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2010年12月の4件の記事

2010年12月26日 (日)

新潮社文芸賞第二部 山本周五郎賞の源流。……と言って、「何それ?知らない」と反応されそうなとこが、いかにも新潮社の賞っぽいや。

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 直木賞・芥川賞に対する、ド正面からのライバル賞、といえば何でしょうか。

 いくつか条件を挙げてみます。出版社が主催している。既発表の小説を対象にしている。純文学と大衆文学の二つの部門に分かれている。……

 この形態を採用して、堂々と文藝春秋の二賞に張り合った、いちばん最初の賞は、新潮社文芸賞です。昭和12年/1937年に創設されました。

 このブログでは、三度目の登場となります。新潮社の賞。以前とりあげたのは、山本周五郎賞(昭和63年/1988年~)。小説新潮賞(昭和30年/1955年~昭和43年/1968年)です。しかし、これらの源流にして、最もガチで直木賞とやり合った新潮社文芸賞を取り上げずして、年なんか越せないよな、と気づきました。

【新潮社文芸賞[第二部]受賞作・候補作一覧】

【新潮社文芸賞[第一部]受賞作・候補作一覧】

 まずは、ジャーナリスト・伊賀龍三さんの、正直な感想を紹介します。

「会社の性格にもよるのだろうが、新潮社の賞は、これまで、文藝春秋の芥川・直木両賞に比べると非常に地味で、一般には馴染み薄かった。(引用者中略)こればかりはよく分らぬが、こと文芸賞に関してだけは、新潮社は伝統ある会社にふさわしくなくギクシャクしている。名称だって最初の賞から二転、三転してきた。

 優れた作品に対して新潮社が賞を出すようになったのは、昭和十一年(一九三六年)以来のことである。創立四十周年の記念事業として「新潮社文芸賞」を設立した。芥川・直木賞ができた翌年のことである(引用者注:正確には同賞の創設は昭和12年/1937年で、直木賞・芥川賞ができてから2年後のこと)

(引用者中略)

(引用者注:三島由紀夫賞と山本周五郎賞の設立で)二人の大作家の名前を冠しているだけにもう変るはずがないとはわかっているが、長い伝統による堅実路線をつらぬいている新潮社に似つかわしくないな、とひと言いいたかった。」(『創』昭和62年/1987年10月号 伊賀龍三「新潮社“堅実”路線の今後の行方」より)

 いや、真に堅実な路線だったら、そもそも文学賞なんて劇薬には手を出さないんじゃないの。てなツッコミは置いておいて。

 二転三転なら、まだカワユイもんです。新潮社の文学賞は、そんな軽がるしく回想されることを許しません。その変遷を言葉で表現しだしたら一冊の本にもなりえる、つうぐらい魅惑の歴史です。

 ほんとに概略でしかないんですが、図で表わしてみました。

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 何だか社会科の教科書を思い出しますね。自由党と日本民主党がくっついて自民党になった、みたいな。いま、ワタクシたちが目の前に見ている山周賞と三島賞は、どんどん時代をさかのぼっていくと、つまり、新潮社文芸賞に行き着くわけです。

 ここでひとつ、悲しいお知らせがあります。

 新潮社文芸賞は二つの部門賞に分かれていました。文芸賞と大衆文芸賞。もちろん、文春一派が推し進めていた「純文芸」と「大衆文芸」の二本立て戦略を、もろにパクッた分類です。でも新潮社は、芥川だの直木だの、そんな曖昧でわかりづらいネーミングを採用しませんでした。文芸は第一部、大衆文芸は第二部、と数字を使って、どっちが上列か、どっちが大切なほうなのかを、はっきり示しちゃいました。

 第二部、とか言われたほうの身にもなってみろよコノヤロ。

 んなことするから、「新潮社文芸賞」といったら、断りのないかぎり第一部のほうしか指さない、といった事態になってしまうのです。困ったもんです。

「新潮社が創業四十周年を記念して設定した「新潮文藝賞」(原文ママ)は昭和十二年度から一年を通じて発表された創作のうち、最優秀と認められる作品一篇に賞金千円を贈る、ということで始まった。その第一回は和田伝の「沃土」、第二回は伊藤永之介の「鶯」に決まったが、いずれも農村を舞台にした小説であった。」(平成14年/2002年9月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『ある文藝編集者の一生』「第六章」より)

 まあ、『ある文藝編集者の一生』は、『新潮』編集長の楢崎勤のことを書いた本ですからね、あえて第二部のことは省いたのでしょうけど。にしても。第一部だけをもって新潮社文芸賞であるかのような表現は、やっぱ大村さん、悲しいっす。泣けちゃいます。

 涙をふいて、先にすすみます。

 ……新潮社の賞史は、ホントあれですねえ。創設、試行錯誤、行き詰まり、リニューアル、の繰り返しです。今回つくった上の図では、新潮社が自社の顔として打ち出してきた賞しか触れませんでしたけれど、ほかにも新潮社の賞はまだまだあります。『小説新潮』の公募賞とか、高額賞金ブーム期につくった数個の賞とか。さまざまな賞をつくっては壊し、壊してはつくってきました。

 そしてまた、切なさも漂わせています。だって、それらの賞名を世間バナシのなかに差し挟んでも、「え、何その賞? 聞いたこともない」と、おおむねの人から興味なさそうな顔をされてしまうという。悲しいでげすな。

 先述の伊賀龍三さんは「伝統の新潮社には、似つかわしくない」と言っていました。でも、思い直さないといけませんね。手を出しては引っ込め、引っ込めては次のパンチを繰り出す、文学賞界のチョコマカ野郎。それが新潮社でしょう。

 ジャブだジャブ。一発で相手を倒せなくてもいいんだ。手数を出せ。あきらめないで動いていれば、いつか効いてくるさ。

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2010年12月19日 (日)

このミステリーがすごい! 「アンチ権威」のはずが「権威」になってしまった、直木賞の同類項。

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 ランキングもでっかいものになると、ほぼ文学賞と同類になる。……っていうのは、今年の「このミステリーがすごい!」第1位作家も指摘していました。いや、「このミス」が生まれて数年後には、その領域にまで達していたそうです。

貴志(引用者注:貴志祐介 今回の作品については、バッシングのほうが多いのではないかと懸念してましたから、本当に嬉しいかぎりです。『このミス』の一位にしても、ひとつの文学賞に匹敵する価値があると私は思っていますから、ありがたいですね。」(平成22年/2010年12月・宝島社刊『このミステリーがすごい!2011年版』所収「貴志祐介インタビュー」より 取材・文:友清哲)

「ちなみにこの当時(引用者注:『ホワイトアウト』がこのミス1位になった平成8年/1996年ごろ)大沢在昌さんとの対談のなかで、「『このミス』で一位になるというのは、文学賞をひとつもらうのと同じくらいの価値がある」という言葉をいただいたんです。実際には言われるほど環境に変化はありませんでしたが、周囲からの目はあれから少し変わったかもしれません。何より、自信になったのは事実です。」(平成20年/2008年3月・宝島社刊『別冊宝島 もっとすごい!!『このミステリがすごい!』』所収「真保裕一インタビュー」より 聞き手・文:友清哲)

【このミステリーがすごい!投票結果一覧】

 ランキングと文学賞は、ある種、お仲間と言っていいかもしれません。

 まず、素人にとっては目でみてわかりやすい指標である。ゆえに、俗な空気がからだじゅうから発散してしまっている。「そんなもんで、小説が評価できるわきゃねえだろ」と、顔をしかめて軽蔑する人が出てきてしまうところ、とか。

 商業臭・営業臭を否がおうでもまとってしまうところ、なんかもソックリですね。これもまた、馬鹿にされるゆえんなんでしょう。

 いわく「お遊びにすぎない」。いわく「大量の本を前にして、迷う読者たちの参考になる、程度のもの」。いわく「1位と2位に、さしたる票差などないのに、1位ばかり売れるのは弊害がある」。いわく「選ぶ連中に偏りがある」。いわく「このミスの歴史的役割は、もう終わった」。うんぬん。

 ランキングなんてくだらない、という声が挙がることは、きっと「このミス」自身も最初から想定していたんでしょう。最初のベストテン発表のときには、つぶやきとも叫びともとれる、こんな一文を付していました。

「順位付けなど無意味、なんて言わないで、年に1度の読者のお祭りなのだから。」(昭和63年/1988年12月・JICC出版局刊『このミステリーがすごい!』より)

 出たー。「お祭り」宣言。

 何なんでしょうね。「お祭り」と言っておけば、多少のことは許容されると感じてしまう感覚。文学賞は文壇(と出版業者)のお祭り。本屋大賞は書店員のお祭り。騒げば騒いだモン勝ち、みたいなやぶれかぶれな側面もあったりして。

 かようにランキングと文学賞は、似たもの同士。とくに「このミス」と直木賞は、つかず離れず、異なる道を歩みながら、かなり近しいあいだがらです。

 何つったって「このミス」は、書名に「ミステリー」と付けているものの、副題には2009年版まで長いこと「ミステリー&エンターテインメント」なる用語を使ってきたヌエですもん。&エンターテインメント。何のこっちゃ。その後も、2010年版の表紙では「面白小説」、2011年版では「最高小説」と、どこまでもミステリーを拡大解釈しちゃうぞ、の構え。これで直木賞とカブってこなきゃおかしいわけです。

 「このミス」と直木賞、おお、その甘美なる関係性の歴史。今日はそれを23年分、サックリおさらいしちゃおうじゃないか、と思います。

●昭和63年/1988年12月

 「このミス」誕生。昭和52年/1977年に『週刊文春』が始めた年末の「ミステリーベストテン」が、日本推理作家協会員のアンケートをもとにつくられていたことに対抗して、別冊宝島編集部が独自に、「読書の達人」を選定。読み手の立場からのベストテンを決めようと始められた。

「評論家、大学研究会など、“読み手のプロ”を選者に、88年から、はっきり「文春ベスト10へのアンチテーゼ」と銘うって始められた。

「最初、文春が始めた時はうれしかったんですが、だんだん出ている作品がピンとこなくなってきたんです。うちが対象にしているのは『面白い小説』。ですから、純粋ミステリーファンの方からは『なぜ、これが』と抗議がくるようなものも入っています。小説には『面白いか、そうじゃないか』の違いしかない。たまたま、ほかに言葉がないので『ミステリー』としているだけ。(引用者中略)」(JICC出版局・石倉笑氏)」(『DIME』平成4年/1992年2月20日号より)

 公称4万部を発売。アンケート回答者は26名。この年、投票のあった61作品のうち、直木賞候補作はわずか2作だった。

●平成1年/1989年12月

 2年目にして早くも、「このミス」1位&直木賞作が誕生。原尞『私が殺した少女』だ。原さんいわく、直木賞よりも「このミス」1位のほうが嬉しかったと。

「元来ミステリー全般が好きだったということもあって、今から思うと、つい謎解きとして複雑な構成のある作品を書いてしまったところがあると思っています。それが幸いしたのか、ハードボイルドファンにも、普通のミステリーファンにも、広く受け容れられて、『このミス』の年間ベストワンに選ばれたのは、年が明けて直木賞をもらったことよりも、はるかに嬉しかったです。」(前掲『別冊宝島 もっとすごい!!『このミステリーがすごい!』』所収「原尞インタビュー」より 聞き手・文:三橋暁)

 この年「このミス」で7点以上を獲得した42作中、直木賞候補は3作。

 もうひとつ、「このミス」が「このミス」ここにあり、と名を知らしめたランキング以外の重要要件、「覆面座談会」が始まったのがこの年だった。ただし1年目の座談会では、直木賞に関する言及なし。

●平成2年/1990年12月

 「このミス」7点以上獲得の44作中、直木賞候補3作。ようやく直木賞をとれた泡坂妻夫の『蔭桔梗』が11点で30位、というのは、ややご祝儀的な感あり。

●平成3年/1991年12月

 「このミス」7点以上獲得の39作中、直木賞候補3作。

 覆面座談会で、ノベルス中心に圧倒的な読者を持つ作家を、「二時間サスペンス・ドラマ原作リーグ」として、ミステリー・リーグとはリーグが違うと発言。また『産経新聞』夕刊の匿名コラム「斜断機」との論戦(泥仕合?)勃発。

●平成4年/1992年12月

 「このミス」7点以上獲得の37作中、直木賞候補2作。

 覆面座談会で、高村薫のことを女王様、宮部みゆきを王女様と見立てた発言あり。これがはからずも、翌年の座談会への伏線となる。

●平成5年/1993年12月

 「このミス」7点以上獲得の41作中、直木賞候補4作。

 高村薫『マークスの山』がこのミス1位&直木賞。ところが、高村が直木賞授賞式で「自分の書くものをミステリーとは思っていなかったが、常にミステリーといわれて、すっきりしないものを感じていた」と発言したことが、匿名座談会の面々にもイラッときたらしく、「直木賞おかしいんじゃないか」発言を誘発する。

 今年、高村薫が初ノミネートで直木賞をすんなりとれたのは、去年宮部みゆきが落ちたおかげじゃないかな。(引用者中略)『火車』を落とすにしても、何人かの選評がピント外れだった……。

 某黒岩重吾だとか(注、「私が納得出来なかったのは、新城喬子が説明でしか書かれていないことだった。大事な人物なのに人物像が不明確である」――「オール讀物」九三年三月号の黒岩重吾氏の選評より)。

 やっぱり直木賞は畏れ多いせいか、選考のおかしさを表立って批判したのは「本の雑誌」だけだったと思います。でも、巷でもあれはおかしいとか、声なき声が出て、『火車』を落としたのは失敗だったかなと選考側も思ったんじゃないかな。」(平成5年/1993年12月・宝島社刊『このミステリーがすごい!'94年版』所収「ついに最終回か!?緊迫の匿名座談会 暴言かましてすみません」より)

●平成6年/1994年12月

 「このミス」7点以上獲得の52作中、直木賞候補4作。

 覆面座談会のなかで、ミステリー出身作家のいわゆる文芸作品について、直木賞をからめた冗談が飛ぶ。

 ミステリー作家がいわゆる文芸作品を書くというのが、今年の一つの特徴といえるでしょう。

 志水辰夫の『いまひとたびの』とか、北村薫の『水に眠る』……。

 これで直木賞をとらせようっていう、出版社の陰謀じゃないの(笑)。まあ力量のある人は、たまにはミステリーでないものも書いてみたくなるんだろうね。」(平成6年/1994年12月・宝島社刊『このミステリーがすごい!'95年版』所収「'94年を総まくり、進め匿名座談会 あの『照柿』はシブかった!?」より)

●平成7年/1995年12月

 「このミス」7点以上獲得の45作中、直木賞候補5作(5作選ばれたのは初)。

 明けて1月の直木賞(第114回)選考では、ミステリー系統の作品が多数候補作を占めた。そのことから、「直木賞がこのミス風になった」との揶揄が投げかけられる。 

「第百十四回直木賞の最終選考を通過した作品リストは一見、「このミステリーがすごい!」風だった。

(引用者中略)

 確かに、ここ数年は高村薫さん、大沢在昌さんなどミステリー作家の受賞が相次いでいる。けれども作家自身にはもはや、そうしたジャンルにこだわる意識はないようだ。藤原
(引用者注:藤原伊織さんは「自分の中には純文学とエンターテインメントを区別する意識はない。物語はすべて伝承から始まったものであって、垣根はなかったはず」という。小池(引用者注:小池真理子さんも「自分の好きなものを頑固に書いてきただけ」と、自作が「心理ミステリー」とジャンル分けされる戸惑いを漏らした。」(『毎日新聞』夕刊 平成8年/1996年1月22日文化欄「余白ノート このミステリーがすごい!」より 署名(由))

●平成8年/1996年12月

 「このミス」7点以上獲得の45作中、直木賞候補5作。

 覆面座談会にO森某(大森望)、初参加。さすが文学賞の話題でも盛り上がり、とくに直木賞の候補作選びに異論がぶつけられる。

 どう考えても納得できないのは直木賞。『蒼穹の昴』が受賞しないとは。『火車』が落ちたときにも言ったけど、バカだね。選考委員の、とくに……。

 今回の直木賞は、すでに候補作からしてまちがっている(笑)。宮部みゆきが『人質カノン』、篠田節子が『カノン』、鈴木光司が『仄暗い水の底から』でしょ。作家の名前だけでそろえたとしか思えない……。(引用者中略)

 直木賞選考委員には文壇の将棋大会で活躍してればいいような人もいるし。」(平成8年/1996年12月・宝島社刊『このミステリーがすごい!'97年版』所収「匿名座談会国内編 絶賛帯はホントに信じていいのか 覆面5匹、地雷を人に踏ませるの巻」より)

●平成9年/1997年12月

 「このミス」7点以上獲得の56作中、直木賞候補6作(6作選ばれたのは初)。

 公称16万部を販売するまでに部数増加。

……と、ここまでで10年。ふう。「このミス」に登場する小説の1割は、確実に、直木賞候補でもある、っていう地点まで達するにいたりました。

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2010年12月12日 (日)

太平洋戦争下の文学賞 いつの時代も文学賞はきらびやか。そして残酷。

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 何ってったって12月ですから。日本中の人間がひとり残らず、69年前の12月を想起して、何事かを思っているその潮流に、うちのブログだけ乗り遅れるわけにはいきませんよ。

 むろん、直木賞の歴史のなかでも、特異な時代です。昭和16年/1941年以降の数年は。

 なにしろ、受賞者に、主催者から提供される時計(または代りの品)と賞金だけじゃなく、それ以外のものが贈られたのは、おそらく第16回(昭和17年/1942年下半期)~第18回(昭和18年/1943年下半期)の、3度しかなかったはずですからね。

 ってことで、今日の「直木賞のライバル」は、太平洋戦争開戦(昭和16年/1941年12月)以後にできた、いくつかの文学賞です。

【大東亜文学賞受賞作一覧】(昭和17年/1942年11月設定、昭和18年/1943年~昭和19年/1944年)

【歴史文学賞(奉仕会)受賞作一覧】(昭和18年/1943年6月設定、昭和19年/1944年)

【岡本綺堂賞受賞作一覧】(昭和18年/1943年8月設定、昭和19年/1944年~昭和20年/1945年)

【興亜文学賞受賞作一覧】(昭和18年/1943年8月設定、昭和19年/1944年)

【大陸開拓文学賞受賞作一覧】(昭和18年/1943年設定、昭和19年/1944年)

【文学報国会小説賞受賞作一覧】(昭和18年/1943年11月設定、昭和19年/1944年)

 本来、「太平洋戦争下の文学賞」などと、十把一からげで紹介すべきもんじゃありません。ひとつひとつの賞に特色があり、裏事情があり、笑うべきツボも違います。

 でもまあ、真の意味での「直木賞のライバル」は、日本文学報国会(文報と略します)です。その文報の関わった文学賞ってことで、ざざっとまとめてしまいました。各賞の関係者のかたがた、お許しを。

 なにゆえ文報がライバルなのか。……といえば、こやつら、直木賞も含め、芥川賞も何もかも、なくしてしまおうと考えていたからなんです。

 昭和17年/1942年6月の、小説部会において、さっそく「既成の文学賞を調査すること」が議題にのぼります。翌月には、「小説に関する文学賞統一の件」なんつう、不穏な提案がなされちゃいます。要は、直木賞だの芥川賞だの新潮社文藝賞だの、既存の文学賞は全部いっしょにして、文報が運営すりゃいいんじゃね? ってハナシです。

 ただ、そうはさせじと反対する勢力があったんでしょう。翌年の文報大会(昭和18年/1943年4月8日)までにはケリがつかず、ときの文報総務部長、甲賀三郎さんは悔しさをにじませながら(?)こんなことを言っています。

「審査部長河上徹太郎君が本会の用務を帯びまして支那に出張中でありますので、代理で御報告申上げます

 文学賞に付きましては相当に本会に於きまして独自の立場からこれを設定すること、並に既設文学賞を本会に委譲して貰うということに付きまして着々準備を進めて居りますが、まだ十分なる成果を挙げて居りません。これが実現に付きましては今後十分なる努力を致す積で居ります、今回は特に既設の芥川賞、直木賞、新潮賞、朝鮮芸術賞文学賞、有馬賞、この五つの賞を権威のある賞と致しまして本会がこれを認めまして、これに本会としましては、既に本賞がありますので副賞として贈呈することになりましたのであります。」(『日本学芸新聞』152号[昭和18年/1943年5月1日] 「文学報国大会 文学賞設定に至る迄の経過報告」より)

 このうちすでに有馬賞は、農民文学懇話会のスタートさせたものが、文報のなかに取り込まれてしまっており、やつらめ、まじで他の文学賞も委譲させる(=強奪する)つもりだったみたいです。

 それから一年たつうち、文報は宣言どおり、自前の文学賞をいくつもつくりました。なかでも、小説部会が、既存の賞の上を行って最高に権威ある賞にしよう、との気構えでつくったのが「文学報国会小説賞」です。

 戸川貞雄さん、鼻息荒く語ります。荒すぎます。

「芥川・直木賞にせよ新潮賞にせよ、文学賞に対して過去の文学的業績による個人の文名を冠することは慎重考慮を要すべき事柄でもあるし、営利的な出版企業態の存続も許されない今日以後にかんがみ、この機会に一層いさぎよく文学報国会賞のうちに解消せしめては如何かと思う。」(『文学報国』15号[昭和19年/1944年1月20日] 戸川貞雄「権威と責任と 『小説賞』設定に就て」より)

 え、そうなの? 個人名を冠することが、時局と関係あんの? さすが戸川さん、飛びぬけた論理を持ち出してくるんだなあ。

 文報が設立に関わった文学賞の名前を見てみますと、文学報国会小説賞、文学報国会国文学賞、文学報国会詩部会賞、文学報国会短歌部会賞、大東亜文学賞、大陸開拓文学賞、興亜文学賞、歴史文学賞、うんぬん……。こういうセンスのかけらもないネーミングがよい、というのですから、どうにもハナシが噛み合いそうにありませんや。「役者の芸名は廃止せよ、みな本名にせよ」なんてことが、真顔で提案される時代ですもの、そりゃイヤになっちゃう人もいるでしょうよ。

 それでも、一葉賞だの、岡本綺堂賞だのの賞名は許可しちゃっているんだもんなあ。要は、芥川龍之介や直木三十五なんて、大した作家じゃなかったじゃないか、と言いたいのかな、戸川貞雄さんは。

 いずれにせよ、直木賞や芥川賞は、終始「文報賞」に組み込まれませんでした。名称も変わりませんでした。

 山本周五郎さんなど、「直木賞」を蹴ったからワイワイいわれるけど、もしこれが「文報賞」だったら、今ほど辞退劇が有名になっていたのかなあ。と想像せずにはいられません。現に、林房雄さんや大佛次郎さんが、大東亜文学賞をやんわり拒絶していたことなぞ、いま、ことさら注目する人もいないわけですし。

 ほんと、どうでもいいことです。賞なんて。ホクホク顔で受賞しようが、辞退しようが。

 でもね。なくならないんですよ、文学賞。統一主義者の戸川貞雄さんがいくらギャーギャーわめいても。太平洋戦争が始まって、小説など書いている・読んでいる場合じゃないだろ、って状況になっても。わんさかつくられる。つぶれてもつぶれても、新しいのが出てくる。

 平和であろうが、戦争していようが、文学賞は栄えるこの不思議。

 この一事をもってしても、文学賞には「人をワクワクさせる要素」と、ちょっと時代がたって振り返ってみると「人をウンザリさせる要素」が内在しているのだなあ、魅力的なはずだよなあ、と明瞭にワタクシには感じられてくるわけです。

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2010年12月 5日 (日)

『小説現代』今月の新人 直木賞さわぎに追い風を送りつづけた影の功労者。

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 文学賞って、ほんといろいろな側面があります。

 一例を挙げますと。あまり知られていない作家を、表舞台にひきずり出す。それによって、主催者の出版活動に潤いを与えて、将来的な営業成績向上に結びつける。

 といった面です。文学賞の主目的と言ってもいいでしょう。いや、パッと見、文学賞のなりをしていないように見えるけど、同じように、上記要件を満たす別の企画、なあんてのもあります。

 『小説現代』っていう読物雑誌がありました。今もあります。講談社が発行元です。48年前に創刊されました。昭和38年/1963年2月号(昭和37年/1962年12月発売)。その黎明期につくられた名物(?)枠に、「今月の新人」ってのがありました。

【『小説現代』今月の新人一覧】

 はて。「今月の新人」枠とは何でしょうか。

 このあたりのことは、当時、『小説現代』編集部員で、数年後に編集長になる大村彦次郎さんが解説してくれています。

「「小説現代」は創刊当初、編集戦略上では二方面作戦をとった。ひとつは先行の「オール読物」や「小説新潮」に、品格で負けない一流雑誌の門戸を張ることであった。それには既成の大家や一線級の流行作家を満遍なくそろえることだ。大手の出版資本をバックにしているとはいえ、それだけでは一流の作家は動かない。石川達三のような主要な作家には、ぜひとも執筆してもらいたかったが、編集長の再三の要請にもかかわらず、石川さんは応じてくれなかった。」(平成7年/1995年5月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇うたかた物語』「第三章」より)

 要は、どこにでも書いていて、どこでも見かける、有名なお年寄り作家を、目次や広告に、ずらっーと並べたいなと。新参雑誌『小説現代』は夢みていたそうです。田舎から東京に出てきた純朴青年が、おらあビッグになりてえずら、と歯をくいしばる。そんな感じですか。

 ただ、既存の雑誌と同じようなことをしていても、読者に飽きられます。たとえば当時、『読売新聞』で「大衆文学時評」をやっていた吉田健一さんも、そのことをずばり指摘しています。

「昨年来(引用者注:昭和37年/1962年)、ここで扱へる雑誌に新たに「小説中央公論」、「小説現代」、及び「文藝朝日」が加つて、これからは取り上げる作品に困ることはないだらうと思つてゐた所が、近頃になつて必ずしもさうではないことが解つた。よく考へて見ると、これは凡てかういふ雑誌の間に競争意識があつて、それが銘々の特色を出すといふ結果にならずに、一つの雑誌がやつて成功したことを他の雑誌が早速、見習ふ傾向を生じてゐるからであることに気が付いた。雑誌は商品であるから仕方がないといふ口実がそこに用意されてゐるのだらうと思ふが、どこかまだ商品ではないやうな顔をしてゐる所がある雑誌などといふものではない、もつと本ものの商品の場合でもこれはまづい態度であることを、雑誌の編輯部も知らなければならない時が何れは来るに違ひない。」(昭和54年/1979年12月・集英社刊 吉田健一・著『吉田健一全集 第十五巻 大衆文學時評』「昭和三十八年七月」より)

 まったくそりゃそうです。このあと、事態はまさしくその通りに進みまして、『小説現代』、創刊21万部は順調に売れたものの、ぐんぐんと部数を下げていって実売10万部前後に落ち込みます。昭和38年/1963年後半ぐらいには、編集部中がヤバいなあっていう暗い雰囲気に見舞われたようです。

 で、ここで『小説現代』のもうひとつの戦略、に触れましょう。新人をバンバン取り込んでいこうぜ、って方針でした。

「「小説現代」は創刊と同時に、〈小説現代新人賞〉を設定し、ひろく野に遺賢をもとめたが、もういっぽう〈今月の新人〉という企画を立て、これはといった力倆のある書き手を、有力な同人誌や各誌新人賞の受賞者のなかから物色して、毎月のように起用していった。(引用者中略)

 編集長の三木(引用者注:三木章)さんの方針でもあり、手柄でもあったが、新人起用という点では、たしかに「小説現代」が他誌より先んじていたのではなかったか。この伝統はのちまでつづいて、新人賞の応募者へも、好ましい影響を与えることになった。新店だったのが、かえってさいわいした。新規の開拓をしなければ、補給源が乏しくなる。」(前掲『文壇うたかた物語』より)

 新しい雑誌が、新しい書き手の発掘に目の色をかえて取り組む姿。……『小説現代』だけに限ったハナシじゃありません。それから20~30年たって創刊した、集英社の『小説すばる』の動向にも相通ずるものがありますよね。『小説すばる』が毎年毎年、新人賞応募者に向けて誌面づくりをしている、力の入った特集記事は、いまのところ他誌の先を行っていますもの(あるいは、全然ちがうコースを走ろうとしていますもの)。

 ええと、『小説現代』のハナシでしたね。元に戻りまして。

 「今月の新人」枠。今でもあるのかどうか、ちょっとわかりません。すみません。とりあえず今日は、初代編集長・三木章さんの時代のものにだけ、注目させてもらいます。

 昭和38年/1963年~昭和44年/1969年の分です。ざっと一覧をご覧いただければわかると思いますが、かなりの割合で直木賞・芥川賞候補者たちが登場しています。

 その登場のしかたに二通りあることに注目してください。

 一つは、直木賞・芥川賞の候補になってから、まもなく、「今月の新人」に期用されたパターン。第1回の邦光史郎さんにはじまり、松本孝多岐一雄永井路子川野彰子津田信諸星澄子などなどです。

 ただ、これだけだったら「今月の新人」を、直木賞のライバルとは呼べないでしょう。この枠が、今から見て、うわあ直木賞とガチ競っていたんだな、と認識できるのは、この枠に登場したことをバネに中間小説誌界に乗り出してきて、のち直木賞の候補となった人、また受賞しちゃった人、なんてメンツがいるからなんです。

 三好徹とか、生島治郎とか。まあこの二人は、すでに単行本を世に問うていた売り出し中の作家なので別かもしれませんが。阿部牧郎白石一郎。この二人は確実に、「今月の新人」から直木賞への道を歩みはじめた、と言える人たちです。

 一時の部数落ち込みから復活して、昭和40年台、『小説現代』は『オール讀物』『小説新潮』と並んで、御三家、などと言われるようになりました。そのなかでも、『オール讀物』は直木賞のお膝元、うん、これは当然の位置づけでしょう。としますと『小説現代』は? 直木賞のライバル。……と言うのは、どうもしっくりきません。直木賞の併走者、直木賞の影の功労者、と考えたほうが自然です。

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