『小説現代』今月の新人 直木賞さわぎに追い風を送りつづけた影の功労者。
文学賞って、ほんといろいろな側面があります。
一例を挙げますと。あまり知られていない作家を、表舞台にひきずり出す。それによって、主催者の出版活動に潤いを与えて、将来的な営業成績向上に結びつける。
といった面です。文学賞の主目的と言ってもいいでしょう。いや、パッと見、文学賞のなりをしていないように見えるけど、同じように、上記要件を満たす別の企画、なあんてのもあります。
『小説現代』っていう読物雑誌がありました。今もあります。講談社が発行元です。48年前に創刊されました。昭和38年/1963年2月号(昭和37年/1962年12月発売)。その黎明期につくられた名物(?)枠に、「今月の新人」ってのがありました。
はて。「今月の新人」枠とは何でしょうか。
このあたりのことは、当時、『小説現代』編集部員で、数年後に編集長になる大村彦次郎さんが解説してくれています。
「「小説現代」は創刊当初、編集戦略上では二方面作戦をとった。ひとつは先行の「オール読物」や「小説新潮」に、品格で負けない一流雑誌の門戸を張ることであった。それには既成の大家や一線級の流行作家を満遍なくそろえることだ。大手の出版資本をバックにしているとはいえ、それだけでは一流の作家は動かない。石川達三のような主要な作家には、ぜひとも執筆してもらいたかったが、編集長の再三の要請にもかかわらず、石川さんは応じてくれなかった。」(平成7年/1995年5月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇うたかた物語』「第三章」より)
要は、どこにでも書いていて、どこでも見かける、有名なお年寄り作家を、目次や広告に、ずらっーと並べたいなと。新参雑誌『小説現代』は夢みていたそうです。田舎から東京に出てきた純朴青年が、おらあビッグになりてえずら、と歯をくいしばる。そんな感じですか。
ただ、既存の雑誌と同じようなことをしていても、読者に飽きられます。たとえば当時、『読売新聞』で「大衆文学時評」をやっていた吉田健一さんも、そのことをずばり指摘しています。
「昨年来(引用者注:昭和37年/1962年)、ここで扱へる雑誌に新たに「小説中央公論」、「小説現代」、及び「文藝朝日」が加つて、これからは取り上げる作品に困ることはないだらうと思つてゐた所が、近頃になつて必ずしもさうではないことが解つた。よく考へて見ると、これは凡てかういふ雑誌の間に競争意識があつて、それが銘々の特色を出すといふ結果にならずに、一つの雑誌がやつて成功したことを他の雑誌が早速、見習ふ傾向を生じてゐるからであることに気が付いた。雑誌は商品であるから仕方がないといふ口実がそこに用意されてゐるのだらうと思ふが、どこかまだ商品ではないやうな顔をしてゐる所がある雑誌などといふものではない、もつと本ものの商品の場合でもこれはまづい態度であることを、雑誌の編輯部も知らなければならない時が何れは来るに違ひない。」(昭和54年/1979年12月・集英社刊 吉田健一・著『吉田健一全集 第十五巻 大衆文學時評』「昭和三十八年七月」より)
まったくそりゃそうです。このあと、事態はまさしくその通りに進みまして、『小説現代』、創刊21万部は順調に売れたものの、ぐんぐんと部数を下げていって実売10万部前後に落ち込みます。昭和38年/1963年後半ぐらいには、編集部中がヤバいなあっていう暗い雰囲気に見舞われたようです。
で、ここで『小説現代』のもうひとつの戦略、に触れましょう。新人をバンバン取り込んでいこうぜ、って方針でした。
「「小説現代」は創刊と同時に、〈小説現代新人賞〉を設定し、ひろく野に遺賢をもとめたが、もういっぽう〈今月の新人〉という企画を立て、これはといった力倆のある書き手を、有力な同人誌や各誌新人賞の受賞者のなかから物色して、毎月のように起用していった。(引用者中略)
編集長の三木(引用者注:三木章)さんの方針でもあり、手柄でもあったが、新人起用という点では、たしかに「小説現代」が他誌より先んじていたのではなかったか。この伝統はのちまでつづいて、新人賞の応募者へも、好ましい影響を与えることになった。新店だったのが、かえってさいわいした。新規の開拓をしなければ、補給源が乏しくなる。」(前掲『文壇うたかた物語』より)
新しい雑誌が、新しい書き手の発掘に目の色をかえて取り組む姿。……『小説現代』だけに限ったハナシじゃありません。それから20~30年たって創刊した、集英社の『小説すばる』の動向にも相通ずるものがありますよね。『小説すばる』が毎年毎年、新人賞応募者に向けて誌面づくりをしている、力の入った特集記事は、いまのところ他誌の先を行っていますもの(あるいは、全然ちがうコースを走ろうとしていますもの)。
ええと、『小説現代』のハナシでしたね。元に戻りまして。
「今月の新人」枠。今でもあるのかどうか、ちょっとわかりません。すみません。とりあえず今日は、初代編集長・三木章さんの時代のものにだけ、注目させてもらいます。
昭和38年/1963年~昭和44年/1969年の分です。ざっと一覧をご覧いただければわかると思いますが、かなりの割合で直木賞・芥川賞候補者たちが登場しています。
その登場のしかたに二通りあることに注目してください。
一つは、直木賞・芥川賞の候補になってから、まもなく、「今月の新人」に期用されたパターン。第1回の邦光史郎さんにはじまり、松本孝、多岐一雄、永井路子、川野彰子、津田信、諸星澄子などなどです。
ただ、これだけだったら「今月の新人」を、直木賞のライバルとは呼べないでしょう。この枠が、今から見て、うわあ直木賞とガチ競っていたんだな、と認識できるのは、この枠に登場したことをバネに中間小説誌界に乗り出してきて、のち直木賞の候補となった人、また受賞しちゃった人、なんてメンツがいるからなんです。
三好徹とか、生島治郎とか。まあこの二人は、すでに単行本を世に問うていた売り出し中の作家なので別かもしれませんが。阿部牧郎と白石一郎。この二人は確実に、「今月の新人」から直木賞への道を歩みはじめた、と言える人たちです。
一時の部数落ち込みから復活して、昭和40年台、『小説現代』は『オール讀物』『小説新潮』と並んで、御三家、などと言われるようになりました。そのなかでも、『オール讀物』は直木賞のお膝元、うん、これは当然の位置づけでしょう。としますと『小説現代』は? 直木賞のライバル。……と言うのは、どうもしっくりきません。直木賞の併走者、直木賞の影の功労者、と考えたほうが自然です。
○
『小説現代』は、直木賞の第二のホームグラウンドである。……っていう位置づけは、「今月の新人」枠を源流として、その後もしっかりと続いてきた伝統だと思います。
だいたい、『小説現代』は講談社の雑誌だっつうのに、特集の名称に「直木賞作家が描く……」だの、「直木賞・芥川賞作家の……」だの、そんな単語を臆面もなく付けちゃうぐらいですからねえ。節操がないと言いますか。いや、宣伝のネタになるものなら貪欲に垣根なく利用する、高度なコピーライティングと言いましょう。
ときに昭和41年/1966年、直木賞は「立原正秋ショック」、ないしは「小島政二郎・木々高太郎のクビ切り」によって、新たな歴史を刻み始めました。それ以来、新生・直木賞を牽引していったのは、文藝春秋の編集者、豊田健次さんだった、というのは今のところ、多くの(?)直木賞研究者のあいだでは異論のないところでしょう。
そして、それを支えた豊田さんの畏友、『小説現代』の大村彦次郎さんの功績もまた、認めないわけにはいきません。
「文藝春秋が刊行する「別冊文藝春秋」は、その点、季刊ということもあって、作家を選別し、新人もここへ書けば、一人前といった暗黙の了解があった。直木賞受賞前の作家にとっては、まさに正念場といったところだった。
昭和三十年代では、「別冊文春」から直木賞を受賞した作品は、城山三郎「総会屋錦城」、水上勉「雁の寺」の二篇に過ぎなかったが、四十年代になると、立原正秋「白い罌粟」、五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」、野坂昭如「アメリカひじき」、三好徹「聖少女」、陳舜臣「青玉獅子香炉」、渡辺淳一「光と影」、井上ひさし「手鎖心中」が陸続と輩出した。
編集者としてこれらの作家と並行するように走っていた私は、正直のところ「別冊文春」が羨ましくもあり、口惜しくもあった。それでも他誌ながら、「別冊文春」から口がかかったときは、他の仕事を措いても、全力を傾注するようにと、作家を督励してまわった。」(前掲『文壇うたかた物語』「第六章」より)
昭和30年台ごろから、他社の雑誌編集者が、自分のところに書いてもらっている作家に、直木賞・芥川賞をとらせたいと策を練る、って空気は発生していました。この基軸を継承しつつも、それを前面に押し出し、ガツガツ部数増をねらうかたちが、昭和40年台以降の『小説現代』に現れてきます。
たとえば、立原正秋さんが悲願の直木賞を受賞した直後の、新聞広告。くどいようですが、念を押します。『オール讀物』の広告じゃありませんよ、『小説現代』のです。
「立原正秋 直木賞受賞 話題の俊鋭の意欲作 一〇〇枚「合わせ鏡」」(『読売新聞』昭和41年/1966年7月22日広告より)
それとか、自分のところの新人賞をとってデビューしたはずの、五木寛之さんの小説にだって、こんな惹句をつけちゃいます。
「五木寛之 「艶歌(えんか)」 大賞をめぐって、華やかなレコード界に展開する新旧芸術家の相剋。直木賞候補の新鋭が秘材を傾けて描く問題作」(『読売新聞』昭和41年/1966年10月22日広告より)
直木賞をとった人だから何なんだ。と普通なら思います。でも、「直木賞作家」と付ければ、何か箔がつく気がするのは、ああ如何ともしがたい。
ほんとうに箔がつくのかどうかは、問題じゃありません。雑誌を編集している人が、箔がつくと信じ切っていることが重要なのです。
「E 現実問題として、受賞作家と受賞していない作家の別冊をつくって同時に出した場合、どっちが実力があるかというと、かなり疑問がある(笑い)。
(引用者中略)
D しかし、あれだけの権威をもった賞なんだから、もう少し選考の方法は考えるべきですね。それができないのなら、いっそ、他の賞と並列した形で、文春賞かなんかにすればいい。そのほうが、すっきりするような気もする。だいたい編集者にしても、作家にしても、直木賞なんかに一喜一憂することないじゃないかという人もいるわけですよ。
A とはいっても、現実に、あれだけ報道陣が集まってマスコミ全体から注目されている文学賞って他にないでしょう。たしかに、あれは文春で出しているわけだけど、芥川・直木賞によって、文春自体も格付けされているところもある。」(『噂』昭和47年/1972年3月号「編集者匿名座談会 大陥没期を迎えた直木賞」より)
なんだか、今年の2ちゃんの、直木賞関連スレあたりからコピペしてきたかのような文章ですけど、40年弱前の編集者たちが発した、直木賞に対する感想です。受賞・落選で小説のよしあしが判別されるわけじゃない、いやでもあれだけ騒がれる賞なんだから、そこに価値があるんだろ……みたいな議論、いったい何十年つづけているんでしょうね、ほんとうに。
○
さて。『小説の現代』今月の新人、にもう一度ハナシを向けますと、「今月の新人」枠は賞ではありません。選考委員もいませんし、賞金も出ません。
ただ、文学賞の持っている大事な機能のひとつが、まざまざと含まれています。
それは何か。「みんながよく知らなかった作家について、生年、生い立ち、現在の生活などなど、作品とは直接関係なさそうな個人情報を、教えてくれる役割」です。
たとえば、文学事典や作家人名事典などに、立項されていない知名度の低い作家がいたとします。こういう人について何か調べる手がかりはないものか、……と気になったら、まず何か文学賞(公募型の懸賞も含む)を受賞していないかを当たり、受賞歴があるなら、その賞が発表された雑誌を見る、っていうのが世の鉄則です。
おっと。鉄則かどうかは、あやふやです。ごめんなさい、勝手にワタクシが実践しているだけのことです。
加藤善也なんて聞いたことないよ。となれば、彼が作家賞をとったときの発表号(『作家』昭和40年/1965年3月号)を見てみる。本名やら生年月日やら、これまで参加してきた同人誌やらがばっちり載っています。運がよければ、写真でご尊顔まで拝めます。
「ぼくは小説だけを純粋に楽しめればいいのであって、著者略歴とか、年譜とか、そういうものは余計な情報として一切目を通さないことにしているんです」と乙に澄ました方は、それはそれでいいですけど。残念ながら文学賞は、「いい小説を世に知らしめる」だけのものじゃないんですよ。
ほんとに、受賞者が何年に生まれただの、どこの学校を卒業しただのが、受賞作品の出来映えに何の関係があるのだ、と思うでしょう。関係ないかもしれません。でも、それを公表してしまう、公表せざるを得ないのが、文学賞の背負った宿命なのです。
「今月の新人」もまた、その例にならっています。ならっている以上かもしれません。人となりを伝えるためか、けっこう長い紹介文が、小説とセットになって掲載されています。
あまり有名でない直木賞候補作家のものを、二、三抜粋しますと。
「今月の新人 松本孝
昭和七年、東京神楽坂に生れた。生粋の東京っ子である。三十一年春早大仏文科を卒業。その直前に高校時代から同級の夫人と学生結婚。(引用者中略)
三十四年、新宿を舞台にした短篇を一本書き、同人誌「文学四季」に参加したところ掲載。それが刺戟となって数本の作品を書いた。昨年度芥川賞の川村晃氏とはこの時からの友人。(引用者中略)
五尺七寸、二十貫。四年半床屋へ行かず揉み上げの長い風貌も異色だがその生活も又異色。同人誌時代から街娼やポン引のファンを六十人も抱えていたそうだが、今も目白の自宅には新宿、浅草の男女がのべつ入り浸り、そのワイルドパーティは、いつはてるともしれず続く。」(『小説現代』昭和38年/1963年7月号より)
まあ、あんまり近寄りたくなさそうな人ではあります。
「今月の新人 田中阿里子
(引用者前略)事実、彼女が受賞(引用者注:婦人公論女流新人賞)したとき、“一人の彼女”しか知らない大方の人達は驚いたものである。ときたま短歌をよんだり、子供向けのラジオドラマを書いたりする彼女は知っていても、まさかそれが眉根にいつもしわをよせている今一人の彼女であるとは気づかなかったのだ。あるいはご主人の直木賞候補作家邦光史郎氏の後にかくれて、目立たなかったのかもしれないが。(引用者中略)
ことし四十歳。二女の母。京都の洋服商の家庭に生まれ、京都高女卒業後、軍需会社に勤めた。昭和十八年に自ら志願してジャワに転勤、そこで終戦を迎えた。抑留生活一年、京都に引揚げてから昭和二十五年に邦光史郎氏と結婚した。(引用者中略)
現在同人雑誌「創造」の同人。」(『小説現代』昭和38年/1963年12月号より)
こんな調子で、そうとう根掘り葉掘りです。
「今月の新人」枠はその後、だんだんと自前の新人=小説現代新人賞作家の、第一作発表のための舞台、みたいにもなっていきました。
色川武大さんも彼女が直木賞候補にならないのを口惜しがった、という中山あい子さんをはじめとして。ちょっと違う件で有名人になっちゃったオチャメな竹内松太郎さんとか。上京なぞするんじゃなかったと後悔して岩手に舞い戻った長尾宇迦さんとか。
他誌からひっぱってきた作家から、徐々に、生え抜き作家にも、直木賞に直結する大舞台を与えていく……。三木章さんや大村彦次郎さんの発想と工夫が根づいていった道のりです。まもなく『小説現代』は、いっとき、御三家のなかでもトップの実売を誇るまでにのし上がりました。いや、その分、以後の凋落が大変なことになっちゃうわけですが、ここで語るべきテーマでもないので省きます。
ただ、実利に直結する『オール讀物』一誌だけでなくて、『小説現代』もいっしょになって、直木賞だ直木賞だと煽ってくれたのはたしかです。おかげで、昭和40年台以降の直木賞も、どうにか、「よく知らないけど、権威ありそう」臭を絶やすことなく、生存しつづけることができました。ありがとう、『小説現代』。
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