泉鏡花文学賞 地方文学賞の一番星。“文壇”の流儀と、つかず離れずで光りかがやく。
文学賞は、受賞作だけ見ているより、候補作もいっしょに視野に入れると、何十倍も面白くなる。……っていうのが、ワタクシの持論です。
その思いを再確認させてくれる賞。そのひとつが、泉鏡花文学賞です。
かくいうワタクシも、この賞の候補作については、ほとんど知りませんでした。今度、まとめてみて、ざっと一覧にしてみると、うおう、何と魅力的なリストなんだ! と惹き込まれてしまったわけです。
おそらく関係者や、金沢市の方以外は、あまり見たことがないと思われる、泉鏡花文学賞の受賞作&候補作一覧。こちらです。
ね。これだけで、一週間ぐらいオカズ抜きでも、ごはんがいただけます。っていうぐらい、注目どころ満載でしょ。
でもね、お嬢ちゃん。今週はこの一覧をつくるだけで、おじさん、疲れ果てちゃいましたよ。あとは、だらだら蛇足を連ねます。
泉鏡花文学賞が、文学賞の世界のなかに占める重要性は、もうそりゃたくさんあります。
たとえば、昭和48年/1973年という時期に、地方公共団体が主催する文学賞を打ちたてたこと。出版社主催のほかの文学賞とは違って、文壇内の力学だの階級だのとは無縁な賞であろうとした姿勢。純文学vs.大衆文学、みたいな、どっかの出版社が考え出したジャンル別文学賞、の真似をせずに、「鏡花文学」「ロマン性の高い」といった独自の切り口を持ってきて、それを醸成させていったこと。などなど。
文芸評論家の奥野健男さんは第1回から選考委員を務めた方です。その奥野さんが最初の選考を終えたあと、こんなことを書いています。
「金沢市が日本ではじめて地方公共体が主宰する全国的規模の文学賞を企画した。これは文学史上画期的なことであり、おそらく金沢市のあとを追うものが輩出するのではなかろうか。
しかしはじめての試みとして賞の性格、特徴をどこに置くか、ぼくら選考委員はこの春以来、慎重に検討した。そして全国的規模ではあるが、中央(東京)の出版社、新聞社をバックとする文学賞では授賞の機会が少い作品、目が行きとゞかない作品で、真にすぐれた文学的可能性を含む作品を選びたいという意見に一致した。
(引用者中略)
この二人(引用者注:第1回受賞者の半村良と森内俊雄)の受賞により、泉鏡花文学賞は、純文学にも大衆文学にも偏よらず(鏡花の文学がそうであったごとく)しかも中央の文学賞が見おとしから、ないしは余りに異色なる故にためらいがちの文学作品に積極的に賞を与えようという、泉鏡花文学賞の性格が鮮明に決定されたのではないかと全委員ともども自画自讃したい満足の気持であった。」(『北国新聞』昭和48年/1973年10月31日 奥野健男「鮮明な賞の性格 ~第一回泉鏡花文学賞選考経過から~」より)
ちなみに、創設当時の選考委員は、井上靖(委員長格)、奥野健男、尾崎秀樹、瀬戸内晴美、三浦哲郎、森山啓、吉行淳之介、五木寛之の8名。
誰が考えてもわかるとおり、一つや二つの文学賞があったところで、かならず授賞しおとし、あげぞこない、ってものが発生します。直木賞や芥川賞が必要十分に、作家・作品を表彰できている、わきゃなくて、それは昔も今も同じです。
その欠点というか、間隙というか、既成の文学賞ではすくい取れない部分はある。そこで、「誰が考えてもわかるよ」「でも、うちの市でそんなことやる必要ないじゃん」で終わるのではなく、果敢にチャレンジしていった道程が、鏡花賞のすごみを生んでいるのだと思います。
鏡花賞も創設からはや30ン年。その間には、さまざまな変遷があったと見えるのですが、とりあえず今日は、最初のころのことに注目します。
出だしの数年間です。鏡花賞はかたくなに、ある一つのルールを貫きました。いや、鏡花賞が貫いたというより、鏡花賞選考委員会(当時は「中央選考委員会」と呼ばれていたりした)の8人が貫いたと、言ったほうが正確かもしれません。
それは、「直木賞や芥川賞の受賞者の作品は、選考対象から除外する」、というルールでした。
○
簡単に説明しますと、こういうことです。
鏡花賞は、まず地元の(金沢市の)推薦委員会が、全国から募ったアンケートなどを参考にしつつ、数編の候補作を決めます。その候補作を、数名の作家・評論家からなる選考委員会に推薦、というかたちで提出します。選考委員たちは、東京赤坂の料理屋に集まり、その推薦作を参考にしながら、授賞作を決めます。
この構造そのものは、戦後の(そして今の)直木賞・芥川賞とほぼ同じです。主催者に近い位置にいる〈予選委員会〉があって、彼らが候補作を決める。最終的に授賞を決める有名人たちは、その候補作について議論する、という。
最初の転機は、第4回(昭和51年/1976年度)のときに訪れました。
はじめて、地元推薦委員会が、芥川賞受賞者の作品を推薦したのです。古井由吉さんの『聖』でした。
『聖』は受賞しませんでした。これをしりぞけたときの、選考委員たちの理由。当時の『北国新聞』昭和51年/1976年10月16日を見ると、こうあります。
「作者の古井氏がすでに芥川賞を受賞しており、鏡花賞の性格にふさわしくない。」
その翌年の選考委員会では、鏡花賞の性格ってやつが改めて議論のテーマになったそうです。そして、
「五年目を迎えた同賞の性格について意見が交わされ「鏡花の作風を踏まえつつ、新人賞的色彩を持つ埋もれた作品を発掘する」ことでほぼ一致した。」(『北国新聞』昭和52年/1977年10月15日より)
「新人賞的色彩」。これは翻訳すると、直木賞・芥川賞の候補にあがることはあってもまだ受賞していない人。って意味にとれます。
しかし、地元の推薦人たちは、何を選ぼうが自由な立場にいます。おそらく「鏡花的な作風」「ロマンの香り高い」って点を重視したんでしょう。その後も、直木賞・芥川賞受賞者たちの作品を、ぞくぞくと候補作に残していきます。
山口瞳『血族』(第7回)、大庭みな子『楊梅洞物語』(第13回)、高橋治『風の盆恋歌』(同)、長部日出雄『醒めて見る夢』(第15回)、阿刀田高『危険な童話』(第16回)……。
ただ、選考委員たちは毎回、同じような理由で、これらを「候補から除外する」措置を取りつづけました。なんだか、予選委員会と選考会のあいだに、あたかも静かで頑固な戦いを見るようです。
例外的だったのは、第10回日野啓三の『抱擁』授賞だけでした。これはこれとて、次のような理由により授賞にいたったそうです。
「「芥川賞受賞作家は(引用者注:鏡花賞を)遠慮してもらっていたが、同賞受賞作品と、今回の作風は違っており、幻想的な内容はすぐれている」(奥野健男)(引用者中略)また、奥野健男委員は「今回ほど地元・金沢からの推薦作品と中央選考委の考えがピタリ一致したことはない」と、十回目の授賞作をたたえた。」(『北国新聞』昭和57年/1982年10月15日)
逆にいいますと。地元・金沢からの推薦は、なかなか東京の選考委員たちの考えと一致しづらかったんだな、と言えますよね。
一致しないとき、ふつう、文学賞では「受賞作なし」といった結果になります。鏡花賞でも過去一度だけそんなことがありました。一度ならまだいいほうです。直木賞・芥川賞では、それよりもっと多くの回数、「受賞作なし=予選委員会と最終選考委員たちの考えが一致しない」事態が起こっています。
受賞作を出さない。それは、最終選考委員としては、そうとう消極的な姿勢です。受け身、と言っていいかもしれません。予選委員会から挙がってきた作品が、どれもこれも口に合わない。じゃあ、何にも食べないでオレ帰る。ってことですから。
しかし、選考委員の使命とは、受賞作を決めることだ、という考え方もあります。帰っちゃいかんよ、帰っちゃ。口に合うものがないなら、自分で外から持ってきてでも食事をしようぜ、ってわけです。
鏡花賞の委員たちは、過去数度、地元からの推薦作を蹴ったうえで、自分たちで選んだ作品を選考の俎上にのせて、授賞させたことがあるんですね。
森茉莉『甘い蜜の部屋』(第3回)、唐十郎『海星・河童』(第6回)、野坂昭如『文壇』に至る作家としての業績(第30回)、寮美千子『楽園の鳥―カルカッタ幻想曲』(第33回)……。
そうですよ、今の直木賞・芥川賞委員たちも、このぐらいのことすればいいのに。昔の両賞では、戦前はもちろん戦後にだって、選考委員たちが自分で候補作を見つけてきて、選考会に持ち込んだりしてたのですから。もし、いまそれができないのが文春への気兼ね、めいたものが原因だとしたら、そりゃあ笑われもしますよ。
いや、選考委員>予選委員会、の力関係を保持しつづけることができる、って意味でも、文壇から離れた地方自治体運営の文学賞が、強いところなのかもしれませんけど。
○
鏡花賞と直木賞は、ライバル関係にあった。……なんて観点は、おそらく直木賞オタクたるワタクシひとりの妄想ではありますまい。なんつったって、両賞どちらの候補にも挙がった共通の作品が、たくさんあるんですから。
赤江瀑『罪喰い』(第2回)、色川武大『怪しい来客簿』(第5回受賞)、青山光二『竹生島心中』(第5回)、松代達生『飛べない天使』(第6回)、帚木蓬生『白い夏の墓標』(第7回)、連城三紀彦『戻り川心中』(第9回)、宮脇俊三『殺意の風景』(第13回受賞)、泡坂妻夫『折鶴』(第16回受賞)、高橋義夫『秘宝月山丸』(第17回)、酒見賢一『墨攻』(第19回)、鈴木光司『仄暗い水の底から』(第24回)、浅田次郎『蒼穹の昴』(第24回)、京極夏彦『嗤う伊右衛門』(第25回受賞)、田口ランディ『コンセント』(第28回)……。
うへえ。そうそうたる作品群だな。直木賞候補作のなかでも、ひときわワタクシの好きな部類の作品が、いくつも入っていやがる。『飛べない天使』とか『戻り川心中』とか『墨攻』とか、『蒼穹の昴』までも。やっぱやるなあ、鏡花賞は。直木賞なんか捨てて、鏡花賞の候補作だけ追っていっても、幸せな老後が過ごせそうだわい。ほくほく。
と、安心しようかと思ったら、え? 鏡花賞って平成15年/2003年度から候補作の公表をやめちゃったんですか? それは残念。ものすごく残念。
文学賞の世界では、候補作を公表すると、その候補作家たち、すでにプロとして認められて地位を築き上げていっている方々に失礼だ、っていう考え方があります。勝手に候補作にあげて、好き勝手なこと言って落選させて、恥をかかせるなんて失礼でしょ。ってことです。たぶん。
ただ、どうなんでしょう。なんつったって、鏡花賞ですからねえ。受賞したってそれほど売上に結びつくわけでもないし(おっと失礼)、そもそも、文壇っていう狭苦しい領域から超絶しているところに、魅力の一端のある賞ですからねえ。
誰が言い出したのかは知らないですけど(いや、鏡花賞主催者は公表しているのかもしれず、単に『北国新聞』が公表を差し控えているだけもしれません)、ぜひとも、候補作公表、復活させてほしいですよ。
一読者の立場から言わせてもらえれば、候補作がだだーっと並んだ一覧、昔から今の分までながめているだけでも、テンション上がりますもん。
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コメント
予選委員会と選考会の意地のせめぎ合い。これこそに熱いロマンを感じますね。
最近の直木賞はなーんかネガティブで湿っぽい衝突しかないような気がします。
投稿: | 2010年7月26日 (月) 07時45分
2005年、寮美千子『楽園の鳥』授賞のときの五木寛之氏のコメントです。なかなか感動的でした。
http://d.hatena.ne.jp/ysk/20051201
▼鏡花賞も33回目ですが、最初の志は「できるだけ新しい人に脚光を当てて、その方に活躍していただきたい」ということでした。第1回の受賞作家は半村良氏。色川武大氏、澁澤龍彦氏、筒井康隆氏もそれぞれ鏡花賞が初めての受賞です。
▼澁澤氏に電話したとき「澁澤さん、この賞いただいてもらえますか」と言ったら「文学賞はもらわない主義だ。でもなあ」と一瞬間をおいて「ぼくは鏡花が好きだから、この際思いきってもらうことにしましょう」とおっしゃった。澁澤氏の長い経歴のなかで初の受賞となりました。そこで封を切ってしまった以上“毒食わば皿”で、読売文学賞をはじめ、その後続々とたくさんの文学賞をやけっぱちでもらっておられました。
▼初期の頃はできるだけ“未知の才能に対して賞を出す”という傾向があったんですが、時間が経つにつれて、野に遺賢がなかなか見つからなくなりました。芥川賞・直木賞を受賞したような話題の作家が賞の候補に上がってくるという傾向があり、どこかで軌道修正して初心に戻さなければ、という気持ちがずっとありました。
▼“新しい作家”を見出し、受賞をきっかけにジャーナリズムがその作家に注目してくれるような、パイオニア的な役割を鏡花賞は果たすべきではなかろうか、と反省していたところ、この『楽園の鳥』にぶつかり、本当にほっとしました。
投稿: 松永洋介 | 2010年7月28日 (水) 02時45分
名なしの投稿者 さん
そう、見えないところでの文学賞の争い、ロマンだと思います。
人間同士の、崇高なのか、くだらないのかよくわからないレベルでのぶつかり合いがあるかぎり、
文学賞の面白さは、不滅です。
松永洋介さん
おお。五木寛之さん、やっぱ「ミスター鏡花賞」だなあ。
頼まれ仕事でなくて、積極的に関わってきてくれた五木さんいたからこその、
いまの鏡花賞全体に対する高い評価があるんだな、としみじみ思い知らされます。
投稿: P.L.B. | 2010年7月28日 (水) 21時28分