直木賞とは……幸せなうちはとれません。不幸になればとれるかも。死んじゃうぐらいの不幸が訪れれば。――曽野綾子『砂糖菓子が壊れるとき』
曽野綾子『砂糖菓子が壊れるとき』(昭和41年/1966年1月・講談社刊)
(←左書影は昭和47年/1972年8月・新潮社/新潮文庫)
砂糖菓子といえば桜庭一樹。と思いきや、直木賞専門ブログのくせして、今日の主役は曽野綾子さんです。
曽野さんと直木賞、がどうして重なるのか。……いや、重なりはしませんよ。
それどころか、ご本人にとってはどんな文学賞とも重ねてほしくないでしょう。なにしろ、昭和文学史に何人か存在する「文学賞辞退者」のお一人ですから。
「私の身勝手な感覚によれば、賞をご辞退したのではない。精神的なものとしての賞は、感謝と共にお受けしたのである。ただ、制度としての受賞をお許し願ったに過ぎない。
芥川賞の候補になって以来、今年で私の作家生活は二十六年である。その間ただの一度も賞と名のつくものを受けなかった。(引用者中略)初めのうちは私もごく普通にいつかは自分も賞を頂く日があるかも知れない、と思って来た。しかし次第に、自分が小説を書く上で、賞というものを考えるのは、不純な情熱だと思うようになった。」(『婦人公論』昭和55年/1980年11月号「受賞を辞退した私の真意」より)
以上、第19回女流文学賞に『神の汚れた手』の授賞が決まって、その受賞を辞退したときの弁の一部です。
ふうん、そんな辞退劇があったのか。という知識を得て、それより14年前に書かれた『砂糖菓子が壊れるとき』を読みますと、そりゃあ妄想がよりいっそう広がりますよね。
ええと、この作はよく知られた小説です。文学賞うんぬんとの関連で有名なわけではありません。マリリン・モンローをモデルにした小説として有名です。
舞台は全部日本、登場人物も日本人。でありながら、デビューにいたる経緯やら、野球選手との結婚・離婚、有名劇作家との結婚・離婚などの私生活やら、モンローと結びつく小道具が、おなかいっぱい取り揃えられています。
しかし、ですよ。本作には、要所要所に「賞」が顔をのぞかせているんですよね。
のぞかせている、なんてもんじゃありません。エンディング近く、主人公〈千坂京子〉の死体が発見されるのが、ちょうど〈日本映画賞〉審査会の日。彼女の主演した〈砂糖菓子が壊れるとき〉が、〈日本映画賞〉受賞と決まった、それと同じタイミングなんですから。
そう。賞というのは、これです。〈日本映画賞〉。
女優にとっては誇りであり、欲しい欲しいと切望するほどの名誉らしいです。
「五月に入って、日本映画賞の新人賞候補に選ばれているということを知ってから、私の幸福感は絶頂に達した。私は熱に浮かされたように、落ち着きをなくしてしまった。(引用者中略)
「京ちゃん。お前さん、羽鳥香子と何か気まずいことでもあったのかい?」
羽鳥香子と言えば、スタジオで、一、二度見かけたことはあった。けれど私が気楽に声をかけられる相手ではなかった。羽鳥は、雅堂さんクラスの大女優だった。新聞社の論説委員の夫人で、四人の子供を持った知識人だった。
「私、お話したこともないんです」
「おかしいな、羽鳥はどうしてああも、お前さんに悪意を持ってるかね。今日の委員会では、あんなは羽鳥のために賞を逃したようなもんだよ。(引用者中略)
何もかもミソクソさ。お前さんはデリカシーがなくて、趣味が悪くて、服装が不潔でだらしがないって言うんだな。ストリッパーと同じ要素の人気でもっているものを、あんたは、自分の演技だと思いこんでいるんじゃないか、と言うんだ。」」(『砂糖菓子が壊れるとき』「第六章」より)
マリリン・モンローならぬ〈千坂京子〉は、観客の人気はうなぎのぼりだったけど、映画界からは評価されていなかった、と。ええ、モンローも賞とは無縁の人だったそうですからね。そういう境遇を際立たせるために、「賞」が登場してくるわけですか。なるほど。
ただ、モンロー=〈千坂京子〉の等式があったとして、そこに、=曽野綾子、という見立てを加えてみたくもなるじゃありませんか。
じっさい、そういう見方もなくはないようですしね。
「曽野綾子の三十代はほぼ鬱の状態だった。(引用者中略)ウツの最中に夫婦でヨーロッパ旅行に行った。(引用者中略)パリにいる時、マリリン・モンローが死んだ。睡眠薬の誤用、あるいは自殺の可能性もあった。新聞に死体収容所の発表として、彼女の身長、体重が乗っていた。曽野は、
「あたしと同じサイズ」
と言い、私は、
「フィレでも屑肉でも一キロは一キロ」
と答えたが、曽野のモンローは自分と同じ精神状態にあったと想像したのだろう。後に彼女はモンローをモデルにしたような、作品を書いた。」(平成21年/2009年2月・扶桑社/扶桑社文庫『椅子の中』
所収 三浦朱門「解説」より)
そうそう、本作はモンローがモデル、とはいえ、完全にモンローの生涯をなぞっているわけではありません。なぞっていない部分、その一つが「賞」と言えるでしょう。
〈千坂京子〉は、日本映画賞新人賞をとれませんでした。でも、その後、少なくとも三つの賞を受けています。一つは「アメリカのエディソン賞の中で「その年最もその国の映画界で活躍した女優賞」」。一つは「日本映画協会主演女優賞」。一つは「ナポリ映画祭主演女優賞」。
だけど、〈日本映画賞〉をとれていない、ということが、どうも重要なことであるらしいんです。最後の最後の場面で、大部屋女優時代からの友〈田宮春江〉が、〈京子〉の〈日本映画賞〉受賞を知ったところ。
「「砂糖菓子が壊れるとき」が日本映画賞を受けたという知らせがあった。
私は二階の階段を、寝室まで一息にかけのぼった。
「京ちゃん! 日本映画賞よ」
山にのぼったよ、と私は言いかけようとした。」(『砂糖菓子が壊れるとき』「第九章」より)
山にのぼった……。〈日本映画賞〉とは、評価の頂点であり最高峰である、と。
それを受けたと同時期に〈京子〉は死んでいた、というのも何かの象徴かもしれません。
というのも、この物語には、「賞」に関わるあるフレーズが何度か登場します。何度か出てくるくらいだから、意味があるんでしょう。
こういうものです。
「「君は当分、どんな賞も貰わないな」(引用者中略)「君は今、しあわせだと思われてるからだろうな」
五来さんは無感動な口ぶりで言った。
「幸福な生活には芸術の香気は存在し得ないものという固定観念がある。だから君に不幸な出来ごとが起れば、多分賞はもらえるよ」」(『砂糖菓子が壊れるとき』「第八章」より)
不幸になれば賞がもらえる……。ん? どこかで聞いたことがあるフレーズだな、これは。
○
ああ、これって三浦朱門さんの言葉でしたか。
「昔、まだかけ出しの頃、三浦朱門が、
「知寿子(私の本名)もいつかは女流文学賞くらいはもらえるさ。女ならね」
と変な保証の仕方をしたのを覚えている。すると間もなく、いつも生真面目な顔で不真面目なことばかり言われた梅崎春生氏が、
「ボクも賞ほしいから、女流文学者会に入ろうかな」
と言われたこともあった。それから長い年月が経った。その間に三浦朱門が、
「知寿子は不幸になればすぐ賞がもらえるさ」
と、にこにこしながら言ったことがあった。それは賞というものの現実の、けっして総てではないが一面を衝いたものではあった。」(昭和57年/1982年3月・朝日新聞社刊 曽野綾子・著『贈られた眼の記録』
「第三章 果樹園の中で」より)
それで、昭和55年/1980年9月、ロンドンにいる曽野さんのもとに、女流文学賞授賞のしらせが電話でもたらされます。そのとき、曽野さんは、白内障により視力がだんだん衰えている我が身から、夫のかつての言葉をパッと思い出した、というわけです。
この『贈られた眼の記録』のなかにも、女流文学賞を辞退したほんとうの気持ちが、書かれています。
「賞に不服があるのではなく、私はこの年になって、今までなくてもやってこられたという証明のある余分のものを持ちたくなかった。私は身軽に、ただ、書きたいから書いていたかった。」(同「第三章 果樹園の中で」より)
つまり、作家生活26年の身だからこそ、賞を辞退したのだという。昭和29年/1954年、「遠来の客たち」で中央文壇で認められ、それから短期間のうちに、一気に人気作家の状態になり、才女だ何だと騒がれ、それでも賞など一つもくれたことなかったじゃないのさ、っていう26年間を生き抜いてきたからこその、辞退。
〈千坂京子〉みたいに、死ぬぐらいの状態まで追い詰められなきゃでっかい賞がもらえないんだとしたら、賞なんてまっぴらよ。……とかいう思いを読み取ろうとするのは、深読みにすぎるでしょうけども、それにしてもねえ。曽野さんが作家デビューしてからの数年間は、「賞」、マスコミ、評論家からの評価、読者からの人気、などなどとの闘いだったでしょう。
そのなかで、賞とは距離を置こうとする考えが、生まれてきたのかもしれません。自分の精神状態を守るために。
〈千坂京子〉は、世間から受ける評価と、自分で思い描く理想の立ち位置とのギャップに悩み通したようですし。その一つの救いを、〈日本映画賞〉なる大きな賞に求めてしまった、その挙句に、受賞とひきかえに命を失うことになってしまったわけですし。
○
昭和30年代前半を席捲した(?)才女ブーム。それにつぶされずに書き続けた曽野綾子さん、有吉佐和子さんは立派と言うほかありません。
で、曽野さんがマリリン・モンローの精神状態を想像して、一篇のものがたりをつくったとしたら、そりゃもう背景に、才女ブームを煽りたてた週刊誌・月刊誌あたりが見え隠れしますよね。
「ブームの最盛期においては、作品とは無関係に曾野、有吉双方のプロフィール・容貌・私生活が雑誌上で比較されるなど、女性である作者自身への興味本位的な視点の取り方は珍しいものではなく、〈才女〉とはタレント視される女性作家であるという意識が強く世間にアピールされていた。
優れた作品を書き続けることで、作家としての地位を固めた曾野、有吉の現在を考えるならば、〈才女〉というイメージは、新人女性作家をメディアに載せるための戦略の一つにすぎなかったと解釈できよう。しかし、〈才女〉という枠組みからいかに逸脱するかという行為の成否によって、女性作家たちの〈その後〉は、確固とした作家の地位を獲得するか、また一時的な名を馳せるに留まるかという二つの有り様に分岐したと言わざるを得ない。」(平成15年/2003年12月・インパクト出版会刊『文学史を読みかえる7 リブという〈革命〉―近代の闇をひらく』
所収 羽矢みずき・著「〈才女〉時代――戦後十年目の旗手たち」より)
まあ、〈才女〉という言葉はまるまる古臭くなっても、容貌などをもとに女性の作家たちに噛みついていく人間の(あえてマスコミといわず、人間と言いますが)姿は、今になっても衰えることを知りませんからね。本人たちにとっちゃ、たまったもんじゃないとは思います。
それで、この羽矢みずきさんの論稿が、非常によくまとまっていると思うので、もうひとつ引用しちゃいます。……才女ブームというのは、芥川賞系よりも直木賞系のほうに、より緊密な関係があるのでは、というご指摘です。
「〈才女〉たちを非政治的な存在と断罪した小田切は、さらに〈才女〉とはマスコミが造り上げたものであると主張し、マスメディアの中で消費される存在として、〈才女〉と呼ばれた女性作家たちが位置付けられていたという時代の認識は、ここでも明らかにされているのだ。
とは言うものの、〈才女〉ブームに呼応した文壇の動向は、一九五五年から一九六五年までの直木賞・芥川賞受賞の状況に窺うことが可能なのである。大衆文学を受賞対象に創設された直木賞から、より多くの受賞者が輩出されていることも、女性作家が非政治的な〈ストーリー・テラー〉と見なされていたことの証左だといえるのではないだろうか。」(同「〈才女〉時代――戦後十年目の旗手たち」より)
この指摘は、なんか心にしみいります。
というのも、「才女ブームとは、マスコミがつくり盛り上げたものだ」。なるほど。「石原慎太郎の登場を契機に、文壇、いや文学賞というものが、マスコミによってミコシかつがれ状態になった」。そうですよね。「才女ブームの動向は、この時期の直木賞・芥川賞、とくに直木賞の受賞者の顔ぶれをみればよくわかる」。うん、たしかにそうかもしれない。
要は、文壇内部では、「直木賞とは芥川賞とは」と、一応区別してやってるつもりでも、マスコミにとっちゃどっちも同じ。あるいは、おおかたの人間にとっては、若くてかわゆい女性が、あら小説も書けるのねスゴい!っていう見方が、当然なんですね。
こうなってきますと、『砂糖菓子が壊れるとき』の〈日本映画賞〉は、芥川賞でもあれば直木賞でもある。もしかしたら、「文藝」全国学生小説コンクールでもあるかもしれない。
いいんです。何でも。「賞」なら、何でも一緒なんです。
「賞」は賞だけでなく、そのほかの俗事雑事がひっついてくる。曽野綾子さんは最近の『オール讀物』平成22年/2010年5月号「特別随想 柔らかな時代」でも、そこら辺の、賞に付随してくるお祭り・お騒ぎに、苦言を呈していましたけど、曽野さんのエッセイなどを読むと、小説を書くことなんざ威張れたことじゃない、っていう思いが根底にあるんでしょう。
『砂糖菓子が壊れるとき』発表から、女流文学賞辞退までの間に書かれたエッセイにも、そういうハナシが出てきます。
「私は同人雑誌の仲間と結婚することになったのですが、義姉がまたおもしろい噂話を聞いて来ました。義姉も私と同窓だったのです。
「驚くじゃあないの。うちの学校に、この頃、小説なんか書くのがいるんですって。いやあねえ」
と友達に言われて、まさか、それはうちの弟のヨメさんになる子よ、とも言えなくて、義姉はさぞかし困ったことでしょう。
(引用者中略)
今の四十代の記憶のいい方たちでも、この辺の時代的背景をよく掴んでいらっしゃる方はあまり多くありません。小説家になることは、最初から有利な、陽の当る道を歩くことだと思っていらっしゃる。事実、この頃の、芥川賞や直木賞の受賞風景を見ていると、昔とは変った、と思います。しかし私がこの道を行こうと思い定めた頃は決してそうではなかった。私はどちらかというと、皆が侮蔑する道を選ぶことの方が、皆がいいという道をとるより、気が楽だったのです。」(昭和49年/1974年9月・毎日新聞社刊『仮の宿』
所収「解放」より 引用文は昭和53年/1978年9月・角川書店/角川文庫
)
〈才女〉と呼ばれて「陽の当る道を」歩いていると思われ、その中で不眠症になり、精神的につらい状況に陥れられ、どうにか壊れずに生き永らえてきた。そんな作家が、マスコミや賞のうずまく世界で、ついに壊れていってしまった人間像を描いた。……そう読むと、『砂糖菓子が壊れるとき』もやっぱり、直木賞をはじめとする文学賞の描かれた小説、なんですね。たぶん。
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コメント
久しぶりにフラットな評価、という印象で読めました
投稿: | 2016年6月 1日 (水) 19時53分