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2010年6月の5件の記事

2010年6月27日 (日)

山本周五郎賞 果たして直木賞の対抗馬なのか、それとも単なる弟分なのか。

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 直木賞のライバルとは……。今の時代を生きる文学賞好きが、その筆頭としてイメージするのは、どうしたって、これ。

 山本周五郎賞でしょう。

【山本周五郎賞受賞作・候補作一覧】

 創設は昭和62年/1987年9月。このとき、さんざん新聞、雑誌、文芸誌などで話題をふりまいて、満を持しての第1回(昭和62年/1987年度)授賞が、翌、昭和63年/1988年5月。以後、毎年5月に、選考会が行われています。

 文学賞、ってやつは不思議です。静かにおごそかに、大して注目を浴びずに行われているうちは、非常に格調高く、ほんのりアカデミックな香りすら漂わせたりしているもんです。作家、評論家、編集者あたりの、せまーい世界のなかで、どうやら優劣の判別が行われているらしいぞ、と知れるものの、一般人にとっては、いまいち関心のわきにくい行事なうちは。

 ところが、ひとたび、新聞やら週刊誌が扇情的にとりあげだすと、一気に、文学賞のイメージは変貌を遂げます。

 どういうイメージになるか。……はっきり言えば、いかがわしいな、胡散くさいな、って感じです。

 文学賞のもっている性質のひとつ、商業的・営業的な“仕掛け”、って側面が、異様にクローズアップされるからでしょうか。

 じっさい、山本周五郎賞のスタートは、かなりな「いかがわしさ」をまとったものでした。

 なにしろ、この賞の創設が世に知れ渡ったのは、新潮社(新潮文芸振興会)の公式発表ではありませんでした。それより前、『読売新聞』のスッパ抜きによるものだったんです。

新潮社が新人対象に、三島由紀夫賞と山本周五郎賞を新設 「芥川・直木」に対抗

 新潮社(佐藤亮一社長)は、新人作家を対象にした三島由紀夫賞、山本周五郎賞の新設を決め、九月七日発売の雑誌「新潮」十月号に賞の概要を発表する。文壇への登竜門とされる芥川・直木賞の向こうを張った“第二芥川・直木賞”として文壇や作家志望者の強い関心を集めそうだ。(引用者中略)

 三島賞は、いわゆる“純文学”を対象にし、選考委員は大江健三郎、江藤淳、筒井康隆中上健次宮本輝の五氏。大江-江藤氏の組み合わせに加え、小説「大いなる助走」で芥川・直木賞を痛烈に風刺した筒井氏が入っている点でも話題性十分。

 また山本賞は、“大衆小説”が対象で、井上ひさし山口瞳藤沢周平野坂昭如田辺聖子の五氏が選考委員。こちらは、五人のうち四人までが直木賞選考委員でもあるが、近著「超過激対談」の中で、なぜ直木賞選考委員になれないか、を過激に語っている野坂氏が異色。」
(『読売新聞』昭和62年/1987年9月1日より)

 これを受けての、新潮社のコメント。

「当の新潮社はなかなか慎重な言い回しである。

「九月一日、読売新聞がスッパ抜いて以来、あちこちから問い合わせがあって、そのたびに『芥川賞に対抗するつもりか』ときかれて困っているんですよ。そんなこと、うちとしてはコメントできませんからね」

 と、梅沢英樹出版部長はいう。とはいうものの、反響のあまりの大きさに、してやったりという表情がないわけではない。」(『週刊朝日』昭和62年/1987年9月18日号「新人発掘で文学賞ウォーズ 切り札三島由紀夫賞で文春芥川賞と張り合う 老舗新潮社の意地 直木賞には山本周五郎賞で対抗」より 執筆:「本誌・広瀬博」)

 この『週刊朝日』の記事タイトル、あるいは本文。まあ、お決まりのごとく、芥川賞・三島賞がメインであって、直木賞・山周賞は添えモノ扱いなんですよね。

 ただ、そのなかでも、谷沢永一さんのこんなコメントが、印象にのこります。

「いや、山本周五郎賞のほうが文春にとって脅威なんじゃないかなという人もいる。「辛口批評」でおなじみの谷沢永一関西大教授だ。

山本周五郎直木三十五では、横綱と前頭ぐらい格がちがう。それに、バックが作家を育てることにかけては定評のある新潮社となれば、そのうち、同じもらうのなら山本周五郎賞ということになるかもしれない」

 と、ズバリ推測する。」(同『週刊朝日』記事より)

 さらには、こんなに、おいしいゴシップ性満載のネタに、かの『噂の真相』が手を出さないはずがありません。昭和62年/1987年11月号で「芥川・直木賞に対抗する三島・山本賞の“思惑と勝算”」(レポーター:呂淳介)の記事を掲載。この新しい賞の船出に、よりいっそうの「いかがわしさ」を与えることに成功したわけです。

 そもそも、文学賞に、新人賞→中堅賞→功労賞の階層があり、またそれぞれに格上・格下のランクがある、って見立てる姿勢が、人間くさくて、くだらなくて、下世話な感じをかもしだします。

 しかも、このときの主役が新潮社とくるわけですから。それまで同社のやってきた数々の文学賞はどれもパッとせず(あまり認知度があがらずに売上げに結びつかず)、それを打破するために、純文学―大衆文学っていう、芥川賞・直木賞とまったく同じ枠組みを、そっくりそのまま拝借したわけですからね。一面では「けなげな企業努力」、ある一面では「恥も外聞もかなぐり捨てたサル真似」。

 ちなみに、そういう煽情性とは相容れない新潮社社史では、山本周五郎賞のことをどう語っているか。

「新潮文芸振興会は八八年に、功労賞的な傾向が著しくなった日本文学大賞を廃止し、代って新しい書き手を対象とした三島由紀夫賞と山本周五郎賞を制定した。三島賞は「文学の前途を拓く新鋭の作品」、山本賞は「すぐれて物語性を有する新しい文芸作品」に授賞する方針で、作家の名を冠せたのには、賞のイメージを鮮明にする意図があった。(引用者中略)

 この二つの賞は、文藝春秋主催の芥川賞、直木賞に対抗するものと目され、新潮社対文藝春秋の、“文学賞戦争”と話題になったりした。一方社内には、これまで何度も賞を作っては潰してきた経緯を省みて、今度こそは定着させたいという強い意気込みがあった。」(平成17年/2005年11月・新潮社刊『新潮社一〇〇年』「時代の波を乗り切って 出版II」より 執筆:高井有一

 なるほど。新潮社内部でも、さすがに昭和12年/1937年から何度も何度も賞を変えてきた歴史には、忸怩たるものがあったわけですか。50年を経て、ようやく成功例を見習うことにしたと。きっと新潮社にしても、勇気の要ることだったでしょう。

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第4期は、「直木賞」のライバルたち。過去から現在までの、文学賞の世界に分け入ります。

 誰のために何の目的で書いているのか、よくわからないダッチロールを繰り返しながら、どうにか、このブログも4年目に。

 第1期「直木賞関連の書籍」、第2期「これぞ直木賞の名候補作」、第3期「小説に描かれた直木賞」、とテーマを変えてやってきました。今週から約1年をかけて、こねくり回していきたいテーマ。それは、文学賞の世界です。

 文学賞。え。そんな、「文学」とは似ても似つかぬ、卑俗まるだしのくだらない文壇行事のことなんか。あたくし興味ありませんわ。と、超俗の域に達されている方もいるでしょう。

 すみません。どうぞお引き取りください。

 ワタクシは、足の先まで直木賞オタク。本来は、直木賞のことばかり調べて、いろいろ考えるのが好きです。

 でも、自然と、直木賞を考察していけば、他の文学賞のことも知らなければならないなあと、切に感じます。

 というわけで。うちのブログでは、やっぱり「直木賞」を中央に据えることは据えるんですが、それらと何らか関わりのある文学賞のことを、原則一週一賞のわりあいで、取り上げていきたいと思います。

 テーマ名は「直木賞のライバルたち」としました。

 かつて、創元推理文庫で「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」というシリーズがありました。あれ、好きだったんですよね。古典推理小説の世界では、別に、ホームズと直接争ったわけでもない「名探偵」群を、同時代ってくくりでまとめ、「ライバル」と名づけているらしいんです。いわば、それの真似です。

 直木賞とは、とくに関係がないと思われる文学賞たち。でも、どこか水脈ではつながっているかもしれないし、あるいは、歴然と拮抗、対抗、切磋琢磨してきたような賞もあります。

 それら文学賞について、ああでもない、こうでもない、と勝手なことを書きつつ、日本で行われてきた文学賞(とくに大衆小説分野のもの)の歴史なども考えていけたらいいな、と思っています。

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2010年6月20日 (日)

直木賞とは……候補作をろくに読まずに、のうのうと選考委員やってるようなやつらは、消えうせろ。――筒井康隆『大いなる助走』

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筒井康隆『大いなる助走』(昭和54年/1979年3月・文藝春秋刊)

(←左書影は平成17年/2005年10月・文藝春秋/文春文庫[新装版]

 「小説に描かれた直木賞」をテーマに、1週1作ずつとりあげて約1年。このエントリーで、とりあえず、その締めとしたいと思います。

 締めの作品としてふさわしい、と言って真っ先に思い浮かぶのが、やはりこの小説でしょう。と来ると、ほんと芸がないんですが、「文学賞をネタにした小説」界の金字塔、いや代名詞ですからね、ワタクシとしては何度とりあげたって足りないくらいです。

 昭和54年/1979年以後、だれかが文壇もしくは文学賞をネタにした小説を書けば、「大いなる助走」風、と言われ、あるいは「小林信彦版「大いなる助走」」「三田誠広版「大いなる助走」」「東野圭吾版「大いなる助走」」などなどと言われてしまう。いまだにそうですし、当時からそれほどのインパクトでした。

 ちらりと文芸誌を読んでいても、

「世の中には、理不尽なことというのはあるものである。というよりも、理不尽なことしかない、というのが、この「大いなる助走」の世界のまんなかにあしかけ三年身をおいてみた私の実感である。」(『文學界』昭和54年/1979年10月号 中島梓「ごまめの歯ぎしり」より)

 なんていうふうに、くだらなくて閉鎖的な文壇=「大いなる助走」の世界、っていう比喩が使われていたりします。

 それで、うちのブログでは以前、二度ほど、『大いなる助走』のハナシをしました(平成19年/2007年12月23日付と、12月30日付)。三度めはどんな切り口にしようかと迷いに迷い、せっかくなので王道な切り口で行こうかな、と。

 『大いなる助走』の王道、とは……。

 実在の直木賞選考委員との、すったもんだ、です。

 まずは、本文の引用から。〈直廾賞〉世話人の多聞伝伍に、各選考委員の人となりをざざっと紹介していただきましょう。

「まず鰊口冗太郎。(引用者中略)この人の娘というのがあの鰊口早厭というタレントで、離婚歴があり子供がいておまけにラリパッパ。終始交通事故などを起すものだから鰊口さんも手を焼いています。未婚の男性が直廾賞をとると必ず娘を押しつけようとするので有名ですが、あなたあの鰊口早厭と結婚する気がありますか。」

「推理小説や風俗小説を書いている膳上線引。(引用者中略)いやまあこの人は自分の昔のことを知っている人に会うと実になんともいやな顔をする。さて、その次は時代小説の雑上掛三次。この人は男色家です。うまい具合にあなたのようなタイプが好みです。」

「次は風俗小説の坂氏肥労太。この人は女狂いです。いい歳をしていまだに陰唇をきわめている。しかも若いしろうとの女性が好きときているのでわれわれはいつも困る。」

「次は歴史小説の海牛綿大艦。この人はいつも文壇長者番付に顔を出していますが高価な古書を買いこみすぎて困っていますから、現金は受け取る筈です。明日滝毒作。この人も政府関係の仕事の方で金が要る筈です。」(以上『大いなる助走』「ACT4/SCENE1」より)

 このほかに、名前の登場しない委員が3人。全部で9人。

 名指しされているこれらの作家が、現実のどの作家のことを指しているか。という興味は、発表から40年たった今でも、インターネット上でその当てっこを楽しんでいる人たちがいるのでおわかりの通り、最もゴシップ的であり、イコール最も爆発力があり、『大いなる助走』のかもし出す魅力の核となるところです。

 当時、その魅力に魅せられた多くの読者のひとり。大岡昇平さん。以下は、埴谷雄高さんの証言です。

「或る日、大岡昇平から電話がかかってくると、この頃いささかよたよたしている足の弱さを思わせぬ元気に充ちた声で、私がまったく思いがけぬことに、『大いなる助走』という作品を読めというのであった。

「えっ、筒井康隆? ずばぬけた才人だという名は聞いてるけど、いままで読んだことないな。どういう作品なの……?」

「それが、どうだ、直木賞の銓衡委員がつぎつぎと殺されるという小説なんだよ。ハハハハハッ……」

 電話のこちら側で私は、思わず、うーむとうなった。盗作問題で批評家を殺すという、なんとなくおさまらぬ自己の腹立ちをついに文学的に昇華する執念小説(?)を書いた彼は、その一種奇抜な執念小説の主題に他の何ものにも知られぬ深い親近感をいだいたに違いなかった。(引用者中略)

 それから数日後、私達はこういう会話を交すことになったのである。

「どうだ、読んだかい……?」

「うん、殺しの場面だけ。アクションものというのは、だいたいこういうふうにスピーディに書かれているのかね。」

「そうだ。あのなかの×××××というのは×××××だよ。」

 と、彼は作中のモデルについても私に教えた。

「ほほう、そうだったのか。いちいちモデルがあるのかね。」

「ハハハハハッ……そこがあの小説のいいところさ。」」(『海』昭和54年/1979年7月号 埴谷雄高「記憶」より)

 これより数ヶ月前、根っからのツツイストであり筒井康隆文献研究の第一人者、平石滋さんは、きちんと人名対照表をつくっていました(『ホンキイ・トンク』4号[昭和54年/1979年5月]「『大いなる助走』と直木賞の“事実部分”」)。

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 表組みだと引用しづらいなので、この対照表をもとに論を進めた平岡正明さんの文章を、引いておきます。

「かくして『大いなる助走』で筒井康隆が標的にしたものは、

 鰊口冗太郎=川口松太郎

 雑上掛三次=村上元三柴田錬三郎の合成

 坂氏肥労太=源氏鶏太

 海牛綿大艦=司馬遼太郎海音寺潮五郎の合成

 明日滝毒作=今日出海

 膳上線引=松本清張水上勉との合成

 あとの三人=大佛次郎中山義秀石坂洋次郎

 以上の人名対照は、労作「大いなる助走と直木賞の“事実部分”」で平石滋が割りだしたものである。「あとの三人」とくくられた人たちは、作品中、対立する直廾賞斡旋業者がおさえたものとして名前が出てこない。」(昭和56年/1981年2月・CSB・ソニー出版刊 平岡正明・著『筒井康隆はこう読め』所収「フーマンチュウはこう殺せ」より)

 もちろん、誰がどの作家をモデルにしているのかをわかるように書く、というのは、覚悟のうえだと想像できます。その筒井さんの覚悟と勇気には、惜しみない拍手を送らざるをえません。

 ……と同時に、せっかく身を張って、危険を覚悟で書いているんだ、単なる「文壇暴露小説」が出ましたよ楽しかったね、で終わらせてたまるか、という筒井さんの企みも、そこには垣間見えます。

 企み、または挑発と言いますか。

 そして、まんまとその企みの網に、一人の作家がとらえられてしまいました。

 そう、みなさんご存知、『大いなる助走』といえば今でも必ず名前の挙がる選考委員。松本清張さんです。

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2010年6月13日 (日)

直木賞とは……なにしろ全部一人でやって、しかも新しい仕事もあって。辞退されたときのことなんか、すっかり忘れちゃいましたよ。――永井龍男「文藝春秋の頃」

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永井龍男「文藝春秋の頃」(『文學界』昭和27年/1952年4月号->昭和31年/1956年2月・四季社/四季新書『酒徒交傳』所収)

 純粋に疑問に思うわけです。もしも、直木賞と芥川賞をやり始めたのが、文藝春秋社でなかったら。もしも中央公論社や改造社、春陽堂あたりだったら、どんな歴史になっていたんだろう。こんなにでっかく成長していたんだろうか、と。

 芥川賞(と、ついでに、ほんとについでに直木賞も)が社会に認知されるようになったのは、昭和31年/1956年1月に石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞してから。っていう歴史は、耳タコなほど聞かされました。

 ってことは、ですよ。

 それまでの20年間は、直木賞も芥川賞も、さして話題になることなく粛々と運営されていたと。昭和10年代~昭和20年代にかけて、似たような文学賞が、いくつもいくつも生まれ、そしてあえなく中止・廃止で消えていった、その波をかき分けて20年も継続したと。

 商業的な面ばかり重視していたら、果たして一企業が20年もひとつの文学賞を続ける意味があったかどうか。ねえ。やはり、そこには「文壇人が文壇のためにつくり、文壇のために存続させた賞」っていう姿が、力づよく浮かんでくるんですよね。

 ええ。菊池寛佐佐木茂索。がっつり文壇人です。

 ただ、この二人は文壇人……文人のくせして、直木賞と芥川賞について、ついにまとまった文章を書いてはくれませんでした。

 文学賞ならぬ文壇賞としての20年間。それが仮にこの二人だけの力によって成立していたのであれば、20年の流れのわかる資料もあまりなく、その後に両賞が飛躍するいしずえも、もろいものになっていたかもしれません。

 両賞のことをきちんと文章に残した文壇人。いたんですね。はい。ここで永井龍男さんの登場となります。

 戦後、新進の(?)売り出し中作家だった永井さんは、昭和20年代後半に、いくつも、直木賞&芥川賞のことを書きました。

 「文藝春秋の頃」(『文學界』昭和27年/1952年4月号)。

 「直木賞下ばたら記」(『別冊文藝春秋』同年10月)。

 「二つの賞の間―純文学と大衆文学の問題」(『別冊文藝春秋』昭和28年/1953年12月)。

 それと、これらの姉妹編として「小説「オール読物」」(『オール讀物』昭和27年/1952年4月号)。

 以上全部おさめた本が、『酒徒交傳』(昭和31年/1956年2月・四季社/四季新書)です。

 まあ、全部エッセイであり、回想録ではあります。あるんですが、「文藝春秋の頃」の後記として、

「小説「文芸春秋」の出題で、準備もなく思い出を記した。」

 とあります。『文學界』編集部からの注文は、とりあえず「小説を」ってところだったんでしょう。

 さてさて。そこに出てくる両賞は、のちに書かれる『回想の芥川・直木賞』とかぶる部分がほとんどですが、一応、引用しておきます。

「芥川直木両賞もその時分に創設された筈で、事務一切が私の担当であった。おびただしい数の同人雑誌を整理し、眼を通し、それぞれ気難しい委員達の通読をもうながさなければならなかった。(引用者中略)昭和十七年頃、満洲文芸春秋社創立のために、新京へ渡るまで、一人で事務を処理したが、この仕事に関する限り私は心残りを持っていない。」(「文藝春秋の頃」より)

 まじですか。一人で事務を処理していたんですか。さすが、デキるビジネスマンは違うなあ。

 ちなみに永井さんが両賞の事務処理を担当していたのは、正確には昭和18年/1943年、第17回(昭和18年/1943年・上半期)まで、らしいです。

「軍部はジャーナリズムをかんじがらめにした上、用紙をきびしく統制した。統制されなくても、用紙は底を突いていたから、業者は軍部の鼻息をうかがい、二嗹(ルビ:レン)三嗹の端紙の入手にも狂奔した。文藝春秋社もその例外ではなく、満洲文藝春秋社の創立企画も、窮余の一策であった。十八年六月、私はその担当者として渡満、両賞の事務から離れた。一旦帰京の後、同年十一月本格的に新京へ赴任した。(引用者中略)十八年上半期第十七回両賞以降、終戦に至る間の銓衡には関係がなかった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊『回想の芥川・直木賞』「第三章」より ―引用は昭和57年/1982年7月・文藝春秋/文春文庫

 すごく細かいことなんですけどね。この第17回に、永井さんはまだ事務処理していたのか、していなかったのかは、気になります。

 だって、それこそ同人誌の整理、推薦回答カードのまとめ、7月から8月にかけて2度にまたがった選考委員会の場所とり、連絡事務などなど、やることはたくさん。さすがに渡満の準備をしながら、これも一人でやったのかどうかは、ちょっとわかりません。

 『自伝抄1』(昭和52年/1977年3月・読売新聞社刊)に、永井さんの「運と不運と」が収められています。これによれば、昭和18年/1943年6月、新社準備のために満洲にわたり、滞在半か月。と言いますから、6月の多くはそちらに割かれてしまったことでしょう。

 ただ、どうやら第17回も、永井さんが直木賞にバッチリ関わっていたらしい、ってことは他の文章によって推測できます。

 なんつったって、アレですよ。第17回の直木賞といえば、他の140数回の直木賞とは、まったく違う強烈な回ですからね。ここに、永井龍男そのひとが関わっておいてくれなきゃ、どうにもカッコがつきませんぜ。

 山本周五郎の、直木賞辞退、の回なんですから。第17回は。

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2010年6月 6日 (日)

直木賞とは……有名人が候補になると、みんな、ギャーギャー文句言うけどね。いい作品を書けば、酒場のマダムだろうと人殺しだろうと、いいんじゃないの。――山口洋子「階段」

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山口洋子「階段」(平成9年/1997年9月・文藝春秋刊『背のびして見る海峡を――』所収)

 1980年代……昭和50年台後半から平成が始まるまで。この時期の直木賞は、「女性と芸能の時代」などと言われています。

 っていうのはウソなんですけど、いや、そう言っておかしくないぐらいの波が、直木賞のかたちを形成していた頃が、うん、たしかにありました。

 むろん、それ以前の直木賞史にも、女性や芸能は登場しています。でもです。潮流って観点からいえば、やっぱり第81回(昭和54年/1979年・上半期)に、中山千夏さんが登場したあたりに、波の原点があったように考えられるんですよね。

 しかも、その候補作「子役の時間」の素材が、芸能界だったわけですし。

 小林信彦『悪魔の下回り』のエントリーで触れましたが、かの悪名たかきNHKの人権蹂躪番組(?)「ルポルタージュにっぽん 直木賞の決まる日」が放映されたのは、ちょうどそのころ、昭和55年/1980年1月でした。

 候補にさせられた作家には、そりゃあ責任はないかもしれません。「どんな人物であろうが、書かれた作品が水準以上であれば、賞を与える。それが直木賞の公平性ってもんだ」という正論も、当然わかります。

 ただ、やはりあの時代は、ですね。なんと言うんでしょう、テレビを中心とする「イメージ増幅・偏重・曲解」の、暴力的ともいえる流れを、直木賞もかぶらざるを得なかった、と見立てたくなるわけです。

 ええ。注目の人・中山千夏さんの三度にわたる連続候補。ドラマ脚本家、向田邦子さんの華やかなる登場と、悲劇的な退場。お茶の間の人気モノ、テレビとともに歩んできた青島幸男さんの受賞……。

 っていう伏線がありつつの、このかた。山口洋子さんです。

 受賞したとき(昭和60年/1985年)の新聞紙面には、見出しに「よこはま、たそがれ」って曲名といっしょに紹介された、作詞家・山口洋子さんです。

 それより2年前、「貢ぐ女」ではじめて直木賞候補になり落選したときの、週刊誌の記事より。

「山口洋子さんといえば、銀座のクラブ『姫』経営のかたわら、作詞家として、あるいは女性には珍しい野球記者として、また、二十年前には、東映のニューフェースで女優を目指したこともあるという、“マルチ型タレント”として、つとに知られたお方。」(『週刊サンケイ』昭和58年/1983年8月4日号「山口洋子さんが正式に「作家宣言」 惜しくも直木賞を逸した才女の決意」より)

 つとに知られていたかどうかは、すみません、よく知らないのですが、まあ初候補の段階でこの言われ様ですから。女性と芸能のことにはいち早く食いつく週刊誌にとっちゃあ、いいネタ発生源がまた一つできたぜ、えへへへへ、って感じだったのかもしれません。

 時にこの頃、直木賞は「三才女」を、候補陣にひっぱり込んで、注目されていたのですね。一に山口洋子、二に落合恵子、三に林真理子

 それについては、また後で、ちょっと触れますが、山口さんはこの中でやや異質な存在でもありました。異質、というとおかしいですけど。つまり、従来からあった文壇の定石に半分かなった経歴と言いますか。

 「異業種から突然、小説界に殴り込み!」……みたいな人ではない、ってハナシです。

 だって山口さんといえば、それこそクラブ経営の職業柄、作家たちとも顔なじみであって、小説の師として近藤啓太郎さんを仰いでいました。お客さんだった梶山季之川上宗薫吉行淳之介などの売れっ子たちから、温かく作家としての道筋を教えられ、一歩一歩と、作家修業をしてきた人だったんですね。

 けっきょく直木賞なんていうのは、そういう“半文壇人”が受賞するほうが普通なのだ、って側面もあります。先週ご紹介しましたが川口松太郎さんは選考委員の家の隣に住み、「私に直木賞をください」とお願いに行けるほどの立場でしたし。

「亡くなられた作家で何といっても思い出深いのは、梶山季之先生である。

(引用者中略)

 婦人むけの大手の雑誌社や女性週刊誌などに私を紹介して、表舞台への登場に一役も二役も買って下さった。『姫』にとって梶山先生はいいお客様より、こよない相談相手だったのだ。」(「階段」より)

 いみじくも斎藤美奈子さんが林真理子さんの文壇登場を語るときに使ったセリフのごとく、山口洋子さんも、それから落合恵子さんも、別に公募の新人賞をとって作家デビューしたわけじゃないのです。まあ言ってみれば、かなり伝統的な「階段ののぼり方」と言いますか。

 とくに山口洋子さんの、伝統踏襲ぶりは際立っています。すでに、選考委員のなかに、個人的に顔を見知った応援団(?)がいたんですもの。直木賞委員じゃなくて芥川賞のほうでしたが。

「直木賞は二回候補になって落ち、三度めの念願達成だった。某大御所が、「あーあ、バーのママが直木賞候補だと、俺はもう選考委員なんかやってられない」といって、それをきかれた吉行(引用者注:淳之介)先生が、「なに、いい作品を書けば、酒場のマダムだろうと人殺しだろうと、いいんじゃないのか」と色をなしていって下さったとか。そんな裏話を近藤(引用者注:啓太郎)先生から伺って、眼尻がじわりとするほど感激した。「吉行がな、あれは筋がいい、上等な味がする」といってくれたんだよと、恩師は我がことのごとく喜んで下さった。先生がたのお引きたてと励ましがなければ、私など泥中の蓮の根っこのれんこんで、穴だらけのまま永久に陽の目など見ることも適わなかった。」(「階段」より)

 またまた、ご謙遜を。

 ただ、吉行淳之介さんみたいに、「その人の職業がどうだとかは、関係ないんだぞ」と言ってくれる先輩(ベテラン)作家が身近にいる、というのは、たしかに心強かったでしょう。なにせ、当時の山口洋子さんに振りかかる周囲からのバッシングや偏見は、相当なもんだったでしょうから。

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