『文藝春秋』懸賞小説 佐佐木茂索のいない直木賞・芥川賞。つまり、冴えない普通の企画。
直木賞と芥川賞が始まったのは昭和10年/1935年です。何の前ぶれもなく突然始められた画期的な新企画! ととらえることもできますが、そのまえにいくつかの予兆があった、と見るのが、いまでは一般的かと思います。
まあ、一般的かどうかは異論がありそうですけど。
少なくとも、直木賞・芥川賞は最初、やや混乱したかたちでスタートしたのは確かでしょう。混乱といいますか、混合といいますか。「半分は同人誌の人のため、半分は懸賞で文壇に出たいと思う人のため」のものであった、ってことです。
そうです、両賞には懸賞小説の側面もありました。となると、先立つこと約10年前に行われたこの懸賞を、直木賞・芥川賞の原型と見なすのは、自然な流れです。
鳥居玲さんも、「文士から実業家へ――佐佐木茂索の生きた道」(『近代文学研究と資料』4号[平成22年/2010年3月])で、そんな指摘をされていましたもんね。直木賞・芥川賞は、『文藝春秋』が2回やってポシャった懸賞小説企画の、課題を解決した姿でもあった、と。
大正14年/1925年のことです。『文藝春秋』11月号に、懸賞小説募集の記事が載りました。
なぜ文春がこの時期に懸賞募集をするのか。そんな説明が、いかにも文春っぽい、投げ出しぎみの文章で併記されていますので、全文引用しておきます。ちなみに、文春最初の懸賞小説募集、だったそうです。
「懸賞小説募集
文藝春秋社選
甲一篇 弐百円(正月号掲載)
乙一篇 五拾円(掲載期当方随意)
締切 十一月末日 枚数 三十枚まで
特典。当選者は、今後本誌寄稿家として雑文創作の発表に便宜を計るべし。
同人雑誌丈では、容易に新しい作家が紹介されない憾があります。それと対応する手段として、懸賞小説募集をやってみます。昔、「太陽」の懸賞募集にて、多くの新進作家が世に出たように、今度の企てゞ新しい作家が紹介されゝば無意義ではないと思います。都合で、今後もやるかも知れません。尚、問い合せには一切応じません。あんまり自信のない作品を以て、応募せられることは、お断りします。」(『文藝春秋』大正14年/1925年11月号より)
原型な感じ、ありませんか? 「特典」のところとか。そうだそうだ、直木賞・芥川賞も、規定のなかでハッキリと、受賞者に作品発表の権利が与えられていたよなあ、と思い出させてくれます。
それと、新しい作家を求めてやまん、ってところ。大正14年/1925年ごろも、昭和10年/1935年前後も、世には同人雑誌ってのがたーくさんあって、若い連中が熱い文学熱を沸かしていました。でも、それだけにとどまって、なかなか新人が出てきづらい状況があるんだよね。……といった“文壇観”を、文春は大正末期から持っていたんですね。
さらに、もう一つ気がつくことがあります。
文春の懸賞小説は、上記の募集と、その結果が出たあとの大正15年/1926年6月号でもう一回「第二次」募集(8月末日締切り)、計二度行われました。11月締切りと8月締切り。ええ。ぴったり一年ごと、じゃあないんです。思いついたから、すぐやっちゃう。キリがいい悪いなんて関係ないぜ、って感じの募集なんですよね。
この時期、社のトップは菊池寛さん。『文藝春秋』編集長は、菅忠雄さんでした。
「新人出でよ」の機運はわかりました。じゃあ肝心の結果はどうだったでしょう……。期待したほどじゃなかった、みたいです。次の文章を読むと、残念な感じがひしひし伝わってきます。
「懸賞小説は、漸く選を了った。(引用者中略)結果は、遺憾ながら失望した。或る程度までは達しているが、我々に感激を起させる程のものは無かった。所謂新進作家と拮抗し得るものも少かった。」(『文藝春秋』大正15年/1926年3月号 菊池寛「懸賞小説について」より)
「先に募集した懸賞小説のうちで当選した分は、皆何れも相当な好評を博した。が、夫等は唯相当な好評を博したというだけで、堂々その真価を以て文壇を信服せしめ圧服せしむる作品が出なかったことは残念である。我々は、隠れたる多くの作家のうちから、現在の文壇に新鮮なる空気を捲き起こし、新機運を醸生せしむるが如き若き天才作家の出現を待つものである。」(『文藝春秋』大正15年/1926年6月号 「第二次懸賞小説募集」より)
と、ここまで煽って二次(第2回)の懸賞をやっておいて、その結果もまた以下のとおり。
「先に募集した懸賞小説は、その応募数一千二百余篇に達したが、成績から云えば、前回よりもその質に於いて劣る所がある。」(『文藝春秋』大正15年/1926年12月号 「懸賞小説予選に就いて」より)
愚痴愚痴と、不出来ぶりを嘆いています。
あれ、こんな文章どこかで読んだことあるなあ。と思ったら、第1回・第2回の直木賞・芥川賞のとき、原稿を募集しておきながら、その寄せられた作品が大したことがなくて嘆いていましたっけ、それとほとんど同じです。
大正15年/1926年と昭和10年/1935年。どちらの時期も、おそらく文藝春秋社は、新人作家を待望していました。あるいは、世間の文学青年たちから発せられる、世に出たい世に出たいんだぜ、と言わんばかりの悶々とした空気を、しっかり感じ取っていました。
大正末期のときは、それを懸賞小説を企画することで、応えようとしたわけです。さらに言えば、引き続いて、その流れで、
「新進作家無名作家に就いて、発表機関提供する意味で、近く創作専門の純文芸雑誌を発行する予定である詳細は追って発表する。」(『文藝春秋』大正15年/1926年9月号 「本社の新計画」より)
ってなふうに、新雑誌創刊、の方向に進んでいきます。これがかたちになるのは、昭和3年/1928年3月でした。『創作月刊』を創刊します。二次懸賞小説に応募されたうちのいくつかを、この雑誌に載せていく、って発想がこの創刊の裏にはありました。
ただ、残念無念。思いは強くても、この試みは失敗しちゃいます。わずか一年数ヶ月で、
「6千部刷って半分しか売れない為、先きの見込みなしとして廃刊した。」(『文藝春秋三十五年史稿』「年誌」内の「余録 「創作月刊」廃刊」の項より)
バッサリ打ち切り。どうして失敗したんでしょうね。編集に就いたのが、「編集者としては無能」呼ばわりされた斎藤龍太郎さんだったからでしょうか。その下で働いた永井龍男さんが、うまく編集能力を発揮できなかったからでしょうか。わかりません。
その後、昭和4年/1929年途中から、佐佐木茂索さんが入社して、文春大改革が行われます。なあなあ、や、いい加減が許されなくなりました。魅力ある企画はそれだけでは価値がないのだ、売れる企画にしなければ駄目なのだ、の路線が敷かれます。
そして昭和9年/1934年。菊池寛親分が、生来のひらめきグセを発揮して、直木賞・芥川賞のアイデアを思いつきます。
問題は、そのアイデアを受け取った下の人たちがどうしたか、です。大正のころの編集者なら、言われるまま、懸賞募集を行ったことでしょうね。最初、菊池親分は、直木賞・芥川賞を原稿募集の賞にしよう、としか考えていなかったのですから。
ただ、茂索さんは違いました。どうしたか。ちょっと待ってよ親分。それだけじゃイマイチだ。ってえんで、新聞記者たちを集めて、意見を聞きました。そこから挙がったアイデアのひとつ、「すでに雑誌に発表された作品も、選考の対象にしたら?」っていう意見に、面白い!と反応。直木賞・芥川賞の基本的な性格として、それを盛り込みました。
むむ。デキるな、茂索。
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