直木賞とは……候補作をろくに読まずに、のうのうと選考委員やってるようなやつらは、消えうせろ。――筒井康隆『大いなる助走』
(←左書影は平成17年/2005年10月・文藝春秋/文春文庫[新装版])
「小説に描かれた直木賞」をテーマに、1週1作ずつとりあげて約1年。このエントリーで、とりあえず、その締めとしたいと思います。
締めの作品としてふさわしい、と言って真っ先に思い浮かぶのが、やはりこの小説でしょう。と来ると、ほんと芸がないんですが、「文学賞をネタにした小説」界の金字塔、いや代名詞ですからね、ワタクシとしては何度とりあげたって足りないくらいです。
昭和54年/1979年以後、だれかが文壇もしくは文学賞をネタにした小説を書けば、「大いなる助走」風、と言われ、あるいは「小林信彦版「大いなる助走」」「三田誠広版「大いなる助走」」「東野圭吾版「大いなる助走」」などなどと言われてしまう。いまだにそうですし、当時からそれほどのインパクトでした。
ちらりと文芸誌を読んでいても、
「世の中には、理不尽なことというのはあるものである。というよりも、理不尽なことしかない、というのが、この「大いなる助走」の世界のまんなかにあしかけ三年身をおいてみた私の実感である。」(『文學界』昭和54年/1979年10月号 中島梓「ごまめの歯ぎしり」より)
なんていうふうに、くだらなくて閉鎖的な文壇=「大いなる助走」の世界、っていう比喩が使われていたりします。
それで、うちのブログでは以前、二度ほど、『大いなる助走』のハナシをしました(平成19年/2007年12月23日付と、12月30日付)。三度めはどんな切り口にしようかと迷いに迷い、せっかくなので王道な切り口で行こうかな、と。
『大いなる助走』の王道、とは……。
実在の直木賞選考委員との、すったもんだ、です。
まずは、本文の引用から。〈直廾賞〉世話人の多聞伝伍に、各選考委員の人となりをざざっと紹介していただきましょう。
「まず鰊口冗太郎。(引用者中略)この人の娘というのがあの鰊口早厭というタレントで、離婚歴があり子供がいておまけにラリパッパ。終始交通事故などを起すものだから鰊口さんも手を焼いています。未婚の男性が直廾賞をとると必ず娘を押しつけようとするので有名ですが、あなたあの鰊口早厭と結婚する気がありますか。」
「推理小説や風俗小説を書いている膳上線引。(引用者中略)いやまあこの人は自分の昔のことを知っている人に会うと実になんともいやな顔をする。さて、その次は時代小説の雑上掛三次。この人は男色家です。うまい具合にあなたのようなタイプが好みです。」
「次は風俗小説の坂氏肥労太。この人は女狂いです。いい歳をしていまだに陰唇をきわめている。しかも若いしろうとの女性が好きときているのでわれわれはいつも困る。」
「次は歴史小説の海牛綿大艦。この人はいつも文壇長者番付に顔を出していますが高価な古書を買いこみすぎて困っていますから、現金は受け取る筈です。明日滝毒作。この人も政府関係の仕事の方で金が要る筈です。」(以上『大いなる助走』「ACT4/SCENE1」より)
このほかに、名前の登場しない委員が3人。全部で9人。
名指しされているこれらの作家が、現実のどの作家のことを指しているか。という興味は、発表から40年たった今でも、インターネット上でその当てっこを楽しんでいる人たちがいるのでおわかりの通り、最もゴシップ的であり、イコール最も爆発力があり、『大いなる助走』のかもし出す魅力の核となるところです。
当時、その魅力に魅せられた多くの読者のひとり。大岡昇平さん。以下は、埴谷雄高さんの証言です。
「或る日、大岡昇平から電話がかかってくると、この頃いささかよたよたしている足の弱さを思わせぬ元気に充ちた声で、私がまったく思いがけぬことに、『大いなる助走』という作品を読めというのであった。
「えっ、筒井康隆? ずばぬけた才人だという名は聞いてるけど、いままで読んだことないな。どういう作品なの……?」
「それが、どうだ、直木賞の銓衡委員がつぎつぎと殺されるという小説なんだよ。ハハハハハッ……」
電話のこちら側で私は、思わず、うーむとうなった。盗作問題で批評家を殺すという、なんとなくおさまらぬ自己の腹立ちをついに文学的に昇華する執念小説(?)を書いた彼は、その一種奇抜な執念小説の主題に他の何ものにも知られぬ深い親近感をいだいたに違いなかった。(引用者中略)
それから数日後、私達はこういう会話を交すことになったのである。
「どうだ、読んだかい……?」
「うん、殺しの場面だけ。アクションものというのは、だいたいこういうふうにスピーディに書かれているのかね。」
「そうだ。あのなかの×××××というのは×××××だよ。」
と、彼は作中のモデルについても私に教えた。
「ほほう、そうだったのか。いちいちモデルがあるのかね。」
「ハハハハハッ……そこがあの小説のいいところさ。」」(『海』昭和54年/1979年7月号 埴谷雄高「記憶」より)
これより数ヶ月前、根っからのツツイストであり筒井康隆文献研究の第一人者、平石滋さんは、きちんと人名対照表をつくっていました(『ホンキイ・トンク』4号[昭和54年/1979年5月]「『大いなる助走』と直木賞の“事実部分”」)。
表組みだと引用しづらいなので、この対照表をもとに論を進めた平岡正明さんの文章を、引いておきます。
「かくして『大いなる助走』で筒井康隆が標的にしたものは、
鰊口冗太郎=川口松太郎
坂氏肥労太=源氏鶏太
明日滝毒作=今日出海
以上の人名対照は、労作「大いなる助走と直木賞の“事実部分”」で平石滋が割りだしたものである。「あとの三人」とくくられた人たちは、作品中、対立する直廾賞斡旋業者がおさえたものとして名前が出てこない。」(昭和56年/1981年2月・CSB・ソニー出版刊 平岡正明・著『筒井康隆はこう読め』所収「フーマンチュウはこう殺せ」より)
もちろん、誰がどの作家をモデルにしているのかをわかるように書く、というのは、覚悟のうえだと想像できます。その筒井さんの覚悟と勇気には、惜しみない拍手を送らざるをえません。
……と同時に、せっかく身を張って、危険を覚悟で書いているんだ、単なる「文壇暴露小説」が出ましたよ楽しかったね、で終わらせてたまるか、という筒井さんの企みも、そこには垣間見えます。
企み、または挑発と言いますか。
そして、まんまとその企みの網に、一人の作家がとらえられてしまいました。
そう、みなさんご存知、『大いなる助走』といえば今でも必ず名前の挙がる選考委員。松本清張さんです。
○
「連載中からすでに、「あの連載をやめさせろ」といってモデルにされた選考委員のひとりがいちばん大きな唇で「別冊文藝春秋」編集部へ怒鳴り込んできたこともある、という話はもう何度か書いたことである。
作品発表時には多くがご存命であったその選考委員の人たちも、この世の文壇から一人去り二人消え、今ではほとんどの方が他界の文壇へと移動されてしまった。上梓して暫くはそれらの人たちのこの作品に対する反応を噂に聞いて面白がったりしていたものだったが、今ではもうその楽しみもない。」(『大いなる助走』文春文庫新装版 「新装版のためのあとがき」より 太字・下線は引用者がつけた)
小説を単なる、読書上の楽しみだけで終わらせないようにする企み。それは、つまり『大いなる助走』をもとに、さらなるゴシップを生み出してやろう、と筒井さんは考えていたのだろうな、ってことです。
『別冊文藝春秋』連載中の昭和53年/1978年夏、そのゴシップ性にはやくも飛びついたのが、『週刊ポスト』。昭和53年/1978年7月28日・8月4日合併号で「筒井康隆氏が発表した直木賞内幕パロディ小説の問題部分」と題し、3ページの記事を組みました。
ここではすでに、モデル作家当てをしているうえに、『別冊文藝春秋』編集長の豊田健次さん、文壇ゴシップの大家(おっと、失礼)であり評論家の山本容朗さんのほか、源氏鶏太・村上元三の二氏からコメントをとっていまして、いやあ筒井さんの仕掛けどおりに事が運んでいるな、と確認できます。
記事の最後のほうにある、筒井さんのインタビュー部分。
「実名当てなどの詮索をさせようというのも一つの狙いなんだ。ある意味ではすべてホント、ある意味ではすべてウソ、ということでして、(引用者注:直木賞に)事前運動はないのが当たり前、それをあるように書くことで文壇の異形化ができるわけです。(引用者中略)多元宇宙理論を応用したあり得べき可能性の世界を書いているつもりですよ。名前にしてもオドロオドロしい名がいいと考えたんです。
文壇からの圧力はまだありません。あれば当然それも書いてしまう。文春から手ごころを加えろといってきたら『小説新潮』にでももっていきます。」(『週刊ポスト』記事より)
そして筒井さんは周到に、選考委員たちから何らかの具体的な反応が返ってくるようにと、けしかけています。こんな感じに。
「直木賞そのものに対する恨みは今となっては薄れかけてきているので、怒りをかき立て、かき立て書いています。(引用者中略)『家族八景』の時(引用者注:第67回 昭和47年/1972年・上半期)などはひどいもので、司馬(遼太郎)さんが『筒井君のとこへ行っときや』と新聞記者に耳打ちしておきながら、いざ選考会になったら他の作品を推されていた。そのためにこちらは連日、記者に押しかけられて迷惑した。
(引用者中略)
ま、いろんなエピソードをごっちゃまぜにして書いたので、僕自身、作中人物の誰が実在なのかわからない。膳上線引のように、実際に二階の窓から原稿を投げる作家もいれば、流行作家・某氏のように“作家は苦労して書いているのだから編集者も苦労すべきだ”と、ホテルに原稿を預けてあると伝言して、編集者がフロントばかりと思っていると実際はホテル内の喫茶室に預けておいていたという話もあります。」(同『週刊ポスト』記事より)
無自覚にただ文壇ゴシップをおしゃべりしている、とはとうてい思えないのでありまして、筒井さんは「傷ついてもらわなきゃね」と表現しているんですが、要は選考委員たちにちょっかいを出すことで、向こうから何か手を出してくれるのを待っている感じが、伝わってくるのです。
そうなれば、『大いなる助走』を取り巻く世界は、もっともっと面白くなる、っていう確信のもとに。
その仕掛け……ネット流にいえば「釣り」ってやつでしょうが、それに反応してしまったのが、おそらく松本清張さんだったのではないかと。
「おそらく」と書きました。
ええ、ワタクシが『大いなる助走』の連載中に、清張さんが連載中止を編集部に求めた、っていう事柄を知っているのは、それはもう、筒井さんがそう言っているから信じているにすぎないわけです。
清張さんがどのタイミングで、どんな温度で、どんな口調で、だれに対して、『大いなる助走』についての発言をしたのか。じっさいのところ、ワタクシは知りません。
「豊田(引用者注:豊田健次) (引用者略)僕が「別冊」をやっていたときに「大いなる助走」をいただいて、これはご存知のように文学賞の選考委員たちを皆殺しにする話で(笑)。社の先輩に呼ばれて、「きみ、うちの会社でやっている賞に何か文句あるのか」って怒られた(笑)。ところがそれを文庫にしたら売れたもんだから、その先輩も喜んでましたけれど。」(『オール讀物』平成22年/2010年5月号 安藤満・鈴木琢二・豊田健次「歴代編集長が振り返る「オール讀物」と作家たち」より)
ほんとに清張さんが激昂して、中止を求めて、みずから文春まで足を運んだのかもしれないし、文春の編集者か役員が別件で清張宅をおとずれたときに、世間バナシ程度に『大いなる助走』の話題が出て、それを文春側がことさら気にして、豊田編集長あたりに伝えたのかもしれない。……可能性からいえば、どんな状況だって考えつけます。
しかし、少なくとも、清張さんが『大いなる助走』の連載に何か苦言を呈しているらしいぞ、と筒井さんの耳に入ったのでしょう。きっと、「しめた!」と思ったに違いありません。
『大いなる助走』を盛り上げるゴシップネタが、しかも一生使えるネタが、手に入ったのですから。
○
この作品の連載がはじまる直前に、松本清張×筒井康隆の、一度っきりの対談がおこなわれていることも、またよく知られたハナシです。
「松本清張先生とは一度だけ対談したことがあります。松本先生からのご指名で、お相手をさせて頂きました。ちょうど直木賞の候補に何度もなって落ちて、その選考委員の一人が松本先生だったものだから、忸怩たる思いがおありになったんだろうと思いますけれど。(引用者中略)松本先生は割とアンテナの高くて鋭い方でして、新人が新しいことをやりはじめると、ぴっぴっと何かお感じになることがあって。それで私をご指名になったんだろうと思います。」(『松本清張記念館館報』26号[平成20年/2008年1月] 「開館九周年記念講演会 筒井康隆「小説とは何か」」より)
で、その対談をまとめたものを今読むと、まあこれは読む人によっていろいろ違った感想があると思いますが、ワタクシの場合は、意外に清張さん殊勝だな、謙虚だな、と思わされました。
「松本 するとあなたの場合は、SFとどこが違うの? SFの場合はストーリーがあるよね。
筒井 今のSFはものすごく多様化してきたんで、ストーリーはほとんどないようなSFもいっぱい出てきてるんです。
松本 このごろまったく不勉強で、ぼくはそんなこと言う資格はないんだけどね。ひと昔前は、火星人が来たり、宇宙人みたいなのが出現して、地球の人類をかきまわすという話だったね。いまはどうなんですか。
筒井 いまおっしゃったような話は、SFの中の一割にも満たんというか、とにかくものすごく多様化してしまったために、どう言っていいかわからないんですわ。」(昭和52年/1977年8月・双葉社刊『松本清張対談集 発想の原点』所収「作家はひとり荒野をゆく」より ―初出『カッパまがじん』昭和52年/1977年1月号)
清張さんは、当時のSFの多様性を語る資格が自分にはないことを、十分に認識していたと。
「筒井 人間の見方が、ぼくと松本さんじゃ正反対のようだけれども、実は紙一重の裏表じゃないかと思うんですよ。
松本 それは作家である以上同じだよ。
(引用者中略)
筒井 ぼくがぜんぜん逆だというのは、松本作品の登場人物が全部いやなやつであるのにくらべて、ぼくがやれば、全部喜劇的な人物にしてしまう。ぼくのに出てくるのは、人間すべてドタバタ・タレントというとこですね。その違いは何ですか。人間不信の大きさはあまり違わないと思いますが。
松本 喜劇はいやなやつのカリカチュアだろうから、それはそれでいいんじゃないの。
筒井 いい人でも、いい人だからということでまた喜劇的になるわけです。
松本 それでいいんじゃないの。ぼくにドタバタは書けないものね。」(同「作家はひとり荒野をゆく」より)
この対談の後、表立って、清張さんと筒井さんが交差する場面は訪れませんでした。残念ながら。
『大いなる助走』が書かれたあとに、両者の対談があったらどんなだったろうな、と想像するのも楽しいんですけどね。果たして清張さんは、それでも筒井さんの才能を評価しつづけたのかどうなのか。
以前のエントリーでも触れましたが、いちおうここで、『大いなる助走』が連載された時期を確認しておきます。昭和52年/1977年9月~昭和53年/1978年12月です。直木賞でいうと、ちょうど第78回(昭和52年/1977年・下半期)、第79回(昭和53年/1978年・上半期)が行われ、連載終了直後に第80回の選考会が開かれた、っていうタイミングです。
じつは、このあたりから、直木賞ではダダダダッと選考委員の世代交代が進んでいるんです。
第80回をもって川口松太郎さんが退任。第82回(昭和54年/1979年・下半期)までで、松本清張、司馬遼太郎両氏が退任。しかも、そこで新田次郎さん急逝という思わぬ事態。
清張さんと司馬さんについては、最後の数回は(もっと言ってしまえば『大いなる助走』騒ぎが起きた頃から)、欠席が多かった。もちろん作家業が忙しい、ほかにもいろいろやりたいことがある、などの理由だったのでしょう。
半藤一利さんは証言します。
「(引用者注:松本清張は)投げやりを猛烈に嫌った人でした。(引用者中略)清張さんの選考委員辞任の理由は、自分の仕事が忙しすぎて、欠席が多くなっては申し訳がないから、でありました。」(平成14年/2002年10月・日本放送出版協会刊 半藤一利・著『清張さんと司馬さん』「六 巨匠が対立したとき」より)
たしかに、清張さんは、映画企画会社をつくったり、海外を旅行したり、まあ大変忙しかったみたいです。
雑事を整理したい、って気持ちがあったのは、じゅうぶんわかります。
たとえば、日本推理作家協会の理事長職(と、それにつづく会長職)など。
「清張さんが、四期目の途中で、もうそろそろ辞めたいと電話で申し入れて来た(引用者注:結局、理事長を昭和46年/1971年11月まで四期八年を務めた。その後、会長にまつり上げられるも、昭和52年/1977年、協会を脱会)。
「私にはやりたいことがたくさんあり、あっちこっちに手を出しているから、協会理事長の役を完全に果たしていると思えないんだ。早い話、乱歩賞や協会賞の選考にも、ほかの人の意見を聞いている状態だし……」
(引用者中略)
清張さんは、中島河太郎さんを(引用者注:次期理事長に)推すのではないか、とひそかに考えていたのだ。
というのは、賞の選考について、清張さんは中島さんの意見を聞いているらしい、という噂があったからだ。」(平成21年/2009年2月・小学館刊 佐野洋・著『ミステリーとの半世紀』「協会理事長としての松本清張さん」より)
つまりは、忙しすぎて、ろくろく候補作も読み切れませんよ、と。
ここで、どうせ名誉職なんだからと状況を受け入れるのではなく、その状態をよしとせず、みずから辞任を申し出る。それが清張さんの「投げやりを嫌う姿勢」と、「いろんなことに興味を持つ性格」の、折り合いのつけ方だったんでしょう。
きっと直木賞選考委員の辞任も、その延長線上にあります。
あるんでしょうが、やはりワタクシはそこに、『大いなる助走』効果もあったと考えたい。
つまりは、若手の作家(といっても筒井さん、当時40代半ば)に、直木賞の選考委員はろくに候補作も読まずに受賞作を決めている、ときつーく揶揄された。いっときカッと頭に血がのぼったかもしれませんが、冷静に考えれば、清張さんも思い当たるふしがあったに違いありません。
候補作をきちんと読めない状態で、選考委員を引き受けつづけるなど、たしかにいかんことだ。
と、清張さんがさらに思いを深くしたことは、筒井さんとの対談の調子をみていても、じゅうぶん考えられると思うんですよね。
なので、清張vs.筒井、といった対立構造は、じっさいはそんなになかったのじゃないかな、と思う次第ですが、どうでしょうか。
「直木賞を貰っていないことに対して現在、なんのこだわりもない。以前にも書いたし、谷崎賞受賞パーティの挨拶でも述べたことなのだが、もし直木賞を貰っていたら作家としての
清張成長がとまっていただろうということは、特におれという作家の場合ほぼ明確なので、むしろ貰わなかったことを感謝しているくらいである。『大いなる助走』などという、直木賞選考委員皆殺し作品を書いた時だって、面白いものを書こうという意識のみあり、恨みつらみを晴らそうなどとは考えていず、むしろ落選した際の気持がなかなか思い出せず、怒りをかき立て、かき立て、主人公の怒りをリアルに表現しようと苦労した覚えがある。」(平成6年/1994年5月・新潮社刊 筒井康隆・著『笑犬樓よりの眺望』「殺さば殺せ、三島賞選考委員の覚悟」より ―引用は平成8年/1996年8月・新潮社/新潮文庫 文中、引用者が「成長」を「清張」と誤植してしまいましたスミマセン!)
恨みつらみ、だけの小説にしなかったこと。面白さの追求……そのために、現実の人間たちの反応を引き出そうと捨て身の仕掛けができたこと。これが、『大いなる助走』の、大いなる成功を生み出したのでしょう。
しかも、このエッセイのつづきでは、過去の大罪を背負ったままいまだに選考委員をやっている村上元三の発言にキレた、と語っています。こだわりのないはずの直木賞を使って、まだまだ新たな確執ネタをほり出す姿勢。……さすがです。
そうそう。対立軸ということでいえば、元三vs.筒井、といったほうがなかなか興味ぶかいものがあるんだよなあ。でも、つい今日のエントリーも長くなってしまいました。それについては、また別の機会にしたいと思います。
○
ということで、「小説に描かれた直木賞」は50エントリーに達したので、ここまで。
次週からは、また違った観点で直木賞を、あれこれもてあそんでいくつもりです。
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コメント
最後の引用部分、「成長」が「清張」になっています。
初見で思わず笑ってしまいました。
投稿: 毒太 | 2010年6月21日 (月) 01時20分
すげえ。よくできた誤植だ……。
などと澄まして言っている場合じゃありませんでしたね、すみません。
毒太さん、ご指摘ありがとうございます。
ワタクシも自分で笑ってしまいました。
引用文なのでバッサリ直すべきでしょうが、
誤植ってしまった痕跡をのこさせていただきました。
筒井さんは「作家としての清張がとまっていただろう」などとは書いていませんので、
あとからこのエントリーを読まれる方、念のため。
投稿: P.L.B. | 2010年6月21日 (月) 01時55分