小説新潮賞 直木賞で落ちた作品、うちの候補作にいただきます、の姿勢。
文学賞の歴史問題です。「主催者は立派なのに、賞はイマイチぱっとしない、の代表格とは?」……こんな設問があったとして、ワタクシだったら迷わず、こう書いちゃいます。「新潮社の賞」。
以前、新潮社がようやく、作家名を賞の冠につけることになった「山本周五郎賞」のことを取り上げました。今日は、そっから、ぐいと歴史の軸を巻き戻しましょう。
山周賞以前の、直木賞ライバル賞。昭和37年/1962年~昭和43年/1968年の、小説新潮賞です。
『小説新潮』って名前のついた賞は、この賞以来、いくつもできました。それら一群の賞は、はっきり申しまして、新潮社のなかでも、また一段と度を越して「冴えない感」をただよわせていたりします。そのことについて、一読者としては、ただ『小説新潮』誌に声援を送るほかありません。
ここでは、そういう感情をなるべく排して、過去を振り返ってみます。
『小説新潮』の賞、屈辱の歴史。たどりたどって昭和29年/1954年にまでさかのぼります。戦後10年弱をへたころです。新潮社は、こと文学賞に関しては戦前に苦い記憶をもっていたわけですが、それをバッサリ払拭せんと、いきおいよく四つの新賞をおっ立てました。
新潮社文学賞、同人雑誌賞、岸田戯曲賞、そして小説新潮賞です。
ええ。このころの『小説新潮』は元気がありました。「四大」!の一角をになうに当たって、その誌名を冠されても、たしかに不思議じゃない状況だったと思わされます。
「創刊部数二万部でスタートした「小説新潮」の発行部数は、「日本小説」や「苦楽」や「文藝讀物」が消えたあとの昭和二十五年頃には十万部を越えるようになり、その後も急速な伸長を見せるに至った。昭和二十年代半ば以後の雑誌ジャーナリズムは、「文藝春秋」と「小説新潮」の二誌が大人雑誌の分野を制覇したといってよかった。「文藝春秋」は二十九年一月号で七十三万八千部、「小説新潮」は創刊百号記念を出した二十九年十月号には三十九万部に達した。」(平成10年/1998年12月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇栄華物語』「第十二章」より)
小説新潮賞は、50枚以内の創作を募集する、いわゆる公募型の賞としてスタートしました。
第1回の選評(『小説新潮』昭和30年/1955年2月号)で、審査員の丹羽文雄さんは、「これは中間小説のための賞じゃないんだ。きみたち、中間小説を書こうと思って応募してくるな」みたいなことを書きましたが、けっきょく、この雑誌の下で行われる賞ですからね。みーんな、中間小説の賞だと認識していたらしいです。
そして、それがのちに自分の首を絞めることになるわけですが。ええと。そのハナシに行く前に。
小説新潮の賞が抱えるどんよりした歴史。それは、はっきり言っちゃうと、「受賞しても、のちに活躍する人が少ない」ってイメージが沁み込んでしまったことです。
たとえば、第4回の舟橋聖一さんの選評。
「そもそも、この賞の受賞者たちが、その後振わないのが、ぼくには不満である。ずい分達者な人もいるので、二作三作と連続ヒットするかと期待するが、毎年、裏切られてしまう。普通は受賞をモメントにして、自信がつき、ぐんと作品があがる筈であるのに、この賞の受賞作家たちは、えてして下向線を辿るという。」(『小説新潮』昭和33年/1958年2月号より)
ひきつづき翌第5回の舟橋さん。しつこく、この点を気にしています。
「この賞は、もっと反響があってもいいのだが、受賞作家が一向のびないという非難もあるようだ。席上そんな話も時々出る。(引用者中略)現実に応募される作品は、どうも生ぬるくて、物足りない。それでつい、やめたらどうか、が時々出る。」(『小説新潮』昭和34年/1959年2月号より)
新潮社は、「育て上手だけど、見つけ下手」と巷間言われているらしくて、たまたまなのか、社風からくるものなのか、まったくわかりませんけど、残念なことに、小説新潮賞は、長く商業誌で活躍しつづける人を生むことができませんでした。
もちろん、だからダメ、ってことじゃありません。受賞者や、あるいは最終候補に残った方々のなかには、その後、書き続けている方もいます。ただ、一般的に「冴えない賞」と見られる結果になってしまった、新潮社もそう自覚してしまった、っていうのは事実です。
「「小説新潮賞」は新人の中間小説を募集するために設けられたもので、石川達三、石坂洋次郎、舟橋聖一、丹羽文雄、尾崎士郎、井上友一郎、広津和郎、獅子文六の諸氏を審査員とし、記念品並びに副賞十万円をおくる文学賞であったが、思わしい結果を見なかったために、第八回から性格を変えて、(引用者後略)」(平成17年/2005年11月・新潮社刊『新潮社一〇〇年』 河盛好蔵「新潮社七十年」より)
新潮社の社史で、「思わしい結果を見なかった」と言われちゃっているんですものねえ。
それが現実だ。現実なんでしょうけど、当の本人にしてみれば、そう言われたらムッとすることでしょう。ねえ、上坂高生さん。
「女性編集者から、手紙が届いた。
『雑誌の競争が激しくなり、これまでのように、純文学の方の地味な作品は戴けなくなりました』
競争って何だろう、と私は新たな疑問にぶつかる。駅前の書店に寄ってみた。いままで素通りしていた売場に行く。「小説新潮」と並んで置かれている「オール読物」というのを手に取ってみる。雑誌の厚さ、体裁が、実によく似ている。文芸春秋社発行である。この雑誌は、チャンバラやポルノなど、極めて低級なものと思っていたのが、雰囲気が変わってきている。直木賞の作家を多用し、質をあげてきている。さらに講談社発行の「小説現代」というのを拡げてみる。これまた、そっくりではないか。(引用者中略)
それにしても、今まで中間小説雑誌といわれるものが、よくも「小説新潮」一誌で来たものだ、と思う。他社がようやくその独占市場に切り込んできた。「小説新潮」は、程度を下げて他社と競い合おうとしている。」(平成16年/2004年9月・武蔵野書房刊 上坂高生・著『賞の通知』所収「清書」より)
はい。前にもご紹介しました第1回小説新潮賞受賞の、上坂さんの私小説から引用しました。受賞後、何度か同誌から注文を受けていたものの、5~6年後に急に、もう原稿は依頼しませんので、と言われてしまったの図。
「中間小説」なる、概念のはっきりしない、なんとなくの用語に振りまわされた、あるいはイヤな気持ちにさせられたんだな。上坂さんのような小説新潮賞作家は、ある意味、犠牲者だったのかもしれないな。と思わせられる述懐です。
そして、第8回(昭和37年/1962年)に小説新潮賞は大きく姿を変えます。しかし、変えたことによって、この「中間小説」って用語と、作家たちの闘いがいっそう加速していってしまったのですから、ははあ、どうにも皮肉なものです。
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