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2010年11月の4件の記事

2010年11月28日 (日)

『文藝春秋』懸賞小説 佐佐木茂索のいない直木賞・芥川賞。つまり、冴えない普通の企画。

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 直木賞と芥川賞が始まったのは昭和10年/1935年です。何の前ぶれもなく突然始められた画期的な新企画! ととらえることもできますが、そのまえにいくつかの予兆があった、と見るのが、いまでは一般的かと思います。

 まあ、一般的かどうかは異論がありそうですけど。

 少なくとも、直木賞・芥川賞は最初、やや混乱したかたちでスタートしたのは確かでしょう。混乱といいますか、混合といいますか。「半分は同人誌の人のため、半分は懸賞で文壇に出たいと思う人のため」のものであった、ってことです。

 そうです、両賞には懸賞小説の側面もありました。となると、先立つこと約10年前に行われたこの懸賞を、直木賞・芥川賞の原型と見なすのは、自然な流れです。

 鳥居玲さんも、「文士から実業家へ――佐佐木茂索の生きた道」(『近代文学研究と資料』4号[平成22年/2010年3月])で、そんな指摘をされていましたもんね。直木賞・芥川賞は、『文藝春秋』が2回やってポシャった懸賞小説企画の、課題を解決した姿でもあった、と。

【『文藝春秋』懸賞小説当選作・候補作一覧】

 大正14年/1925年のことです。『文藝春秋』11月号に、懸賞小説募集の記事が載りました。

 なぜ文春がこの時期に懸賞募集をするのか。そんな説明が、いかにも文春っぽい、投げ出しぎみの文章で併記されていますので、全文引用しておきます。ちなみに、文春最初の懸賞小説募集、だったそうです。

懸賞小説募集

 文藝春秋社選

甲一篇 弐百円(正月号掲載)

乙一篇 五拾円(掲載期当方随意)

 締切 十一月末日 枚数 三十枚まで

 特典。当選者は、今後本誌寄稿家として雑文創作の発表に便宜を計るべし。

同人雑誌丈では、容易に新しい作家が紹介されない憾があります。それと対応する手段として、懸賞小説募集をやってみます。昔、「太陽」の懸賞募集にて、多くの新進作家が世に出たように、今度の企てゞ新しい作家が紹介されゝば無意義ではないと思います。都合で、今後もやるかも知れません。尚、問い合せには一切応じません。あんまり自信のない作品を以て、応募せられることは、お断りします。」(『文藝春秋』大正14年/1925年11月号より)

 原型な感じ、ありませんか? 「特典」のところとか。そうだそうだ、直木賞・芥川賞も、規定のなかでハッキリと、受賞者に作品発表の権利が与えられていたよなあ、と思い出させてくれます。

 それと、新しい作家を求めてやまん、ってところ。大正14年/1925年ごろも、昭和10年/1935年前後も、世には同人雑誌ってのがたーくさんあって、若い連中が熱い文学熱を沸かしていました。でも、それだけにとどまって、なかなか新人が出てきづらい状況があるんだよね。……といった“文壇観”を、文春は大正末期から持っていたんですね。

 さらに、もう一つ気がつくことがあります。

 文春の懸賞小説は、上記の募集と、その結果が出たあとの大正15年/1926年6月号でもう一回「第二次」募集(8月末日締切り)、計二度行われました。11月締切りと8月締切り。ええ。ぴったり一年ごと、じゃあないんです。思いついたから、すぐやっちゃう。キリがいい悪いなんて関係ないぜ、って感じの募集なんですよね。

 この時期、社のトップは菊池寛さん。『文藝春秋』編集長は、菅忠雄さんでした。

 「新人出でよ」の機運はわかりました。じゃあ肝心の結果はどうだったでしょう……。期待したほどじゃなかった、みたいです。次の文章を読むと、残念な感じがひしひし伝わってきます。

「懸賞小説は、漸く選を了った。(引用者中略)結果は、遺憾ながら失望した。或る程度までは達しているが、我々に感激を起させる程のものは無かった。所謂新進作家と拮抗し得るものも少かった。」(『文藝春秋』大正15年/1926年3月号 菊池寛「懸賞小説について」より)

「先に募集した懸賞小説のうちで当選した分は、皆何れも相当な好評を博した。が、夫等は唯相当な好評を博したというだけで、堂々その真価を以て文壇を信服せしめ圧服せしむる作品が出なかったことは残念である。我々は、隠れたる多くの作家のうちから、現在の文壇に新鮮なる空気を捲き起こし、新機運を醸生せしむるが如き若き天才作家の出現を待つものである。」(『文藝春秋』大正15年/1926年6月号 「第二次懸賞小説募集」より)

 と、ここまで煽って二次(第2回)の懸賞をやっておいて、その結果もまた以下のとおり。

「先に募集した懸賞小説は、その応募数一千二百余篇に達したが、成績から云えば、前回よりもその質に於いて劣る所がある。」(『文藝春秋』大正15年/1926年12月号 「懸賞小説予選に就いて」より)

 愚痴愚痴と、不出来ぶりを嘆いています。

 あれ、こんな文章どこかで読んだことあるなあ。と思ったら、第1回・第2回の直木賞・芥川賞のとき、原稿を募集しておきながら、その寄せられた作品が大したことがなくて嘆いていましたっけ、それとほとんど同じです。

 大正15年/1926年と昭和10年/1935年。どちらの時期も、おそらく文藝春秋社は、新人作家を待望していました。あるいは、世間の文学青年たちから発せられる、世に出たい世に出たいんだぜ、と言わんばかりの悶々とした空気を、しっかり感じ取っていました。

 大正末期のときは、それを懸賞小説を企画することで、応えようとしたわけです。さらに言えば、引き続いて、その流れで、

「新進作家無名作家に就いて、発表機関提供する意味で、近く創作専門の純文芸雑誌を発行する予定である詳細は追って発表する。」(『文藝春秋』大正15年/1926年9月号 「本社の新計画」より)

 ってなふうに、新雑誌創刊、の方向に進んでいきます。これがかたちになるのは、昭和3年/1928年3月でした。『創作月刊』を創刊します。二次懸賞小説に応募されたうちのいくつかを、この雑誌に載せていく、って発想がこの創刊の裏にはありました。

 ただ、残念無念。思いは強くても、この試みは失敗しちゃいます。わずか一年数ヶ月で、

「6千部刷って半分しか売れない為、先きの見込みなしとして廃刊した。」(『文藝春秋三十五年史稿』「年誌」内の「余録 「創作月刊」廃刊」の項より)

 バッサリ打ち切り。どうして失敗したんでしょうね。編集に就いたのが、「編集者としては無能」呼ばわりされた斎藤龍太郎さんだったからでしょうか。その下で働いた永井龍男さんが、うまく編集能力を発揮できなかったからでしょうか。わかりません。

 その後、昭和4年/1929年途中から、佐佐木茂索さんが入社して、文春大改革が行われます。なあなあ、や、いい加減が許されなくなりました。魅力ある企画はそれだけでは価値がないのだ、売れる企画にしなければ駄目なのだ、の路線が敷かれます。

 そして昭和9年/1934年。菊池寛親分が、生来のひらめきグセを発揮して、直木賞・芥川賞のアイデアを思いつきます。

 問題は、そのアイデアを受け取った下の人たちがどうしたか、です。大正のころの編集者なら、言われるまま、懸賞募集を行ったことでしょうね。最初、菊池親分は、直木賞・芥川賞を原稿募集の賞にしよう、としか考えていなかったのですから。

 ただ、茂索さんは違いました。どうしたか。ちょっと待ってよ親分。それだけじゃイマイチだ。ってえんで、新聞記者たちを集めて、意見を聞きました。そこから挙がったアイデアのひとつ、「すでに雑誌に発表された作品も、選考の対象にしたら?」っていう意見に、面白い!と反応。直木賞・芥川賞の基本的な性格として、それを盛り込みました。

 むむ。デキるな、茂索。

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2010年11月21日 (日)

オール讀物推理小説新人賞 本流のようなオーラを発しつつ、意外に傍流。

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 まさか。自分の目の黒いうちに、この賞が世の中から消える日がくるとはなあ。

 直木賞といえば『オール讀物』。『オール讀物』の新人賞といえば三つ思い浮かびます。

 まずは「オール讀物新人賞」。昭和27年/1952年創設以来、58年。これは今も続いています。

 「大衆演劇「一幕物」脚本募集」。昭和34年/1959年に始まって10年。あっさり終わってしまいました。

 そして「オール讀物推理小説新人賞」。昭和37年/1962年スタート。48年前ですって。以下、全回の最終候補および受賞一覧です。

【オール讀物推理小説新人賞受賞作・候補作一覧】

 おお、懐かしの推理小説ブームよ。推理小説新人賞は、『オール讀物』昭和37年/1962年3月号において、創設が発表されました。その創設宣言、とくとご覧いただきましょう。

オール讀物による 文壇への三つの登竜門

推理小説新人賞 新設!

 今日ほど推理小説が隆盛を極めている時はありません。老若男女を問わず現代に生きる人々にとって欠くべからざるものになっております。単なる謎解きから脱却して、人間の苦しみ、社会の矛盾に素材を求め、読者に共感を与えたからでありましょう。しかし、このブームの時こそ、更に新分野を開拓する新人の出現が待たれるのではないでしょうか。オール新人賞によって大衆文学に新人をおくり続けてまいりましたが、この時に当り推理小説部門の強化拡充をはかり、新人発掘の資として、「推理小説新人賞」を新設いたしました。いわゆる本格ものに限らず、広義の推理小説の募集をいたします。皆様のご支援をお待ちします。」(『オール讀物』昭和37年/1962年3月号より)

 それから20年くらいたったときに、ミステリー評論家の関口苑生さんが、このころの状況を概説してくれました。推理小説新人賞が生まれ出たのは時代の必然だ、とおっしゃっております。

「昭和三十七年前後は、空前の推理小説ブームであった。その引き金となったのは、当然のことながら松本清張である。昭和三十二年、彼が『点と線』及び『眼の壁』を連載し始め、単行本化されるや、それまでの“探偵”小説はガラリと一変した。

 単なる謎ときだけではなく、事件の背景や動機など、人間や現実を盛り込んだ、いわゆる“社会派”と呼ばれるものの登場だ。さらにはスパイ小説、ハードボイルドなど、推理小説の枠は急激に広がっていったのである。(引用者中略)

 新人作家も続々と登場していた。戸川昌子『大いなる幻影』、佐賀潜『華やかな死体』は江戸川乱歩賞受賞作で、この年惜しくも落選した作品が塔晶夫(中井英夫)の『虚無への供物』であった。また梶山季之は『黒の試走車』でさっそうと登場し、産業スパイという言葉を世間に知らさしめた。

 そんな時期に「新人出よ!」の声があがるのも無理はない。本賞の創設は必然だったとも言えるのだ。」(昭和59年/1984年11月・文藝春秋/文春文庫『疑惑の構図 「オール讀物」推理小説新人賞傑作選II』 関口苑生「解説」より)

 ブームの最中っつうのは恐ろしいですね。黙っていれば、怒濤のごとく新人作家は生まれ続けるでしょうに。大衆小説の牽引役を(勝手に)自認する一中間小説誌までもが、手を出さざるを得ないほどの熱狂の渦、だったのでしょうか。

 まあ、昭和30年代後期のバブリーな推理小説ブームについては、いろいろな研究文があることでしょう。ここでは突っ込みません。あえて関心の目を向けるとするなら、『オール讀物』がわざわざ推理小説専門の新人賞をつくった意味、です。

 当時、同誌は新人賞をやっていました。年二回も。そのうえ、さらに推理小説新人賞です。気でも狂ったのかと疑いたくなります。

 いや。『オール讀物』といえば、大衆文学の発展を心から願う良心的な雑誌だと思います。その雑誌が、推理小説にも本腰いれるぞ、と宣言しただけのことなのかもしれません。素晴らしいことです。ただ、そんなの既存の新人賞の枠を広げてやればいいのじゃないかい?

 『宝石』が新人を募集するのはわかります。『ミステリマガジン』だって、新しい書き手が欲しいでしょう。『推理ストーリー』だの『小説推理』だのも、手垢のついてないピッカピカの推理小説を欲して当然です。

 そこに『オール讀物』がしゃしゃり出てくると、とたんに場が混乱します。

 場が混乱する、というより、推理小説が混乱します。おそらくミステリー大好き人間の目からすれば、『オール讀物』なんぞ、カネになる「推理」の看板に目がくらんで、推理もどきの傍流を、推理小説だ推理小説だと強弁して売りつける大悪党に見えかねません。

 推理小説はいずれ大衆文学の一翼を立派にになうはず、と期待する。これはいいです。ときに直木賞をあげる。許せます。だけど、おのれの中間小説観や直木賞観で推理小説にモノサシをあて、「小説としてなっていない」などと断じる姿勢は、いやはや、混乱を助長するだけでしょう。

 ねえ。水上勉さん。

「推理小説はトリックや手法の斬新さも必要だが、文章力と、作家がなぜ、その殺人を書かねばならなかったのか、意図の不在なのは困るのである。(引用者中略)文章力と作家の内面的なもの、つまり「顔」が出ている見事な殺人を、懸賞小説で望むのは無理なのだろうか。オール讀物だからこそ、望みたい気がしたのであった。」(『オール讀物』昭和37年/1962年9月号「第一回推理小説新人賞選評」 水上勉「後半の殺しが安易」より)

 そう。『オール讀物』の推理小説。……「広義の推理小説」とか言い始めた段階で、うすうす気づいてはいたんです。まったくこれこそ、『オール讀物』の得意とする戦術じゃありませんか。

 昭和初期。白井喬二らが言い出して、言葉だけが先行していた「大衆文芸」。その賞をつくってはみたものの、けっきょく大衆文芸が何を指すのか、誰もわからないまま走り始めて、いろんなジャンルの散文を大衆文芸だと強弁しつつ、直木賞を運営してきた歩み。

 ……いや、いまのハナシじゃありませんよ。少なくとも推理小説新人賞が始まった昭和30年代後半の直木賞は、そうでした。膨張を始めた「推理小説」に、オレにも一枚噛ませろと、とりあえずちょっかいを出す『オール讀物』。このオッチョコチョイで、定見なしの、自由きままなやり口。ワタクシ、嫌いじゃありません。

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2010年11月14日 (日)

中山義秀文学賞 受賞作を出さざるをえない主催者の悩みを、公衆の面前で見せる勇気。

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 ひと晩あけても、選考会の興奮さめやらないですよねえ。

 と言っても、伝わらないでしょうけど。昨日平成22年/2010年11月13日、中山義秀文学賞の公開選考会がありました。

 公開選考会……。文学ファンならぬ文学賞ファンには、たまらん響きです。賞の選考会が見られるんですもん。選評では伝わり切れない選者たちのナマの評が、聞けるんですもん。

 つうことで、中山義秀文学賞、世の趨勢に敢然と逆行して、非公開だったところから候補作を公表、選考会を公開、の英断をして、はや8年目。第16回選考会の様子を見てきました。

【中山義秀文学賞受賞作・候補作一覧】

 できるだけリポート調で行きます。

 白河市のなかでも、合併前は大信村だった場所。周囲を見まわせば山、田んぼ、空。そんな一区画に、中山義秀記念文学館、大信農村環境改善センター(選考会場)などが静かに建っています。

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 昼の12時をすぎる頃から、主に福島ナンバーを付けた自動車が、次々に駐車場にやってきました。大半は50代60代くらいのおじさんおばさん。そのなかに、子連れのファミリーもけっこう混じっていたりして。……ただ、ファミリー系の多くは、選考会に先立って披露された市立東北中学校生徒たちによる「安珍歌念仏踊り」を見学に来ていた人が大半だったらしく、それが終わったら、ささっと会場から出ていってしまいました。

 13時30分。選考会の開始です。会場に残った聴衆は、50~60人ほどでしたか。パイプ椅子は100数十席は用意されていたので、4割程度埋まっていると見ました。

 壇上に選考委員4名と、コーディネーターが現れます。聴衆から見て左から、コーディネーター人見光太郎、津本陽、竹田真砂子、縄田一男、安部龍太郎。それと、壇の下、聴衆の右側には、一次・二次選考を担当した三人の新聞記者が陣取ります。床田健太郎(時事通信)、佐藤晴雄(福島民報)、重里徹也(毎日新聞)。

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 司会進行役より、委員の紹介、選考過程の説明などがあり、じっさいに選考が始まったのは13時45分ごろでした。選考と言いましても、候補作ひとつひとつについて、4人の委員が順に感想を述べていく、というかたちです。委員同士が議論したり、つかみ合ったり(?)するわけではありません。

 3つの候補作について、委員の評する時間を計ってみましたら。冲方丁『天地明察』は、13時45分~14時30分で45分ほど。これがいちばん長くかかり、あと下川博『弩』が14時30分~15時00分、上田秀人『孤闘――立花宗茂』が15時00分~15時20分。

 しょっぱなが津本陽さんの『天地明察』評で、これがまた、関西弁まじりな上に、かなり呂律のあやしげな語り口なもので、正確に何を言っているのかが聞き取りづらい。おお、かつて直木賞選評で見せてくれた津本節は、じっさいにはこう聞こえるのか、他の直木賞委員の方々も大変だっただろうなと感動していましたら、竹田真砂子さんが、いいところ悪いところをバランスよく語ってくれて、少し持ち直し。

 と、次に語りはじめた縄田一男さん。普段からなのか今日特別なのかわからない、かなり疲れ切った、あるいは不機嫌さまるだしの語りが、会場内にピリピリっと緊張感を走らせることに……。

 義秀賞の対象期間に刊行された時代小説の、作者名・作品名を20個くらいポツリポツリと列挙したあとに、「少なくとも候補3作より、これらのほうが優れていると思う」と断言。そこから、本屋大賞(今年は『天地明察』が選ばれていますね)と書店員たちに対する痛烈批判が始まり、それを利用することで本を売り、売れればいいんだ式の考えで本をつくっている出版界に怒りをぶちまける。

 いわく、中山義秀とは文学の鬼であって、書くことから生じる孤独、書くことの怖れ、闘い、そういったなかで文学活動を続けた。そんな義秀の精神に片手でも届いている作品に、義秀賞は与えるべきで、今回の3候補はとうてい、そのレベルにない。と切り捨てちゃったわけです。

 これだ。文学賞ファンの求める文学賞のかたちが、まさにそこにありました。

 シャンシャンで決まる選考とか、委員全員が同じ方向で決めるような賞は、面白くとも何ともありません。縄田さんは断固、候補作選定に疑義を呈し、今度の候補作はどれも賞に値しないと主張する。安部龍太郎さんは、それでも自分は受賞作は出すべきだと思う、と考えを述べる。そのうえで、『弩』>『天地明察』>『孤闘』と順位をつける。

 スリリング。緊張感。わくわくものです。だってねえ。ここまで言われて、候補作を選んだ人たち――壇の下に控える三人の予選委員は、何を思っているんだろうな、とか。主催者である中山義秀顕彰会のメンバーは困っているだろうな、とか。つい想像しちゃいますもん。

 過去15回、義秀賞は毎年かならず受賞作を出してきました。でも今年は一筋縄ではいかぬ気配だ。いったいどんな結末を迎えるのか、わからんぞって空気が場内を包んだわけです。

 面白え。

 15時20分すぎ、最後に選考委員4人が、3候補作に得点をつけます。誰が何に何点をつけたかは非公開です。

 このとき、縄田さんが主催者に向かって、「受賞作なし、という選択肢はあるか、聞きたい」と尋ねる。事務局長は、「委員の先生方の採点結果をもとに決めさせていただく」と答える。

 採点が終わってから10数分。ひょっとして、この時間が今回の公開選考会の最大の見せ場だったかもしれません。会場の片隅で、顕彰会の面々(だと思われる)が討議をおこなっていた10数分間。

 待たされている間、壇上の委員たちは、いろいろツッコミを入れます。「授賞に値しない候補ばかりのときは、授賞なしにすべきです」。「『孤闘』の人は、ここで賞をあげれば伸びると思う」。などなど……。

 ほんとは、主催者の討議にもマイクを入れて、どんなことを話し合っているのか公開してくれたら、もっと面白かったんでしょうねえ。残念、そこまでの思い切りはなかったようです。

 そして15時40分。受賞作の発表。上田秀人さんの『孤闘――立花宗茂』となりました。

 その後の委員の話からすると、安部さんは『孤闘』にいちばん低い点を入れたようです。縄田さんはどの候補作にも点を入れず、受賞作なし一本槍。津本さんは『孤闘』推しだったようですが、竹田さんはかなり縄田さんの意見に近かった様子。

 かたや主催者にも立場があります。賞は出さなきゃ意味がない、って思いもあったことでしょう。選考委員への謝礼、5月から11月までにつぎ込んだ、宣伝活動を含めた運営にかかる費用を、無駄にしたくないでしょうし。しかも今年は義秀生誕110周年ってことで、やがて開かれる贈呈式を、盛大なイベントにしたい事情もある。ここで受賞作なし、の結果は、ちとつらい。

 苦渋の決断に違いありません。でも、苦渋なんだな、という雰囲気が、しっかり外野の人間に伝わってきました。これ重要です。公開にしている意味が、かなり発揮されたと思わされる選考会でした。

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2010年11月 7日 (日)

『早稲田文学』推讃之辞 褒めるにあたってお金など必要なし。

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 日本における最初の文学賞は何か。……といった問題があります。「今度の直木賞、だれがとるかなあ」と関心を抱いている多くの人たちにとっては、どうでもいい問題です。

 正直、ワタクシにもよくわかりません。

 つまりアレです。世界最初の推理小説は何か、みたいなもので。ポーでしょ、いやディケンズだ、何をいう、ン千年前の聖書のなかで、すでに推理小説は書かれていたじゃないか、とかいう泥仕合の雨あられ。文学賞起源論争(?)も、まさにそんな感じです。

 直木賞と芥川賞は昭和10年/1935年にできました。むろん、それ以前にも日本には文学賞がいくつもあったわけです。ちょいと、両賞(とくに直木賞)の起源をたどる小旅行、とシャレ込みましょう。

 本日のお題はこちら。『早稲田文学』推讃之辞です。

【『早稲田文学』推讃之辞一覧】

 大変残念なことに、歴史的にみまして、直木賞の起源を真剣に考えてきた人はあまりいません。ただ、芥川賞のそれなら、ハナシは別です。代表的なもので言うと、小田切進さんの「芥川賞の半世紀―その創設と歴史―」(昭和58年/1983年7月・文藝春秋刊『芥川賞全集・別冊 芥川賞小事典』所収)があります。

 まず小田切さんは、文学賞を2つ(ないし3つ)に分類しています。

「よく知られているように、文学賞は大別すると、芥川・直木賞のように、無名または新進作家のなかですぐれた独創的な作品を発表した者を選び、これを世に出すために制定された新人賞とも言うべき文学賞と、もう一つはその年度の傑出した文学作品におくられる殊勲賞、功労賞とも言うべき文学賞がある。(引用者中略)もう少し厳密に言えば、その中間に、すでに一家を成しているかどうかは問わずに、注目すべき業績を挙げた者に与えられる文学賞もある。」(「芥川賞の半世紀―その創設と歴史―」より)

 仮に「1.新人賞」「2.功労賞」「3.業績賞」と名づけておきましょうか。

 ここで小田切さんは「1.新人賞」と「2.功労賞」について、その発生過程を説明しています。

 「1.新人賞」の祖先は、明治時代に始められた各新聞・各雑誌の懸賞小説なんだよね、っつうわけです。そうなると、自然と「懸賞より早く雑誌の投稿欄や投書雑誌のようなものがあったのを、文学賞の淵源と見るべきなのかもしれない」といったような説にたどりつくのも、うなずけます。

 問題は、「2.功労賞」に関する記述。

「もう一つの功労賞、殊勲賞の性格をもつ文学賞も、明治中期に遡ることができる。瀬沼茂樹はその先蹤として、明治四十一年以降に『早稲田文学』が毎年、前年度の「其の成就する所最も大なりきと認むる各部面の文芸の士」を選んで掲げた「推讃之辞」を挙げている(「文学賞をめぐる諸問題」)。(引用者中略)賞金や記念品、授賞式などはいっさいなくて、ただ「謙虚の情を捧げ、推讃の意」を表するだけだったが、当時は『早稲田文学』が文壇の代表的な雑誌だったところから、権威あるものと見られた。」(同「芥川賞の半世紀―その創設と歴史―」より)

 たしかに。慎太郎ブームさめやらぬ昭和35年/1960年に、瀬沼茂樹さんが『文学』誌上に「文学賞をめぐる諸問題」(昭和35年/1960年2月号、3月号、5月号)を載せ、そこで明治後期~末期の「推讃之辞」に言及しているのは、すばらしい視点だと思います。

 ただし、小田切さんも瀬沼さんも、この出だしの仮説がマユツバなんですよねえ。文学賞をまず「1.新人賞」と「2.功労賞」に二分割してしまい、その中間に「3.業績賞」がチョロチョロある、と見立てている。どうも不自然極まりないんすよ。

 だってねえ。『早稲田文学』の「推讃之辞」が、そもそも目指していたのは「2.功労賞」ですか? 違うでしょう。明らかに「3.業績賞」に近いかたちのものでしょう。

 「2.功労賞」の場合、その発想は、「生活保護」みたいなところから出てきたんだと思うんです。先輩作家のなかで何十年も書きつづけている人がいる。でも収入は少ない。生活が苦しそう。そういう恵まれない先輩に、お金でも包んで尊敬の意を表しましょう、と。

 「推讃之辞」からは、そんな敬老精神はうかがえません。ええ、第二次『早稲田文学』のやることですからね、基本、新しモノ好きの連中です。

「過去二十年の小説を支配せし権威は、根柢より其の地を新来者に譲らんとするなり。是れ趣味界の大事変にあらずや。従来といえども、新人は断えず旧人に継いで興れり。唯其の齎すところの新趣今回の如く革命的ならずして修繕的なりしのみ。従って斯界の支配力は常に先進者の手にありき。」(『早稲田文学』明治41年/1908年2月之巻「推讃之辞」より)

 現代の文学賞ら辺から、さかのぼって物を見るのだとしたら、「推讃之辞」は「3.業績賞」と見るべきだと思います。そして、いま多くの出版社がやっている非公募の文学賞は、ほとんど「3.業績賞」の変形バージョンです。

 では逆に。「3.業績賞」の祖ともいうべき「推讃之辞」ですが、これ自体は、どんな流れのなかから生まれてきたのか。……純粋に考えれば、そりゃおそらく、文芸評論でしょう。文芸時評、と言い換えていいかもしれません。

 とくに文芸時評のなかでも、年間回顧モノ、っつうのがありました。今でもあります。年の暮れとか年明け頃に、一年間の文壇を振り返りつつ、その趨勢を見極めて評論する行為。

 たとえば、最初の「推讃之辞」は明治40年/1907年度を対象としていましたが、この当時も、各紙誌には年間回顧の時評が載っていました。『早稲田文学』がまとめた「明治四十年文藝界一覧」の一月の項には、こんな記述があります。

「●諸新聞雑誌に昨三十九年の文壇を評論して新気運の勃興を賛するもの多し」(『早稲田文学』明治41年/1908年2月之巻より)

 1年を振り返って、どんな作家・どんな作品がよかったか、って活動はすでに、いろんなところがやっていたわけです。

 ただ、そのままを継承するだけじゃ新しさがない。『早稲田文学』なりの新味を付け加えたものをやりたい。……それが「推讃之辞」のかたちになったんでしょう。「3.業績賞」の始まりです。

 誰の発想だったんでしょうか。やっぱ島村抱月ですかねえ。西洋かぶれですもんね。この「推讃之辞」も、どうやら西洋の行事になぞらえられているわけですし。

 ええ。つまり、日本の文学賞「3.業績賞」の先祖、「推讃之辞」は、西洋のアレをならったらしいです。古代オリンピック。

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