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2010年7月18日 (日)

池谷信三郎賞 鳴り物入りで始まった「第三の文春賞」。ごくふつうの文学賞でした。

100718

 まず、しょっぱなから訂正をしなければなりません。

 今日のエントリーのタイトルに「第三の文春賞」と掲げました。これ、まちがいです。すみません。

 池谷信三郎賞は、直木賞・芥川賞から遅れること1年半、昭和11年/1936年11月に規定が発表され、昭和12年/1937年2月に第1回授賞が行われた文学賞です。

【池谷信三郎賞受賞作・候補作一覧】

 主催は、『文學界』編集同人。

 『文學界』というのは、まあ乱暴にくくっちゃえば、いまも刊行されているあの『文學界』誌のことです。発行は、ごぞんじ文藝春秋社。しかも池谷賞の賞金は、文春社主の菊池寛さんがぽーんと出していたらしい。となれば、これは芥川賞・直木賞の成功に味を占めた文春が、第三の新人賞をつくったわけだな。……ていう見方も、間違いじゃないのかもしれません。

 ただ、ですよ。よくよく見てみると、これを「第三の文春賞」と名づけるには、かなり無理があります。

 なんつったって、『文學界』って雑誌が、困惑するほど、とらえどころのない存在です。とらえどころのない、というか、キミどこまで「文春」なの? って問題が昭和10年/1935年代前半にはあります。

「日本近代文学館発行の『「文学界」復刻版 別冊』に掲載されている小田切進の『解説』をみると、次のようにある。

〈「文学界」が菊池寛の文芸春秋社発行に切りかえられたのは昭和十一年七月からである。(引用者中略)七月号(=文藝春秋社に移った最初の号)に、林(引用者注:文學界同人だった林房雄)は「一層の飛躍をしたく、そのためには、同人が後顧の憂ひなく活動できる確固とした支持者が欲しいと思つてゐた時に、たまたま菊池寛氏の理解ある後援が約束された」(「同人雑記」)と書いて、それまで犠牲を惜しまなかった野々上(=文圃堂主)の諒解を得て、経営いっさいを文芸春秋社にゆだねるにいたった経過を簡単に説明している。〉」(昭和61年/1986年7月・文藝春秋刊 野口冨士男・著『感触的昭和文壇史』「昭和十年代の様相」より)

 経営は文藝春秋社にゆだねました。だけど、編集は従前どおり、小林秀雄ら同人たちが受け持ちつづけました。その二面性が、池谷賞に特異な性質を与えることになります。

 特異な性質。……いや、文学賞としてかなりまっとうなかたちを保った、と言ったほうが当たっているかも。

 だって。池谷賞は創設当時、芥川賞を補完する、あるいは芥川賞に対抗する新人賞として、主催者の一部からすげえ期待されていたのに、戦争が激化したら、モヤモヤっと消えちゃったんですよ。しかも、戦後、文藝春秋社や『文學界』が復活したとき、芥川賞のほうは立派に蘇らせてもらった、というのに、池谷賞のことは完全に無視されちゃったんですよ。

 そしてもはや、好事家以外だあれも、池谷賞のことも、池谷信三郎のことも忘れてしまった、っていう展開。

 作家や文学賞は、栄枯盛衰が当たり前。忘れ去られるほうが、ふつうのことだ。……はい。ワタクシもそう思います。じゃあ、なぜ直木賞や芥川賞は、いまもって生きているんでしょう。

 菊池寛さんの先見性ゆえ? いやいや、そんなことはないですって。だって、菊池さんが昭和10年/1935年以前も含めて、生涯で、その創設に関わったと思われる文学賞は、10個ぐらいあるんじゃないでしょうか。そのほとんどが数年で終了し、歴史の波にさらわれて、どっか行っちゃったじゃないですか。

 ええ。菊池寛さんはスーパーマンじゃありません。いくらでも失敗します。人間だもの。そんな彼の限界を如実に示しているのが、この池谷賞だと思うわけです。

          ○

 池谷賞の成立過程から、時代的な意味などを、たいへんわかりやすく解析してくれている、ありがたい論文があります。紹介させてください。

 『近代文学合同研究会論集1号 新人賞・可視化される〈作家権〉』(平成16年10月・近代文学合同研究会刊)所収の、西川貴子「呼び寄せられた作家「池谷信三郎」――池谷信三郎賞設立にみる昭和十年前後の「文学」状況――」です。

「「池谷信三郎」が賞の名として最初に想起されたのは、実は芥川賞の選考過程においてであった。昭和十年下半期の芥川賞授賞作として「根本的に、『芥川賞は短編小説に!』と言ふやうな心持を感ずる」(久米正雄「芥川龍之介賞経緯」『文芸春秋』昭和十一・四)という理由で、戯曲「瀬戸内海の子供たち」(引用者注:原文ママ)小山祐士)が落選した時に、「一日も早く、戯曲、芝居の方の賞金、――即ち大谷賞なり、大谷賞が出来なければ、菊池賞なり、菊池の名が厭なら、池谷の新劇好きを紀念して、池谷賞なりを出して呉れるやうに願ひたい。」(同)というような形で想起されたのである。(引用者中略)

 芥川賞の対象が「小説」に限定されていく中で、池谷信三郎賞はむしろ、「創作、文芸評論、詩等に於て、新生面を開き、新風を齎して、当来の新文芸に貢献するところの新人の作品」(「池谷信三郎賞規定発表」前掲(引用者注:『文學界』昭和11年/1936年11月号))を対象にするという形で公表された。ジャンル規定の曖昧さを強調することで、芥川賞等との差異化を図ったのである。」(西川貴子論文より)

 この論文が明らかにしていく、主たるテーマには、ここでは触れません。すみません。

 ワタクシの興味のひとつは、そもそも「池谷信三郎」という名前を、文春側が出してきたのか、それとも『文學界』同人側が出してきたのか、って点にあります。どうなんでしょう。同人のなかには川端康成さんみたいに、池谷さんにひとかたならぬ情を持っていた人もいたし、この新しい賞に対する同人たちの期待はけっこう大きかったんだろうな、ってことは、推測できます。

 たとえば、代表して同人お三方の文章より。

「池谷信三郎賞は、別項発表の如く規約が決定した。まことの文学新人賞として、文学賞界に新風を齎らすものであろう。授賞範囲も、「文學界」所載の作品に限らないことになった。

 西の海より吹き起るものは秋風、文学の新風は池谷信三郎賞より。」(『文學界』昭和11年/1936年11月号「同人雑記」 林房雄「内輪話」より)

「「池谷信三郎賞」が出ることになった。別項規約通り、当来の文芸に新風を齎らすものを執る。

 芥川賞と区別される点はそこにある。川端氏や武田氏に「新人は我々だ」などと歎かせないような、新生面新境地の開拓者を待望している。」(同号 深田久彌「文学界後記」より)

「池谷賞には我々同人一方ならぬ関心を持っている。従来の受賞者が皆現在優れた文学活動をしている所を見ても、偶々優秀作を書いた人にゆきずりに授賞するというのでなく、作家の独自な資性と作品の魅力とが互に裏切っていないような、正確さを鑑別の上に期したいと思っている。賞の伝統を保持するために、それだけの意味で厳選するのであって、あとはその作家の傾向や種別に何のこだわりもなく、広く公平に眼を働かせているつもりである。」(『文學界』昭和17年/1942年2月号 河上徹太郎「文学界後記」より)

 そりゃそうだ。たいていの賞の選考委員は、「正確さを鑑別の上に期したいと思っている」に決まっているじゃんか。……などと、まじめな河上さんにツッコまないように。

 で、文學界同人の方々の熱意は、わかりました。では、文藝春秋社側は? ……というと、これがどうも判然としません。

 この不明瞭さは、経営と編集の主体が分離している、っていう当時の『文學界』のかたちに由来しているのかもしれません。どうやら第1回池谷賞授賞式には、文春側から菊池寛、佐佐木茂索、式場俊三も出席しています。だけど、『文學界』に掲載されている池谷賞発表記事がひっかかります。第1回から終了の第9回まで、だいたい「菊池寛/文學界同人」の連名で出されているんですよ。そう、菊池寛の個人名なんです。

 そういえば、芥川賞・直木賞も、そのころの授賞発表は、「芥川・直木賞委員会」名で行われていました。ですので、ここに「文藝春秋社」の文字がまったく出てこなくても不思議じゃありません。

 だけど、文春は昭和13年/1938年に財団法人日本文学振興会なる組織をつくりました。新設の菊池寛賞とともに、直木賞・芥川賞を運営する仕事をそこに移したじゃないですか。だったらどうして、池谷賞も合わせて、そちらに移さなかったんでしょう。

 ってわけで、はじめからしまいまで、池谷賞はずっと、菊池寛と文學界同人(作家・評論家たちによるグループ)のものでした。それはそれで文壇内では意味ある賞だったんでしょう。でも、それ以上のものにはなれませんでした。

          ○

 直木賞や芥川賞に関する資料を読んでいると、こういうハナシをよく目にします。「昭和10年代の両賞は、菊池寛親分のもの、という性質が強かった。菊池がうんと言わなければ受賞できなかったぐらい」みたいな証言です。

 これはいろんな人が言っている感想なので、たぶん、その印象に間違いはないと思います。でも、です。じっさいのところは菊池さんの推したものが落選していたり、菊池さんは乗り気じゃない作品が受賞していたりするんですよねえ。

 前にも書いたと思いますが、やはりそこは、佐佐木茂索さんがしっかり手綱を握っていたのだろう、と考えるとしっくり来ます。

 なにしろ、菊池寛個人の力量で、『文藝春秋』がぶわーっと部数を伸ばしていたのは、ちょい昔のハナシ。そのまま菊池さんだけが采配をふるっていたら、まあ、途中でつぶれていたでしょう。菊池さんは管理者として難があった、っていうのは、文春の歴史を書いたものを見れば、すぐわかることですもんね。

 いっぽうの茂索さんは、文士同士のなあなあを許さない。公私のケジメをつけたがりすぎる。……とは、小島政二郎さんの後年の嘆きぶしです。直木賞と芥川賞を、第1回から個人的趣味に陥らせず社業として守ったのは、まさにその茂索さんの経営能力のおかげでしょう。

 その茂索さんが、池谷賞についてどう考えていたのか。あえて、菊池寛個人+文學界同人のものとして突き放し通した。と見れば、おそらく会社を上げて関わるほどの顕在的・潜在的魅力ある事業、とは見ていなかったのだと思います。

 個人名を冠した文学賞の、賞味期限。……って言ったらいいんでしょうか。池谷賞が鳴り物入り(?)で始まったのに、昭和18年/1943年を最後に、6年ほどで終わってしまい、その後、再開の芽も出ないまま時が過ぎ去った。まあ、池谷信三郎自身がのこした業績からすれば、これはこれで、じゅうぶんうなずけることです。

 ただし、直木三十五賞だって、同じような時期に、同じような母体でもって始められたわけで、それが、いまだに続いている奇跡。ううむ。池谷賞が、直木賞になりえなかったところに、文学賞を長く継続させることの困難さを見る思いがします。

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