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2010年9月 5日 (日)

夏目漱石賞 誰が言ったか「1回きりで終わった賞」。……しかし、それでは済まない男が一人。

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 文学賞とは、ひとつの「文壇ドタバタ劇」である。……という観点からすれば、直木賞なぞ甘い甘い。この夏目漱石賞のドタバタ・パワーに比べたら、とうてい足もとにも及びません。

 もしも、文学賞の世界を愛する人たちを対象に、「大好きな文学賞」アンケートをとったなら。当然、漱石賞はトップ5には入るかもしれないわけです。

 いや、じっさい、ワタクシごとき直木賞厨にとっても、また別の理由で、どうしても避けて通れない賞なんですよ。

 直木賞史に名を残す一人の作家が、ここに深くからんでいるからです。

【夏目漱石賞受賞作・候補作一覧】

 と、当たり前のようにハナシを続ける前に。「なになに? 夏目漱石賞なんて賞あったの?」と首をかしげる方に、ちょっと解説させてもらいます。

 戦争が終わってまもなくの、昭和21年/1946年。桜菊書院っていう新しい出版社ができました。これがまた、それまで文化事業の業界では無名の、右翼系の団体がオーナーでしてね。終戦直前にカラフトら辺から、ごっそり紙を持ち込んでいたんだとか、何とか。当時みんながよだれを垂らして欲しがるほどの大量の紙をがっつり手にしていました。

 久米正雄さんらの提案で、夏目漱石全集を刊行することになります。でも、「漱石といったら、うちじゃろ」と自負する岩波書店とのあいだで揉めゴトになっちゃいます。そこに夏目家の人たちがからんできて……、みたいな漱石全集をめぐる争いが起きまして。

 といったことは、名著、矢口進也さんの『漱石全集物語』(昭和60年/1985年9月・青英舎刊)に、詳しく載っています。

 そんな流れのなかで、桜菊書院は、夏目漱石の名を冠した賞を創設します。昭和21年/1946年10月のことでした。

「本社は、兼ねて夏目漱石全集の刊行、盛況裡に進展しつゝあるを記念し時恰も歿後三十周年に当る故文豪の、遺業を益々顕彰して、是を継ぐべき次代に、隠れたる雄篇傑作を求むるため、今回特に夏目家の援諾を得て、文界に輝くべき大「漱石賞」を設け、広く天下に小説を募集する事となった。」(『小説と読物』昭和21年/1946年10月号「夏目漱石賞 作品募集」より)

 選考委員として、なかなかの大御所たちを引っぱり出してくることに成功。新聞にも取り上げられたりしました。

 翌年にかけて、600篇ほどの応募作が寄せられまして、そのなかから、1篇の当選作と4篇の佳作を選び出して発表。それらのうち4作品と選評を載っけた『第一回夏目漱石賞当選作品集』(昭和23年/1948年2月・桜菊書院刊)を刊行します。まもなく、第2回の募集を開始。ところがどっこい、昭和24年/1949年に同社が倒産してしまったがために、漱石賞はそこで消え失せてしまった、と。

「夏目漱石賞は、ひきつづき第二回を募集、銓衡委員は、死去した横光利一を除いた九人とし、賞金を三万円に引き上げた。しかし、桜菊書院の倒産で発表にいたらず、賞そのものは一回きりで終ってしまった。」(前掲『漱石全集物語』「第五章 桜菊書院の登場――昭和二十一年―二十五年」より)

 そうなんですよ。目につく文献を見たかぎり、とにかく漱石賞ってのは、1回で終わったことになっているのです。

 『最新文学賞事典』(平成1年/1989年10月・日外アソシエーツ刊)でも、『日本近代文学大事典 第六巻』(昭和53年/1988年3月・講談社刊)の「主要文学賞一覧」(担当・新見正彰)でも、『日本の文学賞』(昭和43年/1968年10月・神奈川県立図書館刊)でも。

 なーるへそ。直木賞と芥川賞が復活するのは昭和24年/1949年。ぎりぎり、そこまで永らえることができなかったか。戦後の混乱期に泡のように生まれ、弾けて消えた、1度きりの花火、漱石賞。さみしいよなあ。合掌。

 ……って、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。

 1回で終わった? まじで? となると、どうなるんですか、われらが直木賞史のなかに生きる超重要人物、あの人の扱いは。

 斎藤芳樹さんの立場は。

 ええ、そりゃもう、斎藤さんのことを超重要人物と言うのは、ほかでもありません。直木賞と密接なる関係を保った、かのスーパー同人誌『近代説話』の主要なる同人のお一人だからです。

 第57回(昭和42年/1967年・上半期)で一度しか候補に挙がっていない泡沫候補ではありますが、いや、彼のキャッチフレーズは、「『近代説話』の主要同人中、ただひとり直木賞がとれなかった男」。……と以前、胡桃沢耕史『天山を越えて』の回でもご紹介いたしました。

 『近代説話』には、実力派の同人作家がゴロゴロ参加していました。それもそのはず、ごぞんじのとおり、この雑誌の同人になるためには、ある種の暗黙の(?)ルールがあったからです。

 何かの公募賞(懸賞小説)で、1度か2度は受賞経験があること。

 司馬遼太郎さんは講談倶楽部賞。寺内大吉さんはサンデー毎日大衆文芸&オール新人杯。永井路子さんはサンデー毎日創刊三十年記念懸賞&オール新人杯(次席)。清水正二郎(のちの胡桃沢耕史)さんはオール新人杯。黒岩重吾さんはサンデー毎日大衆文芸。伊藤桂一さんは千葉亀雄賞&オール新人杯(次席)。などなど。おそるべし、賞金あらしの集団です。

 そして斎藤芳樹さんは、これ。

「戦後の、文芸誌「群像」が募集した第二回の懸賞小説に、斎藤さんも私(引用者注:伊藤桂一)も一緒に入選して、それが縁で知り合った。(引用者中略)

 斎藤さんはこのころ、奄美の風俗を題材とした「シュロン耕地」で「小説と読物」誌が募集した懸賞小説で、第一回夏目漱石賞を受賞している。斎藤さんも私も「近代説話」の創刊とともに同人に加わり、それぞれ作品を発表しつづけた。」(平成12年/2000年10月・古河文学館刊『近代説話展』所収 伊藤桂一「斎藤芳樹さん追悼」より ―初出『大衆文学研究』123号[平成12年/2000年7月])

 『群像』懸賞小説の佳作。そして、「第1回夏目漱石賞」。……伊藤桂一さんの回想はたいてい事実関係がフラフラしているんですけど(『シュロン耕地』は斎藤さんの直木賞候補作ですし)、斎藤さんがとった賞として紹介されるとき、かならずと言っていいほど登場するのが、漱石賞なんです。

 斎藤さんが刊行したいくつかの著書でも、そうです。著者紹介が載っている場合には、たいてい漱石賞受賞、と書いてあります。

 ほら、亡くなったときの記事だって。

「脳梗塞による呼吸不全のため死去。八十二歳。(引用者中略)終戦により内地引き揚げ、二十二年より金園社、主婦の友社に勤務した。第一回群像新人賞佳作。第一回夏目漱石賞受賞。(引用者後略)(平成12年/2000年7月・新潮社刊『文藝年鑑2000』より)

 でもですよ。第1回漱石賞は、当選者1名、佳作4名。いずれも素性のはっきりしている方ばかりで、その後の歩みについても、あらかた判明しています。

 西川満さんの作家活動はよく知られるところ。直木賞候補者でもあるので、ワタクシにはとくに親近感の沸くかたです。渡辺伍郎さんは郷里・茨城で同人誌活動に邁進されたようだし、春日迪彦さんは本名・桶谷繁雄で、天下の(?)wikipediaにすら載ってる。野田開作さんは種々のペンネームを使いながら執筆を続けられ、森川譲さんは本名の甲斐弦として熊本で活躍され、荒木精之文化賞を受賞していたりする。

 ちゅうことは。ええと。どういうことですか。

 まさか。斎藤さん、「おれ夏目漱石賞とったことあるんだよね」とまわりに自慢しながら、誰もそんな些細なことを調べようとしなかったのをいいことに、そのまま漱石賞作家と名乗りつづけた。っていう、ドラマでよく見る詐欺師の常套手段のパターン、なの……?

 ショック。

 いや。何を言ってるんだ。『近代説話』の縁の下の力もち、斎藤芳樹さんがそんな犯罪者まがいのことをするなんて、とうてい考えられない。他の人がどうであれ、少なくとも直木賞オタクのワタクシが、斎藤さんのことを信じなくてどうするんだ。

 そうだ。誰が何と言おうと、斎藤さんは漱石賞作家。それを証明する手段が、なにかあるはずだ……。

          ○

 なんか、無実の被疑者と、それを救おうとする友情厚き主人公が出てくる、できそこないの法廷ミステリーみたいな展開になってきちゃいました。いったん、ハナシを置いときます。

 なにせ夏目漱石賞、つうのはねえ。その名にインパクトがありすぎるんですよねえ。それゆえ、逆に文学賞史のなかでは正統に扱われにくかったりします。

 しかも、主催者の桜菊書院っていうのが、また、アレでしょ。まじめな文学研究の世界で、まっとうに相手をしてくれる人などいない厄介モノ扱いでして。中野重治さんとかには、本気でキレられちゃっています。

「一部の日本人は、死後三十年のこの作家(引用者注:夏目漱石)を改めて侮蔑しようとするかのようである。紙の出どころについてよからぬうわさのある本屋が新しく『漱石全集』を出し、それに景気つけるために漱石賞をつくり、その選者として石川達三、林房雄、横光利一、武者小路実篤、内田百間、久米正雄、松岡譲、青野季吉、里見トン(引用者注:原文では弓偏+享の一字)の人びとが発表されたのである。これらの人を総体として見るとき、どこに漱石の生き方、漱石の文学との順直なつながりが見出されようか。一体としての彼らのどこに官僚的なものとのたたかい、それからの脱走、金銭からの藝術の防衛、年とるにつれ名がひろまるにつれて増した世俗との対立、人生と文学とにおける真実追求の苦闘が認められようか。」(昭和54年/1979年3月・筑摩書房刊『中野重治全集第十二巻』所収「漱石と漱石賞」より ―初出『アカハタ』昭和21年/1946年12月9日号)

 ただ、桜菊書院のよからぬウワサは別としても、『小説と読物』誌まで軽視したり無視したりするのは、どうなんでしょう。いまワタクシの目から見たら、終戦後のかなり早い段階で、純文学と大衆文学の垣根を取り払おうと頑張っていて、大衆文学史のなかでは外せない雑誌だと思うんですよね。林房雄さんや木々高太郎さんが、「中間小説」の宣伝部長なる名に恥じず、誌面でブイブイ言わせていたりするわけだし。

 ほんと、残念です。桜菊書院&『小説と読物』がいまだに、「戦後のドサクサにまぎれた、とるに足らない愚か者のひとつ」くらいの見方しかされていなくて。

 じっさいには、この漱石賞にしても、歴史的に見たら、かなり特徴をもった注目すべき賞だと思うのです。昭和21年/1946年。戦前・戦中の残滓が尾をひき、旧来の文学賞がまだ復活するにいたらないこの時期。

 漱石賞がまず売りにしたのは、第一に、「夏目漱石」っていうビッグネームの威光。それとともに「民主的な賞」であることだったんですよね。

 民主的、と言いましても、なんだか曖昧です。具体的に挙げます。以下の2点です。

 その1、応募は新人に限ったものではなく、有名無名問わずに参加できる。

「「夏目漱石賞」応募作品は現在(二月十五日)四百篇余り集まっている。(引用者中略)殊に嬉しいのは、多数の知名の作家がこの文学賞の企に賛同して、虚心に、力作を投じてくれることである。」(『小説と読物』昭和22年/1947年3月号「編輯後記」より)

 有名人も無名人も、みんな同じスタートラインから走るのだ、と。

 その2、当選作の順位は読者が決める。

漱石賞は民衆投票できめる

賞金二万円に上る「漱石賞」制定に関し執行委員久米正雄横光利一氏等の小委員は数次の会合を重ねた結果銓衡方法にコンクールの形式をとり先ず委員の手で予選を行い五編を「小説と読物」誌上に発表し大衆の人気投票によって民主的に等位を決定することになった」(平成10年/1998年11月・新聞資料出版刊『新聞集成昭和編年史 二十一年版V』所収 『京都新聞』昭和21年/1946年10月27日より)

 これは、共同通信が配信した記事っぽくて、同様の記事が他のいくつかの新聞にも載っているようです。

 誰でも参加できて、みんなで決める……。なかなか面白い試みじゃないですか。

 しかも興味ぶかいことに、この賞を興したのは桜菊書院。と言うとわかりにくいので、人名を挙げます。上田健次郎さん。かつて文藝春秋社で働いていた方です。

 桜菊書院には漱石の次男、伸六さんが編集者として働いていまして、こちらも同様に元・文春勤め。

 ってことで、奇しくもというか必然というか。戦後には、元・文春の血の流れる出版社が、文藝春秋新社のほかに、いくつかできたんですが、桜菊書院&『小説と読物』誌は、そのひとつだったわけです。

 要は、上田・夏目コンビは、戦前から戦中にかけて、直木賞・芥川賞という大変よくできた文学賞フレームをまぢかで見てきた二人でした。そのご両人が、戦後にいちはやく打ち立てた文学賞に、「民主的」なる特徴をかぶせてきた、っていう。

 ははあ。二人とも、こっそり思っていたのかもしれませんな。偉そうな作家たちだけで決めちゃう文学賞って、民主的じゃないなあ、と。もはや時代おくれだよなあ、と。

 だったらもっと開かれたかたちにしよう。当選作を決めるのも、たった数人のお偉方だけに頼むのではなく、広く投票を呼びかけて多数決にしちゃおう。

 漱石賞は、どうも最初は、そんな発想を身にまとっていたんです。まさに、時代の風潮を生かして、勢い(だけ)でつくられたと言ってもいい装い。

 結果を見ますと、「有名無名問わず」のほうは、まずまず、思いどおりに叶えられたっぽいです。青野季吉さんの第1回選評によれば、予選通過作の中には、すでに作家として活動中の人が何名か含まれていたそうですし。ワタクシの知っているだけでも、真杉静枝なんちゅうビッグネームをはじめ、日吉早苗さんや勝田豪さん。それと佳作まで行った西川満さんも、著名人の部類に入れちゃっていいでしょう。

 まあ、編集者に請われて、作品を提供しただけかもしれないんですけどね。江戸川乱歩賞みたいに。

 ただし、民主的なるものを支えるもう一方の車輪、「読者投票で順位を決める」点については、けっきょく実現されませんでした。せっかくの構想はよかったのに。現実に運営するとなると、うまくいかないものなんですなあ。第1回目が終わってみれば、他と変わらない平凡な公募型の賞になってしまったのでした。

 おお。悲しい。絵に描いたような竜頭蛇尾。

          ○

 閑話休題。

 斎藤芳樹の名誉を回復する手段とは。答えは簡単です。『小説と読物』のバックナンバーを調べればいいわけです。

 第2回漱石賞の募集記事が最初に出たのは、第1回の当選作品集が刊行されたころ。昭和23年/1948年2月号の『小説と読物』でした。その後、5号連続で6月号まで、募集広告が載ります。

 当初、その当選発表は昭和23年/1948年11月号で行われるはずでした。が、該当の号には漱石賞のソの字もなし。翌12月号になって、ようやく14篇の予選通過作が発表されました。

 そこに、われらが斎藤芳樹さんの名は……。ありましたありました! 「中野芳樹」って氏名ですけど、作品名は「雨降る孤島」。たしかに、のちの直木賞候補者、斎藤芳樹さんです。この作品は、十数年後、昭和36年/1961年に斎藤さんが東方社から出した『なぐれむん譚』に収められています。

 さて、さらに1号おいて、昭和24年/1949年2月号。お待たせいたしました。とうとう誌面にて、4篇の「入選作」が紹介されます。すんごく小さな記事ですが。まぎれもなく入選発表です。

第二回夏目漱石賞入選発表

 昨年、十二月号「小説と読物」誌上にて発表致しました予選通過作品の十四篇に対して、爾来選衡委員九氏を煩はし、茲に昭和文藝史に輝く四佳篇の入選を見ました。御多忙中の選者の労を多とし、併せて応募者各位の益々御健筆を祈る次第であります。

 首席並に選衡経緯は追つて発表致します。」(『小説と読物』昭和24年/1949年2月号より)

 ところが、です。ここで事態は急展開。一年半にわたって同誌の編集人を務めていた夏目伸六さんが、この号を最後に、いなくなってしまいます。辞めたのかもしれませんし、辞めさせられたのかもしれません。翌3月号の編集人は、谷井正澄さんに代わり、編集方針もちょっと変わってしまった模様。こんな編集後記とともに。

「本誌は之まで小説一本槍の編集で進んで参りましたが、欧米のあらゆる雑誌が読物記事、すなわち事実に根ざしたフィチュア・ストーリーをとり上げてゐる例にてらし内容を一新、この際名実ともに「小説と読物」の二本建てで進む事になりました。御期待下さい。――」(『小説と読物』昭和24年/1949年3月号より)

 期待しろ、と言われて、素直に期待していた読者も多かったことでしょう。しかし、この次の号が出るまで、3か月もあきます。6月号。編集人はまたまた代わって、平岩正男さん。入選発表のときの宣言はどこへ行ったのやら、もはや誌面に漱石賞の痕跡は、どこにも見当たらなくなってしまいました。

 ああ、『小説と読物』もここまでか……。以降半年、同誌が発行されたのかどうなのか。よくわかりません。

 しかし、帰ってまいりました。不死鳥、ないしはゾンビのごとく。昭和25年/1950年1月号(新年特集号)。編集人として、ふたたび上田健次郎さんが復帰です。

 発行元も、桜菊書院ではなく、上田書房と姿を変えて。

 悪名高き桜菊書院も、ミスター漱石賞と目されている伸六さんも、まったくいなくなった新生『小説と読物』誌。そこに堂々と掲載されているじゃありませんか。斎藤芳樹さんの「雨降る孤島」が。目次と本文には、もう誰も疑うことのできないこんな文字が印刷されています。

 「第二回夏目漱石賞当選作」。

 残念ながら選考経緯は見当たりません。他の3篇が佳作扱いになったのかどうかもわかりません。ただ、本文末尾に、二人の選考委員からの評言が付いているのですよ、こころして耳を傾けましょう。

「「雨降る孤島」に就いて

青野季吉氏評…これはロマンとしてよく整つてゐた。或る力強いものが押してくる。南の島の風物人文などの描写にもすぐれたものがある。漫曼性のつよいなかにも孤独な兵の苦悩がはつきり出てゐた。

武者小路実篤氏評…つくりものとは思ふが、中々よくがつちりかけてゐる。特殊な材料が特殊の孤島の生活としてよくかけてゐる。文章も中々しつかりしてゐる。」(『小説と読物』昭和25年/1950年1月号より)

 詳しい経緯は不明です。

 でも、「第二回夏目漱石賞当選作」と銘打たれた作品が掲載された一事をもって、ひとつの決着をみました。

 第1回しか行われなかった、とどなたが最初に言い始めたのかは知りませんけど、漱石賞は第2回目も、きちんと当選作発表まで完結していました。創設者のひとり、上田健次郎さん自身の手によって。

 ……まあ、第2回が無事に発表されていたことが判明したからと言って、何だというのか。1回だろうが2回だろうが、すぐに終わっちゃったことに変わりないんですけど。いずれまた、伸六のお孫さんとかが、漱石賞を復活させようとしたときに、間違って第2回目をダブッてやらなくてすむ、くらいの意味しかないかもしれません。

 いや。いやいや。ワタクシにとっては重大なことです。斎藤芳樹さんの無実を確信できたんですもの。やっぱり彼は、『近代説話』の仲間に入る資格を、じゅうぶんに有した作家でした。それを確認できただけでも、よしとしましょう。

 だって、わかりませんよ。昭和24年/1949年下期、桜菊書院が倒産したとされるこの時期、『小説と読物』はずっと休刊していたのかどうか。その間にも、知られざる号が出ていて、漱石賞のことが何か載っていたのかもしれませんし。

 あるいは。昭和25年/1950年、上田書房の新生『小説と読物』は、一年ももたずにほんとに廃刊してしまったのかどうか。第3回、第4回……と、どこかで漱石賞は継続されていたかもしれませんし。

 ……このまま漱石賞のとりこになってしまいそうです。いかんいかん。直木賞ですら、まだまだ未知なる領域が存在しているというのに。ここで、隣の芝生に見とれている場合じゃありませんよ、ご同輩。

 とりあえず、今はここまでとさせてもらいます。また誰か掘り起こしてください。夏目漱石賞。

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