大宅壮一ノンフィクション賞 一度は社会的影響力が芥川賞を上回った。と言った人もいました。
いけませんね。「第三の文春賞」の称号を、池谷信三郎賞なんぞに使っては。正真正銘、直木賞と芥川賞を継ぐもの。それは、いまのところ大宅壮一ノンフィクション賞しかないじゃないですか。
芥川龍之介は知りませんけど、直木三十五っていうゴシップ大好き人間。菊池寛は、ゴシップを売りものにする手腕に長けた男。この組み合わせが昭和10年/1935年に直木賞を生み出します。それから34年たった昭和44年/1969年。「菊池寛の魂を受け継ぐ男」を自認する池島信平さんが、よーしおれも、と腹をきめて、直木賞・芥川賞の弟分をつくり出しました。
昭和40年代。そうだよ、これからはノンフィクションの時代だよ、と踏んで。
そこら辺の時代感覚を、扇谷正造さんが代弁してくれています。『文藝春秋』の大宅賞応募規定発表記事に寄せられた扇谷さんの言葉です。
「ノンフィクションの時代
「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、現代は、ある意味では「ノンフィクションの時代」といえるであろう。小説家がつくり出す物語や人物よりも、より意外な、新しい事件や人物が、毎日のように登場しては、われわれのドギモを抜く。まさに、現代は激動の時代だ。」(『文藝春秋』昭和44年/1969年11月号「大宅壮一ノンフィクション賞応募規定発表」より)
だいじょうぶですか扇谷さん。「激動だ、激動だ」と言っていれば、絶対安心、のジャーナリズム常套句のワナにかかっているんじゃないでしょうね。といった現代史のとらえ方は、ともかくとして、何はともあれ「ノンフィクションの時代」だそうです。
それで、つくられたのが「文春ノンフィクション賞」。……ではないのです。大宅壮一さん本人がイヤがっているのに、強引に人名を持ってくるあたりに、池島信平さんの、並々ならぬ思いが感じられます。
以下は、大宅さんが一度は断わりながら、最終的に許諾する場面。大宅さんの評伝から引いてみます。
「池島信平社長が話を持っていったとき、大宅は次のように答えて断っている。
「ノンフィクション賞を設けるのはよいことだが、おれの名前をかぶせるのは嫌だな。芥川賞や直木賞を見ればわかるだろ。これら二つの文学賞は本人が亡くなってから制定してるじゃないか。おれが死んでからならかまわないが、生きている間は勘弁してくれよ」
恥ずかしがり屋の大宅らしい。池島は一計を案出して昌夫人をくどく。(引用者中略)夫人は大宅に言った。
「いずれは設けられる賞ならあなたが生きている間でもかまわないんじゃない。わたしはむしろそのほうがいいと思ってるの。あなたはどんな人がもらうのかを確かめられるんだから好都合でしょう。賞に値いする作品を書いた人もあなたに直接褒められるなんて、たいへん励みになるんじゃないかしら……」
精神的にも落ち込んでいたせいもあって、大宅はとうとう昌夫人に押し切られた。」(平成8年/1996年11月・三省堂刊 大隈秀夫・著『マスコミ帝王 裸の大宅壮一』「第十一章 マスコミ的戦死を遂げる」より)
以来、40数年。よく続けてこられました。拍手ものです。
文学賞ですもの、40年もやってりゃ、いくつも向こう傷を受けます。おなじみ、候補者と選考委員とのつばぜり合いあり、賞に対する主催者の熱の入れようの変転あり。面白いネタが無数に転がっています。直木賞史を通観する楽しさに、まったく引けをとりません。
それらをここで一つひとつ取り上げる能力がないことを、ワタクシは自分で悔やむばかりです。
あくまで直木賞の歩みと関係がありそうなことだけ、概観するにとどめたいと思います。
関係がありそうなこと。それは文藝春秋における大宅賞の位置づけについてです。
大宅賞の40年の歴史は、もう涙なくしては直視できません。ハンカチをご用意ください。
○
その苦難に満ち満ちた、痛々しい歴史について、年表形式にしてみました。
昭和44年/1969年 大宅荘一ノンフィクション賞創設発表。主催は「株式会社文藝春秋」。賞金は「1,000ドル相当」。刊行済み・発表済み作品の自薦他薦のほか、応募原稿もつのる。
昭和45年/1970年 第1回授賞発表。うち、石牟礼道子さんは受賞を辞退。文春の「選考経過」によれば、「ご好意は大変ありがたいが、まだ続篇を執筆中の現在受賞するのは、気も晴れない心境なので辞退したい」との理由。前掲『マスコミ帝王 裸の大宅壮一』によれば「わたし一人が頂く賞ではありません。水俣病で死んでいった人々や今なお苦しんでいる患者がいたからこそ書くことができたのです。わたしには晴れがましいことなど似合いませんのでお断りします」との理由。
このときの『文藝春秋』誌は、表紙に「第一回大宅壮一賞発表」の文字。目次では、巻頭随筆の直後の、右ページの位置。また、受賞作(受賞辞退作ふくむ)の抄録を併載。巻末の「編集だより」でも20行にわたって言及。
昭和48年/1971年 第4回。『文藝春秋』誌の目次での位置が、左ページに移動(~現在まで)。
昭和53年/1978年 第9回。目次での位置が、この回だけ右ページに戻る。
昭和56年/1981年 第12回。はじめて該当作なしとなり、表紙から「大宅壮一賞」の文字が消える(翌年復活)。
昭和58年/1983年 第14回。受賞作を出したにもかかわらず、表紙に「大宅壮一賞」の文字なし(翌年だけ復活)。また、はじめて巻末「編集だより」にて大宅賞についての言及がなかった。
昭和60年/1985年 第16回。発表号が12月号に変更。表紙から「大宅賞」の文字が消える(~現在まで)。
昭和62年/1987年 第18回。この回より主催者が「文藝春秋」から「日本文学振興会」に変更。また、受賞作の抄録掲載とりやめ(~現在まで)。代わりに受賞者の対談記事が載る。
昭和63年/1988年 第19回。発表号が5月号に変更。
平成1年/1989年 第20回。受賞作の抄録併載が一度だけ復活。巻末「編集だより」にて大宅賞20周年について言及。
平成2年/1990年 第21回。受賞者のエッセイ併載。
平成3年/1991年 第22回。受賞者の受賞第一作を併載。巻末「編集だより」にて言及あり(~平成5年/1993年、平成8年/1996年~平成10年/1998年、平成18年/2006年)。
平成4年/1992年 第23回。受賞対談(~平成7年/1995年。この間、代わりにエッセイを載せた受賞者もあり)。
平成5年/1993年 第24回。発表号が6月号に変更(~現在まで)。
平成8年/1996年 第27回。はじめて「決定発表+選評+受賞のことば+作品紹介」、のみの記事構成になる。
平成10年/1998年 第29回。受賞者エッセイが一度だけ復活。
平成11年/1999年 第30回。目次から、受賞作・受賞者の記載が消える(~現在まで)。
同じように『文藝春秋』誌に発表記事が載る、アニキ分・芥川賞との扱いと比較してみれば、よくわかります。大宅賞も最初のころは、芥川賞とほぼ同等の扱いを受けていました。それが、昭和62年/1987年ごろからでしょうか、どうも雲行きがあやしくなってきて、あとは坂を転げ落ちるように、縮小につぐ縮小。いまや、目次を見ても、だれが選考しているのかはわかっても、だれが受賞したのかわからない、っていう有り様です。
ひどいですよね。さんざんですよね。
かつて、大宅賞が、大事に扱われていたころがあっただけに、その落差は歴然です。ああ、懐かしいぞ昭和。
たとえば30数年前の、大宅賞の姿。
「早いものでこの賞も七回めとなった。石を投げたら賞にあたるといいたくなるくらいの賞流行り時代で、誰が何をもらったのかよくおぼえていられないくらいだが、この賞はいささかユニークなので、すっかり定着したし、知られたし、評価されるようになった。と、見たい。」(『文藝春秋』昭和51年/1976年5月号「大宅壮一賞選評」 開高健「あざやかな才筆」より)
と、選評で選考委員が書くのは、まあご愛嬌でしょうか。
当時、ここまで言っちゃう人もいました。
「この賞はもともと、大宅壮一さんが一世を風靡した型破りの大評論家だったせいか、まことにユニークな、しかも強力な賞に育ちつつあるという印象が強い。最近では、芥川賞よりも大宅賞のほうが、社会的な影響力が大きくなりはじめているのではないかという気もしますね。(引用者中略)
芥川賞の相対的沈滞と大宅賞のめざましい躍進は、これはあまり指摘されていないことですけれども、現在の読書ジャーナリズムの注目すべき新傾向ではないだろうかという気がします。(引用者中略)
芥川賞と大宅賞は、まア控え目にいっても肩を並べるところまできている。」(昭和57年/1982年9月・蒼洋社刊『大宅壮一読本』所収 江藤淳「ノンフィクションと情報量」より ―初出『週刊現代』昭和51年/1976年4月8日号「こもんせんす」)
江藤淳さんの、この見かたまで愛嬌で済ませてしまっていいのかは、微妙なところですよね。
でも、まあ「大宅賞」の注目度が上がっていたのは事実でしょう。でなきゃ、本多勝一さんだって、わざわざ、吠え立てたりしなかったのでしょうから。
「日本にはまた、あたかも「民間」で「民主的」に出されているかの如くよそおい、実は右の「×綬褒章」の類に劣らず愚劣な八百長の「賞」も多いようです。出版社が営業政策としてシカツメらしく「発表」する賞など、その一典型でありましょう。これによってその「賞」を与えられた小説家やルポ=ライターその他が、たいていはその出版社に叩頭して、モノカキとしてのお座敷がかかるのを待つようになり、商売の道具としてからめとられてゆきます。(引用者中略)
「文春の性格を意識した自薦作品と、文春によって選ばれたアンケート回答者の他薦作品とを、文春が取捨選択した結果としての六篇について、文春に選ばれた四人のカイライ選者が決める」
いろいろ考えたのですが、茶番劇という言葉しか思いうかばないのです。」(平成8年/1996年2月・朝日新聞社刊 本多勝一・著『本多勝一集第19巻 日本語の作文技術』所収「茶番劇としての「大宅壮一賞」」より ―初出『潮』昭和49年/1974年7月号)
そうなんですよ。茶番劇なんですよねえ、文学賞のほとんどは。しかも、ほら、それから何十年にもわたって、本多勝一さん自身が、文春とのあいだに泥仕合を繰り広げたり、毀誉褒貶にまみれていったりと、そういうドラマがからみ合ってくるんですから。たまりません。
何が正義で何が悪なのか、まったく判然としない混沌状態。すばらしい世界です。なにしろ「大宅」賞ですもの。大宅壮一さんの名がかぶさっているに、これほどふさわしい姿があるでしょうか。
もしも、この賞が直球で「ノンフィクションの権威」なんぞに収まってしまったら、よけいに、くすんでしまったことでしょう。人と人とが、「賞」なんぞという馬鹿バカしく、みじめったらしいものを挟んで、ガシガシやり合う。大宅賞なんて、さびれた田舎のお祭り以下だ、と馬鹿にするヤツが後を絶たない。そうなってこそ、この賞には栄光があります。大宅壮一さんから名前を借りた甲斐があるってもんです。
○
大宅賞は文藝春秋の賞です。もちろん、直木賞・芥川賞を意識してつくられました。
「この賞はノンフィクション分野における“芥川賞・直木賞”をめざすもので、新しいノンフィクション作家の登場を促すとともに、すぐれた作品を広く世に紹介することを目的としております。」(『文藝春秋』昭和44年/1969年11月号「大宅壮一ノンフィクション賞応募規定発表」より)
ただ、両賞がつくられたときと決定的な違いがありました。すでに見習うべき賞のかたちが、身近にあった点です。
文学賞としての成功例。直木賞・芥川賞が、そこにありました。
池島信平さん以下、あるいは彼が死んでしばらくのあいだ、大宅賞を盛り立てて存続させたい、と願って運営にあたった人たち。直木賞・芥川賞をお手本にしようとしたことでしょう。では彼らは、両賞が成功した要因をどこに見出していたのでしょうか。
いろいろあるとは思います。そのうちの一つは、たぶんこれです。笑わないでくださいね。……「公正・公平であること」です。
ははあ。じゃあ、出版社が賞を運営するにあたって、公平とはどういうことか。自社の作品も他社の作品も、分けへだてなく選考の対象にする、ってことです。
そのことが垣間みえる(垣間みせる)チャンスが、始まって数年でやってきます。第6回(昭和50年/1975年度)のことです。
この年、『文藝春秋』は、自他ともに認める話題作を世に問うていました。立花隆さんの「田中角栄研究」です。選考委員たちは、当然この作品についても、大宅賞の対象として関心を抱いていました。しかし、主催者(=文藝春秋)はこれを候補作に残そうとしませんでした。
草柳大蔵さんは証言します。
「当日(引用者注:選考会当日)、昨年の問題作・立花隆氏の「田中角栄研究」も話題になった。その社会に与えた効果は、空前絶後であり、従来のルポルタージュの盲点を衝いた発想は独創的である。立花氏の鋭利な解析力と事実への肉薄力には脱帽するが、この作品は共同制作の形がとられ、立花氏はそのすぐれた構成者(ルビ:コンポーザー)として評価さるべきだとの意見にまとまった。最後に、大宅賞係の「文藝春秋に掲載されたものは原則として候補作としていない」旨の発言があり、委員がこれを諒承したことも代表して附記しておく。」(『文藝春秋』昭和50年/1975年5月号「大宅壮一賞選評」 草柳大蔵「選評雑感」より)
まあ、これはこれで、疑問ののこる取り決めではあります。「じゃあなんで『諸君!』に載ったやつは候補作にするんだ、けっきょく自社の作品に甘いんじゃないのか」とか。本多勝一さんに言わせれば、「『文春』本誌は目立つので体裁のいいことだけ並べておいて、『現地報告』だの『諸君!』だの、隠れ蓑をつくるのがゴロツキ文春のやりかた」なのかもしれません。
ただ、当時の大宅賞は、露骨な文藝春秋宣伝塔であることを避けようとしていた、とは言えると思うんですよね。
また、この考え方は、直木賞・芥川賞にも通じます。そのころ、文春に勤めていた二・三の関係者が、こんな信念を語っているじゃないですか。「両賞は努力してでも、文春以外の候補作をもってくるべきだ」とか何とか。
ええ。いまを生きるワタクシたちには、とうてい信じられないことではありますけども。
直木賞の候補作に、文春の本が2冊も3冊も入っている? 当たり前じゃん、文春の賞なんだから。……芥川賞は、『文學界』優秀作を決める場? そりゃそうだ、文春の賞なんだから。
いまでは大宅賞もその路線を忠実に実行しています。候補作に、少なくとも1作、油断していると2作も3作も、平気で自社の本を入れてきます。
ただ、そこには興味ぶかい歴史があります。かつての大宅賞の候補作のラインナップを見てみてください。10作弱の候補作、その中に文藝春秋の作品が一つもない回があったという。その最後となったのが、第9回(昭和52年/1977年度)です。
いっぽう、直木賞のほうを見てみますと。こちらもまた、文春系の候補作がひとつもないことが、珍しくないときもあったのです。第86回(昭和56年/1981年・下半期)。この回までは。
その後、しばらくは、「公正・公平」の余韻がちょろちょろと残っていました。「自社作品は1作のみ、ときどき複数」、っていう動向が続きます。これが、昭和60年代から平成のはじめごろに、堰を切って逆転します。「自社作品は複数、ときどき1作のみ」と変わったわけです。
ふりかえってみますと、昭和50年/1975年前後から、文春にケンカを売る論調がにぎわいを見せたことがありました。前出の本多勝一さんをはじめ、『文藝春秋の研究―タカ派ジャーナリズムの思想と論理』(昭和52年/1977年6月・晩聲社刊 松浦総三・編)やら、『危うし!?文藝春秋―「文春ジャーナリズム」全批判』(昭和57年/1982年2月・第三文明社刊 斎藤道一・高崎隆治・柳田邦夫・著)やら、『キミはこんな社長のいる文藝春秋社を信じることができるか?』(昭和58年/1983年4月・幸洋出版刊 丸山実・坂口義弘・著)やらが刊行されて。
そこでは、直木賞・芥川賞(ついでに大宅賞)に対する批判もなされました。「ふん。あんなもん、文春が文春のために決めているだけの、愚かなバカ騒ぎ」ってな感じで。
いまもその批判はじゅうぶん有効だと思います。ただ、そのころと、平成以降とでは、「文春のため」のレベルが格段に違うんですよね。恥じらっているふうがありません。開き直った、ともいえます。逆にすがすがしいな、と言い出す文学賞ファンすらいるかもしれません。
すがすがしい、は言いすぎですか。
そう。それでも直木賞や芥川賞は、まだ恵まれていると思います。みんな、ちやほやしてくれますからね。ちやほや、と言うか、注目が集まりますからね。それを反映して、『文藝春秋』『オール讀物』編集部から受ける扱いも、上げ膳据え膳です。大事にされています。
対して大宅賞。この除け者感たるや。惰性で続けているんじゃないかと疑いたくなる、ひっそりとしたたたずまい。人気タレントといっしょのテレビ番組に出た、無名のお笑い芸人かと思わせる、『文藝春秋』誌上での扱いの差。がんばっているのにね。宣伝効果がない、と見放された文学賞、ってのはつらいよね。泣くな。やめるな。文学賞は継続することに意味があるのだから。
これからの40年の大宅賞が、どうなっていくのか。かたずを呑んで見守ってまいりましょう。
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