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2010年8月の5件の記事

2010年8月29日 (日)

小説新潮賞 直木賞で落ちた作品、うちの候補作にいただきます、の姿勢。

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 文学賞の歴史問題です。「主催者は立派なのに、賞はイマイチぱっとしない、の代表格とは?」……こんな設問があったとして、ワタクシだったら迷わず、こう書いちゃいます。「新潮社の賞」。

 以前、新潮社がようやく、作家名を賞の冠につけることになった「山本周五郎賞」のことを取り上げました。今日は、そっから、ぐいと歴史の軸を巻き戻しましょう。

 山周賞以前の、直木賞ライバル賞。昭和37年/1962年~昭和43年/1968年の、小説新潮賞です。

【小説新潮賞受賞作・候補作一覧】

 『小説新潮』って名前のついた賞は、この賞以来、いくつもできました。それら一群の賞は、はっきり申しまして、新潮社のなかでも、また一段と度を越して「冴えない感」をただよわせていたりします。そのことについて、一読者としては、ただ『小説新潮』誌に声援を送るほかありません。

 ここでは、そういう感情をなるべく排して、過去を振り返ってみます。

 『小説新潮』の賞、屈辱の歴史。たどりたどって昭和29年/1954年にまでさかのぼります。戦後10年弱をへたころです。新潮社は、こと文学賞に関しては戦前に苦い記憶をもっていたわけですが、それをバッサリ払拭せんと、いきおいよく四つの新賞をおっ立てました。

 新潮社文学賞、同人雑誌賞、岸田戯曲賞、そして小説新潮賞です。

 ええ。このころの『小説新潮』は元気がありました。「四大」!の一角をになうに当たって、その誌名を冠されても、たしかに不思議じゃない状況だったと思わされます。

「創刊部数二万部でスタートした「小説新潮」の発行部数は、「日本小説」や「苦楽」や「文藝讀物」が消えたあとの昭和二十五年頃には十万部を越えるようになり、その後も急速な伸長を見せるに至った。昭和二十年代半ば以後の雑誌ジャーナリズムは、「文藝春秋」と「小説新潮」の二誌が大人雑誌の分野を制覇したといってよかった。「文藝春秋」は二十九年一月号で七十三万八千部、「小説新潮」は創刊百号記念を出した二十九年十月号には三十九万部に達した。」(平成10年/1998年12月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇栄華物語』「第十二章」より)

 小説新潮賞は、50枚以内の創作を募集する、いわゆる公募型の賞としてスタートしました。

 第1回の選評(『小説新潮』昭和30年/1955年2月号)で、審査員の丹羽文雄さんは、「これは中間小説のための賞じゃないんだ。きみたち、中間小説を書こうと思って応募してくるな」みたいなことを書きましたが、けっきょく、この雑誌の下で行われる賞ですからね。みーんな、中間小説の賞だと認識していたらしいです。

 そして、それがのちに自分の首を絞めることになるわけですが。ええと。そのハナシに行く前に。

 小説新潮の賞が抱えるどんよりした歴史。それは、はっきり言っちゃうと、「受賞しても、のちに活躍する人が少ない」ってイメージが沁み込んでしまったことです。

 たとえば、第4回の舟橋聖一さんの選評。

「そもそも、この賞の受賞者たちが、その後振わないのが、ぼくには不満である。ずい分達者な人もいるので、二作三作と連続ヒットするかと期待するが、毎年、裏切られてしまう。普通は受賞をモメントにして、自信がつき、ぐんと作品があがる筈であるのに、この賞の受賞作家たちは、えてして下向線を辿るという。」(『小説新潮』昭和33年/1958年2月号より)

 ひきつづき翌第5回の舟橋さん。しつこく、この点を気にしています。

「この賞は、もっと反響があってもいいのだが、受賞作家が一向のびないという非難もあるようだ。席上そんな話も時々出る。(引用者中略)現実に応募される作品は、どうも生ぬるくて、物足りない。それでつい、やめたらどうか、が時々出る。」(『小説新潮』昭和34年/1959年2月号より)

 新潮社は、「育て上手だけど、見つけ下手」と巷間言われているらしくて、たまたまなのか、社風からくるものなのか、まったくわかりませんけど、残念なことに、小説新潮賞は、長く商業誌で活躍しつづける人を生むことができませんでした。

 もちろん、だからダメ、ってことじゃありません。受賞者や、あるいは最終候補に残った方々のなかには、その後、書き続けている方もいます。ただ、一般的に「冴えない賞」と見られる結果になってしまった、新潮社もそう自覚してしまった、っていうのは事実です。

「「小説新潮賞」は新人の中間小説を募集するために設けられたもので、石川達三石坂洋次郎、舟橋聖一、丹羽文雄、尾崎士郎、井上友一郎、広津和郎、獅子文六の諸氏を審査員とし、記念品並びに副賞十万円をおくる文学賞であったが、思わしい結果を見なかったために、第八回から性格を変えて、(引用者後略)(平成17年/2005年11月・新潮社刊『新潮社一〇〇年』 河盛好蔵「新潮社七十年」より)

 新潮社の社史で、「思わしい結果を見なかった」と言われちゃっているんですものねえ。

 それが現実だ。現実なんでしょうけど、当の本人にしてみれば、そう言われたらムッとすることでしょう。ねえ、上坂高生さん。

「女性編集者から、手紙が届いた。

『雑誌の競争が激しくなり、これまでのように、純文学の方の地味な作品は戴けなくなりました』

 競争って何だろう、と私は新たな疑問にぶつかる。駅前の書店に寄ってみた。いままで素通りしていた売場に行く。「小説新潮」と並んで置かれている「オール読物」というのを手に取ってみる。雑誌の厚さ、体裁が、実によく似ている。文芸春秋社発行である。この雑誌は、チャンバラやポルノなど、極めて低級なものと思っていたのが、雰囲気が変わってきている。直木賞の作家を多用し、質をあげてきている。さらに講談社発行の「小説現代」というのを拡げてみる。これまた、そっくりではないか。(引用者中略)

 それにしても、今まで中間小説雑誌といわれるものが、よくも「小説新潮」一誌で来たものだ、と思う。他社がようやくその独占市場に切り込んできた。「小説新潮」は、程度を下げて他社と競い合おうとしている。」(平成16年/2004年9月・武蔵野書房刊 上坂高生・著『賞の通知』所収「清書」より)

 はい。前にもご紹介しました第1回小説新潮賞受賞の、上坂さんの私小説から引用しました。受賞後、何度か同誌から注文を受けていたものの、5~6年後に急に、もう原稿は依頼しませんので、と言われてしまったの図。

 「中間小説」なる、概念のはっきりしない、なんとなくの用語に振りまわされた、あるいはイヤな気持ちにさせられたんだな。上坂さんのような小説新潮賞作家は、ある意味、犠牲者だったのかもしれないな。と思わせられる述懐です。

 そして、第8回(昭和37年/1962年)に小説新潮賞は大きく姿を変えます。しかし、変えたことによって、この「中間小説」って用語と、作家たちの闘いがいっそう加速していってしまったのですから、ははあ、どうにも皮肉なものです。

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2010年8月22日 (日)

「噂」小説賞 作家が作家を選考するような賞は、まったく信用できない。

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 そりゃあ、これだけ暑いとバテますわよ、直木賞オタクだって。

 と元気の出ない我らに。ごちそう中のごちそう、ひと口入れただけで極楽、ざっと眺めているだけでもおなかいっぱい、大満足必至の雑誌があります。

 『月刊 噂』です。

 とくに、そう、直木賞の情報に飢えている向き(つまりワタクシ)には、こういう「ごちそう」の存在は、そうとうに得難く、貴重なわけですよ。

 昭和46年/1971年7月~昭和49年/1974年3月、わずか2年半の短命雑誌ながら、ともかく半年に一回行われる直木賞について、毎回毎回、飽きず取り上げてくれている、ってんですから。しかも、ゴシップ性てんこもりで。

 ……というハナシは置いておきまして、文学賞がテーマでしたね。それでは、『噂』誌がつくった賞、「噂」小説賞に注目しましょう。

【「噂」小説賞受賞作家・候補作家一覧】

 この賞、創設のことばは、昭和47年/1972年12月号の『噂』誌に載りました。これを読めば、どんな賞なのかピタッとわかってしまう、ツボを押さえた名宣言文です。

次号新年号で発表!

「噂」小説賞・さしえ賞

現場の編集者が選ぶ画期的な賞

▼賞金各十万円

小説雑誌(文芸誌を除く)の昭和四十七年新年号より十二月号までに、作品を発表した作家、画家を受賞の対象にし、その期間中に、すぐれた作品を発表した方を、小説雑誌編集者のアンケート、さらに、その結果を有志編集者の選考座談会で検討し、各一名の受賞者を決定します。すでに功成り名遂げた大家は除外し、小説界に、よりいっそうの活気をもたらす可能性を期待できる作家、画家を顕彰するつもりです。どうぞご期待ください。

「噂」編集部」(『噂』昭和47年/1972年12月号より)

 ここで言うツボとは、次の3点。「現場の編集者が選ぶ」、「文芸誌を除く」、「すでに功成り名遂げた大家は除外」ってところです。

 で、ここから先、「噂」小説賞のことを書いていくわけですが、正直申して、ワタクシがいちいち書くまでもないことばかりです。ねえ。『梶山季之と月刊「噂」』(平成19年/2007年5月・松籟社刊 梶山季之資料室・編)という、『噂』誌に関するあれやこれやが全部つまった、ただならぬ本が、すでにこの世に存在しちゃっているんですもの。

 なので今日は、この本に頼り切り、で進めます。

 そもそも『噂』誌とは、どんな雑誌だったのか。……といえば、主役は小説誌の編集者たち、彼らにスポットライトを当てよう、編集者たちの声を聞きだそう、っていう構えの雑誌でした。

 その雑誌が決める賞なのですから、当然、編集者たちが(編集者たちだけで)決める。そういうことです。

「編集者が選ぶ「噂」賞は梶山(引用者注:『噂』誌のオーナー、梶山季之さんの発案による。挿絵賞を設けたことに「噂」の特徴が出ていると思う。出版社のお偉方でなく、現場第一線の編集者が選ぶ賞ということに、新鮮味と意義があったと多少の自負をもっている。「おれも噂賞もらいたいよ」という作家もいた。」(『梶山季之と月刊「噂」』「第I部 「噂」と梶山季之 企画別・内容一覧 解説8」(談・高橋呉郎、文責編集部)より)

 梶山さんのことですからね。中間小説誌の世界は隆盛を極めつづけて右肩上がり、それなのに「直木賞」なんていう小さな器ひとつだけでは、力ある作家は、ポロポロとこぼれ落ちる一方じゃないか。ぐらいのことは、当然思っていたのかもしれません。

 つうか、梶山さん自身が、直木賞の狭い枠から落とされた一人だったわけですし。

「『李朝残影』は、直木賞の候補となりました。この時(引用者注:第49回 昭和38年/1963年・上半期)の有力候補者は瀬戸内晴美《寂聴、作家・僧侶一九二二~》さんで、対抗が私と云うところでした。/ところが、フタをあけてみると、佐藤得二氏の『女のいくさ』が受賞となり、とんだ大アナが出ました。なんでも佐藤氏は、銓衡委員のK氏の同級生で、そのための同情票が集まったのだそうです。/しかし、佐藤氏は、その後、一作も書かずに死亡され、私は受賞決定の夜、銀座の酒場で銓衡委員の某氏から、/「キミだの、瀬戸内だのに、今更、直木賞をやるこたァねえやな……」/と云われました。/(引用者中略)私が「噂」の小説賞、挿絵賞を創設したのは、偏見にとらわれない、編集者が決定する賞があって然るべきだ……と考えたからであります。/既成作家が受賞者を撰ぶときには、自分の競争相手となりそうな若手を、どうしても蹴落そうとします。云う云わないとに拘らず、そうした心理が働いている。それを断ち切らねば、真の銓衡とは云えません。」(『梶山季之と月刊「噂」』「第I部 「噂」と梶山季之 創刊 その意図したもの」橋本健午 より ―引用文の典拠元は集英社刊『梶山季之自選作品集8 わが鎮魂歌/李朝残影 他』「著者あとがき」で、「/」は改行、《 》内は橋本氏による注記)

 んもう。この言い方がまんまゴシップ型すぎますよ! よけい梶山さんが好きになってしまいます。

 いや、もちろんイケないのは直木賞のほうです。「今後も職業作家として書いていかれる人に」とか言う人がいれば、「この一作だけで授賞する価値あり。これから先、書いていかれる必要はない」みたいな選考もよしとする、あいまいさ。そりゃあ、文学賞といえば一つの決まった対象、決まった基準で与えるものだ、と真っ当に信じている梶山さんなどは、面食らってしまうでしょう。

 梶山さんだけじゃありません。立原正秋さんや笹沢左保さん、青山光二さんなど、当時の職業作家が、素人作家に受賞をさらわれたときの怒りの反応が、どうにも似通っているのがまた興味深い。中間小説界がガーッと賑わい始めた頃の、職業作家のプライド、それに付いていけていなかった直木賞、っていう姿が浮き上がってきます。昭和30年代後半~昭和40年代前半の頃のおハナシです。

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2010年8月15日 (日)

吉川英治賞 公募型で始まったはずが、いつの間にやら姿を変える。

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 あえて直木賞と結びつけなくても、これはこれで、文学賞を考えるときに大きなテーマを与えてくれる賞ではあります。

 吉川英治賞。いまでは完全に講談社の支配下に入り、「吉川英治文学賞」「吉川英治文学新人賞」「吉川英治文化賞」の三賞を構えるまでになりました。歴史的にこの賞のたどったユニークさは、忘れがたいものがあるわけです。

【吉川英治賞受賞作・候補作一覧】

 創設は昭和37年/1962年2月。まだ吉川英治さんが存命中のことでした。いちおう、吉川さんがお金を提供して、その意思を毎日新聞社がかたちにした、ってことになっています。

「賞金は後進のために」

吉川英治氏が本社に寄託

三氏に「毎日芸術賞」贈呈式

(引用者中略・注:毎日芸術賞贈呈式の)席上、吉川文子夫人から夫君、英治氏の意思として「ことしは毎日新聞の九十周年に当たるので、それを記念して、いただいた賞金百万円は毎日新聞社に寄託します。文学を志す人のために、毎日新聞社で適当に使っていただけたら幸せです」と申し出があった。毎日新聞社では吉川氏の申し出を受け、賞金の有意義な使い道について成案ができ次第発表する予定である。」(『毎日新聞』昭和37年/1962年1月19日社会面より)

 じつは、ここら辺が、ちょっとよくわかりません。というのも、吉川英治記念館の学芸員さんのブログによれば、

「昭和37年1月、毎日新聞社から吉川英治の「私本太平記」に対し、毎日芸術大賞が贈られます。

その際、毎日新聞社から、その賞金100万円を基金として、新人作家育成のための≪吉川英治賞≫を創設したい、との申し入れがあり、吉川英治はそれを了承します。」(「草思堂から 吉川英治記念館学芸員日誌」平成21年/2009年3月18日より)

 とあります。どうなんでしょう。お金のことを言い出したのは、果たして吉川さんなのか毎日新聞社なのか。

 毎日芸術大賞の贈り主、毎日新聞社の側から、先に相談を投げかけた可能性も、なくはなさそうに見えます。

 ええ。吉川さんのそれまでの行動を追ってみますとね。彼なら、みずからの意思で、口火を切るかたちで、賞金を毎日側に寄託する、と言い出した。それは十分うなずけます。うなずけるんですが、でも逆に、毎日側から「今年、九十周年なんで……」と言い出されれば、喜んで、賞金を受け取らずにそのまま毎日側にまかせた。っていう経緯だって、ありそうなんですよね。

 まあ、要するに吉川英治さんという方は、困っている人には応分以上の手を差し伸べる、人間の鑑だった。そんなエピソードがもう、数え切れないほどあるわけです。戦前から吉川さんが亡くなるまで、彼に足を向けては寝られない人が続出と言っていいくらいに。

 ほんの一例だけあげておきます。たとえば、文藝春秋社の『文學界』の人たちとか。

「「文学界」は最初の出版社文化公論社を破産させたが、野々上愛一君の文圃堂が引受けてくれて、とにかく続刊できた。経営の苦しそうなのを見て菊池寛氏が小林(引用者注:小林秀雄)と私を呼び「原稿料はどうしているのだ」「もちろん出ません」「それでは長続きしないよ。僕が毎月百円ずつ上げよう。原稿料代りに使うがよい」

 この金は「文学界賞」の名で毎月執筆者の誰かに与えられることになって大いに助かったが、二年ほどつづいた時、青野季吉を同人に入れたことで、菊池さんがつむじを曲げてしまった。島木や村山など若い左翼作家を入れても何も言わなかったが、青野はいわば「文芸戦線」の大幹部の一人で、「文芸春秋」の宿敵である。

「青野まで入れたのでは、僕はいやだ。文学界賞は出さぬよ」

(引用者中略)

「弱ったな。あと一年くらい援助がほしい……。よし、吉川さんに頼んでみよう」

 言い出したのは小林秀雄であった。

(引用者中略)

「吉川さんなら見込みがある」と小林に言われると、そんな気もし“当ってくだけろ”という気にもなって、ある日、二人で赤坂の吉川邸を訪問した。

 大きな邸宅で、美しい奥さんがいた。吉川さんはあの影のない笑顔で気負い立った私たちを迎え金のことは理由も聞かずに承諾し、その上、近所の料亭から上等の料理をとって、大いに御馳走してくれた。」(平成4年/1992年9月・講談社刊『吉川英治とわたし 復刻版吉川英治全集月報』所収 林房雄「吉川さんと「文学界」」より ―初出昭和44年/1969年7月・講談社刊『吉川英治全集第11巻 月報42』)

 おや。文學界賞といえば、あれって岡本かの子さんが資金源じゃなかったの? とツッコみを入れたくなるわけですが、でも林房雄さんの証言を信じれば、吉川さんからも資金提供を受けていた、と。

 しかも、お金を貸す(あるいは提供する)に当たっても、吉川さんという人は、偉ぶらず、相手を気遣いつつ、励ましの心をもって接した。とは、ほかにもいろんな人が語っているところ。

 吉川英治賞の出発点にも、そんな吉川さんらしさが十分こもっています。

 「文学を志す後進のために役立ててほしい」。……そんな吉川さんの思いを受けて、さて毎日新聞社が立てた企画とは。

 一般から原稿を募集することにした。公募型の賞にした、っていうのが注目どころです。

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2010年8月 8日 (日)

角川小説賞・日本ノンフィクション賞・野性時代新人文学賞(角川三賞) 文学賞は売上に結びつかなければ無価値である。

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 そうそう。角川小説賞が「直木賞のライバル」っていうのは、わかるよ。エンターテインメント小説のための賞だから。でも、日本ノンフィクション賞とか、野性時代新人文学賞まで、ライバルって、そりゃおかしいぞ。

 ……と、反射的に思ってしまった方のために、今日のブログを書きます。

 ワタクシも、そう思っていました。直木賞とは大衆文芸=エンタメ小説を対象にした文学賞だ、と信じ込まされていたころは。でも、いつからか、直木賞って全然そんな賞じゃないじゃん、と思うようになり、今でははっきりと言い切ることができます。

 角川三賞…角川小説賞・日本ノンフィクション賞・野性時代新人文学賞は、いずれも立派な、直木賞のライバルですよと。

【角川小説賞受賞作一覧】

【日本ノンフィクション賞受賞作・候補作一覧】

【野性時代新人文学賞受賞作・候補作一覧】

 この三賞が生まれたのは、昭和49年/1974年。角川春樹さんの株が急上昇中(?)していたあのころ、総合文芸誌『野性時代』の創刊に合わせて、でした。

 それから13年後。当時の角川書店にしては、けっこう長く引っ張ったな、と見るべきか。たったそれっぽちで見切りをつけちゃったのか、と見るべきか。すっぱり中止・廃賞してしまいます。

 たいてい文学賞というと、まず建前があります。それは「新しい才能の発掘」であったり、「良質で、でも埋もれた作品に、光を当てること」であったりするもんです。角川三賞の場合も、たぶんそれぞれ、そういうお題目がありました。でも、本音はもちろん、「受賞作、って広告フレーズが付けば、売上げ増が見込まれますでしょ」ってことです。

 その点、角川書店は正直です。もし賞が盛り上がらず、売上に貢献しないとわかったら、さっさとやめます。当然のことです。

角川三賞を廃止 日本ノンフィクション賞、角川小説賞、野性時代新人文学賞の、いわゆる角川三賞は、十三回の今年で廃止と決まった。廃止の理由について角川書店側は「授賞しても本が売れるなどのメリットがなくマンネリ化したためで、将来、状況が変わったら新しい賞を考える」といっている(27日読売夕刊)」(昭和62年/1987年6月・新潮社刊『文藝年鑑 昭和六十二年版』「日誌1986年 一〇月」より)

 てらいナシ。廃賞するにあたって「一定の役割を終えた」だとか、そんな腹の足しにもならない綺麗ゴトはいっさい述べません。角川書店、いいなあ、正直で。

 で、三賞のうち、最も露骨に「授賞=本を売る」の考えを体現化していたのが、角川小説賞である。とは、誰もがうなずいてくれることでしょう。

 一般から応募原稿をつのるわけでもなく、ただただ、『野性時代』に載った作品や、角川から出版された作品のなかから、優秀作を決めるという。「他社の本を、何で角川のカネで表彰しなきゃいけないの?」と言わんばかりでして。これを、いさぎよいと言わずして何と言う。

 残念なことに、この賞は候補作を公表していないので、文学賞の楽しみは半減させられています。でも、受賞者の顔ぶれと、それを選んだ選考委員の方々のメンツ、それを見るだけでも、けっこう面白いですよね。ほら。他の文学賞(ええ、直木賞のことです)で煮え湯を飲まされてきたエンタメ作家に、じゃんじゃか賞を上げちゃって。

 選考委員の一人として、きちんと「角川書店編集部」と明記してあるのも、角川らしさが表れています。だってここまでハッキリ書かれては、版元の人が「司会」とか名乗って、あたかも選考に参加していないふうを装いながら、なにげに議論を誘導したり、版元の意向をちらつかせたりしてるんじゃないの? みたいな邪推も、する余地がありません。

 ああ。赤江瀑さん。河野典生さん。山田正紀さん。谷克二さん。その他、角川小説賞作家たちは、直木賞の場では散々な扱いを受けていたもんなあ。で、角川賞の選考委員の方々は――とくに直木賞委員を務めていないような方は――、そういう作家たちに優しく寛大です。涙が出ます。

「彼(引用者注:山田正紀)に対し「劇画的」という批評の出ることは、当然、予想される。私は劇画の愛好者ではないが、いまや劇画は娯楽媒体として無視できぬ存在である。かつて探偵小説は軽視されていたが、現在、ミステリーの手法へ抵抗感を持つ人はいなくなった。世の中とは、そういうものである。劇画的と押さえつけたら、いきのいい若い作家は出てこない。」(『野性時代』昭和53年/1978年1月号 星新一「虚構の世界を築き上げる才能」より)

 ついでに、厳しい意見を吐いた御大の選評も、ひとつだけご紹介しときましょう。

(引用者注:泡坂妻夫『喜劇悲奇劇』について)この、あまりにも古めかしい感覚に、私は、どうしてもついて行けなかった。

 もう三十年も四十年も前に、何度も読んだ〔謎解き小説〕を読まされたおもいがした。」(『野性時代』昭和58年/1983年1月号 池波正太郎「古めかしさ……」より)

 池波さんも新人・中堅の推理小説は、あんまり認めようとしなかったっぽいよなあ。……と言いますか、よくぞ角川も、池波さんに角川小説賞の選考委員を引き受けさせたなあ。

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2010年8月 1日 (日)

新青年賞 読者の意見を参考に。でも全面的に読者にのっかるわけには、いかないよなあ。

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 文学賞。それは平和のあかし。

 っていう名言を吐いたのは誰でしたか。ちょっと思い出せませんが、直木賞のライバルたる賞は、戦前にも数々ありました。それらがたいてい短命に終わったのは、あのニックキ戦争のせいだ、軍部のせいだ、あーんぼくらの大好きな文学賞を返せ! というのは確かに、一つの見方です。

 いやいや坊や。戦争中のほうが文学賞は活発につくられたのじゃよ。文学賞が平和と結びつく、だなんてウソなんじゃ幻想なんじゃ。……はい、そっちのほうが正解かもしれません。

 で、昭和14年/1939年1月。日本軍が中国大陸に展開していた真っ只中のころに、ポロッと生まれた大衆文学向けの賞。新青年賞です。

【新青年賞受賞作・候補作一覧】

 あのさあ、これを文学賞の仲間に組み込むのは、ちょっとどうかと思うよ、とこっそり忠告してくれる方もいそうです。

 でもまあ、ここは直木賞が主役のブログですから。直木賞と新青年賞、この近距離を無視するわけにいかないじゃないですか。

 新青年賞は、次に掲げる設定宣言を見てもわかるとおり、『新青年』という雑誌の、雑誌による、雑誌のための狭ーい賞でした。みずから「文学賞」と呼ばれることを放棄すらしています。

新青年賞設定

賞金参百円贈呈(六ヶ月毎、年二回)

 創刊二十周年を迎えて「新青年」はこの新年号より一大飛躍を試みました。その手始めとして「新青年賞」を設定しました。これは諸種の文学賞とは異り厳密な意味では「賞」ではなくして、「新青年」としての作家に対する「薄謝」の意味にしか過ぎません。即ち半歳間の本誌上に於て最も読者の喝采を博し、読物界の要望にも応え、新青年編輯部としても、最も嬉しかった作品(小説、読物)に対して有名、無名、作品の長短を問わず、編輯部として裁断の上その作家に贈呈し謝意を表する次第です。」(『新青年』昭和14年/1939年1月号)

 要は、『新青年』によく書いてくれていて、読者に愛されている作家に、ふだんの原稿料プラス、ボーナス300円プレゼント、ってことです。直木賞の賞金が500円の時代です。

 この賞には、ちょっとした独自性を発揮しているところがあります。それは、この賞の基本は、毎月読者から寄せられる人気投票結果。でありながら、単純にいちばん票を集めた作品が受賞するわけでなく、編集部の「裁断」を経るという、なんだか半透明な感じがあるところです。

 半透明さ。これこそ、『新青年』誌が従来もっていた読者主義と、徐々に侵食してきた戦時下体制との、両面性が生み出したもの。……と言い出すのは早急すぎますよね。ただ、新青年賞ができた当時の『新青年』は、もはや、いまのミステリーファンがうっとりと潤んだ目を向けるあの『新青年』とは別モノになってしまっていたことは、疑えないようです。

(引用者注:昭和)十三年一月号で、水谷準は編集長の席を降りている。

 博文館社長は、逸早く戦争協力の線を打ち出した。大正、昭和を通じて衰退を重ねてきた出版社としては、紙の配給を確保し、検閲を少しでも緩めてもらい、何よりも刊行を続行しつづけることが至上命令であった。(引用者中略)社主は強力に戦争協力を打ち出しはしたが、編集部には面従背反の空気があったようだ。

 これが、戦時期の『新青年』に奇妙な陰影を生むことになった。」(昭和63年/1988年2月・作品社刊『『新青年』読本全一巻―昭和グラフィティ』所収 鈴木貞美「日中戦争の開始と「愛国的非戦論」」より)

 こういう雰囲気を、現場にいた編集者も語っています。これを聞くと、もう新青年賞とは、ほとんど「陸軍省情報部のもの」と言い換えてもいいんじゃないか、と受け取りたくなる口吻です。

「――昭和十六年、いよいよ戦争に入って、『新青年』もすっかり様変わりしましたね。

高森 往年の水谷準さんがやはり編集長ですが、あえて断言させていただきますと、昭和十三年に陸軍省新聞班が陸軍省情報部と改称して以後の『新青年』は、水谷準さんや乾信一郎さんの編集ではありませんよ。明らかに陸軍省情報部の編集ですよ。水谷さんは毎日、編集机の上に両足を靴のまま投げ出して、煙草ばかりふかしていらっしゃいました。」(平成5年/1993年6月・博文館新社刊 湯浅篤志・大山敏編『叢書『新青年』聞書抄』所収「高森栄次さんに聞く 博文館の時代」より)

 やーね、陸軍省って、けがらわしい。

 ただ、ですよ。『新青年』っていう媒体のなかで見るならば、「水谷イズム縮小」なる、同誌史の一大事のときに、なぜか企画されたこの新青年賞。わずか2年ももたずに、消えてなくなっちゃったこの賞を、転換期を象徴するものとして大いに注目したいところではあるわけです。

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