ極点にまで達していたし、用紙の不足は底を突いていた。

 雑誌としての機能を失ったものは「文藝春秋」に限らず、すべてが僅かに形体を止めて、月々を糊塗しているに過ぎなかった。雑誌のみではなく、優先的に用紙の配給を受けていた新聞が、半ペラ裏表の朝刊のみという段階に追い詰められてきた。

 ただ、この間にあって、文藝春秋社の別個団体である日本文学振興会が、敗戦直前まで「芥川賞」「直木賞」の銓衡に当っていたことなどが、今日顧みて特筆に値するかと思われる。」(昭和34年/1959年4月・文藝春秋新社刊『文藝春秋三十五年史稿』「編集の自由のない時代」より 執筆担当:永井龍男)

 そうですそうです、直木賞・芥川賞が、戦中最後に授賞決定した第20回が、昭和20年/1945年の2月。たしかに特筆に値します。

 ただなあ。永井さんが知らないはずはないんだけどなあ。そのわずか5か月後のことですよ。『文藝春秋』誌が発行不能となって休刊状態に入り、文春社員の仕事といえば、「応召社員留守家族への送金、遺家族に対する手当送金というような事務」になってしまっていた7月。日本文学振興会が、文学賞の授賞を決めていたこと、ほんとに忘れちゃったのかなあ。

 昭和20年/1945年7月といえば、です。戦時中の文学賞の総本山(?)だった日本文学報国会だって、機能不全に陥っていました。直木賞の『オール讀物』どころか、芥川賞の『文藝春秋』すら、発行できないほど、出版も文壇もボロボロでした。え。そんなときに、文学賞ですよ。

 いったい何を考えているのだか。……もとい。文学賞バカが昭和20年/1945年の段階でもたくましく生息していた、っつうことに、ワタクシは涙さえ催してしまうのでした。

 「半ペラ裏表の朝刊」のみになった新聞ですが、そこにこんな記事が小さく載りました。

故里村氏に戦記文学賞

日本文学振興会では里村欣三氏の報道戦における殊勲とその壮烈な戦死に対し第一回戦記文学賞を贈ることとなり、近く記念品ならびに賞金五百円をます子
(原文ママ)未亡人に伝達する」(『毎日新聞大阪版』昭和20年/1945年7月20日より)

 同日の『朝日新聞』にも、「戦記文学」と誤植されながら、ほぼ同記事が載りました。

 で、そもそも「戦記文学賞」って何でしょう?

 ……さかのぼること、約1年前に文藝春秋社=日本文学振興会がつくった賞です。いま見ますと、先行するアニキ分、直木賞・芥川賞のことを、そうとう意識してつくったのだと思われます。

 昭和19年/1944年。このころの文藝春秋社の状況を、おさらいしておきます。

 それまでは長らく菊池寛(社長)=佐佐木茂索(専務、つまり実務のトップ)の二頭体制でした。ところが昭和18年/1943年4月、社内の右傾グループがその体制の転覆をはかりまして、茂索さんを追い出し、代わりに斎藤龍太郎さんを実務トップの専務に担ぎ上げます。

 茂索さんは「副社長」なる肩書だけを与えられて、もうイヤになってしまい、伊豆に疎開。いわゆる、ひきこもりですな。

 さて、実権を握った斎藤龍太郎さん。以前にも同じ箇所を引用しましたが、もう一度だけ。永井龍男さんが、このころの龍太郎さん像を描いています。ちなみに永井さんは、時局迎合とは距離を置きたがっていたグループ、つまり茂索さんの子分格です。

「五尺に足りぬ短躯に、四季を通じて結城紬の上下に袴を着け、端然たる姿勢を崩さぬ人であったが、日本編集者協会の会長として、文芸春秋社専務取締役として、時流の尖端に立った得意は想像以上のものがあったに相違ない。」(昭和52年/1977年3月・読売新聞社刊『自伝抄 I』所収 永井龍男「運と不運と」より)

 その龍太郎が実質上のトップ。『文藝春秋』の編集人は菊池寛の女婿・藤澤閑二。「戦記文学賞」がつくられた昭和19年/1944年5月は、そんな陣容でした。

 以下、『文藝春秋』に載った「戦記文学賞」の制定文です。

 資料の意味も込めて、全文引用します。汚ならしい戦時下の文面を読みたくないお食事中の方は、すっ飛ばしてください。

「大東亜戦争下、我国文人の使命も亦極めて重大にして、一管の筆能く崇高壮大なる聖戦の姿と精神とを把握し、百世に恥ぢざる赫奕たる文勲を樹てざるべからず。茲に日本文学振興会は戦う文学を振作し、優秀なる作品を表彰する目的を以て「戦記文学賞」を制定す。

一、大東亜戦争以後の発表に拘る戦記文学を左の二部に分ち、夫々優秀と認められたるものに対して年二回宛授賞す。

 一部 散文(小説、記録)

 二部 韻文(詩、短歌、俳句)

一、賞 各部賞品並に副賞金五百円宛

一、選者 佐藤春夫、齋藤 瀏、川端康成、山口青邨、火野葦平(交渉中)、上田 廣丹羽文雄

昭和十九年五月

財団法人日本文学振興会」(『文藝春秋』昭和19年/1944年6月号「戦記文学賞制定発表」より)

 この賞が、同じ文春発の賞でありながら、直木賞・芥川賞をライバル視している、とワタクシは見て取ります。

 なぜか。ひとつには、先に書いたような茂索グループと龍太郎グループの対立が背景にあるからです。直木賞・芥川賞ってのは、べったり茂索グループのものですからねえ。

 さらに言いますと、戦記文学賞と一つの名称でありながら、二部に分けて、二つの賞をつくろうとしているところ。一年に二回、授賞しちゃうぜっていう発想。賞金(副賞)を、直木賞・芥川賞と同じ500円に設定している、などなど……。

 この制定記事には、川端康成さんが「選者として」なる一文を寄せています。康成さんなりの勇ましさが表われています。

「戦記文学の今日の意義と使命は言ふまでもない。ただ文学者として思ふことは、多くの戦記が十分大切にされてゐぬ憾みはないか。民族の宝を散佚埋没に委ねてはゐないか。この賞によつて、今日のため、後世のためそれを尚大切にする発燭を得れば幸ひである。」(同号より)

 ほんとですよね、康成さん。「多くの戦記が大切にされていない」、なるほどなるほど。「後世のためにそれを尚大切にする」、ええ、後世に生きているひとりの文学賞オタクとして証言しますと、まあ、大切にされていないこと、甚だしいですよ。

 おっと。戦記文学が大切にされていないかどうかは、わかりません。でも確実に、「戦記文学賞」は大切にされていません。この賞も、文学賞なる催しモノが続くかぎり、なお大切に語り継いでいってほしいと思います。直木賞・芥川賞とともに。

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2011年1月17日 (月)

第144回直木賞(平成22年/2010年下半期)決定の夜に

 小谷野敦さんが芥川賞とれなくて、胸がしくしくしていますけど、ここは直木賞専門ブログです。気をとりなおしまして。今夜、第144回(平成22年/2010年・下半期)の直木賞が決まりました。

 直木賞の候補作が5作品(しかない)のは、近年ではずいぶんと珍しいことでした。前に5作候補だったのは、第130回(平成15年/2003年・下半期)。7年ぶりです。で、その第130回も江國香織さん、京極夏彦さんの二人受賞。期せずして(期して?)、今回もまた5分の2の受賞。大盤ぶるまいで、いいことです。

 いや。大切なのは実は、5分の3のほうではないか。文学賞、とくに直木賞では、落選した側のほうにこそ面白い小説がゴロゴロ埋まっているんじゃないか。……っていうのが、ワタクシが日ごろ感じていることです。

 つうことで、選ばれなかった三つの候補作。じっさい、こっちのほうが、直木賞って枠をとっぱらったら、受賞作に勝るほどの小説であった、と本気でワタクシは思っています。

 『蛻』を生み出した犬飼六岐さん。ホレボレしました。トリコになりました。5つの候補作のなかでは、断然、ワタクシの一押しでした。ロッキさんを今このタイミングでとらえ損ねるなんて、直木賞君もずいぶんと勿体ないことしたな、と、つい直木賞君が可哀そうになってきます。正統派の時代小説なんて糞くらえ、めくるめくロッキの世界を、ガンガン見せつけてください。

 荻原浩さんには4度目のことで、もう掛ける言葉も残っていません。直木賞が、荻原さんのような、どんな物語もスムーズに読者に届ける才能を、求めていないのなら仕方がありません。『砂の王国』は一気に読ませる荻原さんの力量が存分に発揮された、ばつぐんのエンターテインメントでした。直木賞なんかすっ飛ばして、柴田錬三郎賞でも吉川英治文学賞でも菊池寛賞でもとっちゃってください。……いや、文学賞なんかどうでもいいですね。失礼。

 そりゃあ、ワタクシなどが何か言う必要もありませんよ。『悪の教典』の素晴らしさは、日本中の多くの読者がすでに気づいちゃっていますし。貴志祐介さんが候補になって直木賞を受賞する可能性がある、という、その驚天動地のドラマが観られただけで、ワタクシは満足です。ああ、直木賞は貴志作品も落としたんだね、と後世の文学賞愛好者が、直木賞に対してせせら笑うタネをもたらしてくれました。直木賞は、そんな「実質、直木賞超え」している落選候補作家の歴史によって成り立っているんですもの。

          ○

 さて。受賞した方々については、光の当たる場所に持ち上げられてしまっているので、簡潔に。

 道尾秀介さんが直木賞作家になったことは大事件ではない。……って事実をもってして、もはや道尾さんの偉大さがわかるってもんです。5回連続の長丁場、つねに「小説を書く」行為以外でも、世間を楽しませようとするサービス精神が、これからも道尾さんの強みになると信じています。

 『漂砂のうたう』のような、このまま何もなければまず売れなかっただろう(こらこら)小説が、ドドーッと読者の手に届く展開。ああ、直木賞だ、これが直木賞の素晴らしさだなあ。木内昇さんが小説家として歩んでいかれるのに、恰好のジャンプ台となることでしょう。直木賞は、こうじゃなくっちゃね。

 ……にしても。繰り返します。個人的な感覚だと、今度の直木賞は、落選作のほうが手に取って読みやすい、そして胸おどる物語がそろった回だなあ。それでもきっと、明日からは受賞作のほうが売れてしまうんだろうなあ。このネジれた状況。うーん、これもまた、直木賞らしいといえば直木賞らしい現象なんですけども。

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2011年1月16日 (日)

第144回直木賞(平成22年/2010年下半期)の影でひっそり行われるとウワサの「逆・直木賞」予想。

 すっかりおなじみになりました。年に二回、ほとんど権威とは無縁のところで開催されている文学賞「逆・直木賞」。今回の平成22年/2010年・下半期で第144回を迎えます。

 既報のとおり、今回の候補作(平成22年/2010年6月~11月に発表された小説)は下記の9作品が選ばれました。文学ファン……いや、文学賞ファンのあいだで早くも、誰がその栄冠に輝くのか、下馬評が飛び交っているので、ごぞんじの方も多いはずです。

■第144回逆・直木賞候補作品

  • 浅田次郎 『終わらざる夏』(上)(下) 平成22年/2010年7月・集英社刊
  • 阿刀田高 『闇彦』 平成22年/2010年7月・新潮社刊
  • 伊集院静 『浅草のおんな』 平成22年/2010年8月・文藝春秋刊
  • 北方謙三 『抱影』 平成22年/2010年9月・講談社刊
  • 桐野夏生 『優しいおとな』 平成22年/2010年9月・中央公論新社刊
  • 林真理子 『本朝金瓶梅 西国漫遊篇』 平成22年/2010年8月・文藝春秋刊
  • 宮城谷昌光 『楚漢名臣列伝』 平成22年/2010年6月・文藝春秋刊
  • 宮部みゆき 『あんじゅう―三島屋変調百物語事続』 平成22年/2010年7月・中央公論新社刊
  • 渡辺淳一 『孤舟』 平成22年/2010年9月・集英社刊

 なにせ、逆・直木賞といえば、「この半年間で発表されたベテラン作家による大衆文学のなかで、最も劣悪なもの」を決めよう、っていう大変挑戦的な賞ですから。いつものように、選考がかなり揉めることは必至、でしょう。

 今度の選考委員は、新進・中堅作家のなかから、犬飼六岐荻原浩木内昇貴志祐介道尾秀介、以上五名が務めることが決まっています。いや、決まっていました。選考会の開かれる1月17日夕刻は、どうやら、みなさん他に用事があるらしく、全員欠席するそうです。早くも波乱の予感です。

 ワタクシ、直木賞オタクではあっても、逆・直木賞にはあまり詳しくありません。なので以下の予想は、何の参考にもなりゃしません。ぜひ自分の目で確かめて、判定されることを強くおすすめします。

■北方謙三『抱影』…受賞予想 9

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 どこかに既視感のようなものがつきまとう。類型的な人物像と、ヤクザの抗争に巻き込まれていく展開に、私はそれほど必然性を感じなかった。それだけで逆・直木賞には十分かと思われたが、ただ、作者の歩んできた道のりは考慮してしかるべきだと思う。小説に対する志もある。

 雑業の方をいっそう増やして極めれば、文句なく逆・直木賞に推せる逸材だ。


■桐野夏生『優しいおとな』…受賞予想 8

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 手練れの仕事だと感心させられた。何より文章が素晴らしい。主人公の少年が大人を分類して認識するにいたったさまざまな過去の出来事を明かしていく手際は、近未来の物語でありながら読者に不自然さを感じさせない。その点、残念ながら、逆・直木賞には一歩も二歩も届かないと思った。

 文学というものから脱け出してみてはいかがだろう。表面的に悲惨さを漂わせながら、鬼面人を驚かす類の物語を今後、数多くつむいでいけば、逆・直木賞に近づくのではないか、と思わなくもない


■浅田次郎『終わらざる夏』…受賞予想 7

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 文句なしの渾身の作である。伝統的な文学のスタイルを踏襲している。過去さまざまな作家が挑み、ときに跳ね返されときにその深淵に手を伸ばしてきた戦争という大テーマをケレン味のない表現と構成で描き切った点に刮目せざるを得ない。

 ただいささかの苦言を呈することを寛恕していただきたい。作者は文学というものへの憧憬が強すぎるのではあるまいか。物語る行為から遠く文学の高みに登らんとする作者の姿勢では、とうてい逆・直木賞を授けるわけにはいくまい。


■伊集院静『浅草のおんな』…受賞予想 6

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 私は好感を持った。候補作の中でもっとも安定感があった。小説として安定があることは作家の筆力と経験がなすものだ。主人公の描き方と物語のダイナミックさに物足りなさは感じるが、安定した筆致すなわち技量的な発展が見られない、という点でこの賞の過去の受賞作に比して遜色がない。

 新たな世界に挑戦せず、同じところで足踏みする作家。そんな期待を込めて、私は「6位」とした。


 さて、次からはいよいよ、ベスト(ワースト?)5のご紹介です。

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2011年1月 9日 (日)

文学賞メッタ斬り! 単なる賞批判にとどまらず、どうやったら賞を楽しめるかを例示しつづける。

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 去る1月5日、第144回(平成22年/2010年・下半期)の直木賞候補作5作が発表されました。17日(月)の選考会が、刻一刻とせまってきています。

 昨年6月より、うちのブログでは毎週、「直木賞のライバルたち」と題するくくりで、さまざまな文学賞のことを取り上げています。今日は、その番外篇です。

 ネットが生んだ「直木賞のライバル」……。と評してしまいましょう。文学賞のなかでもとくに直木賞・芥川賞をイジくり倒す企画、「文学賞メッタ斬り!」です。

 少し歴史をおさらいします。

 文学賞のライバル、いや逆に援護射撃にもなり得る存在として、昔から「文芸評論」を軸とした文芸・文壇ジャーナリズムがありました。

 たとえば、昭和10年/1935年。直木賞・芥川賞の創設が発表されるや否や、『新潮』誌がコラムでそれをネタにする。さまざまな人が、第1回の受賞者予想をしはじめる。下馬評ってやつです。太宰治だろう、いやいや坪田穣治で決まりらしいよ、なんてことが、各媒体で公然と活字になっちゃったりしました。

 貴司山治あたりは、「どうせすぐ、こんな賞やめるだろう」みたいな予測を述べて菊池寛を憤然とさせたりしています。

 ……と、挙げていったらキリがありません。

 でも、キッパリ言わせてもらいます。昭和10年/1935年からこっち、ジャーナリズムが手厚く弄んでくれるのは、たいてい芥川賞です。

 ここは「直木賞のすべて」のブログですよご存じでしょ。芥川賞しか相手にしないような連中に用はありません。どっか行っててください。

 直木賞のことを、あれやこれやと、褒めたりケナしたり馬鹿にしたり持ち上げたりする方々。ようこそ。

 次のように書いちゃう中野重治さんすら、何だかありがたく思えてきます。

「直木賞は対象が「大衆文学」であるため無名の新人というものがなく、けっきょく川口氏(引用者注:第1回受賞の川口松太郎になったということである。その点で直木賞はその意義の半分を失ったことになるかも知れないが、無名の新人が真面目な意味で文学の世界へはいってくるさい「大衆文学」をねらうことがないということと、「大衆文学」というものが文学の真面目な発達に直接寄与するものでないということとのために、これはある意味で必然の結果だったかも知れない。直木賞がどういう作家に与えられたかは日本の現代文学にとって直接の興味にならない。」(平成9年/1997年1月・筑摩書房刊『定本版 中野重治全集第十巻』所収「文壇時事」より ―初出『中外商業新報』昭和10年/1935年8月14日号~16日号「二、三の文壇時事」)

 ええと、重治さんいうところの「真面目でない」連中、戦前だと、つまり『文学建設』の同人みたいな人たちですか? 怒るでしょうなあ。海音寺潮五郎さんのもとに集結して、大衆文芸の質的向上を本気で考えていた一派なんですよ。

 彼らはね、真面目に直木賞のことを考えていてくれました。

「直木賞委員会が、今期(引用者注:第10回 昭和14年/1939年下半期)「該当者無し」と決定したことは、明らかに失敗であった。こゝ二三年来、当該期間ほど新作家の力作が現われたことは無いのであって、最終候補の堤千代大庭さち子宇井無愁のみならず、前回直木賞作品の水準を抜く作品は殆んど十指を屈するに足るのである。にも拘らずこの決定を見たことは、遺憾であると同時に不可解でもある。

(引用者中略)

 若し、委員(引用者注:直木賞委員と、この回から直木賞の選考にも加わることになった芥川賞委員)が大衆文学を能く理解し、その任務に、忠実、周到、公平であったならば、今回の如き失敗は演じていないであろう。」(『文学建設』昭和15年/1940年4月号「文学建設」より 無署名)

 戦後になりますと、まず代表的なのは、『東京新聞』の匿名コラム「大波小波」でしょう。なにせイカガワしいコラムですから、イカガワしさを漂わせる文学賞のことが、大好物です。

「戦後第二回(引用者注:第22回 昭和24年/1949年下半期)の直木賞は山田克郎が獲得したが、第一回の富田常雄とは作家としてのハバが違い、常識からいっても同じハカリでは計れないばかりか、直木賞というマスの大きさが判らなくなった感がなくもない。

(引用者中略)

直木賞の在り方に対する選考委員間の意見不一致は賞そのものをもアイマイにする恐れがある。むしろ直木賞の性格は新人賞とはっきり規定した方がよい。」(昭和54年/1979年5月・東京新聞出版局刊『大波小波 匿名批評にみる昭和文学史2』所収「アイマイな直木賞の性格」より ―初出『東京新聞』昭和25年/1950年6月3日 署名:小原壮助)

 1950年代以降は、新聞各紙とも、1月7月のこの時期になると、ぽつりぽつりと両賞のことを記事に仕立てるようになります。選考委員のなかには、その風潮にイラッと来て、ぶつぶつ文句を言う人も出てきます。バトルです。

「芥川直木賞の銓衡結果が、逸早く報道されることは大変結構なことだが、銓衡の経緯に就て、不用意な記事が掲載されることは、委員として迷惑である。」(『オール讀物』昭和31年/1956年10月号 永井龍男 第35回選評より)

 やはりそれでも、ジャーナリズムのメインターゲットは芥川賞でした。

 やがて中間小説誌がドカーンと売れるようになり、出版界でチヤホヤされるようになった1970年代。少し状況が変わります。『噂』誌のように、直木賞に特化した座談会を毎回、開催してくれるような現象も起きはじめました。

 ぼくなんか、直木賞を見ると、いつも最近の相撲を思い出すわけ。だれを大関にするかなんていうのをね。(引用者中略)それでも、相撲の場合は、いちおうの基準はなきゃいけないんだけど、小説の場合、極端にいって、基準なんてないからね。運、不運がどうしてもあるし、それは仕方がないことでもあるね。

 だから、直木賞といったって、公平無私なものじゃないわけだ。それで当然ともいえる。ただ、野坂(引用者注:野坂昭如さんが最初に候補になったときもそうだったけど、現在の生活に暗雲つきまとう感じのモノを嫌うのはよくないよ。たとえば色メガネであるとか、テレビに出ているとか、作品以外のところで評価するのは困る。」(『噂』昭和47年/1972年9月号「直木賞作家誕生!編集者匿名座談会 三度目の正直で生まれた受賞作」より)

 この路線は、その後『本の雑誌』に受け継がれたと言っていいでしょう。「業界にくわしい人が、とにかく直木賞の駄目さ加減を叩きつづける」役割を担いました。

 さて、ようやく本題にたどりつきましたね。前置きが長すぎました。

 平成15年/2003年6月12日のことです。インターネットの片隅に、ひとつの企画ページが登場します。エキサイトブックス「ニュースな本棚」コーナー内に、「文学賞メッタ斬り!」なる対談(対談日は6月2日)が掲載されました。

 対談者は、大森望さんと豊崎由美さん。

 この企画がのちに単行本4冊を出すほどの強力インパクト企画にふくれ上がるとはなあ。まさか、二人とも予想していなかったに違いありません。ただ、この企画を影でまとめたカエルブンゲイのアライユキコさん一人だけは、最初から「イケル!」と確信していたのかもしれませんけど。

 ウェブ上で、文学賞をサカナにあれこれ語る。……ってだけであれば、個人ブログから2ちゃんねるから、単発的にさまざまな場で行われていたでしょう。

 この企画が一気にブレイクしたのは、単行本になったからです。PARCO出版の宮川真紀さんのアンテナに止まり、平成16年/2004年3月に発売。「文学賞メッタ斬り!」旋風のスタートでした。

 発売5日で増刷、ガッツーンと売れたそうです。その年の一月、芥川賞のほうで美少女アイドル2人組、みたいな受賞があったことで、文学賞に対する興味がそうとう暖まっていた、つうラッキーなタイミングが功を奏した面もあったんでしょうけど。

 ただ、マニアックな本なのに、一般受けしちゃいました。一般受け。文学賞を権威あるものとして過信したり、逆に、くだらない俗事といって無視したり、そんな立場でいる以上、まず到達できない地点です。

 文学賞はウサンくさいし馬鹿バカしい、でも楽しいんだぜ、ってことをワタクシたちに教えてくれたわけですね。百年近い文学賞史のなかでも、そうとう意義ある試み、とすら言ってしまいましょう。枡野浩一さんの言う「バランス感覚」の勝利です。

「同書は一見マニアック。出版関係者が喜びそうなゴシップめいた話題満載だ。が、同時に「一般読者」の視線を意識するバランス感覚があって、そこが凄(すご)い。

 芥川賞を「文芸春秋の賞と思われても仕方がない」と斬り、その根拠をきちんと語る。「歴代芥川賞受賞者を分析してみたんですけど、これまで百二十九回あった中で、『文学界』掲載作が一番多くて、五十人受賞者が出ています」(豊崎)。

 だから芥川賞はインチキだと、結論してしまいたくなるのが素人だ。でも彼らはそうしない。あらゆる賞を分析し罵倒(ばとう)し絶賛し、面白がる。どんなものにも長所と短所があるから、それを知った上で楽しめばいいと悟っているかのようだ。」
(『朝日新聞』夕刊 平成16年/2004年4月10日 枡野浩一「文学賞 芥川賞と文春の統計的関係」より)

 まったくです。

 文学賞というのは、世の小説のなかから推薦できるものを選び出して、読者に提供してくれるもの。選評なるかたちで、作家や評論家が小説に対するミニ批評を開陳してくれるもの。……そんな文学賞、選評、選考委員に関して、良否を判別して、これらを批評の対象にしてしまうという。メタな視点、ってやつですね。

 そして、文学賞がある意味キワモノな存在であるように、「メッタ斬り!」企画も、キワモノ性を存分に帯びています。

 文学賞騒ぎは果てしなく空虚です。そんな文学賞をネタにした企画は、一回二回のことであれば、カウンターパンチとして(イロモノとして?)十分な攻撃力が発揮されます。

 たとえば、です。『メッタ斬り!』の発刊された平成16年/2004年、『ユリイカ』が8月号で「文学賞A to Z 獲る前に読む!」なる特集を組みましたが、まさしくこれなどは、一発の攻撃力の最たるもんです。

 大森×豊崎コンビに、島田雅彦を加えた三人がA賞(芥川賞)に対抗して決める「Z文学賞」の選考鼎談とか。ほかにも、直木賞・芥川賞が決まる舞台裏(大河原英與)だの、過去の芥川賞選評総ふりかえり(千野帽子)だの、新人賞の選評にみる各賞分析(栗原裕一郎)だの、データによる新人賞ガイド(前田塁)だのと、強烈に面白い読み物が一堂に会しています。

 でも、こんな企画は一ト月だけの特集だからいいのであって、何度も何度も継続的にやるもんじゃありません。

 ほんとに何度もやるもんじゃない。ところが、文学賞そのものは、いつだって元気です。とくに直木賞と芥川賞。その影響力が衰退したってことはよく耳にしますけど、その候補発表や受賞記事が、新聞に載らなくなった、ってハナシは聞いたことがありません。

 毒をくらわば皿までも。地獄の果てまで付いていってやる。ということなのかどうかはわかりませんが、「メッタ斬り!」は、もうやらなくたっていいのです。対談者の二人とも、ご自身たちがいいかげん飽きちゃっているというのに、忙しい身をおして、10作以上の候補作を、半年ごとに読まされて予想させられる、みたいな消耗戦に付き合う義理はないのです。

 それでも続ける。だって直木賞と芥川賞のほうは、どれだけみんなに馬鹿にされようが、「もうおまえなんか要らない」と蔑まれようが、えんえんと公演を続けているんだもの。ならばいつまででも楽しんでやるわい覚悟しとけ、いひひひひ、の構え。

 半年に一回、かならず予想して、かならず一般読者を巻き込んで楽しませる。この継続性が、過去の文学賞史を見返したときに、「メッタ斬り!」が尊いゆえんなんです。

続きを読む "文学賞メッタ斬り! 単なる賞批判にとどまらず、どうやったら賞を楽しめるかを例示しつづける。"

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2011年1月 2日 (日)

オール讀物新人賞 直木賞に直結した予備選考機関としてのお役目、お疲れさまでした。

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 文學界新人賞という公募賞があります。昭和30年/1955年に始められました。俗に「芥川賞の予備審査」、あるいは「芥川賞の仮免許試験」などと言われたりします。

 これがまた、非常によくできたシステムなんですよねえ。

 まず世の無名作家軍から小説を寄せてもらう。文學界新人賞で一度ふるいにかける。残ったものを、芥川賞の審査にまわす。二つの賞はほとんど同じ連中が運営しているのに、表立っては、つながりがあるとは公言しない。うーん、よくできています。

 文學界新人賞→芥川賞のラインがいかに素晴らしいか。50数年、一貫してその仕組みを変えずに通用しています。いまでも健在です。自民党が政権から滑り落ちても、なお崩れないシステム。えらいもんです。

 もちろん直木賞にも、かつては同様の専門予備校がありました。しかし、こちらのラインはこらえ性がなく、もろくも時代の波を受けて壊されてしまいました。

 ごぞんじ、オール讀物新人賞→直木賞ラインです。

【オール讀物新人賞受賞作・候補作一覧】

 ええと、ごぞんじじゃない方のために、少し解説します。

 昭和27年/1952年、『オール讀物』が公募賞を設けました。「オール新人杯」って名称です。

 往年の江戸川乱歩賞と同じく、賞金はありません。原稿料は出ます。そのほか、記念品がもらえます。いや、何よりの特典は、これです。

 「当選者名を本社保存のオール新人杯に記名する」!

 だはははは。何サマのつもりだオール讀物。

 極東のチッポケな一大衆誌が、「杯」って何なんですか。杯に当選者の氏名を残して、それを本社に保存しておく、それが当選者の何よりの誇りになる。ね。誇りだよね、と主催者側が胸を張っちゃうという。

 すげえなあ。考えること違うなあ。こういう仰々しいことを恥かしげもなくやらないと、一流の小説誌にはなれないのだなあ。

 何やねん新人杯って。腹の足しにもなりゃしない。そんなもんより金をくれよ金を。……と、まともな頭をもった冷静な世論の声に押されたか、第17回(昭和35年/1960年・下期)から「オール讀物新人賞」と、ふつうの名前になりました。

 そして、この頃からオール新人賞は、明瞭な方向転換をします。別の言い方をすると、自分のからだから発散される魅力など、大したものじゃないと自覚します。

 『オール讀物』誌に載せられる、毎回の募集要項広告を見るとわかります。そこにキャッチコピーがつくようになるのです。次のような。

「直木賞への最短コース」(昭和30年台半ば~昭和40年台半ば:1960年台)

 最短コースですぜ旦那。ほとんど、予備校の呼び込み広告ですな、これは。

「直木賞への登龍門!」(昭和40年台半ば:1970年台前半)

 直木賞が大衆作家の登龍門、と言われているところに、さらに登龍門、ですか。朝飯前の朝飯、みたいな。

「オール新人賞は直木賞へのスプリングボードです」(昭和50年台:1980年台)

 どうです、このヒネりのない直球なキャッチコピー。ここまでやらないと、あの激烈な中間誌戦争は勝ち残れないのです。おそらく。

 どのコピーも、正しい。オール讀物新人賞は、直木賞の第一次予選です。正解。

 国会議員に関する法律を、国会議員が決めている程度に、正解。

 それでついに、「直木賞」の枠から外れるときがきます。年号が平成に変わるころには、コピーは次のように変わりました。

「あなたも小説を書いてみませんか?」

 フツー。

 昭和の時代を駆け抜けるうちに、直木賞が異常に大きくなりすぎた、ってことなんでしょう。大きくなる、というか、功労賞化しすぎた、と言ったほうがいいかもしれません。

 公募賞に応募してくるような無名作家も、すぐ手を伸ばせば届くはずだった直木賞。オール讀物新人賞(新人杯)の受賞者はもちろんのこと、候補どまりの人でも、それと前後して直木賞の候補になった人がたくさんいました。

  永井路子新田次郎邱永漢伊藤桂一福本和也左舘秀之助武田八洲満夏目千代古川薫中田浩作西村寿行康伸吉志茂田景樹……。

 「最短コース」というのは、オーバーでも何でもありません。いまでは、「オール新人賞の選考委員を務めることが、直木賞選考委員への最短コース」でしかありませんけど。

 直木賞の黄金期、黄金期といって語弊があるなら「有力新人紹介機能」が力づよく発揮されていた時期、それを支える下部機構として、オール讀物新人賞は、かなり正常に稼動していました。

 そう。遠い遠い昔のおハナシです。

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