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2010年9月の4件の記事

2010年9月26日 (日)

大衆雑誌懇話会賞 中間小説を生んだ、中小零細雑誌たちの熱意。

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 昭和20年/1945年敗戦後。文藝春秋社は、会社存亡の危機を迎えまして。直木賞とか芥川賞とか、そういうお遊びをやっている余裕はなくなりました。

 その間、文学賞は消え失せたのか。いや、ありました。たいていは公募型ですけど。いわゆる懸賞小説ですね。「そんなもの文学賞とは呼べないぜ」と、原理主義的な文学賞研究者から大目玉をくらいそうなので、深くは突っ込みませんが。

 ここで注目するのは、非公募型の賞です。言い換えますと、直木賞・芥川賞の代わりとなった賞です。

 芥川賞の世界でいうなら、横光利一賞あたりがその筆頭なんでしょう。いっぽう、直木賞の世界には、コレがありました。

 大衆雑誌懇話会賞。って何だかイカめしい感じのする字面の、はかない賞が。

【大衆雑誌懇話会賞受賞作一覧】

 はかないです。たった2回で終わっています。当時の俗語を真似れば、「カストリ」文学賞の類です。じつに、はかない。

 しかしそこには、いろいろな事情と思いが詰まっていました。たぶん。大衆雑誌だあ? ふん! と馬鹿にしないで、ぜひ視線を送ってあげましょう。

 この賞は、名前のとおり、「大衆雑誌懇話会」なる組織がおっ始めました。で、大衆雑誌懇話会って何ぞや。昭和22年/1947年当時の、大衆向け小説誌の編集者たちが一致団結して(?)結成された集団です。

「大衆雑誌懇話会ではかねてから設立準備を急いでいたが、去る(引用者注:昭和22年/1947年)四月四日午後一時から千代田区駿河台の雑誌記念会館で創立総会を開催、(引用者中略)

 大衆雑誌懇話会規約

(引用者中略)

一、当懇話会は広汎なる読者層を有する大衆雑誌の社会的意義に基き会員各誌の質的向上、共同福利の増進並に会員相互間の親睦を計るを以て目的とす」(『出版文化』170号[昭和22年/1947年4月21日]より)

 いちおう、この頃の出版事情、社会背景をかいつまんでおきますと。

 GHQは言いました。仇討とか封建主義とか、そういうおハナシは出しちゃダメよ、と。そうかそうだよね、とうなずく日本政府。ではではと推し進めたのが3S(スポーツ、スクリーン、セックス)文化でした。

 そう言われちゃったら、大衆向け雑誌だって、そっち方面にドドーッと走りますよ。そしてまあ、下衆な万民が喜ぶのは扇情的なものと相場が決まっとりますがな。右をみればエロ、左に転じてもエロ、世の中エロのない小説なぞ売れんわい、とばかりに、万歳エロ雑誌が賑わいをみせたわけです。

 ところが、やりすぎはいかんぞ、と苦言を呈すお節介モノが、どこにもいるもんです。あまりにエロエロ騒がれ出したもんだから、検察、内務省、警察あたりが取り締まり始めちゃいました。昭和22年/1947年。刑法第175条ワイセツ物頒布販売罪の初の適用、などという名誉ある座を射止めたのは、『猟奇』と『でかめろん』でした。

 さあここで、しゃしゃり出てきたのが、民間団体の日本出版協会です。

 「まずい。またぞろおカミの言うなりになったら、数年前の蒸し返しじゃないか」とあせったのでしょうか。はたまた、「ええ、ええ。お偉方のみなさまはお忙しいでしょう、そんなくだらない監視は、うちでやりますよ、スリスリ」と、相変わらずの追従グセを発揮したのでしょうか。

 「オレたちが浄化したるぜ」、だそうです。

桃色物へ光らす眼 出版協会が浄化に乗り出す

(引用者前略)日本出版協会でも民間側として独自の立場からニラミをきかしこれら出版物の自主的浄化にのりだそうとしている(引用者中略)

 出版協会の諮問機関「文化委員会」が出版浄化の中心となって今月末から発足、文化人、業者、協会幹部それに一般識者代表ら五十名の“良識”をあつめてエロ本対策の評定をひらき具体的措置を講ずることゝなった」(『読売新聞』昭和22年/1947年2月4日より)

 そんな折りに、大衆雑誌懇話会は創立されました。独立した機関ではありますが、創設当初は、この日本出版協会雑誌課に置かれたそうです。

 先ほど、懇話会の規約を引用しましたけど、そこに「質的向上」って言葉がありましたね。何なんだ、大衆向け小説の「質的向上」って。わかりません。ただ、時代背景からして、桃色の行きすぎはやめようよ、ってことなんでしょう。

 あるいは、ワタクシの耳には、いくつかの雑誌のこんな叫びも聞こえてきます。「おい。おれたちをカストリと呼ぶな。いっしょにするな」……。切実そうな声です。摘発されるのは、イヤですからね。

 どんな雑誌が、ここに集結したのでしょうか。具体的な誌名の一部が、前掲の『出版文化』に載っています。

 『ホープ』『モダン日本』『苦楽』『オール讀物』『小説と読物』『日本ユーモア』『大衆文藝』『小説クラブ』『につぽん』『新読物』。

 二、三誌を除けば、みんな戦後に出発した雑誌ばかりです。いいですね、若芽の薫りがにおってきて。旧体制くそくらえ、ってな感じでしょうか。

 おそらくみなさん頑張って編集していたでしょう。そして歯ぎしりしていたでしょう。「大衆雑誌なんてエロばっかだ、読むに値しないものだ」と偉ーい人たちから馬鹿にされて。なにくそ、大衆小説だって立派なものはいくつもあるんだ、もっと質的向上して、馬鹿にしている奴らを見返してやるんだ……。

 おや。これって、なんか「いつか来た道」、じゃないですか。

 昭和10年/1935年前後。講談モノの通俗性に足をひっぱられないようにと、精いっぱい背伸びしようとした、あのころ。大衆文芸の質的向上をめざして、直木賞がつくられたあのころそっくりです。

 敗戦後のゴタゴタで、直木賞は消えちゃいました。じゃあオレたちがやるしかないな、と非公募の文学賞を立ち上げた、大衆雑誌懇話会の面々。カッコいいよなあ。頼もしいよなあ。

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2010年9月19日 (日)

土門拳賞 「写真界の直木賞」らしく、くだらない権威主義まっしぐら?

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 一回、変化球を投げます。手が離れた瞬間から明らかにボールだとわかるクソ球です。見逃してください。

 土門拳賞。写真界の直木賞、だそうです。ワタクシは文壇の魔界に足をとらわれて、もがくだけで精一杯です。写真界のことはほとんど知りません。でも、「直木賞」の文字に、つい飛びついちゃいました。

【土門拳賞受賞作・候補作一覧】

 じつは、問いつめてやりたいのです。ほんとに土門賞、あなた、「直木賞」にたとえられて満足なのですかと。直木賞がたどってきた愚かしくも可哀そうな歴史を、あなた自身、受け入れられますかと。ワタクシがもし賞だったら、直木賞にはなりたくないものなあ。

 いや。土門賞自身は、別に直木賞になどなりたくないのかもしれませんね。そう導きたいのは、まわりの人間たちですもんね。

 写真家・土門拳さんは昭和54年/1979年9月、脳血栓で倒れます。以来、ずっと意識不明でしたから、自分の名を冠した賞ができようができまいが、おそらく何の感情も持てない状況だったでしょう。その間に、毎日新聞社が賞をつくりました。昭和57年/1982年のことでした。

 と、ここで気になります。創設された段階で、土門賞は「写真界の直木賞」と言われ始めていたのかどうか。

 ほんとうは、その発生源をたどりたいところではあります。ただ、直木賞オタクとしては、いまいち意欲が沸いてこないんですよね。なぜなら、そのときすでに、木村伊兵衛写真賞が存在していたからです。

 つまり、アレです。直木賞は直木賞だけ単独で、世間に浸透することなどできないのだ……っていう、さんざん見せつけられてきた悪夢のような現実を、ここでまた、念押しされるだけじゃないのかと。

 木村賞は「写真界の芥川賞」と呼ばれている。じゃあ、それに対して土門賞は「直木賞」だよね。みたいな展開。

 「写真界の直木賞」とか言いながら、その言葉のウラで存在感を放っているのは、じつは直木賞じゃなくて、芥川賞のほうだと。……ほんともう。ゲンナリします。

 何なんだ、この二番手感。

 誰が言ったか「写真界の直木賞」。でも、このネーミングが今も言い継がれつづけているんですから、確かに、そのように表現すると理解しやすい何かが土門賞にはあるんでしょう。たとえば、

  • ポッと出の新人に贈られるものではない。長い写真家活動を送ってきた中堅・ベテランどころに贈られる。

  • 授賞は、対象作品だけでなく、活動全般を視野に入れた上で行われる。

  • ライバルとなる賞がある。

  • 人の名前が冠されている。

 つうところですか。

 「大衆性」って面はどうなんでしょう。どなたかに教えていただきたい。なにせ直木賞は、上に挙げた4つの特徴を持ってはいますが、どれもこれも、些末な特徴でしかないですもんね。些末と言うと語弊がありますけど。この4点をもって「これこそ直木賞だ」と自信ありげに宣言されると、ワタクシは悲しいのです。

 直木賞の、いちばんの特徴は何なんでしょう。「大衆文芸を対象にする」って点じゃないんですか。

 大衆性をもったありとあらゆる文芸作品。……何だか訳わかりませんよね。この分類不能なところからくる、自由さ、垣根のなさ、あいまいさ、あるいはどっちつかずの雑食性。これこそ直木賞だ、とワタクシは思います。

 大衆的で、通俗的。字が読めてものがたりが追える人間なら、だれだって楽しむことができる。直木賞が対象にしているのは、たいていそういう作品です。文学の本道と扱われることはありません。芥川賞の二次的な役割に甘んじて、ン十年。芥川賞が華やかなスポットライトを浴びるようになったおかげで、たまたま注目されるようになっただけの賞。

 土門賞が、そんな点でも、もし直木賞と似た歩みを経てきたのだとしたら、がぜんワタクシは興味を向けたくなります。どうかご教示ください。

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2010年9月12日 (日)

大宅壮一ノンフィクション賞 一度は社会的影響力が芥川賞を上回った。と言った人もいました。

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 いけませんね。「第三の文春賞」の称号を、池谷信三郎賞なんぞに使っては。正真正銘、直木賞と芥川賞を継ぐもの。それは、いまのところ大宅壮一ノンフィクション賞しかないじゃないですか。

 芥川龍之介は知りませんけど、直木三十五っていうゴシップ大好き人間。菊池寛は、ゴシップを売りものにする手腕に長けた男。この組み合わせが昭和10年/1935年に直木賞を生み出します。それから34年たった昭和44年/1969年。「菊池寛の魂を受け継ぐ男」を自認する池島信平さんが、よーしおれも、と腹をきめて、直木賞・芥川賞の弟分をつくり出しました。

 昭和40年代。そうだよ、これからはノンフィクションの時代だよ、と踏んで。

【大宅壮一ノンフィクション賞受賞作・候補作一覧】

 そこら辺の時代感覚を、扇谷正造さんが代弁してくれています。『文藝春秋』の大宅賞応募規定発表記事に寄せられた扇谷さんの言葉です。

ノンフィクションの時代

「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、現代は、ある意味では「ノンフィクションの時代」といえるであろう。小説家がつくり出す物語や人物よりも、より意外な、新しい事件や人物が、毎日のように登場しては、われわれのドギモを抜く。まさに、現代は激動の時代だ。」(『文藝春秋』昭和44年/1969年11月号「大宅壮一ノンフィクション賞応募規定発表」より)

 だいじょうぶですか扇谷さん。「激動だ、激動だ」と言っていれば、絶対安心、のジャーナリズム常套句のワナにかかっているんじゃないでしょうね。といった現代史のとらえ方は、ともかくとして、何はともあれ「ノンフィクションの時代」だそうです。

 それで、つくられたのが「文春ノンフィクション賞」。……ではないのです。大宅壮一さん本人がイヤがっているのに、強引に人名を持ってくるあたりに、池島信平さんの、並々ならぬ思いが感じられます。

 以下は、大宅さんが一度は断わりながら、最終的に許諾する場面。大宅さんの評伝から引いてみます。

「池島信平社長が話を持っていったとき、大宅は次のように答えて断っている。

「ノンフィクション賞を設けるのはよいことだが、おれの名前をかぶせるのは嫌だな。芥川賞や直木賞を見ればわかるだろ。これら二つの文学賞は本人が亡くなってから制定してるじゃないか。おれが死んでからならかまわないが、生きている間は勘弁してくれよ」

 恥ずかしがり屋の大宅らしい。池島は一計を案出して昌夫人をくどく。(引用者中略)夫人は大宅に言った。

「いずれは設けられる賞ならあなたが生きている間でもかまわないんじゃない。わたしはむしろそのほうがいいと思ってるの。あなたはどんな人がもらうのかを確かめられるんだから好都合でしょう。賞に値いする作品を書いた人もあなたに直接褒められるなんて、たいへん励みになるんじゃないかしら……」

 精神的にも落ち込んでいたせいもあって、大宅はとうとう昌夫人に押し切られた。」(平成8年/1996年11月・三省堂刊 大隈秀夫・著『マスコミ帝王 裸の大宅壮一』「第十一章 マスコミ的戦死を遂げる」より)

 以来、40数年。よく続けてこられました。拍手ものです。

 文学賞ですもの、40年もやってりゃ、いくつも向こう傷を受けます。おなじみ、候補者と選考委員とのつばぜり合いあり、賞に対する主催者の熱の入れようの変転あり。面白いネタが無数に転がっています。直木賞史を通観する楽しさに、まったく引けをとりません。

 それらをここで一つひとつ取り上げる能力がないことを、ワタクシは自分で悔やむばかりです。

 あくまで直木賞の歩みと関係がありそうなことだけ、概観するにとどめたいと思います。

 関係がありそうなこと。それは文藝春秋における大宅賞の位置づけについてです。

 大宅賞の40年の歴史は、もう涙なくしては直視できません。ハンカチをご用意ください。

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2010年9月 5日 (日)

夏目漱石賞 誰が言ったか「1回きりで終わった賞」。……しかし、それでは済まない男が一人。

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 文学賞とは、ひとつの「文壇ドタバタ劇」である。……という観点からすれば、直木賞なぞ甘い甘い。この夏目漱石賞のドタバタ・パワーに比べたら、とうてい足もとにも及びません。

 もしも、文学賞の世界を愛する人たちを対象に、「大好きな文学賞」アンケートをとったなら。当然、漱石賞はトップ5には入るかもしれないわけです。

 いや、じっさい、ワタクシごとき直木賞厨にとっても、また別の理由で、どうしても避けて通れない賞なんですよ。

 直木賞史に名を残す一人の作家が、ここに深くからんでいるからです。

【夏目漱石賞受賞作・候補作一覧】

 と、当たり前のようにハナシを続ける前に。「なになに? 夏目漱石賞なんて賞あったの?」と首をかしげる方に、ちょっと解説させてもらいます。

 戦争が終わってまもなくの、昭和21年/1946年。桜菊書院っていう新しい出版社ができました。これがまた、それまで文化事業の業界では無名の、右翼系の団体がオーナーでしてね。終戦直前にカラフトら辺から、ごっそり紙を持ち込んでいたんだとか、何とか。当時みんながよだれを垂らして欲しがるほどの大量の紙をがっつり手にしていました。

 久米正雄さんらの提案で、夏目漱石全集を刊行することになります。でも、「漱石といったら、うちじゃろ」と自負する岩波書店とのあいだで揉めゴトになっちゃいます。そこに夏目家の人たちがからんできて……、みたいな漱石全集をめぐる争いが起きまして。

 といったことは、名著、矢口進也さんの『漱石全集物語』(昭和60年/1985年9月・青英舎刊)に、詳しく載っています。

 そんな流れのなかで、桜菊書院は、夏目漱石の名を冠した賞を創設します。昭和21年/1946年10月のことでした。

「本社は、兼ねて夏目漱石全集の刊行、盛況裡に進展しつゝあるを記念し時恰も歿後三十周年に当る故文豪の、遺業を益々顕彰して、是を継ぐべき次代に、隠れたる雄篇傑作を求むるため、今回特に夏目家の援諾を得て、文界に輝くべき大「漱石賞」を設け、広く天下に小説を募集する事となった。」(『小説と読物』昭和21年/1946年10月号「夏目漱石賞 作品募集」より)

 選考委員として、なかなかの大御所たちを引っぱり出してくることに成功。新聞にも取り上げられたりしました。

 翌年にかけて、600篇ほどの応募作が寄せられまして、そのなかから、1篇の当選作と4篇の佳作を選び出して発表。それらのうち4作品と選評を載っけた『第一回夏目漱石賞当選作品集』(昭和23年/1948年2月・桜菊書院刊)を刊行します。まもなく、第2回の募集を開始。ところがどっこい、昭和24年/1949年に同社が倒産してしまったがために、漱石賞はそこで消え失せてしまった、と。

「夏目漱石賞は、ひきつづき第二回を募集、銓衡委員は、死去した横光利一を除いた九人とし、賞金を三万円に引き上げた。しかし、桜菊書院の倒産で発表にいたらず、賞そのものは一回きりで終ってしまった。」(前掲『漱石全集物語』「第五章 桜菊書院の登場――昭和二十一年―二十五年」より)

 そうなんですよ。目につく文献を見たかぎり、とにかく漱石賞ってのは、1回で終わったことになっているのです。

 『最新文学賞事典』(平成1年/1989年10月・日外アソシエーツ刊)でも、『日本近代文学大事典 第六巻』(昭和53年/1988年3月・講談社刊)の「主要文学賞一覧」(担当・新見正彰)でも、『日本の文学賞』(昭和43年/1968年10月・神奈川県立図書館刊)でも。

 なーるへそ。直木賞と芥川賞が復活するのは昭和24年/1949年。ぎりぎり、そこまで永らえることができなかったか。戦後の混乱期に泡のように生まれ、弾けて消えた、1度きりの花火、漱石賞。さみしいよなあ。合掌。

 ……って、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。

 1回で終わった? まじで? となると、どうなるんですか、われらが直木賞史のなかに生きる超重要人物、あの人の扱いは。

 斎藤芳樹さんの立場は。

 ええ、そりゃもう、斎藤さんのことを超重要人物と言うのは、ほかでもありません。直木賞と密接なる関係を保った、かのスーパー同人誌『近代説話』の主要なる同人のお一人だからです。

 第57回(昭和42年/1967年・上半期)で一度しか候補に挙がっていない泡沫候補ではありますが、いや、彼のキャッチフレーズは、「『近代説話』の主要同人中、ただひとり直木賞がとれなかった男」。……と以前、胡桃沢耕史『天山を越えて』の回でもご紹介いたしました。

 『近代説話』には、実力派の同人作家がゴロゴロ参加していました。それもそのはず、ごぞんじのとおり、この雑誌の同人になるためには、ある種の暗黙の(?)ルールがあったからです。

 何かの公募賞(懸賞小説)で、1度か2度は受賞経験があること。

 司馬遼太郎さんは講談倶楽部賞。寺内大吉さんはサンデー毎日大衆文芸&オール新人杯。永井路子さんはサンデー毎日創刊三十年記念懸賞&オール新人杯(次席)。清水正二郎(のちの胡桃沢耕史)さんはオール新人杯。黒岩重吾さんはサンデー毎日大衆文芸。伊藤桂一さんは千葉亀雄賞&オール新人杯(次席)。などなど。おそるべし、賞金あらしの集団です。

 そして斎藤芳樹さんは、これ。

「戦後の、文芸誌「群像」が募集した第二回の懸賞小説に、斎藤さんも私(引用者注:伊藤桂一)も一緒に入選して、それが縁で知り合った。(引用者中略)

 斎藤さんはこのころ、奄美の風俗を題材とした「シュロン耕地」で「小説と読物」誌が募集した懸賞小説で、第一回夏目漱石賞を受賞している。斎藤さんも私も「近代説話」の創刊とともに同人に加わり、それぞれ作品を発表しつづけた。」(平成12年/2000年10月・古河文学館刊『近代説話展』所収 伊藤桂一「斎藤芳樹さん追悼」より ―初出『大衆文学研究』123号[平成12年/2000年7月])

 『群像』懸賞小説の佳作。そして、「第1回夏目漱石賞」。……伊藤桂一さんの回想はたいてい事実関係がフラフラしているんですけど(『シュロン耕地』は斎藤さんの直木賞候補作ですし)、斎藤さんがとった賞として紹介されるとき、かならずと言っていいほど登場するのが、漱石賞なんです。

 斎藤さんが刊行したいくつかの著書でも、そうです。著者紹介が載っている場合には、たいてい漱石賞受賞、と書いてあります。

 ほら、亡くなったときの記事だって。

「脳梗塞による呼吸不全のため死去。八十二歳。(引用者中略)終戦により内地引き揚げ、二十二年より金園社、主婦の友社に勤務した。第一回群像新人賞佳作。第一回夏目漱石賞受賞。(引用者後略)(平成12年/2000年7月・新潮社刊『文藝年鑑2000』より)

 でもですよ。第1回漱石賞は、当選者1名、佳作4名。いずれも素性のはっきりしている方ばかりで、その後の歩みについても、あらかた判明しています。

 西川満さんの作家活動はよく知られるところ。直木賞候補者でもあるので、ワタクシにはとくに親近感の沸くかたです。渡辺伍郎さんは郷里・茨城で同人誌活動に邁進されたようだし、春日迪彦さんは本名・桶谷繁雄で、天下の(?)wikipediaにすら載ってる。野田開作さんは種々のペンネームを使いながら執筆を続けられ、森川譲さんは本名の甲斐弦として熊本で活躍され、荒木精之文化賞を受賞していたりする。

 ちゅうことは。ええと。どういうことですか。

 まさか。斎藤さん、「おれ夏目漱石賞とったことあるんだよね」とまわりに自慢しながら、誰もそんな些細なことを調べようとしなかったのをいいことに、そのまま漱石賞作家と名乗りつづけた。っていう、ドラマでよく見る詐欺師の常套手段のパターン、なの……?

 ショック。

 いや。何を言ってるんだ。『近代説話』の縁の下の力もち、斎藤芳樹さんがそんな犯罪者まがいのことをするなんて、とうてい考えられない。他の人がどうであれ、少なくとも直木賞オタクのワタクシが、斎藤さんのことを信じなくてどうするんだ。

 そうだ。誰が何と言おうと、斎藤さんは漱石賞作家。それを証明する手段が、なにかあるはずだ……。

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