野間文芸奨励賞 人を誉めることだけに徹した、正真正銘「野間式」の賞。
「直木賞のライバル」賞はたくさんあります。そのうちのいくつかは、どこかに「芥川賞のライバル」ふうな性質も兼ね備えています。
純文学か大衆文学か。そんな観点ですべてを割り切れたら楽なもんです。でも、世の中は複雑です。
たとえば、戦中の昭和16年/1941年にスタートした野間文芸奨励賞っていう賞があります。時代が時代なだけに、よけいな(?)外的要素、内的要素をごっそり内包していました。いったいこの賞は何だったのか。いま見ると、魔界の様相を呈しています。
6年にわたり、5回の授賞が行われました。候補作は、まったくわかりません。
しかし、これら受賞者の顔ぶれ。よくよく見ると、ああ、なるほど、講談社らしいよね、と思うことのできる面々ではあります。
通俗的と言いますか。お子ちゃま向けと言いますか。
驚くべきことに、野間文芸奨励賞は、いまの野間文芸新人賞の前身、と言われたりします。主催者がそう言っているんでしょう。でも、そのハナシを聞いて、ワタクシはプッと吹き出しちゃいました。講談社、なかなかのギャグセンスです。
だってねえ。前身? え? ぜんぜん違くないですか。そんなノンキなことほざいていたら、それこそ笙野頼子さんあたりに怒られますよ。
やっぱり、野間奨励賞は、大衆文学畑と、児童文学畑のための賞、と見ないと寝起きが悪いわけです。笹本寅でしょ。『文学建設』の。それから棟田博、山岡荘八、大林清、山手樹一郎でしょ。『大衆文芸』の。完全に直木賞のテリトリーですもの。
たとえば、当時、大衆文壇で生活していた方の証言をひとつ。『大衆文芸』発行元の親分、島源四郎さんです。彼の目を通すと野間奨励賞とは……直木賞と新人の取り合いをしていた、と見えていました。
「私のところから次々と直木賞候補作品が出るものですから、一体どういうやり方をやっているんだということが取沙汰されましたが、実は、私の所では手持ちの作家をつくっておかないと、月々、原稿が足りないので、若い連中を集めて、懇談会を開いてお互いにみんないいものを書こうじゃないかと励ましあってどんどん書いてもらっていたんです。次々と新しい作家が出てくるものですから、文芸春秋の「オール読物」でも、自分のところも懇談会をやるようになって、ウチの連中も入れて「礫々会」というのができました。講談社でも野間大衆文芸奨励賞(原文ママ)というのを設定して、新人賞を出そうということになりました。
(引用者中略)
村上(引用者注:村上元三)さんが直木賞をとってから、野間奨励賞に私のところのグループの山手樹一郎さんだとか大林清さんだとかが、皆んな続けて賞をとってしまうんです。それから直木賞候補に長谷川幸延だとか、神崎武雄さんだとかの名があがるのですけれど、しばらくの間は講談社と文芸春秋と競争のようになりました。(引用者中略)その時分は、野間奨励賞でも一旦賞をもらうと、直木賞候補になっても、あれはあの賞をもらったからということではずされたのです。」(『日本古書通信』昭和60年/1985年4月号 島源四郎「出版小僧思い出話(9)第三次「大衆文芸」のこと」より)
いまみたいに、何賞をとったら次は何賞、みたいなスゴロク式の受賞がなかった頃のハナシです。新鮮ですね。
源四郎さんの回想って、細かい事実関係ではハテナマークの付くところがあるもんですから、鵜呑みにはできません。ただ、彼自身、そんな大衆文壇をめぐる出版社間の空気を感じ取っていたのだろうな、と。そこは信じてあげたいところです。
どこの会社の賞をもらうか。檀一雄さんぐらい突き抜けちゃえば、なあんも関係ないんでしょうけどねえ。そういうことを気にする作家がいたのは、事実みたいです。野間奨励賞をとった大林清さんが、後年、嘆いていますので聞いてあげてください。
「講談社の「講談倶楽部」という雑誌は、私のフランチャイズであった。この雑誌に載った作品も含めた一年間の野間文芸奨励賞というのを貰っている。ところが、この賞は檀一雄あたりを前後にして消えてしまった。
「講談倶楽部」も「小説現代」と看板を塗り替え、内容も一新した。作家の顔触れも連載途中の一人を残して、全部意図的に変えた。その一人も連載が終った後は一度も登場することがなかった。コマーシャリズムの非情さである。こんなことならもう少しネバって他の社の賞を貰うべきだったと後悔したが、もう遅い。」(平成2年/1990年2月・青蛙房刊 大林清・著『明治っ子雑記帳』所収「軽井沢幻想」より)
ははは、大林さん。「他の社の賞」ですか。そりゃあ、『オール讀物』永久乗車券がついてくる直木賞しか思い浮かびませんよ。
不運を呼び込む賞、野間文芸奨励賞、ですか。ですよねえこの賞、スタートした時期、終わった時期からしてアレです。選ばれた面子、その作品内容。選ばれた理由などなど。どこを取っても、のちのち再評価されそうな箇所がまったくないのが、可哀そうなところです。
軍国主義だあ、負のオーラ出まくりの時代だあ、ですもん。その上さらに、完膚なきまでの敗北だあ、講談社なぞ戦犯のかたまりだあ、と来ちゃったわけですから。
それと、もうひとつ。受賞者にとって不運だったことがあるとしたら。「絶頂期の講談社」がつくった賞だった、って点かもしれません。
○
うちのブログで、何度も参考にさせてもらっている論集があります。近代文学合同研究会の論集第1号『新人賞・可視化される〈作家権〉』(平成16年/2004年10月・近代文学合同研究会刊)です。
野間文芸奨励賞についても、ここに五島慶一さんが論文を寄せています。
同賞の位置づけ(とくに第3回ぐらいまでの)を試みた、ありがたい論文です。そのなかで、野間文芸奨励賞の特徴のひとつが、ズバッと指摘されている箇所があります。
「ここで一つ気になるのは、この見出し(引用者注:「銓衡の経過」)にも関わらず、実際にはその中で説明されるのが授賞理由であって、例えば『文芸春秋』誌上に於ける直木賞・芥川賞の場合などと異なり、銓衡の具体的経緯(日程や委員の動向等)が全く伝わってこないことである。端的に言えば、ここには過程を抜きにしていきなり開示された結果だけがある。(引用者中略)
「新人の発掘」を標榜し、広く一般に門戸を開放するという態度を見せる直木・芥川賞をその態度において仮に(あくまで仮に)〈公〉的なものと見做すならば、野間(文芸奨励)賞の方は本来限りなく〈私〉――自社的な祝祭空間の産物であったと言えよう。」(前掲論集所収 五島慶一「講談社的〈作家権〉ビジネスの一様相―野 間文芸奨励賞とその周辺―」より)
ほんとうにそうです。
しかも、単に閉鎖的で自社的な空間なだけなら、とるに足りません。……こら、「文学賞なんてみんな、とるに足らないことでしょ」とツッコんだのは誰だ。茶々を入れないでください。
野間奨励賞の特徴は、その〈空間〉が馬鹿でかいことでした。
立身出世の権化・野間清治さんの死んだのが、昭和13年/1938年。その遺産のなかから、ぽーんと端金の500万円(!)が提供されて、昭和16年/1941年に財団法人野間奉公会ができちゃいます。そのもとで新たにつくられた「野間賞」は、景気よく学術賞・美術賞・文芸賞の3部門。それぞれに賞金1万円の大金をばらまいちゃう、という。プラス、美術奨励賞・文芸奨励賞・挿画奨励賞、賞金1千円ずつのおまけつき。みみっちく賞金500円だの1千円だのを捻出している文藝春秋社を、あたかもあざ笑うかのようなスケールのでかさでした。
ええ。いいことです。野間さんやそれを慕う社員の方々が、各分野でがんばっている人たちを励ますために、お金といっしょに賞をあげる。低俗だの悪趣味だの、眉をひそめられても、気にするこたあありません。講談社は、そうやって大きくなってきたんですから。立派なものです。
ただ、賞の面白みとしてはどうでしょう。人を賞賛し、奨励する姿勢。そのかたちとして大金を授ける。以上。……きらびやかではあるがコクがない、とでも言うんでしょうか。ねえ。菊池寛さん。
「文藝春秋社長でもある菊池寛は、一九三四年第二回雑誌週間の記念講演「雑誌の思ひ出を語る」で次のように述べている。
「とにかく雑誌に人の悪口を書かずに、誉め過ぎる位人を誉めて居りますが、あれなども講談社の成功した所以ではないかと思ひます。」
換言すれば、批判的精神を欠いた総与党的な娯楽雑誌ということになるが、それは『キング』にも当てはまる。」(平成14年/2002年9月・岩波書店刊 佐藤卓己・著『『キング』の時代―国民大衆雑誌の公共性』「III 「ラジオ的雑誌」の同調機能」より)
ははあ。人の悪口書いてのしあがってきた菊池さんが言うと、また一段の重みがありますぜ。
賞としてコクがない。っていうのは、完全にワタクシ個人の趣味の問題かもしれません。ただ、冷静に考えても、「あなた素晴らしい作品を書きましたね、偉いですね」でお金渡して終わり、の文学賞に食いついたり興味をひかれたりする聖人が、いったいどれほどいるんでしょう。
どんな人たちがどんな議論をして決めたのかを隠しちゃう。推奨する理由ばかり並べ立てて、推奨しない理由は述べない。どんな作品が、授賞作と争ったのかも言わない。……「清く、明るく、正しい」運営方針かもしれません。でも、ツッコみどころがないのは、時として弱点にもなります。
前掲の佐藤卓己さん『『キング』の時代』では、野間清治初代社長が、報知新聞の事業にのりだすも見事に失敗してしまった、っていう顛末が、細かく紹介されています。
「結局、野間の目指した「崇高なる新聞道」、すなわち家庭新聞的、当時の表現で「日刊キング」的路線は、満州事変以後の速報主義、センセーショナリズムの渦にのみこまれ挫折した。『現代新聞批判』一九三六年二月一日に掲載された匿名評論「報知と“野間道徳”」は、悪意ある文章だが問題の本質を突いている。
「頭の単純な野間は、偽善と卑俗道徳の看板で押し出せば、講談社もどきの成功疑なしと観た。そこで社会面に孝子節婦忠僕義婢の記事を載せたりした。それが抑も失敗のもとであつた、世間は感心しないで笑つたのである。世間の人間は講談社の読みものに対してはさうした(美談)や卑俗道徳を要求するが、新聞に対しては別な要求を有つてゐるのである。新聞に対しては、もつと高い水準の記事を要求し、同時にセンセイシヨナリズムを要求する。報知はこの両者を欠いでゐたが故に、世間から見棄てられねばならなかつた。(引用者後略)」」(同書より)
道徳色を全面に押し出した文学賞が、あったっていいんです。賞はいろいろなものがあったほうが面白い。ただ、直木賞(や芥川賞)のライバルとしてどうでしょうか。とれないと言って選考委員を中傷したり、泣きついたりする奴もいる、選評の名を借りて公然と若手作家の小説をけなす奴もいる、それを読んで不快になる読者もいれば喝采を浴びせる読者もいる、ゴシップ性満点の、ちょっと薄汚れた文学賞。
そのたくましさが、野間奨励賞には欠けていたかな、と思います。
○
ただ、直木賞みたいに汚濁にまみれた賞ばかりが、何個もあってもしかたない。はい。そうでしょうそうでしょう。
文学賞を、面白い面白くないで切って捨てるのは酷です。選考委員のプライドやら、読者に与える楽しみやら、そんなのはどうだっていいんだ。受賞者が喜んでくれるのが第一じゃないか。それで、文学賞はこの世に生を受けた役目をじゅうぶんに果たしているんだから。文学賞オタクはあっちへ行ってろ。……まったく。返す言葉もありません。
せっかく今日は野間奨励賞のことです。消え失せてから60余年。もはや、現代人の多くは、彼に目を向けることもないでしょう。清く明るく正しい彼がいてくれたおかげで、救われた方たちももちろんいました。そんな作家たちのエピソードを引用させてもらって、ありし日の彼をしのぶことにしましょう。
第4回(昭和19年/1944年度)受賞者、山手樹一郎さん。
「私の一番苦しかったのは昭和十九年前後だった。
(引用者中略)
私はもうしばらく雑誌社に買ってもらえるような小説が書けなくなっていた。なにをどう書けばいいか、およそ見当はついても、それを書くというところまでどうしても自信が持てないのである。
だから、十八年から十九年へかけて、売り原稿は半分あきらめ、「崋山と長英」の三部作をこつこつと書いて「大衆文芸」へのせてもらっていた。それが幸い野間文芸奨励賞に取りあげられて、あれは十二月十日ころだったか、帝国ホテルの別館で授賞式があった。無論当日は防空頭巾をかぶり、ゲートルをつけて出席したのだが、なんとも寒い日であった。
今から考えてみると、晴天ではあったし、そう特に寒い日というのではなく、こっちの体がすでに栄養失調気味になっていて、ひどく寒さがこたえたのだろうと思う。
とくかく、その時もらった副賞の金一千円也は実にうれしかった。これでどうやら年が越せると思ったからだ。」(平成2年/1990年12月・光風社出版刊 山手樹一郎・著『あのことこのこと』所収「あのことこのこと」より)
あの大衆小説界のモンスターのひとり、山手さんが、原稿を書けない時期があった、っつうのも驚きですが、その時代に紡いだ力作を見逃さなかった野間奨励賞も、なかなかのものです。少なくとも、これを落選させた直木賞よりは、ひとの役に立ちました。
もうひとりは戦後。ヒロポン漬けでボロボロになる前の、船山馨さんです。
「昭和二十一年の暮れになって、東中野に廃屋を見つけて、まる一年居候をしていた高田邸から移ったが、その直後に、前の年疎開先から「現代」に送った小説がえらばれて、北条誠とともに、ある文学賞を受けた日のことも、林(引用者注:林芙美子)さんと関連して私には忘れ難い記憶になっている。
授賞式は講談社の会議室で、僅かな関係者が出席して行なわれ、本賞の賞牌は、そういうものを造るところが東京じゅうになくなって、地方へ発注しているが間に合わないということで、北条と私は菊池寛氏から賞金と本賞の目録だけを手渡された。賞金は三百円であった。食糧難で、東京の人口の二割は餓死するだろうと言われていたほどであったから、もちろん近年のような華やかなパーティーなどもあるはずはなく、表へ出ても乗物もなかった。
「林さんのところへ行ってみないか」
と、私は北条を誘った。誰かにおめでとうと言ってもらいたかった。そのまま家へ帰るのは、すこし侘しすぎる思いであったし、北条は鎌倉文庫に勤めていた関係もあって、むしろ私以上に林さんとは懇意であった。(引用者中略)
林さんは私たちの目録と賞金の包みを床の間にならべ、相撲取りが手刀を切る真似をして、眼を糸のようにして笑った。それから林さんの手料理で、三人だけの祝宴になった。
いまから振り返ると、侘しい祝宴のように見えるかもしれないが、祝杯をあげようと思っても、焼跡の屋台へでも出かけていって、ひとりで粕取焼酎をひっかけて来るくらいが関の山だった時代である。先輩作家の手料理と本物の酒で祝福されるなどということは、稀有の贅沢であった。」(昭和53年/1978年1月・構想社刊 船山馨・著『みみずく散歩』所収「明日も夜から」より)
船山さんが、野間奨励賞からもらった恩恵は、ほとんどなかったのかもしれません。しかし、林芙美子さん一人だけが祝福してくれたという励ましと、思い出をもたらしてくれました。
文学賞は、お金による喜びを生むこともあります。お金や華やかさが乏しいことで、逆に人との親しみや情を感じさせてくれることもあります。
清く明るく正しい文学賞に、ふさわしいハナシやなあ。
惜しむらくは、落ちた人間が恨みに思ったとか、嫉妬心を燃やしたとか、そういうブラックな側面が、野間奨励賞にはまったくないところぐらい。……って、しつこいですね。すみません。
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